Level5:『暗雲来たる』
城塞都市『カタラウム』。ウィリアムが流れ来、そしてクロエが住まう、大陸の片隅にある小規模な街だ。都市を取り囲む城壁、敷き詰められた石畳、立ち並ぶ石造建築、そして街の中心に位置する教会の鐘。特別なところはないが、片田舎の街にしては十分と言えた。というのもこの地域は元々、小さな村や集落が点在するばかりの無法地帯であった。それがほんの十数年と前、地域そのものを帝国の監督下に置くことを目的としてか、この街はつくられたのである。いわばこの都市は──“帝国の眼”と呼称するに相違あるまい。
さて、この街の路地の裏側。いささか目立たない立地条件のもとに、薬屋『黒枝』は位置していた。ウィリアムには判読しかねる奇っ怪な東洋言語に、クロエ、とルビが振られている。怪しい。それも、かなり。ウィリアムは、素直にそう思った。とはいえ道幅は広く、特に薄暗いといった印象は受けない。
「……ここ」
「ああ……」
「……お祖母ちゃんの、お店」
「怪しいな……」
「……うん」
クロエは素直に頷いた。ああ、やっぱりそうか。そう思ってるのか。というかお祖母ちゃんのなのか、なるほどお祖母ちゃんなら孫娘は目の中に入れたって痛くないもんな、そりゃあ店の名前になって孫の名前を付けるってもんだぜ僕に孫いたことないけど、などとウィリアムが胡乱な思考を巡らせていると、クロエがきぃと扉を軋ませて、奥へ。ちょいちょいと手招く様子が見え、後に続く。
店内は、存外に明るかった。天井近くの壁際などには洋灯が備え付けられている。手の届く位置には無く、即ち、魔力を用いて遠隔から灯をともすことが出来る仕組みになっているのだろう。そして、商品のたぐいは、棚などに直接並べられているわけではないようだった。木造のカウンターの向こう側に、扉が見える。扉にかけられた錠前が、立ち入り禁止であることを物語っていた。
「と、言いますか」
「……?」
「大切な孫に何を怪我させとんじゃい表出ろオラァーって僕はおばあちゃんに物凄い勢いで怒られるのでは」
「……だいじょうぶ」
それはない、とでも言うかのように、ふるふるとクロエは首を横に振る。
「……お祖母ちゃん、お仕事で、遠出しなきゃならなくなったから。……お留守番中」
「なあ、クロエ」
「……?」
「その、なんだ、言いにくいことなんだが、実は遠くってもう戻ってこれない場所だったりしないよな」
「……元気だよ」
七十一歳、生涯現役、とクロエは笑って付け足した。その奇妙な自信にウィリアムは慄く。身震いすら覚える。今の時代の栄養事情とか平均年齢とかちゃんと考えてるのかよ。いや、考えなくても人は生きるが、それでも凄すぎるだろ、とウィリアムは絶句せざるを得なかった。余談だが、この世界の平均寿命は、長く見積もってもせいぜいが五十前である。四十にもなれば、老境と呼んでも差し支えはないだろう。浅慮なウィリアムにも、彼女の祖母は相当な人間であることが想像できた。
「じゃあ、僕に手伝えることでもねえかい」
「……十分」
「さっきの分。働きで返すさ」
「……。うーん」
ウィリアムとしては、少女が脚を痛めていることもあってか、元々そのつもりだったのだろう。当然といったような表情で、クロエに言う。おとがいに指先を宛てがって、少しだけ悩んだあと、彼女はぴんと人差し指を立ててこう言った。
死ぬほど地味な仕事であった。
「……注文聞き」
薬屋『黒枝』では、用途、用法別に注文を取っている。怪我に効くもの、風邪に効くもの、炎症に効くもの、毒に効くもの。そこから予算、塗り薬などの形態を加味して、商品を用意する。大抵は既に用意している商品を倉庫──奥の部屋から取り出してくるばかりだが、場合によってはその時その時によって調合を行うこともあった。そしてこの時、ひとつの問題が生ずる。今のクロエは脚を痛めている、つまり僅かな距離とはいえ、店内を往復するために歩き回らなければならないという問題だ。これは良くない。では、どうすれば良いか。これは簡単な話で、ウィリアムが接客全般を担当し、クロエが商品の取り扱いに専念すれば問題は解決すると、つまりそういった按配である。
さて、結果から言おう。
反応、評判はすこぶる良くなかった。
「ウオー疲れた……」
陽が沈み始め、夕暮れの鐘が鳴り響く。そろそろ店仕舞いか、という頃合いであった。ウィリアムはぐったりとカウンターに突っ伏して、顔面から埋もれる。というのも、ウィリアムが接客仕事の類に慣れていないこともあるが、客からの「誰だこれ……」といった意味合いのこもった視線に晒されていたからである。反応が、悪い、というわけではない。良くなかった、というだけのことだ。誰だって暗い瞳をした少年が出迎えるよりは、幼く(という風にしか見えない)、割合愛らしい(しかも、珍しい黒髪の)少女が店番をしてくれている方が、嬉しいに決まっている。決してウィリアムの礼儀が絶望的になっていない、というわけではない、ということは彼の名誉のために言っておかねばなるまい。
「……にしても」
割合、暇でないものなのだな、とウィリアムは思考する。訪れた客足は、程々。商売繁盛と言えるほどでもないが、店を続けるのに困ることはないだろう。しかもこの街には、大通りに面して、ででんと立派な道具屋が鎮座しているのだ。商人ギルドの息のかかった大手の道具屋を相手に、真っ向から渡り合うことは、並大抵の戦ではない。その事実を鑑みれば、この小さな店を訪れる客は──決して少なくはなかった。
「……おつかれさま」
かちゃりと扉の開く音。突っ伏していたウィリアムの後ろから、クロエは労いの声をかけた。少しびっこを引いてはいるが、安静にしていたおかげか、ほとんどその歩みに違和感はない。
「接客って思ったより大変だな……僕には向いてなさそうだぜ」
「……礼節は、私よりしっかりしてる」
「ありがとう。……まあ、型通りの人間なんだ」
「きまじめ……」
クロエの言葉にかはは、と笑いながら、ゆっくりとウィリアムは振り返った。
「にしても、お客さん、多いもんだな。“お嬢さんに宜しく”って何回も言われたよ」
「……うん。馴染みに、してくれてる」
そう。
一日の間、店番を務めていただけのウィリアムでも分かったことだが、どうやらこの店に訪れる客の大概は、いわゆる常連客のようだった。それはつまり、小ぢんまりとした店構えでありながらも、それなりの信頼を得ている、ということだろう。商売というものは、後が続かなければ難しい。
「……お祖母ちゃんの薬。よく効く、から」
相貌にうっすらと笑みを乗せて、クロエは言った。ふうむとウィリアムは頷きながら、ふと気づく。いつもは無表情になりがちのクロエが、祖母について語る言葉を持つ時には、良く笑っているような──気がしたのである。
成程、贔屓にするのも悪くないと、ウィリアムはその顔を見ながら、思った。
「さて、そろそろ店仕舞いの時間だろうし…僕はお暇するぜ」
「……夕飯でも」
「いや、そこまで世話になるわけには」
ぐぎゅるる。
と、間の抜けた音が店内に響いた。果たして夜の訪れを知らせるかのように、街の鐘が鳴り響く。ウィリアムはおもむろに天を仰ぎ、神を呪い、世を憂い、そして己の心根の軟弱を悔やんだ。そして、大通りのど真ん中で飢えに行き倒れかけた日々が、半ばトラウマのように回想される。神妙に、少年は頭を下げた。
「頂きます」
「……はい」
にわかにその表情が綻んだのは、ウィリアムの気のせいだったかもしれない。
夜も更け、一つ屋根の下に女がひとりか、あるいは男と女がひとりずつか。どちらの方がより安全か、そう問われれば、前者の方が、決して安全とは言えないが、まだマシである──と、そう言えるのではないだろうか。少なくとも、ウィリアム少年はそう思う。食事は、良い。一人の食卓の味気なさは、もの寂しさは、慣れてしまえばそれまでだが、しかしいかんともし難い。だから、ありがたく共に頂きもする。むしろ大好きだ。が、その後は、わけが違った。故に──
「……泊まる?」
「廊下で丸くなります」
「……一部屋、空いているけども」
「ノー、ノー!」
多感なお年頃であるところのウィリアムにとって、そういった出来事は、出来る限り隅っこにのけておきたい類である。つい昨夜に一夜を共にしたような記憶もウィリアムには存在していたが、それは例外だ。看病という名目(というか、本当にそういう目的)があった。しかし、今夜はそうは行かない。
その一方でクロエは、驚くほど意に介した様子がなかった。奔放、というよりは、無頓着なのだろう。肉体的に幼いことが所以なのか、そこのところは定かではないが。
つまり、そういった経緯で、ウィリアムはニ階の廊下に片膝立てて座し、貸してもらった毛布を頭から被っていた。剣だの荷物だの、装備の類は解除した軽装。照明は落とされ、すっかりと暗闇。その中で、眼前に立つクロエの姿を、ウィリアムはゆらりと見上げる。就寝前であるためか、後ろでくくっていた髪はすっかりと下ろしていた。
「……一つ」
「うん」
「……聞きたい、こと」
「なんだろう……」
僕としてもこれほど丁重に扱われることなんか滅多に無かったぜ、その辺が大いに疑問なんだけど、とは、聞かなかった。ウィリアムが問いを投げかけるよりも先に、その疑問に対する答えが提示されたからだった。
「……あの時、逃げれば良かったのに、って」
「言ったな」
「……同じこと」
「?」
首を傾げるウィリアムに、クロエは少年の胸を指さして、言う。
「……逃げれば、怪我もしなかった。なぜ?」
「クロエ、僕は大いに君に感謝している、でも、束縛されたくは、ない」
「……」
一息吐いて、そしてウィリアムはまくし立てる。
「あの時、逃げ出して、生き残った僕が、後悔するんだよ。ああ、僕が頑張ってれば、なんとか助けられたかもしれない。共に死なずに生き残って同じかまどのパンの一つや二つでも食べることが出来たかもしれない。そんなことを、何年も、何十年も、あるいは死ぬまで、死の瀬戸際まで悔やむかもしれない。そんなのは御免だ──誰かの影に縛られ続けるなんてのは、ごめんだ」
「……ばかだなあ」
「ひどい」
ウィリアムが大真面目に語った言葉を、呆れたような声ひとつで流し、そしてクロエは笑った。おかしそうに、笑った。そして、言う。
「……おやすみなさい」
「おやすま」
寝室に向かうその背を、軽く掌を掲げて見送り、そしてウィリアムは眼を閉じた。ぱたんと音を立て、扉が閉ざされる。そのまま眠りに──つくこともなく、ゆっくりと、瞳を開く。目の前に広がる、一片の曇りすら無い夜の闇。寝付けない、というわけではないし、寝心地が宜しくない、というわけでもない。そもそも、ウィリアムの身は野宿に慣れ親しんでいる。ベッドなどの方がかえって落ち着かないくらいだ。
ならば、なぜか。
「……」
それはいわゆる、胸騒ぎと呼ばれるもの。単に胸の傷が痛む、というわけでは決してない。何か不穏な気配を、ウィリアムは確かに感じ取っていた。無根拠な、唐突な思いつきでもなく──そう思わせる要因が、いくつにもあり過ぎた。
────今朝の盗人。あれは突発的な犯行か。確かに僕は隙だらけの盗んで下さいと言わんばかりの有様だったかもしれないが、にしてはあまりにも逃げへの反応が早すぎた。仮に、彼が腕っこきの盗賊であったとしたら、僕のケチな金に手を付ける必要なんかない。そして、普通に考えれば、幼い少女にしか見えないクロエにスリを咎められるなんて、完全に思考の範疇の外だろう。実際、僕自身が思いもよらなかったんだ。何らかの理由で、僕ら──流れの僕に目を付ける人などいるはずがないから、具体的にはクロエ──にちょっかいをかけてきた、そう考える方が、ずっと自然だ。だとすれば、その理由は、なんだ。
暗闇の中でウィリアムは静かに、ゆっくりと思考を巡らせる。しかし、下手な考え休むに似たりとは良く言ったもので、緩慢な思索はあっさりと突き当たりに行き着いてしまった。ウィリアムはかぶりを振って、それ以上の思考を打ち止める。
「……引っかかる、けど、まあいいか」
明日話そう、と呟きを落として、ウィリアムが再び瞳を閉ざしかけた、その時──開くはずのない玄関の戸口が、かちゃりと、静かな音を立てた。それは、解錠の音色。暗闇に研ぎ澄まされた少年の聴覚が、その音を聞き逃さずに捉える。ウィリアムは、剣を手にしてゆっくりと立ち上がり、きしりと音を立てて歩み出す。木造りの階段を軋ませ、降りきらない所で、依然閉ざされたままの扉を視界に入れ、警戒を怠るまいとする。──瞬間、彼の脳裏にわき上がる疑問符。
鍵を開けることが出来るくせに、その上で玄関から堂々と踏み込む、そんな理由が──そんな危険を冒す理由が、どこにある?
その考えに至った刹那の間にウィリアムはきびすを返し、階段を駆け上がった。床に置きっ放しにしていた剣を取り上げる。思い過ごしの取り越し苦労ならば、それで良い。だが、そうでなければ──駆ける脚を寝室の扉の前で踏み切り、そのまま蹴り開けた。鍵はかかっていなかった。目の前には、何事かと慌てて飛び起きたクロエの姿。しかし、それは、ウィリアムの蛮行を原因とするものではなかった。
なんのことはない、壁際の開窓が外側から開かれて──金髪碧眼、ロープを片手、軽装の上から外套を翻す闖入者が、そこにいた。
「げッ」
「──今朝方のッ」
「……田舎ッ剣士風情がッ、首突っ込んで、くんじゃねェッ!」
露骨に不味いと声を上げる青年に目掛けて一直線にウィリアムは邁進する。間合いに踏み込むのと抜刀は、全く同時であった。迷うこと無く、斬りかかる。
「うるさい知るかッ!」
「くそ、やっぱこんな仕事、受けるもんじゃねェ、なッ……!」
ガキン、と甲高く響き渡る金属音。ウィリアムの長剣と、青年の短刀が──打ち合い、火花を散らす。ぎちり、と互いが歯を食いしばり、鍔迫り合った。
「──取りあえず、死なすッ!!」