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帰途についたナナは上機嫌だった。鳴き始めたツクツクホウシに合わせて、腕を振って歩くぐらい上機嫌だった。
スーパーで食材を買い込み、夜はご馳走を振舞ってくれた。
ナナは料理が上手だ。文佳の帰りが遅いために仕方がなく始めたらしいが、わずか五ヶ月のキャリアとは思えないぐらい鮮やかな手つきで美味しい料理を作り上げる。しかも自らの美貌を保つための研究を怠らないために、健康にも良いメニューになっている。
いつもなら、校内の全ての男子生徒が貯金の全てを払ってでも食べたいと切望する、友達の手料理をゆっくりと味わうルリであったが、今日ばかりはそんな贅沢を言ってられなかった。
宿題が全く進んでいないのだ。
泣く泣く料理を手早く平らげ、宿題にとりかかったが、終わらない。
ギリギリ判別可能なレベルにまで文字を崩し、一心不乱に文字を書き写していく。
「そろそろ帰ったほうがいいんじゃない」という声に顔を上げると、すでに時計は十時前であり、ナナは風呂上りの上気した顔をしていた。
「でも、まだ終わってないんだ」
普段は無表情なルリが切々と訴える。
「泊まっていって、明日の朝早くに帰るなのはどう?でも、リリママに連絡はしておきなさいよ」
「それはさすがに怒られる。改めてお願いする。貸して下さい」
「ダメだって言ってるでしょ。もし、カッチンが明日持って行くのを忘れたら、私も忘れたことになるのよ」
「絶対に忘れないから」
「ダーメ」
ナナはテレビをつけるとその前に座り、ストレッチを始めた。
うなだれたルリの目に、ゴミ箱に投げ込まれたコピー紙の束が映った。一瞬の懊悩焦慮の後に、申し出た。
「このコピーを、持って帰ってもいいか?」
「処分してくれるなら、どうぞ持って帰って」ナナはあっさりと同意した。
恥を忍んでゴミ箱から回答集を取り出して、カバンに移し替えようとした時、一枚の紙がはらりと落ちた。ルリが拾い上げたそれには。答えは書いていなかった。
「手紙が入ってたぞ」
差し出された紙を、ナナは面倒くさそうに受け取る。そこには、「八月三十一日二十三時五十九分。風見鶏の下で待ってまいす。 斑目学」と書かれていた。
「やだっ」とすぐに投げ返してくる。
「行かないのか?」
「行くわけないでしょ、気持ち悪い。それに私は十一時には寝るし、風見鶏がなんのことだか分からないから、そもそも行きようがないわ。それが分かってないところもアウトよね」
ナナはそれだけまくしたてると完全に興味を失ったのか、以後、その話をすることはなかった。
「気をつけて帰るのよ」
ナナに見送られて、ルリは夏の夜の下を歩く。熱帯夜から開放された喜びなのか、秋の虫達の鳴き声が聞こえてくる。
ガラガラの電車に乗っていると、ナナから校長先生殺しの犯人が捕まった、との報告メールが来た。
犯人はカップルではなかったが、大きなヘッドホンの持ち主だった。事件の後、首にヘッドホンをぶら下げた若い男が、二度、図書館の前を訪れたことを、セイラが覚えていたのが逮捕のきっかけだったらしい。動機は、音漏れしないように気を使いながら勉強をしていたにも関わらず、ヘッドホンをしているというだけで注意され、理不尽さにカッとなって犯行に及んだとのことだった。
「なんだかセイラさんに手柄を譲ったみたいで悔しいわね。今度また奢ってもらわなくっちゃ」
犯人と動機は外したが、凶器は的中させたためか、ナナの機嫌は良いようだった。
「それで、図書館のことをもう一度考えているときに思い出したんだ。隣にある公園。その真ん中に高いポールが立っていて、一番上に風見鶏がついていたなって」
ルリは帰宅してリビングにいた。いつもなら帰ってきたらすぐに服を全て脱ぎ去るところだが、今夜はそんな時間も惜しく、下着姿で宿題に取り掛かっていた。隣で話を聞いている母親はいつもと同じように一糸もまとっていない。二人は全裸主義親子である。
「公園が風見鶏の下だったのね」
「多分、あの辺りに住んでいる人にとっては、風見鶏、と言えば公園の風見鶏のことなんだ。だから斑目君も当たり前のようにその場所を指定した。でも、四月に引っ越していったばかりのナナはそんなことは知らない。もしかしたら公園の風見鶏のことは気が付いていたかもしれないけど、手紙の場所がそこだっていう確証はない。もちろん確証があっても行かなかっただろうけど」
「そうね。ほんと、ナナちゃんはいつも大変ね」
「それに付き合わされる私も大変だけど」
「ふふふ。そうね。ね、その手紙を見せて」
「駅のゴミ箱に捨ててきた」
「そっか。それじゃあ、ママはそろそろ寝るわ。頑張ってね」
「うん、お休み」
寝室に向かう白い裸身を目で追ったついでに時計を見る。
十二時を三分過ぎていた。残り時間は八時間二十二分。その前に最低限シャワーは浴びないといけない。
ルリは気合を入れて、宿題写しマシーンに変身した。
終わり
初出:2011年2月13日 COMITIA95