18、美しい庭では……⑦
断言するシモンの中性的な顔を凝視しながら、アリスは絶句するだけだった。
その反応を、驚きのあまり言葉も出ないと受け取ったらしい。
「……ショックを与えてしまったようだね……」
気遣うような視線をシモンが送ってくる。
確かにアリスは自ら罠にハマっておきながら酷く動揺していた。
(これでクィーンであることを明かさないわけにはいかなくなった。さもなければシモンと結婚コース)
追い詰められた気持ちのアリスの顔からは血の気が引き、今にも倒れそうにでも見えたのか、シモンが年代物の肘掛け椅子を運んでくる。
「さあ、ここに座って」
そうしてアリスを座らせると、自分は木箱を寄せて腰を下ろし、繊細な指を組みながら目を伏せる。
「僕が絵を観ようなんて言ったばかりに、こんなことになってしまってすみません」
「……いいえ、シモンさんのせいではありません……」
すべて自分で選んできた結果だった。
「いや、僕のせいだ――昨日キールは、アルベール殿下とアリスさんの婚約が今にも成立しそうだという噂を聞きつけ、自分のことのように焦っていた。その様子とあいつの性格を思えば、こういった手段に出ることも充分予想できたのに――本当にすみません」
謝りながらも、床に置いたランタンの灯りに照らされるシモンの顔は緩みきっていた。
本人もそれを自覚したらしく、顔を押さえながら謝ってくる。
「ああ、駄目だ。こんな状況なのに、アリスさんと一緒にいられることが嬉しくて、つい笑ってしまう。我ながら僕は最低だ」
反応に困って俯くアリスに対し、シモンは確認するように訊いてくる。
「アリスさんは王太子妃になりたかった?」
訊かれたとたん、アルベールの顔が頭に浮かんで拒否反応をおぼえる。
「まさか! 死んでも嫌です」
反射的に叫んだアリスは、力を込め言い過ぎたことに気づき、取り繕うように言う。
「……王家に嫁ぐなんて恐れ多過ぎるし、一番の望みは今も修道院へ帰ることです……」
「そうだよね、そうだと思っていた。アリスさんは目立つのが苦手そうだし、王族に嫁ぐだけでも何かと大変なのに、さらに未来の王妃となれば、ただ注目されるだけではなく立場的な重圧もある。
こんな言い方はなんだけど、控えめなアリスさんの性格には向いてないと思う」
言われたアリス本人も、アルベールを毛嫌いしていることを抜かしても、自分に王太子妃は務まりそうにないと思っていた。
シモンはそこでアリスの両肩を掴み、身を乗り出すように主張する。
「その点僕との結婚なら、修道院と全く同じとまではいかないまでも、アリスさんが心穏やかに暮らせる環境を提供できる。
もちろん結婚してもアリスさんの意思を最大限に優先し、何も無理強いしないと約束する。
僕達は趣味が合うから、一生楽しく暮らせると思うな」
アリスもその点に関しては心配していなかった。
むしろローズに言われなくても、シモンこそが自分にとっての一番理想の結婚相手であることも理解している。
なぜならシモンがあげた条件に加え、シャドウやソードが主張していた結社員同士の結婚のメリットも得られるからだ。
第一にシモンのことを信頼しているし、一緒にいると楽しい。
(……だからこそ、困るのよ……)
これはカミュにも言えることだが、仮に形や名目上だったとしても、結婚するにはアリスはシモンに好意を抱き過ぎている。
仲間としての信頼や友情以上の感情を誰にも抱きたくないアリスにとっては、絶対に避けたい相手なのだ。
(ごめんね、ローズ。やはりあなたの期待には応えられない)
右手の指にはめた指輪を見つめ、心の中でローズに謝っていたとき、
「実はここの庭も少しずつ再生しているんだ。いつか美しさを取り戻した庭で僕達の子供を遊ばせたいな――ところでアリスさんは子供は好き?」
夢を語る流れでシモンが突っ込んだ質問をしてきた。
アリスはどきまぎしながら答える。
「……かなり、苦手です……」
「そうか……でも僕はアリスさんが傍にいてくれるだけで充分幸せだから、気にしないで!」
(――って、ぐずぐずしている間に、すっかりシモンは結婚する気になっている!?)
これ以上、無用な期待を持たせてはいけない。
(早く、自分はクィーンだと言わなければ)
アリスは再び勇気を奮い起こすべく、顔を上げてシモンの瞳を見る。
すると、またしても脈拍と体温が上がり、胸の苦しさと喉がつかえる感覚をおぼえた。
堪えきらずにアリスは顔を下ろし、震える指先をぎゅっと握る。
(どうしてシモンの瞳を見ると、何も言えなくなるの?
自分がクィーンだと言うのがこんなに怖いのはなぜ? ソードと違ってニードルは暴走なんかしない、安心して告白できる相手なのに――)
そこまで考えて頭を振る。
(なんて、理由なんて今は考えている場合じゃない。もう口で言えないなら、クィーンに変化してしまおう。
そうすれば異界への扉を使い、この部屋を一瞬で脱出できる)
決意したアリスはごくりと唾を飲み込み、最後の手段とばかりに意識を集中し、心の中で『変化』と呟く。
ところが、直後――本来なら大量の蝿が身体中から放出されるはずなのに、アリスの身から出た蝿はたったの一匹だった――
胸元から飛び出した蝿を愕然と眺めるアリスの頭にソードの声が響く。
『大事なのは、覚悟することだって気がついたよ』
(……ああ、まったく、そうだ……)
覚悟ができていない状態でクィーンになろうとしたせいで、無意識に身体が拒否してしまったようだ。
がっくりとうなだれつつ、とりあえず蝿を引っ込めようとしたとき――不思議そうに呟く声がした。
「蝿がいる」
見るとシモンがあきらかに蝿を目で追いながら、立ち上がるところだった。
アリスはハッとして、クィーンの時にニードルの前で蝿を出したことがあるのを思い出し、背中に冷や水を浴びるような感覚をおぼえる。
しかし、シモンは特にアリスを追求せず、手を伸ばして近くの彫刻にかけてあった大きな布を取ると、端を握って袋状にする。
およそ蝿を発見した者の反応としては珍しいその行動をアリスは呆然と眺めた。
(何をする気なの?)
混乱するアリスの心理状態を表すように蝿はフラフラと力なく飛んでいく。
そこへ素早く接近していったシモンが神業の動きで布の中に蝿を捉える。
と言っても蝿はアリスの精神の一部であり実体がないので、実際は捕まえようがない。
単にアリスがとっさに布を通過しないよう意識しただけだった。
そのままシモンは壁際まで移動すると両腕を上げ、天井近くにある通気口らしい四角い穴に布の開け口を押し付けた。
そこまで来てようやくアリスはシモンの行動の意味が分かる。
「どうやら、僕達について入って来てしまったようだね」
言いながらシモンは蝿が迷いなく外に出るよう、通気口内部に布を押し込む。
アリスはといえばただただ衝撃を受けていた。
「なぜ、わざわざ、蝿なんかを逃がすの?」
「なぜって、おかしいかな?」
「だって普通は、叩き潰そうとするでしょう?」
「それはそうかもしれないね」
「そうよ、皆、醜悪で不潔な蝿が嫌いだもの」
アリスは自分でもどうしてそこにこだわり、問いただしているのか分からなかった。
シモンは完全に蝿が逃げるのを待つように目を向けながら、ごく自然な口調で答える。
「少なくとも僕は、そんな理由で何かを嫌いになったことはないな」
その台詞を耳にした瞬間――アリスは言葉にできないような感動をおぼえ、思わず胸が熱くなる。
同時に両目から涙が溢れてくるのを感じて――慌てて貰ったばかりのハンカチを取り出す。
泣き顔を見られたのでは大幹部としての威厳も何もあったものではない。
そう思ってシモンが背中を向けているうちに拭き取ろうとするも、堰を切ったように涙は止まらなかった。
焦っているうちにとうとうシモンが振り返り、驚いたように駆け寄ってくる。
「アリスさん、泣いているんですか?」
アリスはハンカチで顔を覆い、
「……いいえ、これは違うんです……」
否定しながら頭を振る。
しかし、とめどない涙がレースを伝ってハンカチの先端からこぼれ落ちてしまう。
(どうして涙が止まらないの?)
まるで前世からの心の澱が溶け出すようだった。
シモンはアリスの両肩に手を置き、少しの間立った状態で見下ろしたあと、反省したように謝ってきた。
「アリスさん泣かないで、僕が悪かった。あなたの気持ちも考えず、結婚の話なんかしたりして……」
まさか泣いている理由を蝿とは結びつけられず、勝手に解釈したようだった。
慰めるようにアリスの背中を撫でながら、シモンは決意を滲ませた声で続ける。
「大丈夫、何も心配しないで、僕がどうにかしてみせるから。あなたを決して母や姉のように不幸にしたりはしない」