親友と恋人の間
「ねぇ? 聞いてる?」
「はい、はい……聞いてる」
「ぜーったい、嘘! 雄一郎がそんな返事をする時は、いっつも心ここに在らずだもの」
酔っている為に、いつもよりも舌足らずな口調で、親友である雄一郎に絡んだ。
「杏……お前、飲みすぎだろ」
絡まれて不機嫌になった雄一郎は、私を睨むように見ながら忠告した。
だけどすっかり酔って気分が良い私は、そんな彼の言葉にも動じずに更に絡み始めた。
「ぜーんぜんっ! 酔ってなんかいませんよぉ。それを言うなら雄一郎は、全くと言っていい位飲んでないじゃない」
私は先程から全く減らない、雄一郎のビールジョッキを指差して叫んだ。
「飲めるかっ! お前がこんなに酔っぱらうから、俺が素面でなければまともに帰れなくなるんだぞ」
「平気だよぉ ねぇ、一緒に飲もうよ。私の『失恋祝い』なんだからさ」
そう言って、新たに持って来て貰ったビールジョッキを雄一郎に差し出す。
「杏! お前、いい加減にしろ!」
うんざりした表情の雄一郎は、私からジョッキを取り上げるとテーブルに置いた。
「なぁ……あんな奴の為に、お前が傷付く必要なんてないんだぞ」
雄一郎が私の目を見ながらそう告げた。
「あんな奴……杏よりも人妻の方を選ぶ男なんてお前に似合わない」
「……その話はもうしないで」
私は雄一郎にそう言うと、自分のグラスからお酒を一気にあおった。
そう---私、桜井杏珠は、付き合って半年余りの恋人と人妻の逢瀬の場面に、鉢合わせをしてしまった。
たまたま残業がなくなった私は、久し振りに彼のマンションに行った。そこで彼の寝室にいた2人を見てしまったのだ。
何も言えずにいた私に、彼は『君との事は彼女との関係をカモフラージュする為』だと言った。彼女は同僚の奥さんと言う事だった。
相手の女性は私という存在を知らなかったらしく、驚いた顔をして慌てて帰り支度を始めた。
しかし彼はそんな彼女を引き留めた。
「放して! 彼女がいるならもう私とは会わない方がいいわ」
「嫌だ。やっと君を手に入れたんだ。他には何もいらない」
2人のやり取りを見ていた私は、この場に自分は居てはいけないと気づき、そっとマンションから出たのだ。
そして、携帯を手にすると親友の雄一郎を呼び出した。
塚田雄一郎---高校の同級生で、当時から何故か気が合い、現在でも時間があれば食事をしながら仕事やプライベートの愚痴を聞いてもらっている。本当に大切な親友。
突然の呼び出しにも関わらず、彼は二つ返事で来てくれた。
そして今、2人で---まぁ私だけかもしれないが、酒盛りをして盛り上がっている。
「……ねぇ、雄一郎。私ね……不思議な事に、彼が他の女の人といたのを見ても悲しくないの」
「お前…負け惜しみも大概にしろよ」
こちらを訝しげに見る彼に、にっこりと微笑んだ。
「……負け惜しみじゃないよ。2人が一緒の所を見ても驚いただけで、怒りも湧かなかったし悲しくもなかった」
「杏……」
「逆にホッとしたの。彼が私に対して素っ気なかった理由が解って……私が仕事が忙しいからかと思ってたから、後ろめたかったし」
そう言うと、私は雄一郎の方を見た。
彼はどう答えていいか判らないといった表情で、私を見ていた。
「それにね……私は彼の事よりも寧ろ、雄一郎が私の為に急に呼び出したにも関わらず、来てくれた事の方が嬉しかった---ありがとう、雄一郎」
言いたい事を言えた安心感からか、私は酔いが急に回ってきた事に気づいた。
そんな私の様子に、雄一郎はすばやく会計を済ませると、私を支えながらタクシーを拾い私の部屋まで送ってくれた。
「おい……杏! 起きろ、着いたぞ」
「う…ん、あ、ごめん。降ります」
慌ててタクシーから降りた私は、ふらつく足で部屋に帰ろうと歩き出した。
すると、後ろから身体を抱き寄せられた。
いきなりでビクッと身体が硬直した私の耳元で、聞きなれた声が囁いた。
「こらっ! 勝手に先に行くな。足元が覚束ないくせに---転んだらどうすんだ」
「雄一郎? 何で…帰ったんじゃ?」
「こんなにふらつくお前を、1人で帰すわけないだろうが。部屋まで送り届けるよ」
「大丈夫だよ。酔ってなんかない」
「どこがっ? こんなにふらふらしてるくせに。見てて危なっかしいぞ」
そう言って更に私の身体を引き寄せる。雄一郎との距離が凄い近い。密着していると言っても過言ではないと思うのは気のせい?
「あ、あの……雄一郎?」
恐る恐る私が問いかけると、雄一郎は首を傾げてこちらを見た---っていうか、顔近いんですけど。
「何だ?」
「その…ですね、気のせいか凄く距離が近いと思うんだけど……」
躊躇いがちに告げると、雄一郎は眉間に皺を寄せた。
「こんなに酔っぱらったお前を支えるんだ。近くても文句言われる筋合いはないぞ」
そう言うと私を抱きかかえる様にして、彼は部屋まで送ってくれた。
部屋の鍵を開けて中に入ると、雄一郎は私を奥のベッドへと運んでくれた。
ベッドに腰掛けると安心したのか、完全に酔いが回った様な気がした。
「水、飲むか?」
私が頷くと、雄一郎はコップに水を注いできて差し出した。
「ありがとう」
お礼を言ってそれを受け取ると、私はゆっくりとそれを飲み干した。
「雄一郎…今日はありがとう。もう大丈夫だから、私」
そう言って彼を見上げると、何故か彼は怒った表情をしていた。
「雄一郎? どうしたの?」
首を傾げた私に、彼は呟いた。
「……もう、やめた」
何が? と、問いかける間もなく、私の視界いっぱいに彼の顔が近づいたと思った瞬間---私の唇を彼の唇が塞いだ。
「ゆうい…っ、んっ---いや…っ」
咄嗟に逃げようとするが、私の後頭部に雄一郎の手が添えられていて離れることが出来ない。
声を出そうと口を開こうとしたのが---間違いだった。
その隙をついて、彼の舌が私の口腔内を侵食していく。
彼の舌は私の舌を捕え、優しく味わう様に絡め取っていく。
酔いも手伝ってだと思いたい---けど、私もいつの間にか彼のキスに夢中で応えていた。
「……杏」
艶めかしい声に我に返ると、目の前にいるのはいつもの優しい親友ではない---私を惑わす程の色香を纏った男だった。
そんな彼を見たのは初めてで、私はその時、背筋に戦慄が走るのを感じた。
「い、嫌……帰って! 私はこんな事したくなかった。雄一郎とは親友だと思ってたのに!」
自ら応えてしまった自分を恥ずかしいと思っている部分もあったけど、いつもとは違う彼の視線が怖かった。
「杏…俺は---」
何か言おうとした彼を私は遮った。
「もう、親友なんかじゃない! 信用してたのに、大事な友達だと思ってたのに。もう会わないから……絶交よ」
私の言葉に雄一郎は何も言う事はせず、無言で部屋を出て行った。
1人残った私は親友を失った悲しみに、涙が溢れてきた。
「うわぁ……最悪!」
翌朝---目を覚まして鏡を見ると、泣きながら眠ってしまったせいで目が腫れた自分の顔があった。
「良かった……今日、休みで」
腫れた目を濡れタオルで冷やしながら、朝食を摂る。
午前中、掃除や洗濯を済ませて、午後はのんびりとその日1日過ごした。
夕方になった頃、携帯にメールが入った。
---昨日はごめん---
開くと、雄一郎からのメッセージだった。
言い訳もなくただ謝罪だけのシンプルなメール。彼の性格を表しているなと思うが、どう答えていいのか分からなかったので返事は返さなかった。
それから1週間。
あの日から夜には決まって、雄一郎からの謝罪メールが入る様になった。
だけど、返事はまだ1度も返していない。
今の私は怒ってるのとは少し違っていて、気まずいという思いの方が近い様な気がする。
親友と思っていた彼とのキス---時間が経つ毎にどんどん鮮明に思い出されて、恥かしさの余り身悶えしてしまう。
いくら酔ってたとはいえ、応えてしまったんだから一方的に彼だけを責めるのはおかしい。分かってはいるんだけど、今更どう言っていいのかタイミングを掴み損なってしまった。
どうしよう? 絶交なんて言ってしまったから、このままだと本当に会えなくなってしまう。
そう思った瞬間、ズキッと胸が痛んだ。
---杏、まだ怒ってるのか? ごめん、どうしたら許してくれる?---
メールの文を見ながら、私はため息を吐いた。
返事をしようと返信のボタンを押して画面を開く。だけど、指が動かなかった。
何て書けばいいの?
結局返事は送れないまま、私は携帯を閉じた。
あれから1か月余り経った。
雄一郎からは毎日メールが届くが、私は完全に返信するタイミングを失った為に、身動きが取れなくなっていた。
「杏珠---」
ある日、仕事が終わって会社を出たところで声を掛けられた。振り返るとそこには別れた彼が立っていた。
「佐藤さん……どうしたんですか?」
私が名前を呼ぶと、彼は微かに笑みを浮かべた。
「良かった---無視されたらどうしようと思ってたから」
「そんな事しませんよ」
「ここじゃなんだから、場所変えないか? 話がしたいんだ」
佐藤さんはそう言うと、私を近くの喫茶店へと連れて行った。
コーヒーを注文し落ち着くと、不意に彼は口火をきった。
「杏珠、この前はごめん。今更だけど、どうしても謝りたかったんだ」
「もう……いいです」
「怒ってないのか?」
「いいえ……ただ、佐藤さんが私の事、好きじゃないのは薄々感じてましたし、彼女を見た時---なんか納得してしまっていたんで」
「そうか……彼女とは学生時代からの友人で、ずっと友達だと思ってた……いや、そう言って誤魔化してたんだ。だけど彼女が結婚しても諦めきれなくて、ダメもとで告白したら彼女も俺の事を……だからもう離れたくないんだ」
「どうするんですか? このまま……続けるんですか?」
私の問いに佐藤さんの表情が変わった。
「彼女……旦那に俺達の事話すって言ってる。俺も一緒に話すつもりだ。たぶん会社にもいれなくなるとは思ってる。それでももう彼女を失うのは嫌なんだ」
私に話す佐藤さんの表情は、吹っ切れた様な明るい表情だった。
「そうですか……大変だとは思うけど頑張って下さい」
「ありがとう、杏珠にそんな風に言って貰えるなんて思ってなかった。罵倒されるのを覚悟で来たんだ。本当に君にはひどい事をした。ごめん、どうか杏珠も幸せになってくれ」
佐藤さんはそう言うと、店を出て行った。
私は冷めたコーヒーを飲みながら、考えていた。
佐藤さんを見ても何の感情も湧かなかった。
寧ろ今は、彼女と幸せになってくれたら良いとさえ思ってる。
それに今日、佐藤さんが現れるまで彼の事を忘れていた---そう、この1カ月余り、私の頭の中を占めてたのは、彼ではなく雄一郎だったと言う事実に気づき愕然とした。
喫茶店を出て、帰宅する為に駅に向かう。
目的の電車に乗り込んで空席を見つけると、そこへ座り再び物思いに耽る。
私は雄一郎の事をどう思ってるの?
佐藤さんが私の事を好きではないと知っても、胸は痛まなかった。
でも雄一郎とは私が絶交した為に、友達として会うことが出来なくなるかもと思ったら、悲しくなった。
それって雄一郎が、佐藤さんより大切な存在って事?
でも……キスされた時の雄一郎が、怖かったのは事実。また、同じ事が起こったらと思うと、私は彼に会うのが怖い。だから、返事を躊躇っている---でも、彼に会いたい。
そんな事を考えながら、部屋に帰った。
もしも今日、雄一郎からメールが入ったら返信しよう---そう決心して、彼からのメールを緊張しながら待った。
だけどその日を境に---雄一郎からのメールは全く来なくなった。
雄一郎からメールが来なくなって1週間が経った。
今更、自分からメールを送る事も出来ずに、悶々と悩む日々を過ごしていた。
そして週末---1人で夕食を食べようと料理をしている時、携帯が鳴った。
雄一郎からかも……そう思った私は、慌てて携帯を手にした。
「はいっ、桜井ですっ!」
「杏珠? 何、どうしたの? 凄い焦ってない?」
電話の向こうの相手が驚いた様に、話し掛けてきた。
「え? この声は……沙紀?」
「そう! え、誰かの電話待ってた? ごめん、掛け直そうか?」
「ううん! 大丈夫。何、どうしたの? 珍しいね」
幼馴染みの沙紀は、昨年結婚したばかりの新婚さんだ。旦那さんに遠慮して、昔の様にはなかなか一緒に遊びに行けないし、電話をかけるのも躊躇してしまう。
だから、沙紀から電話なんて驚いた。
「ねぇ、杏珠。今日ヒマ?」
「うん、今、夕飯作ってたんだけど」
「ホント? じゃ、今から杏珠ん家に行っていい? 出来ればお泊りしたいんだけど……」
「沙紀? 何、旦那さんと喧嘩したの?」
泊るなんて---何かあったのだろうか?
そんな私の心配をよそに、沙紀が笑い出した。
「違う、違う! 今日から彼、海外に2週間ほど出張なの。だから久々に自由を満喫したくて」
「あぁ……そう言う事! もう、驚かさないでよ」
「何で? 杏珠が勝手に誤解したんじゃない。じゃ、今から行ってもいい?」
「うん、いいよ。沙紀、ご飯は?」
「あ、まだだけど」
「じゃ、沙紀の分も作っとくね」
「うわぁ、誰かに作って貰うの久しぶりだから嬉しい。楽しみにしてるね。それじゃ、あとで」
そう言うと、沙紀は電話をきった。
私は2人分の食事を作る為に、再び台所へと戻った。
「結婚式の時以来だから……1年振りくらいだよね」
「そうだね、杏珠は全然変わらないね。どう? 彼氏とは?」
沙紀には、前に電話で彼氏が出来たと報告したんだった。
「それがね……つい最近、別れたの」
「はぁ? 何で!」
私は驚いている沙紀にその理由を話した。
「何よ、それっ! 杏珠の事、馬鹿にしてる! 杏珠! あんた何で、もっと怒らなかったのっ!」
私の話を聞き終えた沙紀は、怒り心頭だった。
「いやぁ……私もそこまで真剣に、彼の事好きだった訳ではないし……」
「はぁっ? 杏珠、あんた好きでもない男と付き合ってたの?」
今度は呆れたように私を見ている。
「好き……ではあったよ。良い人だなって思ってたし、付き合おうって言われた時も嬉しかった」
「だったら……」
「うん、何て言うか……会ってない時はホントに彼の事、思い出すことがあまり無かったんだよね---普通、好きだったら『今、何してるかな? 声、聞きたいな』なんて、思うじゃない?」
「そうねぇ、会いたいなぁとか思うわね。普通---杏珠、無かったんだ?」
「今、思えば……無かった。私って冷めてるのかな」
沙紀は同情するような目つきで私を見た。
「って言うか、あんた……ホントに好きな人が、今までいなかったんじゃないの? 思えば、昔からどこか冷めた感じがあったよね? みんなが恋バナで盛り上がってても、1人淡々としてたし」
「そうだっけ?」
「そうでした! ---あっ、そういえば、この前買い物に出掛けた時、雄一郎を見かけたわ。それもっ! すっごい可愛い子と一緒でさぁ、宝石店で仲良さそうに指輪なんて見てたよ。彼女かな? 指輪って事は結婚かもしれないね---杏珠、何か聞いてないの? あんた達、仲良かったじゃない」
沙紀の話は、私にかなりのショックを与えた。勿論、面には出さなかった……つもりだけど。
「ううん、何も聞いてない……最近は会ってないし」
「そうなんだぁ……でも、近いうちに、おめでたい話があるかもね!」
沙紀はそう言うと、持ってきた映画のDVDソフトを見る為、プレーヤーにセットし始めた。
私は、雄一郎が一緒だったという女の子が気になって、映画の内容は全く頭に入ってこなかった。
翌日は沙紀と一緒に、ランチや買い物をして1日過ごした。そして夕方、彼女は家へ帰って行った。
沙紀と駅で別れ、1人で部屋に帰ってくると思い出すのは、昨日の彼女の言葉だった。
--- 雄一郎が可愛い子と一緒だった ---
誰? 本当に彼女なら、何であの時、一言も言わなかったんだろう。
それに、彼女がいるのに何故、私にキスしたの?
私は答えが出ない疑問に、1人で悶々と悩んでいた。
このまま悩んでいたって、仕様がないと思った私はメールを送ろうと携帯を手にした。
だけど何て送る?『沙紀が彼女と一緒の所、見たんだって』って---今まで雄一郎からのメール無視しといて、この返信はいくら何でも酷いよね。
電話は---何から話していいか分からない。
やっぱり、直接会って話した方がいいよね。メール無視しちゃった事も謝りたいし……それに彼女の事も知りたい。
私は決心すると部屋を出て、雄一郎の家に向かった。
雄一郎のマンションの部屋の前まで来て、私は躊躇っていた。
--- 何から言えばいいんだろう ---
部屋の前で立ち尽くしていた私の背後から、聞き慣れた声がした。
「……杏?」
驚いて振り返ると、コンビニのレジ袋を手にぶら下げた雄一郎がこちらを見ていた。
「雄一郎」
「何……してるんだ? ここで」
「あ…あのね、メールが来なくなったから、その……何かあったのかと思って」
私が躊躇いながら答えると、冷ややかな声が返ってきた。
「今更……何なんだよ、もういいよ」
そう言うと、私の横をすり抜けて部屋に入ろうとした。
「雄一郎、待って」
私は縋る様に彼に呼び掛けた。
そんな私の声に、ドアを開けようとした雄一郎の手が止まる。
私は更に言葉を続けた。
「あの……メール、返信しなくてゴメン。何て返していいか判らなくて」
「だから、もういいよ! 用が済んだなら帰れよ---もう2度と電話もメールもしないから、安心しろ。望み通り絶交してやるから」
私の方に背を向けて、雄一郎は言った。そして部屋のドアを開く。
「私っ……は、雄一郎ともう1度『親友』に戻りたいの。絶交って言った事、謝るから……」
私は必死の思いで、彼の背中に向かって訴える。それでも彼は振り向かない。
---あぁ、もう駄目なのかな?
目の前の雄一郎が涙で霞む。
「もう……いい加減、嫌なんだよ」
こちらに背を向けたまま、雄一郎が呟いた。その言葉に胸が痛んだ。
「……そ…うだよね…いつも突然呼び出して愚痴を聞いてもらったりしてるのに---キスしたのだって何回も謝ってくれてたのに……私が許さなかったんだもんね。ホント……こんな自分勝手な女、友達にもしたくないよね? でも、私は雄一郎の事、親友として大好きだったよ……本当に今までごめんなさい!」
私は思っていた事を言うと、そのまま帰ろうと踵を返した。
そして、立ち去ろうとした私の腕が、力強く引っ張られた。
「杏!」
「っ……雄一郎?」
後ろから抱きしめられる形で、私は雄一郎の腕の中にいた。
「杏……ごめん、俺……頼む、きちんと話がしたいんだ」
耳もとで彼が懇願した。
いつもと違う彼の声音に、心臓が大きく跳ねた。私はただ頷くしか出来なかった。
すると雄一郎は、ゆっくりと私の身体から腕を解くと自分の部屋へと招き入れた。
「そこへ座って……」
雄一郎はリビングにあるソファを指差して、台所へと向かった。
私は言われるままに、そのソファへと座った。
「ほら、水」
「ありがとう……」
コップに注いだ水を受け取ると一口飲む。
その後、2人の間に沈黙が続いた。
どの位経った頃だろう---不意に雄一郎が口を開いた。
「また……あいつと喧嘩でもしたのか?」
「は?」
思いがけない質問に、私は思わず間抜けな返事を返してしまった。
そんな私に、雄一郎は顔を顰めた。
「仲直りしたんだろう? それなのに、また俺の所くるなんて……今度はどんな喧嘩だ?」
「な……何、言ってるの? 雄一郎」
「この前、お前と彼氏が仲良さそうに、喫茶店に入って行く所を見たんだよっ! 良かったじゃないか、縒りが戻って………だから、お前は俺に返事くれなかったんだろ? なのに、今度は何があったんだ?」
雄一郎は苦しげな表情で、私に問いかけた。
私は彼の言っている話の内容が、あまりにも事実と違う為、どう返事をしていいのか迷っていた。
「俺に会いに来るって事は、また彼氏と何かあったから愚痴を聞いて欲しいんだろ? いいよ、聞いてやるよ。その代わりこれが最後だ! 今日で、お前とは『親友』を辞める」
「何で? そんなに私と『親友』でいるのが嫌になったの?」
胸が痛む---どうしたら、彼は今まで通り私と会ってくれるのだろう。
「嫌になったとかじゃない……俺は元々最初からお前と『親友』になったつもりはないよ」
「それって……私の事、友達とも思ってなかったって事? なら……何で、いつも付き合ってくれてたの? 嫌なら断ればいいじゃない! 私だけが友達だと思ってたなんて」
私の一人相撲だったんだ……
雄一郎の顔を見る事も辛くて、私が帰ろうと立ち上がると雄一郎が行く手を塞いだ。
「どいてよっ! 友達でもない奴を部屋に入れたくないでしょ? ごめんね、勝手に友達のつもりでいて、迷惑なのも知らないで」
そう言って横を通り抜けようとした私の腕を掴んで引き留めた。
「待てよ! 誰が迷惑なんて言った? 俺はお前と一緒にいるのが凄く楽しかったんだぞ」
「だったら……何で?」
雄一郎を見上げながら、問いかける私の目に涙が溢れてきた。
「俺は……高校の頃から、杏の事が好きだったんだ。でも、お前は俺の事を男としては見ていなかった。それなら『親友』という立場ででも、傍に居たかったんだ……でも、もう限界だ。お前が他の男と一緒に居るのを見るのは辛すぎる……」
「嘘っ……そんな訳ないっ」
思いがけない雄一郎の告白に、つい否定の言葉が零れた。
「杏……?」
「……彼女がいるのにそんな事言わないでよ!」
「はぁ?」
私の言葉に、雄一郎は驚いた様な声を出した。
「彼女? いる訳ないだろう。杏の事が好きなのに」
「だって……沙紀が……」
「沙紀? 何で沙紀が出てくるんだよ」
眉間に皺を寄せて雄一郎が私を見た。
「だって……沙紀が見たって…雄一郎が女の子と一緒に指輪を選んでたって……」
「指輪って……あっ!」
そう叫ぶと、雄一郎は安堵の表情になった。
「あぁ……あの時か。沙紀に見られてたんだ」
「雄一郎?」
私の呼びかけに、彼は微かに微笑んだ。そして、寝室の方へ向かった。
その後姿を私は見つめていたけど、ソファからは動けないまま雄一郎が戻って来るまでじっと待っていた。
しばらくして、寝室から出て来た彼は私の隣に座ると、手にしていた小さいギフト箱を私に手渡した。
「これ……渡したら杏に言うつもりだったんだ。開けてくれ」
促されて私は箱を開けた---中には小さなピンクの石が付いた金色の指輪が入っていた。
「杏……いや、杏珠。俺はお前が好きだ。お前が俺の事を男として見ていないのも知っている。だけど、あの男にはお前を渡したくない。あんなお前よりも人妻を選ぶような奴なんて駄目だ。時間がかかってもいいから、俺とその……結婚を前提に付き合ってほしいんだ。駄目か?」
真剣な目で私を見つめる雄一郎---だけど……
「……… 一緒にいた女の子は?」
どうしても気になってしまう。私の知らない女の子……
上目使いで見る私に、雄一郎は何でも無い事の様にさらっと答えた。
「あぁ……あれは妹の菜々美だよ」
「え? 菜々美ちゃん?」
確か、菜々美ちゃんって高校生だよね? 年が離れている妹がいるって昔言ってたのを思い出した。
「俺が指輪を買いたいから選ぶの手伝えって言ったら、面白がってついて来た。まさか……それを見られてたとは。お蔭であいつの分も買わされたよ」
参ったといった表情で話す雄一郎に、思わず笑みが零れてしまった。
「菜々美が会いたがってたよ---俺がこんなに真剣になる相手に興味があるって……今度会わせてやるよ」
「あ、あの……私?」
「お前なぁ、もういい加減、信じろよ。俺は本気でお前が好きなんだ---お前も本気で考えてくれよ」
真剣な目で私を見つめてくる雄一郎に、思わず顔が赤くなってきた。
「は…い、だけど、いきなりそんな事言われても……お願い、少し時間を頂戴」
「いいよ、もう何年も待ったんだ。今更慌てないよ---だけど、いい返事を期待してるから」
そう言って、私の左手の薬指に指輪を嵌める。
「え、ち、ちょっと! 待ってよ」
慌てて指輪を抜こうとする私の手を掴むと、雄一郎は私の耳元で囁いた。
「それは、杏珠のものだ」
「だって! まだ返事してない」
「返事がどうであろうと、その指輪はお前にしかやるつもりはないから……そのまま嵌めててくれ」
雄一郎は色気のある眼差しで私を見つめる。
---うっ、私ってば、雄一郎のこんな顔に弱いかも。顔が赤くなっているのがわかる!---
彼もそんな私の様子に気づいたみたいで、更にこんな事を言ってきた。
「それに、今回は簡単には諦めないからな……1回や2回、断られたって、お前を誘惑するよ。『親友』の立場は返上するからな。そこの所は覚悟してろよ。絶対あの男には渡さない」
「……そう言えば…何で、私と佐藤さんが会った事、雄一郎が知ってるの?」
そうよ、さっき『一緒にいるのを見た』って---って、事は……
「私……に、会いに来てくれたの? あの日」
私の言葉に、きまり悪そうに雄一郎がそっぽを向いた。
「そうだよ……あの日、全然返事をくれないから、直接会って謝ろうと、お前の会社の前で待ってた。そしたら目の前であいつがお前を連れて行ってしまったんだよ」
「だから……あれからメールくれなくなったの?」
「あぁ……仲直りしたと思ったから、これ以上は割り込めないと思って……でも、やっぱり諦めたくないんだ。杏」
「佐藤さんとは、あの日ちゃんと別れたよ……彼、彼女と一緒になるんだって。彼女の旦那さんにも話をするって言ってた」
「それじゃ……」
雄一郎はまじまじと私を見つめてきた。
「だから、今は悲しい独り身です」
そう言って、苦笑してみせた。
「杏!」
「うわっ! ちょっと、雄一郎! 離してっ」
いきなり抱き付かれて、私は離れようと身を捩った。
「そうと判ったら、もう待たない!」
「いや、待って下さい。私にも心の準備が…」
「今更、心の準備って……俺達、何年も一緒にいたんだぞ。性格や癖、食の好みも知り尽くしてる。あとは身体の相性位だろ? 知らないのって」
今、何て言った? 雄一郎?
「まぁ、そっちも相性は良いって思ってるけど……俺は」
満面の笑みで私を押し倒そうとする雄一郎を押し留める。
「お願い! 今はまだ『親友』でしょ? まだ『彼』って認めてないわよ、私」
「……杏、判ったよ。でも少しは期待していいんだよな?」
窺う様に彼が私を見つめる。その表情を愛しいと感じている……私、やっぱり雄一郎の事、好きなんだろうか。
本当はこのまま流されてもいいかな? と、心のどこかで思っているけど、雄一郎の思い通りに事が進むのは何か癪に障る。
だから、今日はまだ『親友』のままで。
「そうねぇ」
考える様に首を傾げながら、悪戯っぽく彼を見つめる。
そして雄一郎を引き寄せると、彼の唇に自ら口づけをする。
「……っ!」
息を呑む気配---その後は、やはりと言っていい……雄一郎に主導権を握られてしまった。
でも、この前の様な恐怖感はない。寧ろ、居心地が良い---幸福感に包まれている。
……あぁ、『親友』はいなくなるのね。おそらく代わりに『彼』の立場に収まるんだろう。
私の心を読んだように、雄一郎がキスの合間に囁いた。
「これからは『彼』の立場は俺のもんだ。誰にも譲らないからな。まぁ、でももう少ししたら『夫』の立場を手に入れてやる。そして杏珠は『俺の妻』だ」
不敵な笑みを浮かべながら、再び私を翻弄する様なキスを始めた。
初めての短編です。
最後まで読んで下さった皆様、ありがとうございました。