5、束の間の幸福
出迎えに現れた執事のジョセフに確認したところ、サシャはアリス達が出かけたあとすぐに出勤したという。
(問題はそこではなく、私が無駄にサシャを気にしていることよね)
従順なアリスを止めると決めた今、サシャの反応を気にするより逆にメロディのように怒られる耐性をつけたほうがいいのかもしれない。
何しろ今のところサシャの後見期間が終わる20歳まで、侯爵家にいなくてはいけない見込みなのだから――
(はぁ……4年間は長いわ)
ノアイユ侯爵家の自慢の庭が見えるテラスのテーブル席に移動したあと、入れたての紅茶をいただきながら、アリスは憂鬱な溜め息をついた。
(私がこうしてのんきにお茶を飲んでいる間も、修道院のみんなは任務したり、訓練してるのよね。
かつての24時間、任務や訓練にあけくれていた日々が、懐かしい……)
同じテーブルを囲むご夫人達が、庭を眺め『薔薇』の話をしている横で、アリスは異国にある修道院を懐かしく思っていた。
(かつては戦闘員としての活動はもちろんのこと、毎日欠かさずテレーズと剣の稽古をしていたのに……)
第三支部に来てからは特殊能力をいかした諜報任務ばかりで、剣を持つ機会さえない有り様だ。
さぞやこの半年間で腕がなまったであろうと思うと泣きたい気分になった。
公園で精神状態がどん底にまで落ちた影響で、なかなか鬱々した気分が晴れないアリスだった。
「ねぇ、アリスさんはどのような殿方が好みなのかしら?」
庭造りからキールの結婚相手の話に変わると、デュラン子爵夫人の興味がまっすぐアリスへ向けられた。
考え事をしながら会話を聞くフリをするのは得意だが、話題を振られるのは大の苦手のアリスだった。
とにかく受け答えに気を使うのが面倒で疲れる。
今回だってまさか『そもそも結婚する気などなく、男性にも興味がない』なんて本音を言って場を盛り下げるわけにもいかないし……。
「残念ながら、私は、好みを語るほど、男性というものを知りません」
少し考えてアリスが控えめな返事をすると、ノアイユ夫人が横から補足してくれた。
「アリスは、幼い頃から最近までずっと、女性のみの修道院で暮らしていましたの」
「まあ、修道院! どうりで年頃の娘さんにしては落ち着いているし、清楚な雰囲気だと思いましたわ」
デュラン子爵夫人はそう言いながら、非常に好ましそうな眼差しをアリスに向けた。
「それも、あの教皇の右腕であるブレイズ枢機卿が責任者をつとめる修道院にいましたからね。アリスには特別高い教養が身についておりますの」
アリスのいた『聖ラヴェンナ修道院』は、結社のNo.2カーマインの正体である、枢機卿ルーシャス・ブレイズが建てたものだった。
実際のところはアリスはそこで、教養より特殊技能的なモノのほうを多く身につけていたのだが……。
「まさに理想のお嫁さんね。うちの息子が二人とも既婚者なのが悔やまれるわ」
マラン伯爵夫人が残念そうに呟くのを耳にしつつ、アリスはいつまでこの結婚話が続くのだろうかと内心苦々しかった。
なぜならアリスにとって、こうして他人の興味が自分に向けられることは、迷惑以上に『不都合』なことだったからだ。
(今日のお茶の時間は精神体を飛ばして、第三支部に顔を出そうと思っていたのに……。
シモンもいるし、この調子だと止めておいたほうがいいみたいね)
アリスにはクィーンに変化せずとも、使用できる便利な能力がたった一つだけあった。
それは自分の魂の一部を精神体にして、肉体から外に飛ばす能力である。
修道院から侯爵家に戻ってからこっち、貴族令嬢であるアリスは日中は一人で自由に外出することさえもままならなかった。
ノアイユ夫人のお茶や外出につきあわされたり、使用人の目もあって、基本的に夜中以外は身体の自由がきかないのだ。
だから第三支部からはおもに調査や下見などの情報収集の任務を引き受け、昼間の退屈なお茶の時間などに魂を飛ばして実行していた。
しかし残念ながら本日は、デュラン子爵夫人の興味が『嫁候補』のアリスに向かっているのと、自分がクィーンであることを知らないシモンが隣の席にいるので、とても任務をやるような余裕はなかった。
アリスにとっては本体と分離させた魂、両方の意識を同時に操るのは、かなり神経を使う難しい作業なのだ。
飛ばした魂に意識を向けている間、どうしても本体が留守がちになり、今日みたいに自分に注意が向けられて頻繁に話しかけられる状態や、つっこみの激しいサシャといる時は使用がはばかられた。
アニメのアリスもメロディを偵察している間、ぼんやりしていてサシャに怒られるというのがパターンだったから、もしかしたら能力的な限界なのかもしれない。
なんにしてもNo.1からNo.3までの上位者のように、器用に複数の意識を飛ばして操ることなど、アリスには百年経っても無理そうだった。
彼らはいくつもの自分の影や分身を作りだして同時に操り、戦闘でも多用する、敵にしたら非常に厄介な存在。
比べて大幹部で下から二番目の実力のアリスは、そこまでの技術や器用さを持ちあわせていなかった。
そんな風にアリスが考えごとをしている間も、デュラン夫人は絶え間なく話しかけてくる。
「アリスさんにはぜひノアイユ夫人と一緒に、一度、我が家のお茶会か晩餐会に来て頂きたいわ。そしてぜひ息子のキールに神の教えを説いて貰い、更正させて欲しいの」
アリスも他人のことは言えないが、キールを更正させるなんて神本人であっても無理だと思えた。
何よりもニードルはともかく、ソードとはリアルで知り合いたくない気持ちでいっぱいだった。デュラン家にも近づきたくない。
そんな思いから、なんとも答えられずアリスが困って微笑んでいると、シモンが口を挟んできた。
「キールは年上の女性が好みなので、アリスさんでは若すぎるし、真面目に相手をするとは思えないな」
「でもシモン、年齢が上でまともなお嬢さんは全員、一度は結婚しているんだもの。
未亡人と結婚なんて私は嫌だわ。
誤解しないでね、決して差別的な意味ではないのよ」
「お気持は分かりますが、結婚したぐらいでキールが落ち着くとは思えないし、首に縄をつけたって断ち切るような性格だから、結婚させること自体が無理じゃないかな。
実際、僕達ぐらいの歳ではまだ独身者のほうが多いから、逆にしばらく自由に遊ばせて、自然に落ち着くのを待つべきでは?」
アリスにはキールが落ち着く日がくるとは思えなかった。
「たしかにシモン、あなたの言うことも一理あるわね。
ああ、つくづくキールではなく、親友の息子のあなたが私の息子だったら良かったのに!」
「少なくとも僕はあなたのことを実の母親のように思っていますよ。今日も相談したいことがあって探していたんです。
そうだ。幸いセンスの良さそうなご夫人方がここに揃っているようなので、お知恵を貸して頂けないでしょうか?」
「あら、何かしら?」
シモンが話の水を向けると、デュラン夫人だけではなく、ノアイユ夫人とマラン夫人も興味を引かれたようだった。
「部屋の模様替えのことなんです。実は知人から相談を受けたのですが、女性好みの部屋というものがいまいち僕には分からないので、アドバイスを頂きたくて」
どうやらシモンは、クィーンの側近になっての初仕事である、部屋の模様替えに真面目に取り組んでいるようである。
「部屋の模様替えね。つまりその部屋は女性の個室なのね?」
マラン伯爵夫人に問われ、シモンは頷く。
「ええ、30歳ぐらいの落ち着いた女性です。僕も頼まれごとなので、それ以上の詳しい素性は知らないのですが」
「年齢が30歳ぐらいなら、洗練された落ち着いた部屋がいいわよね」
ノアイユ夫人がほがらかな声で言うと、マラン伯爵夫人とデュラン子爵夫人が乗ってきて、おのおの意見を出し合い始める。
アリスは自分から話題を反らしてくれたシモンに感謝したくなった。
その後は、女性が好むインテリアやそれぞれの家の出入りの商人、ひいきの家具職人や輸入絨毯の話など、気楽にアリスも耳を傾けていられるような話題がずっと続いた。
シモンといえば、三人のおしゃべり好きの女性を前に、適度に会話に参加してほぼ進行役をしている。
ありがたいことに話すより聞き役を好むと察したのか、シモンからアリスに話題を振ってくることはなかった。
それどころか「アリスさんは、若いから、可愛らしいお部屋が好みかしら?」とデュラン子爵夫人が質問してきたとき。
「私は特にこれと言って……」
と、アリスが言い淀んでいると、
「彼女のように若い女性は、屋内より外の世界に興味が向かうものです。
それより先ほどおっしゃっていた、商人ギルドの話なのですが……」
さり気なく話の続きを引き受け、会話の流れを別の方向へ誘導してくれたうえ、気遣うような優しい微笑を向けてきた。
アリスにだけではなくシモンは、少し天然が入っているノアイユ夫人が的はずれなことを言っても、すかさずフォローを入れるのだ。
さらにお洒落設定のあるシモンは、女性が興味のあるファッション話もカバーしていて、話題豊富で夫人達を飽きさせなかった。
(なんなの、これ!?)
ずっと暮らしてきた修道院には女性しかおらず、現在も屋敷の使用人以外は、堅物のサシャとしか男性に接する機会がないアリスにとって、シモンの感じの良さは驚愕に値した。
三人のご夫人達もすっかりシモンを囲んだ会話に夢中になり、夕方近くになって、
「――すみません。あまりに楽しくてつい長々と話し込んでしまった……。
そろそろ、失礼させて頂かなくては――」
シモンが退席の挨拶をして立ち上がったとき、ご夫人方全員の口から悲鳴に近い声が漏れた。
特に、普段つきあいがないぶん免疫がないノアイユ夫人は、相当シモンの魅力にやられたらしい。
「まあ、寂しいわ。時間が経つのはなんて早いのかしら……」
いかにも物足りなそうな表情で訴えた。
そこでマラン伯爵夫人が、彼女に何やら耳打ちすると、表情は一転、明るくなってアリスの顔を見る。
「アリス、シモンさんを玄関までお見送りしてあげて」
不穏な空気を察したところで、アリスの立場ではノアイユ夫人の指示に従うしかない。
「分かりました。では行きましょう、シモンさん」
速やかに席を立ち、アリスはシモンと連れ立ってテラスをあとにした。
「シモンさん、今日は色々助けてくれてありがとう」
玄関へ向かう途中、アリスの口から自然にお礼の言葉がでる。
「むしろ、こちらからお礼を言いたいぐらいだよ、アリスさん」
「えっ?」
「こんなに幸せな時間を過ごしたのは久しぶりだった」
シモンはエメラルド色の瞳を隣のアリスに向け、想いを込めるように言った。
「いつもは、幸せではないんですか?」
反射的に尋ねたアリスは、すぐにぶしつけな質問をしたことを後悔して、自分の口を押さえる。
それは普段の他人に興味がなく詮索を嫌うアリスらしくない、なぜ口走ったのかも分からない質問だった。
シモンはその問いかけに、一瞬困った表情を浮かべてから、
「そんなことはないよ」
柔らかな微笑をもって答え、そのまま玄関扉に視線を送った。
「ああ、なんてことだ、もう玄関ホールに着いてしまった……もっとゆっくり歩けば良かった」
気まずい空気を流すように、シモンが両手で頭を抱えて大げさに嘆いてみせる。
玄関扉の前に立ち止まり、二人は向かい合って立ち、とうとう別れを言う段階になった。
「アリスさん、脈を診てもいい?」
「え、ええ」
言われたアリスは素直に左手を出す。
しかしシモンは脈なんかは診ずに、アリスの白く繊細な手を両手で握り、愛しそうに眺めるだけだった。
「近いうちにまた会えるかな? 公園にまた散歩にくる?
夜会やデュラン家のお茶会にあなたが参加するなら、僕も顔を出そうかな」
「私は、ノアイユ夫人が行く場所なら、大抵一緒に行くわ」
「そうか……では僕もノアイユ夫人をあなたと一緒に追いかけることにしよう」
「……」
シモンの受け答えや態度からは、あからさまなアリスへの好意が感じられた。
(返事がまずかったしら? まるで私もシモンとの再会を願っているように聞こえたかも)
誰とも一切、恋愛関係になることなど望んでいないアリスにとって、異性としてシモンに好かれることは避けたいことだった。
だから今も一刻も早くシモンと別れるべきなのに――
困ったことに、シモンと一緒にいるだけで心が落ち着いて癒やされるようで、なかなか『さようなら』が言い出せない――
他人に滅多に気を許さず、誰からも距離を取りたがるアリスは、修道院でも浮いた存在だった。
6年間もいたのに親しいと呼べる人間はシンシアとテレーズの二人だけ。
と言ってもテレーズにはいつまでも壁を作って接してしまい、共にいてもリラックスできる相手はシンシア一人だけだった。
ところが、シモンは今、そんな硬い殻に覆われたアリスの心の内側に、やすやすと侵入しようとしてきている。
(なぜ? シモンはシンシアじゃないし、出会ったばかりで、彼のことなどまだ何も知らないのに――)
自分の心に問いかけ、アリスはすぐにその答えに辿りつく。
『孤独だったから』だ、と……。
愛する家族をとうに失い、長く生活してきた修道院にも帰れず、頼れる仲間もいなかったこの半年間。すっかり寂しさで乾いていたアリスの心に、シンシアを思わせるシモンの優しさは水のように染みたのだ。
そう自覚したアリスは、感傷を振り切るように、ついに別れの言葉を言うべく口を開く。
――と、同じタイミングで、バン、と勢いよく玄関扉が開く音がした。
「――!?」
不意をつかれたアリスは息をのみ、シモンに手を握られたまま反射的に顔だけ向ける。
次の瞬間、視界に入ってきたのは、外から扉を開いている従僕と、今まさに大股で入ってくる、緋色の軍服を纏ったサシャの姿。
いつもと比べてかなり早い帰宅で、まったく予想外の登場だった。
扉を入ってすぐのところで二人と対面したサシャは、直後ビクリとして立ち止まる。
そうしてサファイア色の瞳を大仰に見開き、瞬く間に顔面を蒼白にさせ――今朝よりさらにショックを受けたような表情を浮かべ、その場で凍りついた――




