phase5
カフェアートを掻き混ぜたような心理状態のまま教室へ戻ると、ヘッドフォン娘は何食わぬ顔で定位置に収まっていた。
背後を通り自席へ着くが、さっきのやり取りをデリートしたように俺へは見向きもしない。ここで問い詰めたり素性をばらしたら、こいつはどうするつもりなんだ?
いや、そんなことをしても白い目で見られるのはこの俺だろうな。必死になって魔法使いがここにいるぞと吹聴しても、いったい誰が信じるってんだ。
魔法で話せなくさせられたわけではないが、口封じされてるのとなんら変わりはない。結局、自分がなってみないことには見せる手立てもねえってことか――。
無性に、そして無駄に大声で叫びたくなったところで、
「ねえねえ、お味はどうだった? まさかお相手が千代田っちだとは思わなかったよー」
目の前の能天気女子がお気楽に絡んできた。
ホントに好奇心旺盛なヤツだ。今だけはその楽天的な性格を認めてやるから、少しお裾分けしてくれ。
「どう伝え聞いたのか知らねえが、俺の口には合わなかったようだ。製作者の趣向は十二分に理解できたけどよ」
横目でチラリと千代田を窺う。ヘッドフォンが隠れ蓑のつもりなのか、聞こえていない姿を続行中だ。
「千代田っちらしいといえば千代田っちらしいけどねっ」
出会ってそこそこでらしさなんか解るもんなのかよ。
鳴世は笑いをかみ殺すような顔で、
「ボクだったらもっとシンプルにいくよー」
あれ以上簡素ってどんなだ? お前の天然シンプルプランなんか受けたくもないがな。
「でもでも、眞取っちが作ったものしか喜びそうにないよね、豪ちゃんはっ」
「ふんっ、こっちの気苦労も知らずによ」
俺が聞く耳を持たなきゃ、鳴世は延々独り言を話す酔興なヤツに映るだろう。せいぜい勝手な予想でもして楽しんでろ。
鳴世は幾何学模様の手鏡を取り出し、映った自分の顔を笑顔で見やっている。
――そういや、こいつ。
俺は違和感や既視感とは違う何かを感じた。
心ならずも放置しといた俺の呼び方よりも、今はやたらと耳につく固有名詞がある。
「まさかお前……」
思わず呟いてしまった俺の言葉に鳴世が反応を示し、
「まさか? あー、心配しなくても平気だよー」
何をだよ。
俺の耳元へ顔を急接近させると、
「ボクは豪ちゃんこそ護り手だと思ってるけど、試すマネなんかしないからさっ」
ガタンッ。
と、俺は自分のふくらはぎで椅子を後ろへ吹き飛ばした。
室内の何人かが振り向く。そして茫然とする俺を、落差のある場所から垂れ目がニコリと見上げている。
こいつもなのかよ――。
伝達することがあるなら遠まわしでいいと思っていたが、遥かにシンプルなやり方で仰天情報を囁いてきやがった。
「お前も……使えるっていうのか」
魔法とやらを。
「まあ、そこそこねっ。でも、これはボクと豪ちゃんの秘密にしよー」
そう言って、愛用の手鏡を俺に向けてみせた。
意味深な言い方してんじゃねえよ……。自分の今の顔なんて見たくもねえし。
俺は倒れた椅子を元に戻し、腕組みをしながら座り込む。
さすがに参った。様々なことを通り越して詰問する言葉も行方不明だ。
「ねえねえ――」
「ちょっと黙ってろ」
もはや、身体ごと俺の机に乗っかっている鳴世を構う気にもなれなかった。
ちょっとどころか二、三日黙秘してていいぞという思いを視線に込めると、
「ニャッ」
鳴世は取ってつけたような笑みと笑い声を置いて背を向けた。
昼休みも終わりに差しかかり、教室内は徐々に席が埋まってきている。
紗都の姿はまだ見当たらない。こいつもそれを解ってて俺に告げてきやがったんだろう。
よもや、自分がネズミの昼寝をしていたとはな。キツネやタヌキにも見えないが、眉唾物の連中に前と右横を占拠されている。白と黒で争うボードゲームなら覆ることもないが、気分的にはひっくり返されたようなもんだぜ。
――魔女王マトリッチ・サトランダ。
氷女の乃浪や黒煙野郎の内塔が呼んでいた紗都の別称。
あいつらにしてみりゃ本名に該当するのかもしれないが、鳴世はいつの間にやら自分ルールの愛称として使用してやがった。
そもそも、こいつはいつの時点で紗都を魔女と認定したんだろうか。紗都本人から聞き及んだとは思えないし、やはりあの弁当の一件に何かあるのか? そうであれば横にちょこんと座ってる千代田が、突発的に登校して来たのにも頷けるんだが――。
そうこう考えていると、前の扉から紗都と圷が連れ立って入室してきた。どっからどうみても平和そうな一般的女子高生という笑みを携えて。
あいつ、ここまで広がりをみせておいてマジで自覚ねえのかよ。
最後尾の片隅から叫んで訊くわけにもいかず、かといってこのままいくと、紗都は面倒事の中心へ君臨することになる。
すべてがあいつの望んだことならば、俺はノータッチを装うのが一番なんだろう。
だが、本当に紗都が希望したことなのか、俺には今ひとつピンと来るものがなかった。
「また明日ねぇ、豪ちゃんっ」
鳴世は保持するデカい部分へ千代田を挟み込むようにすると、連れ去るとばかりに教室から出ていく。
黙ってろという俺の命令的な訴えに従ったのか、今の挨拶まで口を開くことはなかった。
何だか俺に対する偏った憶測を囁いていやがったが、ヘッドフォン娘の耳に直接訊ねりゃ解ることさ。
今週も残り僅かだ。明日の土曜を越せば一日は顔を合わせなくて済む。
それで何かが変わるとは思えないが、これ以上謎的人物が現れないことを祈りつつ、俺も帰宅するため鞄を手にした。
昇降口でローファーに履き替える馴染みの後ろ姿が視線に乗る。そいつは最も顔を合わせにくいヤツであり、合わせなければならないヤツでもあった。
方々から忠告や警告を受けている手前、ペラペラと話しちまう気分には到底なれない。俺はこいつの保護者でもなけりゃあいつらの言う護り手とやらでもないし、何か起きても力業で解決するなんてマネもできやしないからな。
だが、周りで暗躍してるぶっ飛んだ連中について放っておくのも気が引ける。
自ずと認識させる方法はないもんなのかねえ――。
「何か言いたいことでもあるわけ?」
振り向かせるような光線を目から発していたわけではないが、後方で眺めていた俺に紗都が気づいた。
感知したのも魔法の一種よ、とか言い出される前に、
「ふんっ、お前こそ何か言いたそうなツラしてるぞ」
俺は歩みを進め、自分の下駄箱から靴を取り出す。
「べ、別に私は文句を言いたいわけじゃないわ。あなたにだけは伝えておこうと思って」
昨夜の電話の続きってわけか。妙な手合いまで登場させちまったとか、後悔じみたことなら聞きたくもねえ。
「今日は圷と一緒じゃねえのか?」
すました顔で話題を逸らしてみる。
「生徒評議会の集まりがあったから先に帰ってもらったわ。結局、延期になったけれど」
学級委員に選ばれると、そんなとこにも強制参加ってわけか。ご苦労なこった。
「それで、あなたに伝えたいことなんだけど……」
「また弁当でも作り始めるってのか」
言いながら紗都を置き去り気味に歩き出すと、
「あの件ならもう終わりよ。どうしてもって言うなら考えてもいいけど。それより――」
小走りで追いつこうとする気配を感じさせつつ紗都は、
「アレがね……凄くなってきたの」
俺だけに聞こえる程度とはいえ、何だか色んな誤解を招きそうな発言をした。
発展途上の身体の部位かと茶化してやろうと思ったが、返ってくる言葉の内容は想像できたため避けてみる。
「そりゃ結構なことだ。悪いヤツでもこらしめてやれよ」
「あなた本当に信じてる?」
「ああ、信じたさ」
お前がどれだけグレードアップしたのか興味もねえが、訝しいヤツらが続々と現れりゃ信じないわけにもいかねえだろ。
「信じたさ、というのは答えとしておかしいわ。まだ半信半疑何でしょ? ちゃんと私が……魔女になったってことを信じて欲しいのに」
さすがに周りに聞かれては困るのか、紗都は秘匿部分を遠慮がちに話した。
「結局それになったからって何だっつうんだよ。俺にだけ伝えて優越感にでも浸りてえのか」
「私は色々な意味で強くなりたかっただけよ。優越感なんて驕った感情は持ち合わせていないわ」
「そんじゃ、『よくやった、凄えなお前』とこの場で頭でも撫でてやりゃあ満足か?」
おどけて頭に手を伸ばすことはせず、両手はズボンのポケットへ入れたままでいた。
「そ、そんなこと望むわけないでしょ。もう、あなたに頼ることもなくなったってことよ」
「頼るも何も、今まで何かしてやった覚えもねえし。お前は昔っからしっかり者だったじゃねえか」
「……そう。とにかく、あなたが信じようが信じまいが、魔女になったのは変えようのない事実なの」
信じたって言ってるだろ。何て言やあ気が済むのかねえ、このお利口さんは……。
どうやらこいつは自分自身の変貌で頭がいっぱいのようだ。とても他の登場人物が出没してるなんて思ってもいないだろう。
招かざる氷女や上から目線の黒煙野郎は、紗都のことを知ったふうな口ぶりで語っていたが、こんなにも自覚症状が見えないのに何をあせっていやがるんだ。実はあいつらだけの妄想話なんじゃないのか?
ヤツらが常識を逸脱しているのは解るが、納得しかねる部分も大有りだ。
「なあ」
校門を通過したところで紗都の顔を見ることもなく、
「弁当の件で健闘を祈ってやるって言ったことがあったよな」
「また同じ言葉でも送ろうとしてるの?」
「いや、あんとき見えない敵と戦う暇はねえと答えてたが、例えばそんな状況に陥る場面に出会ったらどうするよ、魔女っ子さん」
「ちっさな子じゃあるまいし、子は余計ね」
いちいち細けえことを気にすんなよ。余計な一言を添えるのは俺の性分だってことを、そろそろ認識してくれ。
「もしかして、あたしのことを誰かに話したとか?」
「しねえよっ。例えばって言っただろうが」
俺から語ったわけじゃねえが、すでに話しまくりだ。
「そんなにムキにならなくてもいいのに。でも例えばの話なら――」
紗都は俺の前に回り込んで正面へ立つと、
「見える敵とは戦うだけね」
らしくない不敵な笑みまで漏らしやがった。
「お前……バカじゃねえの」
「あなたにその言葉を突き付けられる日が来るとは思わなかったわ」
すぐに対俺用フェイスへ戻してみせる。
勉強の出来だとかに対して言うつもりは今後もない。ただ小学生ならいざ知らず、高校生ともなれば現実と虚構の思慮分別くらい備わるはずだろ。
「じゃあ何か。赤い服着たジジイが夜中に訪ねて来ても、何の疑いもなく受け入れるのか? 例えるのも恥ずかしいくらい古臭えけどよ、お前が抜かしてるのはそんなレベルだぜ」
「もちろん、時が経てば真実が見えてくることは多々あるわ。ただし、私の中で魔女という存在は単なる憧憬ではなかったってだけよ」
「ふんっ。お前にとっては看護婦やスチュワーデスみたいなもんだって言いてえのか」
「それを言うなら看護師さんとフライトアテンダントね。正しく覚えたほうがいいわよ」
どうでもいいんだよ、伝わってんなら。
「もっと現実的で身近な希望はなかったのかよ……」
独り言のつもりで口にした言葉を紗都が拾い上げ、律儀に会話へ繋げる。
「ご……あなたにはあるっていうの?」
「ふんっ。お前よりは実現可能なもんがちゃんとある」
といっても、こいつは不可能を可能にしちまったんだよな。
「初耳ね」
「まだ言ってねえだろうが」
「あるってこと自体がよ」
「あーそうかよ」
言ってしばらく放っておくと、
「だから、実現可能なものってなによ。普通は教えてくれる場面でしょ」
別に隠すつもりもなかったので、
「バイクの免許を取ることだ」
そっけなく言ってやった。
何だ、その誇らしげなツラは。うちの学校は免許取得に寛大なはずだぜ、優等生様。
「あなただって子供の頃に観たテレビに影響を受けてるじゃない」
「あのな、俺はヒーローになりたくて免許を取るわけじゃねえんだよ。純粋にバイクへ乗るための資格としてだ」
「そう」
お前と一緒にするな。
俺は紗都の歩速などに合わせる気もなく駅へと向かった。
この機会にすべてぶちまけてやろうかと思ったが、何らかの危険を迫らせる原因になっても胸くそ悪いだけなので止めておいた。
どっちにしろ、あまり気分がいいもんじゃねえけどな。
俺にとっては不毛なやり取りのあと、珍しい組み合わせで自宅の最寄り駅へ到着した。
言うに及ばず、紗都との通学路はほぼ同じだ。が、帰り道を共にしたのは高校へ入学して初めてのことだった。
電車内ではお互い終始無言。こいつの魔女騒動がなけりゃ、もう少し冗談めいた会話もしてるはずだが――。
「ねえ」
しばらくぶりに紗都が口を開いた。
今日は空っぽの弁当箱は所持してねえよな。頂いた物は別人がかっさらって行ったし。
「見て欲しいものがあるの」
おぼろげながら、ずっと昔にも同じようなことを言われた記憶がある。
ただ、今見せたいとするものは何となく予想がついた。
「ここでかよ」
過去にはそれなりの思い出もあったが、昨日のことを思い返すとあまり気乗りする場所とは言えない。よりによってといった感じもするが、
「時間は取らせないから、少し中へ入ったほうがいいかもしれない」
神妙な面持ちの紗都は、公園の入り口で懇願めいたことを口にした。
ったく、どうせレベルアップした魔法でも見せるつもりなんだろ。バーベキューの役に立つくらい火力が上がったか? 今となっちゃ余程のことじゃないと感嘆の声は上げねえけどな。
「しょうがねえな」
言いつつ、俺は公園の中ほどへと進んでいった。紗都も斜め後ろに黙ってくっついてくる。
魔女になったからといって俺と紗都がいがみ合う理由は特にない。こいつは普通にお隣さんで普通にクラスメイトだ。
そんなわけで、手品の新ネタでも拝見させてもらう気軽さで付き合ってやることにした。
「このあたりでいいわ」
紗都の声で歩みを止め、俺は倦怠気味な表情をして振り返った。
色白でちっさな顔を乗せた首を動かし、何かを気にして付近を見渡している。長い髪が頬に纏わりつき、紗都は邪魔そうに払い除けてみせた。
何だかこいつの顔をまともに見たのは久々な気がする。昨日の保健室での近距離じゃ、顔なんか眺めてる余裕もなかったしな。
「うん。誰もいないみたいね」
紗都はさっきまでの真摯な顔つきを、にわかに崩し始める。
披露する気満々じゃねえか。誰かに目撃されても俺は知らねえぞ。
空が次第に暗くなっていく。四十六億歳の恒星は、今にも顔を隠してしまいそうだ。
ひと気もないし、真昼間の明るい場所よりは目立つこともないだろう。キャンプファイヤー並みのことをやっちまったなら、逆に通報されかねないけどよ。
これで拍子抜けするものなら大声で笑ってやろうと決めつつ、
「さっさと見せてみろよ」
「解ってるわよ」
言い返してきた紗都は、何やら太い絵の具の筆らしきものを取り出し、
「これ、自前の物を魔法で模造したの」
自分の顔の前で左右へ振ってみせた。
「模造って、要はコピーだろ。そんなもん増やしてどうすんだよ」
こいつは絵を描く腕前も人並み以上だったが、こんなとこで技量を見て欲しいとか言い出さねえよな。
「増やしたというのは少し語弊があるわ。生み出したと言ったほうが適切かもしれない」
……生み出した?
言葉上の概念が違うだけのような気もするが、受け入れきれていない俺を見てか、
「元々の用途とは違う使い方をするから」
紗都はそう補足した。
「文字や絵を描く以外に何ができるっつうんだ」
「……これはチークブラシです」
と、そいつで頬っぺたを撫でてみせる。
「ふんっ、化粧の仕方でもご教示してもらえんのか」
「説明するより、見てもらったほうが早いと思う」
俺の当てこすりを軽々と受け流し、鞄だけを地面へ置いた。
「物語の魔女だってお気に入りの杖くらい持ってるでしょ。私にとってはこれがそれよ」
知るかよ、んなもん。
紗都はチークブラシとやらを掲げ、
「えいっ」
大きく振りながらマヌケっぽい掛け声を上げる。
すると、まばたきをする間もなく、化粧道具は紗都の身長ほどの長さへ姿を変えた。
ふんっ。
マイクスタンドでも掴むようにポージングした紗都が、俺の顔をまじまじと覗き見る。
いや、凄いでしょみたいな顔してやがるが、魔法を使えるならそんなの造作もないだろうよ。
「本番はこれからよ」
「何だって?」
確認するように周囲へ大きな瞳をキョロつかせ、紗都は掃除用具にも見える筆に跨った。
おいおい、まさかだよな。
黒髪の毛先とフレアスカートの裾がふわりと波打つ。
……浮いた。
長い棒に乗った紗都の細っこい身体が、俺の目線の高さまで浮き上がった。
「よく見ててね」
言い残すと、自称魔女は瞬時に上空へぶっ飛んでいく。
――っ。
絶句というのがどれくらいの時間に当てはまるのか知らないが、口を開いてることに気づいたのだから閉口とは違ったものなんだろう。
俺は空を見上げたまま、紗都の姿を目で追うことしかできなかった。
スピードを上げたり緩めたりと、紗都は縦横無尽に空中飛行をし続けている。頭の両側に束ねられた細い二本が、V字尾翼にさえ思えてきた。
それはそうとして――。
あいつ……、事前の警戒心より羞恥心を持てよ。水色のアレが丸見えじゃねえか。
さらに、恐怖心はないのかと問いたくなる速さで弧を描いてみせる。あの有名な兄弟の発明は何だったのかと、首を傾げたくなるぜ。
だいぶ日が落ちて紗都の姿も捉えにくくなってきた。
もう充分だから降りて来い、と声をかけようとしたときだ。ようやく気が済んだのか、紗都は高度を下げ、俺のいる位置へと近づいてくる。
魔法に関した事柄については、マジでガキそのものだな……。
あ?
という間だった。
紗都が急にバランスを崩したと思ったら、下から突き上げられたように俸っきれだけが宙を舞う。
何やってんだあいつは――。
俺は鞄を放り出し、予測落下地点へ走り込んだ。
水色を惜しみなく披露しながら、得意の絶頂と共に紗都の身体が墜落してくる。
チッ、間に合えよっ。
伸ばした両腕に、赤ん坊のごとく丸まった紗都が落ちてきた。
「痛えっ」
ワラにもすがる気構えで抱え上げたが、勢いに負けて俺の両膝が地面とクラッシュする。
「……マジで痛えぞ、クソったれ」
と天を仰いだ瞬間、今度はホウキまがいの飛行用具が降ってくる。
俺は紗都を抱きかかえたまま、覆いかぶさるようにして身構えた。
だが、多少の衝撃を覚悟したものの、しばらくたっても肩ひとつ叩かれる気配もない。
ゆっくりと上半身を起き上がらせてみる。
超至近距離に、呆然と当惑と恐縮がごちゃ混ぜになったような紗都の小顔があった。
「ったく、お前の身分はどっかのお姫さんか? 何で俺が抱っこしなきゃならねえんだよ」
「……ご、ごめんなさい」
「謝るくらいなら無謀なことはするな」
紗都は状況を把握しきれていない様子だが、俺のほうがよっぽど複雑怪奇な心境にさせられている。
「立てそうかよ。いい加減降ろすぞ」
「うん……」
俄然しおらしくなった紗都は、ふらつくこともなく自分の足で立ち上がってみせた。
はあ……。
逆に俺は後ろ手をつき、その場へベタリと座り込む。
マジで勘弁してくれよな。一緒にいてこいつが怪我でもしようもんなら……道義的責任ってやつを追及されちまうぞ。
「……大丈夫?」
紗都は俺の傍らに屈む姿勢を取り、
「突然、下から突風に煽られてブラシが弾かれたの。うまく操作していたつもりなのに」
申し訳なさそうに俺を見つめながら、言い訳めいたことを口にした。
突風――、風かよ。
……まさか、あの顔ぶれの仕業なのか?
俺は見える範囲で人影を探した。
一般的な近隣住民なら、飛んでる少女を見て目の錯覚で済ますかもしれない。だが、無防備に単座フライトしてりゃ、ヤツらにとっては恰好の的になるだろう。
あたりはすっかり暗くなっており、明暗センサーのおかげか、ポツリポツリと街灯に照らされた箇所だけがほのかに明るいだけだ。
誰もいねえ、か。
ガキの頃と違ってここもすっかり寂れちまったから、人がいれば嫌でも目にはつく。それが、ただの人ならばだ。
恐る恐る起き上がってみると、今度は俺が紗都を見下ろす形となった。
両腕両膝に多少の痛みはあるが、立っていられないほどではなさそうだ。
「あのな、落ちそうになったら自分で浮くくらいのことはできねえのかよ。あれに乗ってないと飛べねえのか?」
こいつはいつ試乗キャンペーンを展開してたんだ。どう考えても家の中じゃ無理だし、火なんか使おうもんなら俺ん家にも被害が及びそうなんだが。
「イメージしてできることとできないことがあるんだけど、今のところは……」
あのホウキに見立てたもんがないと無理ってことか。摂理だか法則もよく解らねえが、思いつきを何でもこなせるのが魔法ってものだろ。
「なんか中途半端なもんばっかだな」
「私はあなたが愚弄していたときより、技術が向上したことを伝えたかっただけなの」
幼稚園で新しいお遊戯が上手にできたと、大人口調で説明したいだけに聞こえるぜ。
そういえば……みたいな表情をした紗都が、何かを捜索するように足元へ目を凝らす。
「……チークブラシが見当たらない」
そこを気にしてる場合かよと思いつつ、
「あれはチートブラシじゃねえか。元のがあれば困らねえんだろ」
「そうなんだけど、もう消えてなくなることはないと思ってたのに」
携帯電話を増やしたときよりは格段に上達したのかもしれないが、
「上から落ちてきて背中に直撃するかと思ったが、運よく直前で消えちまったんだろ。俺も見届けたわけじゃねえからな」
「そう……」
不思議そうな顔を作る紗都が、おもちゃを紛失した子供に見えてくる。
「わざわざ増やすマネなんかしねえで、初めっから自前の筆を振り回してりゃいいだろ。そもそも指から火を出したときなんかノーツールじゃねえか」
「火とかの類いは危険そうだからもう扱ってないの。チークブラシは魔女のアイテムとして所持していたかったから」
玩具メーカーの思惑にまんまと引っかかるタイプだな。
紗都は少し考えるような間を取って、
「元のチークブラシ自体には何の魔法効果もないわ。色々試してみたけれど、実物を大きくしたり形を変えることはできなかったの」
「増やしたもんだけがいじくれるってことか?」
「そう。触ってるものを同じ形のものとして生み出して、それを変質させることは可能みたい」
何だか面倒くせえな。あの連中なんか意味不明の言葉を発すりゃ武器めいたものを出現させたり、パッと消えちまうこともできてたのによ。
「そういや、お前の呪文は何でも『えいっ』で済むのかよ」
「あ、あれは勢いをつけるための単なる掛け声よっ」
「はあ?」
「私は呪文なんて詠唱しなくても魔法が使えるわ」
どういうことだ。ヤツらとは質が違うってことなのか? それとも魔女王なんてふざけた俗称がついてるくらいだから、他のヤツより簡単に駆使できるのか。
それにしては未熟すぎるだろ……。
「な、何よ」
「別に何もねえよ」
ま、やってることはガキが浮かべるレベルの魔法だし、色々試すってのは勉強熱心なこいつらしいか。
すでに魔法という幻想の便利技能は、俺の中で確固たるものへと変わっていた。
このキャリアの浅い魔女の魔法が便利なのかは別として――。
俺は放り出した鞄を拾いに行く前に、
「とにかくだ。使うのはお前の勝手だが、あぶねえマネだけは絶対にするな。魔法で怪我を治せるってなら話は別だがな」
「解ってるわよ。それだってできるようになってみせるわ」
「ふんっ、健闘を祈ってやるよ」
紗都の文句が噴出することを見越して、俺はあえてその言葉を使った。
歩き出したところで、普段より控えめな紗都の声が耳へ入る。
「今日は……私が悪かったわ。もうあなたに迷惑はかけないから」
叱責はなし、か。マジで頼むぜ、優等生様。
俺は鞄を掴むと紗都のほうへ視線を注ぐ。
チークブラシを諦めきれないってな顔をしてたが、お披露目終了ってことで自分の鞄を拾得しにいった。
この調子じゃ、こいつが魔法を悪用するなんてことはありえないだろう。結局俺に見せつけるだけで、何がしたいのかは未だ定かじゃないが――。
「もう帰るぞ」
紗都の返事も聞かず、俺はとっとと足を進める。
問題を起こすとすれば紗都よりも――、あいつらのほうだろう。
こいつが想定して警戒心を向けた相手は、そこらを歩く何の変哲もない一般人だ。やはり別次元の連中を引き寄せてることに気づかせてやるべきなのか?
ガキのときのように、思ったことを口にできりゃさぞ楽なんだろう。
自分に降りかかるだけならまだしも、紗都に正しい回答を明示してやれるほど、今の俺は頭が回らなそうだ。