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蝿の女王  作者: 黒塔真実
第二章、『地獄の底で待っていて』
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6、婚約者の条件

 朝食の席でアリスが冷たく睨んだ時の、サシャの傷ついた顔にも驚いたが――

 今、目の前で立ち尽くしているサシャの、まるで『悪夢』でも見ているような愕然とした表情は、その時以上の衝撃をアリスに与えた。


(なぜ? そこまでショックを受けるの)


 たしかに未婚の令嬢である自分が玄関ホールで男性と二人きり、親密そうに手を握られて立っていたことはうかつだった。

 説教コースであることは理解できるが、ここまで大げさな反応をするほどのことだろうか。


(いずれにしても、私のせいでこんな顔をさせているのは事実だわ)


 と、さすがのアリスの胸にも、罪悪感が浮かんだとき――


 この場でただ一人冷静なシモンが、アリスの手をそっと離し、サシャに向かって畏まった態度で腰を折ってみせた。


「ノアイユ侯爵閣下。留守中にお邪魔させて頂いております。とっさにご挨拶が遅れて申し訳ありません」


 紳士的なシモンに対し、サシャの反応は恐ろしく感情的で高圧的なものだった。


「ヴェルヌ卿、挨拶などいい! それより、私の後見しているこのアリスと、ここでいったい何をしているのだ?」


 血の気が失せた唇を激情にか震わせ、詰問しながら近づいてきたサシャは、アリスの手を痛いほど掴み、力ずくで自分のそばへと引き寄せた。


「はい、侯爵閣下。本日ノアイユ夫人にお茶にお招き頂き、たった今帰るところでした。

 アリスさんには玄関まで見送って頂いただけです」


「見送る? 私には図々しく手を握って、言い寄っていたように見えたが?」


 低く、不快感丸出しのサシャの声に、シモンは不興を買った理由を察したらしい。


「手を取って別れの挨拶をしておりました……。

 アリスさんとは今日知り合ったばかりなのに、いささか馴れ馴れしかったかもしれません。申し訳ありませんでした」


 脈を診ていたなどという馬鹿げた言い訳はせず、シモンは素直に謝罪した。


「知り合ってからの期間など関係ない! 以降、二度とアリスには気安く触れないでくれ!」


 きつい口調でサシャが勧告する。

 自分はアリスの手を握りしめながら言ってるのだから、発言の横暴さがより際立つ。


「……それは……」


 シモンは初めてそこで言い淀む。

 まるでアリスに二度と触れないことを誓いたくないかのように――

 サシャはその態度を見てますます目を吊り上げ、端正な顔を怒りで歪ませた。


「もういい! 即刻ここを立ち去ってくれ!」


 横暴過ぎるサシャの言動にアリスは絶句する。

 怒鳴られた当のシモンは、何か言いかけてから唇をきゅっと結び、おもむろに呟いた。


「……おおせのままに……」


 黄金色の後ろ髪がアリスの視界を流れていき、シモンが玄関扉へと向かって行く。


「シモンさん……!」


 はっとしたように呼び掛けたアリスの手首を掴むサシャの手に力が籠る。


「君はこちらに来るんだ!」

「……サシャ、彼に失礼過ぎるわ」


 言い合う二人の声を聞いてか、シモンはいったん玄関扉の前で立ち止まって振り返り、まるで『大丈夫』とでも語りかける様に、微笑みながらアリスを見つめ、頷きかける。


「――それでは失礼いたします――」


 最後に一礼して、シモンは最後まで紳士的な態度を崩さず屋敷を出て行った。

 玄関扉が閉じるのを待たず、サシャは強引にアリスの手を引いて、玄関ホールから廊下へと歩き出す。


「待ってよ……サシャ!」


 アリスが抗議しても、すれ違った執事のジョセフが声をかけてきても、サシャはいっこうに立ち止まる気配がなかった。

 痛いほど力を込めて手を掴まれ、アリスがたどりついた先は説教室――もとい、サシャの執務室だった。


「サシャ……私、まだ午後のお茶をしている途中なの!」


 部屋に入るのを拒否する意味で、苛立ちと抵抗を込めて言ってみたが、


「……入るんだ!」


 有無を言わさず命令されて部屋の中に押し込まれる。

 謁見室を兼ねた屋敷の執務室は、左右の壁に飾り戸棚が置かれ、正面奥に大きな机と椅子、それに対面するようにカウチが置かれていた。

 サシャは扉を閉めると鍵を閉め、室内で二人きりになると、いきなり強い口調でアリスを非難した。


「アリス……君は全然、私が昨夜した話を理解していなかったようだな!」


「――!?」


(――理解って、あのたわ言のこと?)


「未婚の淑女が男性と二人きり、しかも手を握ることを許すなど、有ってはならないことだ!」


 アリスは一方的な言い方にカチンとして、サシャの顔面を睨み上げ、勢いよく手を振りほどいた。


「これが、そこまで罪深いことだとは思わなかったわ!

 これからは、いかなる男性にも手を握られないように気をつけます!」


 サシャは息を飲み、例の傷ついたような顔をしたかと思うと、苦しそうな声で呟いた。


「……私は別だ。君の後見人なのだから……」


 アリスは急に勢いをなくした、サシャらしくない態度に調子が狂い、言葉を飲み込む。

 気まずい沈黙がしばし二人の間に流れた。


「……アリス、とりあえず、椅子に座ってくれないか……?」


 先ほどのような命令口調ではなく、今度は明らかな懇願だった。

 アリスは迷った末、マホガニーの机の前に置かれた説教椅子――もとい、肘掛け椅子に腰を下ろす。

 サシャは机を挟んだ向かいの革ばりの椅子に深く身を沈め、両手の指を組んで神経質に動かした。


 重い沈黙が再び流れたあと、眉根を寄せたサシャが深い溜息とともに再び口を開く。


「君はどれほど自分が魅力的な美しい女性であるか、自覚が無さ過ぎる……」


「……!?」


 思わぬ言葉を言われ、アリスの胸はドキッとする。


「昨夜、アルベール殿下やカミュ殿下に好意を向けられてもまだ分からないのか? アリス。

 君の隙のある、思わせぶりな態度がどれほど罪深いか……」


 説教というより、サシャ自身の心の内の苦しみを吐き出すような口ぶりだった。

(罪深い?)

 その言われようはアリスには不当に思えたし、少なくともシモン以外には思わせぶりな態度を取った覚えもない。

 大体、有りもしない自分の魅力を自覚しろ、なんて言われても困る、とアリスは心の中でひとりごちた。


 このアニメ世界での悪役令嬢である自分は、所詮、光であるヒロインのメロディを引き立たせるための影の存在。

 うぬぼれるには己の役割を知りすぎていたアリスは、率直な意見を述べる。


「サシャ、はっきり言うけどあなたは私の魅力を過大評価しているし、昨日のも今日のも過剰反応だと思うわ……。

 特にヴェルヌ卿への態度は大げさで失礼よ!

 私がどれほど今日彼に親切にしていただいたか、ノアイユ夫人に聞いてみて……。

 たしかに、二人きりで手を握られていたことは、あなたのおっしゃる通り隙のある行動でした。そこは今後は気をつけますし、謝罪します」


 アリスのきっぱりとした物言いにサシャは言葉を失い、サファイア色の瞳を大きく揺らす。

 朝食の席でもそうだったが、いつもなら一言でも言い返せば倍返しされるのに、今日はいっこうにその気配はない。

 サシャは彫刻のように美しい顔に憂いの表情を浮かべ、しばし沈黙したあと、そっと言葉を吐き出した。


「考え過ぎではない、君は誰よりも美しい……」


 それはまるで愛の告白のような台詞だった。

 とたんに流れ出す甘い空気に、思わずアリスの鼓動は高鳴り、緊張感で息苦しさをおぼえる。

 サシャはゆっくりと席を立ち、机を回って近づいてくると、アリスの膝の上に置かれていた左手を取り、大きな両手でそっと握り込む。

 それがシモンに取られていたほうの手だとすぐにアリスは気がついた。


 後見人であろうと男性は男性。そう言って再びこの手を振りほどくべきなのに――

 なぜかいつになく弱ったサシャの様子がアリスをためらわせた。


「君が……望むなら……」


「……え?」


 言いかけたサシャの台詞を遮るように 不意に扉をノックする音がして、ノアイユ夫人のかん高い声が響く。


「サシャ、ここにアリスがいるんでしょう? お客様は皆、たった今帰られたけど、お茶の席に戻って来ないと心配していたのよ!」


 どうやらノアイユ夫人は、執事のジョセフにアリスがこの部屋に連行されたことを聞いて、抗議をするために駆けつけてきてくれたらしい。

 サシャは扉に向かって叫ぶ。


「母上、悪いが、今取り込み中なんだ!」


「サシャ、いい加減にして! アリスは今日、貧血で倒れて、体調が良くないのよ」


「倒れた?」


 再び、サシャの顔面から血の気が失せていく。

 ちょうどそこに執事のジョセフが現れ、扉ごしに夕食の準備が整ったことを告げた――



 話し合いの場は食堂へ移され、三人での気まずい雰囲気の夕食が始まる。


「公園で貧血を起こすなんて、やはり今日は出かけるべきではなかったんだ。

 昨日転んだのだって、体調が悪かったからではないのか?」


 サシャは先ほどの甘いムードもどこへやら、すっかりいつもの説教くさい口調に戻っていた。


「別に昨夜も今朝も体調は悪くありません。

 公園で貧血を起こしたのは、きっと朝食をあまり食べられなかったせいだと思うわ。今度から気をつけます」


 嫌味をこめて言うと、サシャは今朝のアリスとのやり取りを思い出したのか、ようやく口を閉じた。


「そんなことは今さら言ってもしょうがないことだわ、サシャ。

 それより、あなたが凄い剣幕で、アリスをあの部屋へ引っ張っていったと聞いたけれど、いったい何をそんなに怒っていたの?」

「……」


 サシャは母親の質問には答えず、眉間に皺を寄せて俯くと、無言でナイフとフォークを動かした。

 アリスは代わりに冷たい声で事実を述べる。


「ヴェルヌ卿にお別れ際に手を握られていたせいです」

 

 ノアイユ夫人が驚いたように目を見張り、非難の視線を息子に送る。


「まぁ、手ぐらいなんだというの?」


 サシャは弾かれたように顔を上げ、怒りに満ちた声をあげる。


「手ぐらいとは何ですか? アリスは婚約前の令嬢ですよ?」


 いつもなら怯む場面なのに、今夜のノアイユ夫人は一味違った。


「別に手ぐらい構わないではないですか。アリスの身分を思えば、伯爵位を継ぐシモン・ヴェルヌ卿との縁談は最高の部類です。

 もし、彼に見初められ、気に入られたのだとしたら、どんなに幸運なことか……!」


 亡くなった厳格な夫の前でもそうだったが、おっとりしたノアイユ夫人が独善的な息子に言い返すことは珍しかった。

 サシャは怒りにか顔を赤くして母親を睨みつけた。


「アリスの後見人はこの私です。結婚相手も私が決めますから、あなたはよけいな気を回さないで下さい!」


「でもヴェルヌ卿は人柄も素晴らしい方よ! 今日だってアリスを介抱して下さって、終始思いやりのある態度で接して下さったわ!」


 『介抱』という単語に反応して、サシャの顔色がさっと曇り、続く言葉のトーンが暗くなった。


「条件や人柄がどうであれ、彼がそんなに良い結婚相手とは私には思えない。

 数年前大怪我をして……障害が残っていると聞く……」


 アリスは耳を疑い、さっとサシャの顔を見る。

 ノアイユ夫人は、必死にシモンを庇うように反論する。


「今日見た限りでは足はだいぶ良くなっているようでしたよ。杖無しでも、ほとんど普通と変わらぬ歩きぶりでした。結婚の反対の理由にはなりません!」


「……足だけならいいのだが、彼には別の障害があると噂がある」


 人として言って良いことと悪いことがある。

 シモンじゃなくても結婚も縁談も遠慮したいが、サシャの言いがかりはあまりにも聞いていて不愉快過ぎる。

 ノアイユ夫人もアリスと同じ気持ちだったらしく、息子に噛みつくように言う。


「人の噂というものは無責任なものよ! 有りもしないことを真実のように言うものだわ!」


「母上のおっしゃることも分かりますが、火のないところに煙は立たないとも言う。

 万が一にもその噂が真実であった場合は、結婚生活はとたんに不幸なものになる。

 女性にとって子供が持てないということは大変な悲劇なのだから……」


 つまり、サシャの言わんとしていることは、シモンの障害の噂が男性機能の問題ということなのだ。

 アリスの頭の中が怒りで真っ白になる――これ以上、黙って聞いていることなど、到底我慢ならなかった――




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