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蝿の女王  作者: 黒塔真実
第二章、『地獄の底で待っていて』
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3、愛と苦痛

「……?」


 アリスはけげんな顔でサシャを見た。

 初めてとはいえ、自分がちょっと冷たく反抗的な態度を取ったぐらいで、サシャが傷ついた顔をするなんて予想外だ。

 

(そういえば、さっき散歩の話をした時も、日傘のことだけで、私の足について触れなかったし、今朝のサシャは何かおかしい……?)


 アリスはまじまじとサシャの姿を見直した。


 華やかな赤色の制服が象徴するように、サシャが所属している近衛騎士隊は王国の軍の中でも花形の存在である。

 隊は王族の身辺や王宮を守るだけではなく、晴れやかなパレードを行軍により彩るのも職務の一つ。

 その関係で見映えも重視され、高身長で体格に恵まれた者であること。

 また、王宮の守りの隊であることから家柄の良い貴族の子弟であることも入隊条件だ。


 この若さでそのようなエリート集団を率いているうえに、侯爵となった今は一族を仕切る立場。

 容姿も地位も財産もと全てを兼ね備えているサシャが、傲慢になるのは当然ともいえる。

 そんなサシャにとって自分のようなちっぽけな親戚の小娘のことなど、取るに足りない存在であり、だからこそ普段から意志を無視して、何もかも勝手に決めているのかと思っていたが……違うのだろうか?

 

 疑問の視線を投げかけるアリスに向かって、サシャも物言いたげな眼差しで答えてくる。

 見つめ合う二人の間に流れる緊張感に気がついたのか、ノアイユ夫人が気をきかせるように席を立った。


「お茶も飲み終わったし、私は先に失礼して出掛ける準備をして待っているわね、アリス」


「……はい、侯爵夫人」


 夫人が食堂から出て行き、二人きりになるのを見計らったように、硬い表情をしたサシャが、絞り出すような声で尋ねる。


「アリス……昨夜、私が言ったことを怒っているのか?」


 サシャとは思えないしおらしいその質問に、アリスは少し答えを逡巡した。


 アリスが今朝荒れているのは、昨夜の出来事がきっかけで修道院へ帰れないことや組織の所属替えのことにより、溜まったフラストレーションがついに限界を迎え、表に溢れ出したに過ぎない。

 根本的には、他人を変えることなど無理だと思っているアリスにとって、サシャがどうこうでは無く自分の中の問題なのだ。


 自分にとって一番必要なのは、溜まりに溜まった不満のガス抜きかもしれない。

 そう思ったアリスは、この辺で曖昧だった部分をはっきりさせ、心の整理をつけることにした。

 意を決して、口を開く。


「私が、あなたに怒っている、なんて言える、立場だと思う?」


「立場など関係ない。君の素直な気持ちを知りたいんだ」


「私の気持ち?」


 アリスは皮肉気な口調で訊き返した。


(一度でもそんなものを考えたことがある?)


「夢を壊したことを怒っているのか?」


「夢?」


「貴族の令嬢なら、誰しも王子の花嫁になる夢を見るだろう」


 なんとも見当外れなサシャの発言にアリスは心底あきれ果てた。

 自分本位な偏った物の見方をするにもほどがある。

 

「サシャ、私は、侯爵家の屋敷に来てから、何度も修道院に帰りたいとお願いしましたよね?」


「ああ、覚えている。ここへ来たばかりの頃は、よく言っていたね。だが、最近はあまり口にしなくなったようだが……」


「それはあなたがそのたびに『考えておく』と同じ返事をすることと、修道院の話をすると目に見えて機嫌が悪くなるからだわ」


「そうなのか?」


 アリスはサシャの頭に脳みそが入っているのか一度カチ割って調べたくなった。


「私は今も修道院に帰りたい気持ちは変わっていないし、王子の花嫁どころか結婚自体を望んでいません」


 アリスはきっぱり言い切ってから、一呼吸置き、ついに核心に触れた。 


「サシャ、あなたは、いったい、私を修道院に帰してくれる気があるの?」


 問われたサシャはサファイア色の瞳でアリスをまっすぐ見返し、迷いもせずに即答した。


「君が何と言おうと、帰すことは有りえない」


 分かっていたとは言え、こうして言葉にされ、現実をつきつけられるのはきつい。


「……」

 

 救いはアリスの父親が、親戚であるノアイユ侯爵に過分な後見期間は望まず、彼女が20歳になるまでとはっきり遺言書に明記していたことだ。


 食欲が一気に失せたアリスは無言で目の前の皿に視線を落とし、スプーンを置いて椅子から立ち上がった。

 サシャは端正な顔に焦りの色を浮かべ、慌てて席を立って歩き出したアリスの後を追う。


「アリス、分かってくれ、君のことを一番に考えてのことなんだ……」


「ええ、そうでしょうね」


 アリスはもとのポーカーフェイスに戻って、必死そうなサシャの顔を振り返り微笑を浮かべた。

 もう従順なアリスであることに意味などないが、つきまとわれるのは迷惑だ。


「悪いけどサシャ、部屋に戻って出かける準備をするから、遠慮してくれる?」


「出かける……そうだ、アリス、足は大丈夫なのか?」


 今さらそのことをつっこむのは間抜け過ぎる。

 アリスは薄笑いで返した。


「おかげさまで、一晩寝たら、全く痛みはなくなったわ。

 元々昨日も言ったとおり、ほんの少し捻っただけだったのに、大げさだったのよ」


 昨日の恨みを込めて嫌味っぽく言ってやりながら、


(このまま部屋までついて来る気なのかしら?)


 廊下を足早に歩きながらうんざりした。


「そうか、でも念のため今日は休んでいた方が……」


「いいえ、サシャ、出かけるわ」


 断固として言い放ち、自室の前に到着したところで素早く室内に入り、サシャの鼻先でピシャリとドアを閉めると、ついでに鍵もかける。


「アリス……開けてくれ」


 呼びかけを無視して、アリスは散歩着へと着替えた。

 根っからしつこい性格のサシャは、アリスが外出準備を終え、部屋から出てくるまで扉の前で待ち続けていた。

 さらにアリスが侯爵夫人と合流したあとも、足のことや日差しなど注意事項を言いながら、馬車に乗り込むまでずっとつきまとってきた。


(一瞬、出先まで着いてくるかと思って、焦ったわ)


 どんな対応を取ろうと変わらぬサシャのしつこさに、昼の王都で一番の貴族の社交場であるプリシュア公園へと向かう馬車の中、アリスは疲れきった溜め息をついた。

 向かいの席から侯爵夫人が申し訳なさそうに謝ってくる。


「ごめんなさいね、アリス。あの子はあなたのことを心配するあまり、つい口うるさくなってしまうのよ」


(それが迷惑だっていうのよ)


アリスは内心苦々しく思いつつ「……ええ、分かっています」と、神妙に頷いてみせた。


「許してあげてね。何しろ、あの子にとってあなたは幼い頃から『天使』なんですもの」


「天使?」


 嫌な響きの表現にアリスは眉をひそめた。


「そうよ……小さな妹のミシェルに付き添うあなたのことをサシャはいつもそう呼んでいたわ……」


「……!?」


 前触れもなく夫人の口から出てきた妹の名に、アリスの心臓は即座に掴まれたように苦しくなった。


「アリス、どうかしたの? 顔色が悪いわ」


「大丈夫です、ノアイユ夫人」


 不意をつかれたのでつい顔に出てしまった。

 浅く呼吸を繰り返し、どうにか気を落ち着かせてから、アリスは話題を変える。


「それより、今日は公園にどなたがいるでしょうね?」

「……そうね、誰がいるか楽しみね」


 おしゃべり好きの侯爵夫人が瞳を輝かせるのを見て、アリスはほっと息をついた。




 

 外出する際のアリスはいつも『それ』を見ないように、極力気をつけていた。

 人前で取り乱してしまうことを恐れていたからだ。

 

 公園に到着したアリスは、馬車内でのうかつさを反省し、気を引き締めて慎重に歩きだした。


「ねぇアリス、向こうで立ち話しているのはマラン伯爵夫人じゃないかしら?」

「行ってみましょうか」


 日傘をさして侯爵夫人と並んでおしゃべりしながら、出来るだけ注意深く、周囲にいる『それ』を見ないように意識する。

 

 前方からやって来る乳母車を押す女性の傍らで、ちょろちょろ歩き回っている『それ』が視界に映ったときも、アリスは可能な限り目を反らしてやり過ごそうとした。

 ところがそんなアリスの努力をよそに『それ』はわざわざ、彼女の目の前へと飛び出してきて、平地にも関わらず転びかけた。


 とっさにアリスは身を屈め、両腕を伸ばして受け止める。

 その小さく柔らかい『幼い少女』の身体を――


 びっくりした少女は、次の瞬間、アリスの腕から逃げるように走って母親の元へ戻っていった。

 母親は会釈しながら娘を促し、少女は舌ったらずのお礼の言葉を残してまた歩き始めた。


 時間にしても短い『たった』それだけのやり取りだったのに――


 少女を見送ったアリスは、見事にその場から動けなくなった。

 決して見てはいけないことが分かっているのに、去っていく幼い少女の背を思わず振り返って追ってしまう――


 予想通り、その小さな背中が『あの日』よちよち歩きをしていた妹のものと重なり、アリスは胸が引き裂かれるような苦しみに襲われた――


 亡くなった最愛の妹のことを思い出すのは、アリスにとって地獄の釜の蓋を開けるに等しい。

 ゆえに普段は厳重に記憶の底に封じこめていた。

 わずかでも思い出せば、たちまち平常心を失ってしまうから。


 妹を想起させるすべての物が、彼女の心に苦痛を与えたが、とりわけ一番辛いのは、幼い子供の姿を目にすることだ。

 アニメと違い今のアリスにとっての『致命的』にして一番の『弱点』は子供であり、特に亡くなった妹と同じ年頃の幼女が駄目だった。


 特に今回の不意打ちは酷い。

 最愛のミシェルと同じ金髪に青い目。

 まったく同じぐらいの背丈に、柔らかく温かな身体の感触まで。


 どっと悲しい記憶を溢れださせたアリスは、ついに過呼吸を起こし、その場にくずおれた。


「――どうしたの? アリス! 大丈夫!?」


 傍で呼びかけるノアイユ夫人の声が遠く聞こえる。


(ああ……ミシェル……!?)


 アリスは最愛の妹の名を、激しい苦しみと愛おしみをこめて心の中で呼んだ。

 両親を失ったあと、たった一つだけ残された、アリスの生きる希望だった、ミシェル――


 産声すら弱々しい小さな妹には、子を3人産んだ乳母の乳首が大きすぎて、母乳が上手く飲めなかった。

 アリスは搾ってもらった母乳を哺乳瓶を使い、少しでも多く妹に飲ませようと必死で頑張った。

 

 生まれつき虚弱な妹はすぐ熱を出し、そのたびに死んでしまうのではないかと気が気ではなく、一時たりとも目が離せなかった。


 幸い、アリスがつきっきりで世話をしたかいがあって、ミシェルは乳幼児が死にやすい1歳前の時期を乗り切り、無事に2歳になった。


 身体が小さめで2歳前にようやく歩きだしたミシェルは、歩き回るのが楽しくて仕方がない時期だったのだ。

 あの日――ミシェルが夜から酷い熱を出した日も、日中は楽しそうに、いつもより長めに外を歩き回っていた。


 あの恐ろしい夜、燃えるように熱かったあの子の身体、苦しそうな息。


(どうして熱が下がらないの……!)


 アリスは神に祈り、懸命に看病をした。


(……神様……どうか私の命を差し上げますから……。

 この子だけは助けてください……お願いします……お願いします!)


 何度も繰り返しお願いしたのに――


「……くるし……い……おねぇ……ちゃ……」

「ミシェル……! ミシェル!」


 ミシェルはとても怖がりで、暗い場所が苦手だった。


「……こわい……なにも、みえ……ない……」


 それなのに、真っ暗闇に落ちて行くあの子の手を、ただ握ってあげることしかできなかった。

 救ってあげることができなかったのだ――


(……ミシェルの身体が弱いことを知っていたのに……! 私がもっと気をつけていれば、あの子は死ななくて済んだのに)


 今も闇の中で一人で泣いているミシェルの声が聞こえる。

 早く傍に行って、抱き締めてあげたいのに――


(私はなぜまだ生きているの?)


 こんなに苦しくて、辛いのに。


 悪夢に落ち込むたびに、修道院では同室だったシンシアがアリスの手を握り、名前を呼んで救い出してくれた。

 その温もりと声に導かれながら、アリスは『妹の復活』という呪文を思い出し、どうにか現実へと戻ることができた。

 だけど、もうアリスの傍にシンシアはいない。

 何の頼りもなく、自分だけでこの暗闇から浮かび上がらなくてはいけないのだ。

 分かっているのに、胸が苦しくて、呼吸すらままならない。


 地面に這いつくばり、かきむしったアリスの爪の中に土が入りこむ。


(ああ……なんてぶざまなのだろう……いつまでたっても私は蛆虫だ……)


 目の前が絶望の闇に染まり、意識が遠のいていく。

 もがくほど嵌まっていく無間地獄のような悪夢に、アリスの心が絶叫をあげていたとき――肩に触れる温もりがあった――


「大丈夫ですか?」

 

 その優しく澄んだ声は、あたかも暗闇にさす一条の光のように、闇底でのたうつアリスの元へとまっすぐに届いた。


(シンシア?)


 アリスは地獄に落ちた一本の蜘蛛糸に掴まろうとするように、必死に腕を伸ばす。

 応えるように腕を掴まれ、引き上げられるように抱き起こされてから仰向けにされる。

 温かい手がアリスの右手をしっかりと握りこんだ。


「しっかり――さあ、ゆっくり少しずつ空気を吐いて、吸って」


(そうだしっかりしなくては……。ミシェルともう一度会うためにも)

 

「そう、焦らず、ゆっくり、長めに吐いて、吸って、呼吸を繰り返して……大丈夫、僕がそばについているから」


 澄んだ響きの心地良く静かな声に導かれて、沈んでいた意識が浮上し、視界から暗闇が取り払われてゆく。


「……あ……」


 明るく晴れた視界に現れたのは、見覚えのある金髪に緑の瞳の、女性のように甘く優しい顔立ちだった。

 穏やかで柔らかい表情でアリスを見下ろしていたのは、クィーンの側近であるニードルの正体――伯爵子息シモン・ヴェルヌだった――




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