phase2
翌朝――。
さすがに三日目ともなると身体がこなれてきたのか、多少の余裕を持って――と言っても十分ほどだが――待ち合わせ場所に辿り着いた。
見渡す限り対象の人物はいない。昨日紗都が寄りかかっていた柱に背をつけ、俺は行き交う人の流れをぼんやりと眺める。
特に知った顔はなさそうだった。逢瀬とも呼べない現場を見られて困ることはないが、何だか矛盾した気持ちを押し込めてあるのも正直なとこだ。
それにしても、時間前に着いたとはいえあいつより先になるとはな。最後に仕返しのつもりとでも考えてやがるのか? いや、あの堅物娘はそんな得にもならねえことを発想すらしねえか。
俺の目にパラパラと映っていた制服姿の割合が増えてきた。
待たされるってのはこんな気分になるのか、と腕時計に何度か視線を落とす。
これは初の遅刻シーンってのを拝めるかもな。ついに小言の一つでも浴びせてやる番が到来したか?
何てことはねえか――。
ささやかな期待を裏切り、黒髪をなびかせた紗都が自動改札をスムーズに抜け出て来た。
さてと。誤解を招くような恥辱を受けるのも今日で終わりだ。ちゃっちゃと終わらせて終焉を迎えようぜ。
紗都は俺の存在を探し当てると、盲目的な速度で向かってくる。
「時間前だけど、今日は待たせちゃったみたいね」
微笑さえこぼさず、すぐさま鞄を開きだした。
心なしか覇気とやらを感じないが、朝からハイテンションなのは涼司や前の席の女子でたくさんだ。
俺は鞄をガサゴソとやってる紗都の手元を見ながら、
「たかが三日とはいえ、だいぶ長く感じたぜ。まさか延長戦に突入とかねえよな?」
婉曲に皮肉も込めつつ訊ねる。
「これで終了よ。……そうね、とりあえずあなたには感謝の意を表すわ」
どこかのお偉いさんみてえな言葉使いで喜悦を感じもしねえが、
「それは何よりだ。こんなに視線を浴びるのは、遅刻した教室内だけで充分だからな」
「そう。じゃあ、これね」
周囲を気にかけることもなく、昨日と同じ青に包まれた物をゆっくりと差し出してきた。
条件反射で俺がその頂き物を掴んだときだ。
……何だ?
受け取るだけという単純作業なはずが、なぜか円滑にいかない。
紗都が包みから手を離さず、魂を刈り取られちまったみたいに棒立ちしている。
「どうした?」
虚ろ気味の大ぶりな瞳は俺に向いてるが、遥か遠くを眺めているようにも感じられた。
後ろの柱には何も描かれてなかったはずだよな。振り返って確認なんかしねえけど。
次の瞬間、俺の胸元へ飛び込むように、紗都の華奢な身体が倒れ込んでくる。
「お、おいっ」
思わず受け取った弁当を落としそうになったが、紗都を支えることへ意識を集中させた。
「何なんだよ、いったい」
もれなく、俺たちへの好奇の目ってやつも集中し始めるはずだ。
端から見りゃ人目も憚らず、朝っぱらから抱き合うアホ二人組にでも映ることだろうよ。下手すりゃ痴話喧嘩でもして泣かせたようにも見えるぞ。
だが、紗都は俺の胸に顔を埋めたままリアクションを起こす気配もみせない。
ったく、らしくねえ。らしくねえぞ。このシチュエーションはありえねえだろ。
「罰ゲームなら俺を巻き込まず、一人で裁きを受けろよ」
抗議の言葉と同時に突き放してやろうかと思ったが、どうにも様子がおかしい。このまま身をかわしたら、間違いなくこいつは前のめりに倒れちまう。
シャンプーだか香水の香りを放つだけで声を発することをしないため、
「おい、聞こえてんのか?」
両肩を掴んで距離を取り、紗都の顔を覗き込んでみた。
下向きな顔と前髪のせいで表情などは窺いしれない。本格的にヤバさを感じてきたときに、
「ごめん……ね」
やっと、という感じで謝罪の言葉を漏らすと、今気づいたとばかりにすばやく俺との間隔を広げた。
「ち、ちょっとめまいがしただけ。ここのとこ……遅くまでDVD鑑賞してたからかも」
俺は未だ罰ゲームの一環ということを少々疑いつつも、
「なあ、家に帰ったほうがいいんじゃねえのか? クリンチしなかったら今ごろテンカウントだぜ」
後半は雰囲気で伝わりゃいいって程度だが、前半は的を得るはずだ。いや、紗都に言わせりゃ射る、か。
若干ふらつきながらも紗都は顔を上げると、あからさまに作ったような微笑顔を見せた。
「……大丈夫。学校へ着いたら保健室に寄ってみるから」
「ホントに大丈夫なのか? 無理して――」
「あなたが心配することはないわ」
あーそうかよ。本人が申告してるなら無理強いすることはできねえからな。
「それじゃあね」
弱々しく言うと、紗都はおぼつかない足取りで学校の方角へと向かっていく。
これ以上進展がないと踏んだのか、遠巻きに傍観していたヤツらも物言わず散っていった。
最終日が一番目立っちまうなんて、皮肉すぎるだろ……。
思い出したかのごとく俺の手に広がる生温かい感触が、やけに嫌悪さを感じさせる。
とにかく、これで終わりのゴングが打ち鳴らされたってことでいいんだよな。実は始まりでしたとか、そんなフィクションめいたもんなど俺は望んでねえし。
せめて今日は見失わずにいてやろうと、俺は紗都の後ろ姿を捉え、足早に進みだした。
「ねえねえ、豪ちゃん。眞取っちがまだ来てないみたいだけど、今日はお休みなのかなぁ?」
俺が先に来たってだけでそんな見解かと呆れそうになったが、
「いや、何だかめまいがするとかで保健室へ直行した」
「えーっ、豪ちゃん何でここにいるの……」
鳴世はガタガタデザインのハンドミラーで、大げさに口を押さえてみせる。
三つか四つ言葉が抜けてるようだが、足されたとしても説明を求める気にはならねえな。
俺は紗都が保健室に入るのを見届けると、すぐに自分の教室へ軌道を修正した。
で、席に着くなりこのザマだ。
「ねえねえ、私の傍にずーっといてって言ってなかった?」
「言うわけねえだろ」
ねえねえうるせえヤツだ。お気に入りワードなら、パンダの名前募集にでも送ってみろよ。
「んじゃ、違うのかなぁ。てっきり豪ちゃんだと思ってたよー」
どんな予測をしてたのか探る気さえ起こらない。どうせ見当違いの決めつけだろうし。
「おい、豪。神の手でも悪魔の手でもいいから、腕の立つ医者を紹介してくれ!」
今度はお前か、と空いた右隣の席へ勝手に座っている涼司に顔だけを振り向け、
「やっと頭のぶっ壊れ具合に気づいたのか? 心がけは感心するが、そんな凄腕の知り合いはいねえな。その辺の病院を駆けずり回って好きなだけ診てもらえ」
「自分のことなわけないだろっ。お前は紗都ちゃんが心配じゃないのかよ!」
涼司は足まで踏み鳴らし、抗議を敢行してくる。
言ってるお前のほうが心配だからお勧めしてやったんだがな。
「本人が保健室に行く程度って判断してんだから、俺がとやかく言うことじゃねえ。そんなに気になるならお前が付き添って優しい言葉でもかけてやりゃあいい」
「それはできない! なぜなら自分は紗都ちゃんと会話を交わしたことがないからな」
ここへきて自慢げに宣誓されることじゃないが、確かに紗都の話題を出しくるわりには話しているところを見かけた覚えはない。
「じゃあ、初めてってやつを経験してくりゃいいだろ。これを機にってやつだ」
「な、なんて不埒なことを言うんだっ。眺めてるだけとお近づきになることの間にあるもどかしい恍惚感というのが、豪には理解できないのか? できるわけないか!」
何を勘違いしてるんだか。女みてえに頬を染めてやがるが、話を飛躍させすぎだろ。
手鏡をクルクルと回した鳴世が、
「ほー、涼ちゃんは見かけどおりロマンチストだねっ」
「そ、そうかなぁ!」
馬鹿馬鹿しいったらありゃしねえな……。
机でもひっくり返してやりたい衝迫を抑えつつ、
「なあ。俺の机を介して会話するのは止めて、直でやり取りしてくれ。お前らに陰で何言われようが一向に構わねえから」
「ねえねえ、今日はアレ貰えなかったってことになっちゃったの?」
俺の言葉を素通りさせ、鳴世は強引に話題を振ってくる。
「いーや、受け取った。けどな、今日はここじゃ広げねえからな。お前らに品評されながら食っても味わう気分にゃなれねえし」
「豪っ、それは契約違反だろ!」
「じゃ、今すぐ契約書を見せてみろ。交わしてたとしたらきっちりそれに従ってやる……から」
話途中で意識を奪われたものにより、語尾が不自然にスローダウンしちまった。
俺は横座りに体勢を変えると、正面になった涼司にニヤリとしてみせる。
「おい、涼司。お前が座ってるとこは予約席だったらしいぜ。さっさと自分の席へ戻れよ」
「そんな見え透いた嘘で引き下がるとでも――」
母音の口形のまま涼司は表情を固める。
さすがに気づきやがったか。
三、四年ほど入学する時期が早いんじゃねえかと思えるほど小柄な女子が、情感のない顔をして涼司の居座る場所を指差していた。
「ここなの」
「……おおっ、ごめん!」
相当動揺したのか、涼司は矢でも避けるように飛び退くと、すごすごと居所へ退散していく。
いい気味だな。この女子のおかげでタイミングよく厄介払いができたぜ。
小さな身体に不釣り合いなヘッドフォンとミディアムボブの前髪を僅かに揺らし、右隣の女子はストンと自席へ腰を下ろした。
どんな理由があったのか知らないが、入学から三週間経ってやっとこさご登校って感じのようだ。
俺が正規の位置へ身体の方向を戻すと、
「千代田みふう(ちよだみふう)。通称千代田っちだよー」
目の前のおしゃべり女子が勝手に自己紹介してみせ、
「ねえねえ、千代田っち。入学試験以来だねっ」
顔見知りだというアピールを押し付けつつ、いつものペースで話しかけた。
「お久しぶりなの」
ぽつりと挨拶を返した小さな女子を横目で見やる。
――千代田。そういえば……。
名前を耳にして何となく思い出してきた。あの時は私服だったし、ほんの二言三言の会話だけで顔なんか覚えちゃいなかったが。
そう。昨日の朝、駅のホームで話しかけてきた女子だ。
小学校を卒業したてのガキ……お子様かと思いきや、まさか同級生で隣の席の持ち主だったとはな。
おかげで紗都との約束に遅れちまった、なんて言い掛かりで責めることはしねえけど。
鳴世は俺の机に寄りかかりつつ心底喜んでいるような顔で、
「今日からずーっと学校に来れるの?」
「必然なの」
大きなヘッドフォンを装着したままだが、鳴世の声は聞こえているようだ。
「そっか、そっかぁ。んじゃ、お昼一緒に食べることにしよー」
千代田とかいう女子は黙って前を向いている。
ほとんど初登校みたいなヤツに親切心を向けるのは見上げた行ないだが、何だか事情がありそうだし、誰でもかれでも話に乗ってくるわけじゃないだろ。
って、俺が気にするこっちゃねえか。
「豪ちゃんも一緒に食べる?」
「食わねえよ」
鳴世はニコっと微笑んだあとクルリと背中を見せ、ようやく正しい姿勢へと戻った。
休み時間毎にこれが続くとなると、早期に席替えを希望したほうがいい気がしてくる。
目の前の多弁なヤツと寡黙そうな右隣じゃ喧騒地帯ができることはなさそうだが、何よりおいそれと涼司が座れなくなっちまったことには、隣のニューフェイスに感謝しておこう。
二限目が終わっても紗都は教室に戻ってこなかった。
気にならなかったと言えば嘘になる。が、合間の休み時間に仲の良い圷とかが保健室へ向かっただろうと予測して、俺は顔を出すことに二の足を踏んだ。
変に邪推されるのはお互い望んでいないはずだし、訪ねて本人がいなきゃ無駄足ってだけだからな。
とは言うものの、昼休みが近づくにつれ俺の中でモヤっとした憂色が濃くなっていく。
今朝の様子は身体に異変が起きたんじゃないかと思えるくらい、あいつは精彩を欠いていた。
ったく、まさかここまでが予定調和の罰ゲームなんじゃねえだろうな?
頭では自分とのやり取りは関係ないと思いつつも、誰かに命じられたという架空の大義名分を掲げ、俺は保健室の前へと辿り着く。
小学校以来利用したことがなく、勝手も加減も知らずに扉を開けて中を覗き込んでみる。
キャスター付きの椅子に座った女の養護教諭が、脚でも組んで出迎えてくれるかと思いきや、静まり返った室内に人の姿はなかった。
部屋の左奥に簡素なパイプベッドが設置してある。その隣、薄いベージュのカーテンで仕切られた隙間から同じベッドが目に入った。
そこへ腰掛けたうつむき加減の人物と共に――。
入り口の扉を半開きのままにすると、俺は仕切り布の空いた間隔目指して近づいてみる。
「どうよ、具合は」
俺の問い掛けに、下を向いていた紗都がすっと顔を上げた。
「ご……、あなた何でここに」
その顔は今朝よりも血色がいいように見えた。元々色白なヤツだから紅潮させているようにも思えるが、熱でも出したのか?
「何でって、昼になってもお前が――」
言いかけたところで腕を掴まれ、カーテンの仕切りの中へぐいっと引っ張り込まれる。
「おいっ」
「大きな声出さないで」
ピシャリと告げてくると、同じような擬音で紗都はカーテンを閉じた。
いったい何のマネだ。ガキの頃から認識してたお利口さんてのは間違いだったのか?
紗都はベッドに座りなおすと、すべての意思が詰め込まれたような瞳で俺を仰ぎ見る。
通俗的展開は勘弁してくれよな。俺もお前も入学したばかりなんだからよ。
足が触れ合うほどの近距離で、俺は文句や質問も投げかけることができず、紗都からの言葉を待つしかなかった。
常時見上げるってのは辛いのかもしれないが、ずっと見下ろしてんのもキツイんだぜ。
しばしの沈黙が過ぎたあと、微笑を携えた表情に切り替えた紗都が口を開く。
「私ね、とうとう魔法が使えるようになったの」
「…………」
驚きより先に、とうとうイカレちまったのかと俺は呆れ返る。
「ふんっ、そりゃめでたいな。家に帰ったら赤飯でも炊くといい」
「はぁ……。やっぱり、ご、あなたでも信じてもらえないか。でもね――」
紗都は自分の左手をピストル型に変え、俺に向けて撃つような仕草をみせる。
「おわっ」
「だから、大声出さないでって言ったでしょっ」
いや、魔法だろうが何だろうが、目の前でいきなりそんなもん見せられりゃ言葉の一つくらい上げるってもんだぜ。
信じ難いことに、紗都の指先からライターで灯した程度の炎が揺らいでいた。
「それって……手品か? お前熱くねえのかよ」
「わざわざこんな状況で手品なんか披露すると思う?」
思わねえよ。だからといって魔法とやらに思えるほど俺はガキじゃねえ。
フッと吹き消すマネをすることもなく、紗都の指先から出ていた赤い灯火が消えた。
「やっぱり十秒ほどしか持たないみたいね。さてと、次はこれよ」
せっせと一人芝居を続けるような優等生の左手に、折り畳み式の携帯電話が握られている。
「よく見ててね……えいっ」
紗都が、駆け出しの手品師より劣った素人臭いセリフを吐いた。
なっ――。
という言葉しか、俺には思い浮かべることができなかった。
左手に持っていた携帯電話と瓜二つの物が、右手にも握られていたからだ。
「先に言っておくけど、タネも仕掛けもないわ。これは手品ではなく魔法だから」
紗都は久しく見せていなかった嬉しそうな笑顔を、俺に解禁してみせる。
何が起こった。ミスディレクション? あらかじめ二つ持っていたのか?
……いや、そんな素振りは一切見せなかった。
「ちょっと待て。マジでインチキじゃねえんだろうな」
紗都の右手に手を伸ばそうとした瞬間、増えたと思われるブツが目の前で消えた。
俺は自分の目を疑った。いや、この場合頭を疑ったほうがいいのかもしれない。涼司やこの紗都に勧める前に、俺が医者にかかったほうがいいように思える。
こいつ……ホントに増やしやがったのか。
手持ち無沙汰になった俺は、何気なくズボンのポケットへ手を差し入れた。
おっ。
指先に触れた固い物に気づき、俺に妙案が浮かぶ。それを摘むと紗都の眼前にチラつかせ、無言の催促をしてみる。
「……私が俗物めいたことに応じると思われているのなら見込み違いよ。私利私欲のために使う気なんて毛頭ないから」
だろうな。その点は見込みどおりで安堵に値するが、事実として認識するには荒唐無稽すぎるぜ。
信じられねえ、といった常套句など述べたくもねえが――。
「何でこんなことになっちまったんだ」
疑心を表し、率直に訊ねてみる。
「今は経過よりも結果に感謝するわ。私がずっと、ずーっと願っていたことだから」
超一流のマジシャンなら、素人である俺の目を欺くのも容易いことなのかもしれない。だが、懸命に技術を身につけたのだとしても、紗都が言うようにあえてこの場でお披露目する意味は見出せない。
「って、そんな回答で納得できるわけねえだろ。仮にもその超能力まがいのもんを見せつけられて、ハイ信じますっていう奇特なヤツがいると思うか?」
「超能力じゃなくて魔法なのっ。他の誰かに見せる気はないけど、ご……あたなだけは信じてくれると思っていたのに」
さっきまでの笑顔が消え、対俺用に作られた厳然たる顔つきへとチェンジしている。
確かにガキの頃、こいつが魔法少女なんたらってアニメを熱心に観ていたのは覚えている。よくある少年少女の願望ってやつなのか、当時はそういったものに憧れるのもなんら不思議じゃなかった。今の紗都からは想像もできないが、時折その話題になると急に子供めいた思考になっちまうこともあったような気がする。
生真面目で折り目正しい裏に、未だガキくさい夢を持ち続けていたとはな。
ただ、それとこれとは話が別だ。
「百歩譲ったとしても、思い焦がれるだけで魔法少女だかになっちまうわけねえだろうが」
「……魔法少女?」
紗都はスクっと立ち上がると、声を潜めながら俺へ言い立てる。
「そんな呼ばれ方は心外の至りね。憧れを抱いたこともないし、感銘を受けた記憶さえないわ」
じゃあ、お前の突拍子もない所作は何を願った末なんだ、と訊ねようとしたところで、
「私はね……、魔女になったのよ」
――魔女。
あれは確か、小学校低学年の頃だったと思う――。
朝から自宅近くの公園にいた俺たち二人は、見逃せないテレビがあると言い出した紗都の家へ急遽戻ることした。
「間に合ってよかった」
紗都は近すぎだろといった距離で、目を輝かせながらテレビ画面を見つめだす。
赤や黄色や青といった派手派手しいコスチュームに身を包む少女たちが、軽快な曲と共に登場するオープニングが始まった。
こんなのどこが面白いんだか。バイクも出てこないしさ。
少女向けアニメなんかに興味のない俺は、ソファーの上で適当に眺めつつ、ガラステーブルに乗った菓子類を減らしていった。
『志半ばにして倒れた仲間二人の魂は、わたくしたちの中で生き続けています。ここに残った者の力を合わせ、必ずあなたを倒してみせましょう』
『そうそう、魔女がいなくなればこの世界は平和になるしっ』
『無用の長物なの』
紆余曲折を経て、物語も佳境に入ったようだった。
『お待たせしました。愛を振りまく正義の執行者、魔法少女団レ――』
「これってさ」
「ちょっと黙ってて」
紗都は画面から目を離さず、俺に注意を促す。
身を乗り出して観るほど夢中になってんのか。最後にバイクに乗ったヤツが登場すれば盛り上がるのにな。
『フフッ、何人か集まれば私に勝てると思ってるようね』
黒い布切れを被った魔女が目を光らせて言った。
『正義は絶対に負けません。最終超結合魔法ヴァ――』
これで悪の親玉も終わりか、と俺はソファーに寝っ転がって天井を見つめる。
昼ご飯は何だろうと、のんきに好物なんかを浮かべてたときだ。
「私、魔女になるっ」
え?
テレビからの声じゃなく、出し抜けに紗都が叫びだした。
「大きくなったら魔女になるわ」
「何言ってんだよ。そんなのなれるわけないだろ。それに、魔女は悪者なんだぜ」
「だって……相手は一人しかいないのに、大勢で戦うなんてずるいじゃない。魔女がかわいそう」
かわいそうって、作られた物語なのに。
俺は冷めた目で見つつも、
「こういうのって、普通は魔法使いの女の子たちを味方するんじゃないのか」
「私は一人で頑張るほうを応援してたのに……」
紗都はテレビから離れると俺のほうへ駆け寄り、
「だからね、魔女の仇をとってあげるの。私が魔法を使えるようになって、誰にも負けないくらい強くなればいいのよ。相手が何人いようがね」
名案でしょ、と言わんばかりに嬉しそうな笑顔をみせた。
「女は強くなくてもいいんだよ」
「でも、このアニメだって男の人は活躍していないし、いつか私より背の低い豪ちゃんでさえ守れるほど強い魔女になってみせるから」
「……お、大人になったらな、紗都なんて見下ろすくらい背が伸びてるんだよ!」
「そうなるといいね」
ニコリとして言い置くと、紗都は部屋から出ていってしまった。
ちぇっ、背が低いったって一センチくらいしか違わないのに。ちゃん付けで呼ばれるのも恰好悪いから、そろそろ止めるように言わなきゃな。
点けっぱなしのテレビには、魔女が独り言を話すシーンが映し出されている。どうやら紗都は最後まで見る気をなくしたらしい。
あんなに急いで帰って来たのに、意味ないじゃんか――。
「まあ、いっか」
俺は魔女の独白を意味も解らず耳にしつつ、とにかく魔法でも何でもいいから背が伸びて欲しいと切に願っていた。
「思い出してくれたかしら」
ああ。朝っぱらに公園で何をしてたのかは忘れちまったが、お前のひん曲がったベクトルと自分自身のことはな。
俺は目線だけをやや下げると、凛とした大きな瞳に向け、
「幸いなことに俺の身長は希望どおりのものになったが、斜め上をいったお前の願望まで叶っちまったというのか?」
「そうよ」
紗都は自信満々な顔をして返答しやがった。続けて、
「そもそも魔法少女と認知される年齢ではないし、名乗るにも無理があるわ」
魔女とやらなら何歳でもOKだってのか? そんな定義なんか知りもしないが、真面目な顔して語る内容や歳でもないだろ。
「お前の冗談なんか聞いたこともねえが、マジで笑えねえよ」
「冗談のつもりなんかパウダーファンデの一粒ほどもないわ。人の夢を笑わないと言うのなら、心情としては正しいけど」
むしろ呆れて笑いが込み上げてきそうだった。
ったく、半歩進んだらぶつかっちまう距離で俺らは何を話してるんだか。
俺は現実的な面に切り込んでみようと思い、
「解った、解った。じゃ、さっきよりさらに何歩か譲ったとしよう」
「何よ」
「お前が使えると言い出したもんだがな、あんなショボイやつ何の役に立つっていうんだ」
タバコを吸うときに便利でしょ? とか言い出さねえよな、優等生様。
「い、今はあの程度かもしれないけど、次第に……凄くなっていくのよっ」
急激に発熱でもしたかのように、紗都は顔を上気させる。
「お前らしくもない抽象的な表現だな。今の質問は琴線に触れたか」
「それを言うなら逆鱗に触れたよ」
「ふんっ。いっそのこと、それに特化した学校へ入学し直したらどうだ? ま、そんなけったいなとこがあればの話だけどな」
「何事も初めが肝心でしょ。無だったものが有になっただけでも遂行した甲斐が――」
「はーい、そこまでにしましょう」
という艶美な声とともに、俺の背後でカーテンの開く音がした。
心臓がバクンと高鳴る。だが、恋するといったそんなメルヘンチックなもんじゃねえ。
即座に振り返ると、セットするのに時間がかかりそうなウェーブヘアを揺り動かし、魅惑的に微笑む美人顔がそこにあった。
「初めてはとても大切なことだけど、あなたたちはもう少しだけ大人になってから、ね」
最悪だろ――。
「いや、これは……」
「ふふっ、ちょっと大袈裟に言ってみただけよ」
白衣を纏った女の養護教諭は俺の鼻先にちょんと触れ、
「ねっ、眞取さん。そんなことをする生徒さんじゃないものね」
自然と俺の背中に隠れちまったベッドの利用者へ告げる。
紗都は慌てた様子もなく俺の横へ並ぶと、
「少し込み入った話をしていたもので、場所を弁えずに申し訳ありませんでした」
軽くお辞儀までしてみせた。
何だか俺だけが非常識な行ないをしてたようで腑に落ちないが、紗都の信用度の高さによってお咎めなしといったところか。
「マジで調子悪いならさっさと病院にでも行けよ。じゃあな」
俺は気まずさもあってか布に囲まれた密室から脱出し、そそくさと入ってきた扉を目指す。
「眞取さん、少しは具合良くなったかしら?」
「はい。休ませていただいたおかげで午後からは授業に出席できそうです」
「そう、ならよかったわ。ってことみたいよー、心配で見に来てくれた……男の子くん」
と、艶かしい大人は途中で矛先を俺に変えた。
「そりゃ、喜ばしいことだな」
自分でも心にもない物言いだと思ったが、これ以上話すことも返答スキルもなかったため、紗都を残したまま部屋を退出した。