Level44:『煉獄リバーサイド』
「くそ、くそ、なぜ、この私がッ──」
私が、どうして、こんな事態に陥っているのか。無為以外のなにものでもない怨嗟の呟きを吐き出しながら、男は瞳を険しくする。兜に鎧われた金色の頭髪は、いささかならず薄汚れて惨憺たる有様だ。毒づきもしなければやっていられない状況。苦し紛れに見回した四方は、まるで捌かれた獣肉の断面がごとき薄紅の色合いの──肉壁に囲われていた。
肉壁の、小部屋。それはさながら魔物の体内のようであると例えられよう。明らかに建築構造物として適当でないにも関わらず、肉壁はわずかな蠢きを見せながら依然としてそこにある。
「……ルーファン殿。じきに扉が破られます。このままでは、わたしたちも」
「分かっているッ。分かっている、分かっているがッ──」
金髪の男。ルーファンは最後の生き残りである部隊の同朋、白の法衣に身を包んだ若い宮廷魔術師の女を一瞥してから──肉壁に縁取られた木製の扉へと視線をうつす。扉はひっきりなしにみしみしと軋みを上げながら、否が応でもその崩壊を予感させた。
そして室内に、扉はそのひとつしかない。それが意味するところは──袋小路の手詰まり。
「……覚悟を。決めましょう」
女──ニアはココアのように柔らかな色彩の瞳を険しく狭め、その懐から探り当てた石を取り出す。彼女の指と指の間に収まるほどの、ほんの小さな鉱石。それは海の色彩にも似た光を照らし出して輝く──結晶であった。
「……転移結晶か」
「はい。……既に撤退を余儀なくされる状況であると鑑みます」
「……馬鹿ッ、なぜそれを早く使わなかった! ならばこれまでの犠牲を出さずに済んだものをッ!!」
彼女の言葉に、ルーファンは反射的に食ってかかる。金色と、ブラウン。互いの頭髪が重なるほどの距離だ。着衣の襟首を掴み上げ、怒りの表情を露わとする様には──そう、かつてウィリアムと相対した彼が浮かべていたような余裕は、微塵も見当たらなかった。
ルーファンとて、自分の物言いが理不尽であることは理解している。脱出手段のひとつとして、彼女は前もってルーファンにその道具のことを説明していたのだから。後先省みぬ逃走という選択肢を、ルーファンは選ぶことが出来たはずだ。それを選べなかったことにはいくつもの原因が存在するだろうが──しかし、もはや悔やんでも悔やみ切れない。
「転移術式の起動に、その都度の時間を要するのです。時間は三分。独断でこれを使用しなかったことは──わたしの失敗でした」
搾り出すように吐き出される彼女の言葉を、ルーファンは項垂れてただ受け止める。三分。この一室にとどまって、一分は経過しただろうか。ならば残り二分という時間をどうやって生き延びるか。ぎしぎしと表層を膨らませながら軋みをあげる扉は、とてもではないが──それだけの時間を稼いでくれるとは思えなかった。ルーファンはその脆弱な防壁を厳然と睨めつけながら、呟く。
「……すまない。取り乱した。これは、私の落ち度だ。──だが、どうするね。天にでも身を任せるか」
「敵を、おさえますっ。一分半。それがわたしの限界でしょう。ですから、この結晶はお持ちください」
そう言ってニアは、間近に詰め寄っていたルーファンの手のひらへと結晶石を押し付ける。彼女の言葉には、一片たりとも迷いというものが無かった。自らの命を捨てても良いと、呆気無く言ってのけてみせた。いったい、何のために。まるで意図というものが掴めないルーファンに、しかし構わずニアは言葉を続ける。
「外来の騎士殿に命を捨てられては、わたしにも立つ瀬がありません。──ご安心を。この身はすでに我が祖国へと捧げたものゆえ」
どうか御報告はお任せいたしますとだけ告げて、彼女は扉へと向き直る。そしてルーファンが何らかの言葉を吐き出すよりも早く、崩壊の時は訪れた。考える余裕など一時たりとも与えられることなく、ルーファンは咄嗟に身を退く。瞬間、崩れ去った扉から染み入り小部屋へとなだれ込んでくる────粘液状怪魔の群れ。
「──停止!」
同時に振りかざされるニアの杖より迸る極寒の冷気が、怪魔を瞬間的に凍てつかせる。迫り来る群生へと振るわれる氷爪はゼリー状の化物へと有効に作用し、彼らの動きを停滞させる──が、それはあくまで表層だけの話だ。彼らは一個の化物ととらえるよりも、複数の魔物が寄り集まったものと認識するべきである。一個が即ち群生の魔物であり、例えば凍氷が表面を凍りつかせたとして──その内側に胎動する幾つもの怪魔ことごとくを完全に停止させることは、極めて至難と言えよう。
そしてこの怪魔は、一体のみでも十二分な脅威であるというのに──今、群れをなして襲い来るという絶望。
「……なんという、ことだ」
氷点下の衝撃波が怪魔を停滞させては、それを押し返すために次々と襲い来る粘液の波。魔術を行使することが出来ないルーファンは、ただその様子を眺めていることしか出来ない。怪魔には斬撃を筆頭とする物理的衝撃が、ほとんど通用しないといっても良いのだ。何も出来ないという無力感を噛み締めながら時が過ぎるのをただ待つ時間は、まるで地獄のように長い。否──地獄そのものだ、とルーファンは思う。
──こんな地獄に居続けることは一時たりともままならぬ。
ルーファンは衝動的に、脳天を覆い包む兜を地面に叩きつける。そして身に纏った鎧の留め金を外し、これもまた捨て去るかのごとく無造作に床へと落としていった。眼前の怪魔を相手に重苦しい鎧など棺桶も同然である、そう考えても決して無理からぬ戦況だ。
「──ルーファン殿ッ!?」
突然の予期せぬ行動に、ニアは慌てた声をあげる。咄嗟に振り返った瞬間、彼女の身体が地上から浮かび上がった。──なんということはない。ルーファンが彼女の背後からその身を抱え上げたという、ただそれだけのことだ。刹那、魔術による妨害が消え去った結果として怪魔が津波のごとく小部屋へと押し寄せる。ルーファンはぶよぶよと奇怪に弾む地を蹴り、その上空を、飛んだ。
「──ルーファン殿ッ! 若し貴殿が亡くなられては、一体誰がこの内情をお伝え」
「私の立つ瀬も、あったものでは無いだろうッ!?」
「な」
その口は驚愕に開かれたまま。二の句も継げぬままにぱくぱくと唇を震わせる彼女をよそに、ルーファンは着地して一本道の通路を駆け出した。
「ただでさえこの田舎くんだりまで流されてきたんだ、私は! おまけに部隊丸々損失の被害を出して、おめおめと逃げ帰れだと!? 私の出世街道はどうなる! くそッ」
「……それはすでに手遅れでは」
「くそ! なぜこの私がッ」
──ウィリアムの捕縛という任において失態を犯したルーファンが果たしていかなる数奇な運命を辿ったかは定かではないが、どうやら穏やかならぬ人生を送っていることは間違いが無いようだ。溜め込んだ鬱憤を漏らすように悲痛な叫びを吐き出しながら、ルーファンは行く。背後に迫るは無数の怪魔。幸いは彼らが粘液状であることに相応しく、極めて鈍重であるということだ。
「ルーファン殿、そこは」
「承知の上ッ」
通路から開けた広間に出る、その境界線。一見して何もない床をルーファンが飛び越えると同時、一点の床が前触れ無く穴を開けた。底にはいくつもの杭が仕込まれており、落下したものは例外なく串刺しになるという仕組みである。この仕掛けをルーファンは知っていた。──先刻、部隊の一人がこの罠の犠牲となったからだ。
程なくして天井にも穴が開き、そこから一気呵成に流れ込む怪魔が落とし穴へと蓋をする。念には念を入れた仕掛けであった。一度起動したはずの罠が自動的に復活している以上、この迷宮内部には人智を超えた力が作用しているに相違ない。
「──今の落とし穴にはまってくれんものかね」
「なりません、穴がいっぱいになるまで怪魔が流れこんでますので」
「そうか」
ルーファンは苦々しく息を吐く。背後の警戒はニアに任せ、急ぎで周囲を見渡した。ルーファンの手持ちには、一枚の地図がある。彼の部隊に先んじて迷宮に乗り込んだ国の先遣隊が調査し、この迷宮内の地理情報を記したものである。
しかしルーファンは──前もって覚悟していたとはいえ──予想以上の衝撃を受けた。この地図は、まるで役立たずだ。低位階層では多少の面影を残していたため、多少は信じてしまっていたことがより傷を深めたのだろう。高位階層に至れば地形は半ばでたらめで、罠の所在もてんで見当はずれ。おまけに存在しないはずの宝箱が転がっていたりと、何者かの作為すら感じられるほどの異常。一時は地図の誤りという考えも過ぎった。些少の変化であるならば、幻惑などの術に寄るとも考えられた。しかしそれらの可能性はすでに無い。
この迷宮は、自律して内部構造を変化させている。
それが厳然たる事実であった。
「頼れんどころか妨げだ、くそッ」
広間を横切るように駆け抜け、再び通路へと滑りこむ。とにかく時間をかせぐためには、立ち止まるわけには行かなかった。しかしこの迷宮に、安全などというものは存在しない。罠。罠。罠に次ぐ罠。一度の過ちが即ち死亡へと繋がる地獄。針山、火炎、毒煙、怪魔、強制転移による人員の孤立──そして。
魔物。通路を塞ぐかのように立ちはだかる魔物だ。ルーファンの目の前に現れたそれは、肉塊の怪物とでも称すべき奇妙な不定形生物である。色彩は迷宮内部の外壁を織りなす薄紅と同等、つまりは同一の素材によって形作られた造魔と推測し得よう。ルーファンは片手に握る長剣を遮二無二に突き刺し、切り払う。
吹き出す赤黒い血流。ふたつに分かたれた化物は、しかしそれぞれに独立して計二体の怪物へと変じた。
「……馬鹿な」
分裂しながら通路に立ちふさがる魔、そして次第に背後より迫り来る怪魔。通路になだれ込んできた彼らにより、一切の退路は塞がれた。行くも退かぬもままならぬ今、果たして出来ることは──
「──停止ッ!」
詠唱。言の葉を伴い現界する氷結の具現。一切の細胞活動を停滞させる氷の魔術に、塊の怪物が動きを止めた。戸惑う間もなく氷塊と化したそれらにルーファンは刃を叩きつけ、その生命活動を完全に断ち切る。もはや分裂は、しなかった。背後の怪魔は、すでに間近。距離を広げんと地を踏みしめた瞬間、ルーファンは目を見開く。
男の足元が、床へと沈み込んでいた。──まるで肉の沼に飲み込まれるかのごとく。
「……ルーファン殿ッ!!」
足を取られるがごとく前のめり。そのままの勢いで投げ出された彼女は、まさに怪魔に覆いかぶさられる直前のルーファンの姿を目の当たりとする。その刹那、男の手からニアへと投げ放たれる輝きがある。──転移結晶だ。
三分。転移術式の起動に課せられた、その時間は目前のはずだった。
時間を無限にも感じられた経験は、これまでに一度とも無い。
「行け」
「──然しッ」
「部隊全滅の責務は私にある。返り咲きの目も既に無い。いささか、疲れたよ。……行け。私と最期を共にする義理はあるまい。だが、この惨状を国へと伝える義務はあるのではないかね」
間に合えと念じるかのようにニアの手に握りしめられた結晶石は、しかしいまだ反応を示さない。『停止』といくら唱えたとて、後から後へと次々に押し寄せる怪魔の軍勢を押しとどめることはままならなかった。無機質な怪物は、一片の容赦すら無く無慈悲にルーファンの身体を押し包み──最期の言葉すら飲み込んで、男の肉体を融解する。
ニアはぐしゃりと目元を法衣の袖で拭い去り、駆け出す。数秒の後、結晶を源として溢れ出す光が彼女の身体を包み込み──転移術式が、起動した。
訪れる静寂。後には遺骸すら残らず、全ては飲み込まれ迷宮の一部と化す。
──真の脅威たる高位階層に至ってしまったがため、彼女の報告は迷宮の危険性を大々的に広めることとなる。
飽食塔。
それがこの巨大迷宮の名であった。
王都『モースモール』は二重の城壁に囲われた“稲穂の国”の首都である。おふれに誘われた無法者を無秩序に受け入れることを避けるためか、入国には一定額の税金が要され、宿泊先などを届け出るようにとのお達しがなされたが──いざ入ってしまえば、そこは活気盛んな商業都市が広がっていた。その規模はかの城塞都市を大きく上回ると言って構わないだろう。
「……なんだかんだで、此処まで護衛してもらっちゃったッスね。ありがてえこってス」
無事に到着し得たという感慨も相まってか門前、大きく息を吐きながらアドナは呟く。一人とて欠けること無きウィリアムらの到着である。とはいえ森を抜ければある程度は道が整備されていたため、半ば安全の保証された旅程ではあったのだが。
「僕らも鑑定だの案内だの頼んだしなあ。持ちつ持たれつだ」
「ついでに城下の方の案内も頼めねェ?」
「正直、広くてあっちゃこっちゃに店あるせいで、私も良くわからないんスよねー……いくつかの地区に分かれてて、宿とかいろいろは此処──商業地区に集まってるんで、とりあえず不自由はしないと思うッス」
ぐるうりと辺りを見渡せば目に入るは道を行き交う人々。昼間ともなれば人の流れは絶えること無く、ちらほらと鎧──重装、軽装を問わず──に身を包む者の姿もうかがえた。おそらくは自分たちの同類といったところだろう、とウィリアムは大雑把にあたりをつける。
「……そういえば。アドナさんは、宿、なんかは……?」
「私は見習いの身ってことで、お師さんの店の方に厄介になるッスよー。手伝いの身ッス」
かくり、と首をひねるクロエに何気ないアドナの答え。どっか行く時は一声かけてって下さいッス、と軽い調子でうそぶきながら彼女は一歩踏み出す。
「そんならここまで、だァな」
「またご贔屓に、ッスよ」
「うん。またな」
どうせまた会うこともあるだろう、と。永き別離が想定されるわけでもないことを考えれば、それは実にさっぱりとした別れである。数少ない同年代にして同性の同朋であったためか、ぱたぱたとせわしなく手を振るクロエにはいささかならず寂しげな表情が浮かんでいた。──とはいえども元より決まっていたこと、立ち直りにそれほど時間のかかるものでもない。何せやらなければならないことは、目の前にいくつも立ちはだかっていたのだから。
先んじて為すべきは、ウィリアムの武器を新調することである。金子が滞りなく手持ちに残されている以上、これを使わない手は無かった。レーヌ村にて頂戴した分が残ってはいるものの、当面の食糧や水分などもいくらか補充しておくに越したことはあるまい。これら買い出しの類はウィリアムとクロエで済ますこととなり、では残されたエリオは何をするのかといえば、決して怠けていたというわけではなく──前述した準備に負けず劣らず重要な必須事項が存在するのだ。
諸々の雑事を済ませ、夕時。三人は前もって取っておいた商人宿で落ち合うことと相成った。室内での夕食を挟みながらの相談の刻限である。
「──取りあえず僕のほうからなんだが」
「そォいや、何も買ってねェのん。それっぽいのさげてねえけど」
「いや、注文するにはしたんだ。両手大剣。ほんとは雑種剣のが良かったんだけど、僕には無理そうだ」
「……製造直売の、職人さん……だった、みたいで」
付け加えられたクロエの言葉に、あァ成る程な──とエリオは相槌を打ちながらエールを一口する。
「ちゃんとしたもん作って貰った方がいいだろォよ。鎧なんかは大体がそうだしな」
「……そう、なんだ……」
「全然知らなかった」
「変なとこで世間知らずだァな……まァ、クロエにゃ縁が無ェこったろうし当然か」
「鎧なんか仕立てる金があった覚えは一度たりともないな!」
「自慢できねェよ!」
仕切り直しの意味でエリオは酒精混じりの息を吐き出して言い切る。クロエは何やら口にしたパンの柔さに瞳を瞬かせていた。なんとも言いがたい温さを覚える光景に気も緩みかける所を押さえ付けて、エリオは口を開く。
「じゃあ、オレの方から──ここらの情報、情勢なんかだ。テキトーに金握らせてかき集めて来たが、ちィと長くなっからサクサク行くぜ」
その言葉に一寸、ウィリアムの瞳が鋭く狭められる。口の中に食糧が詰め込まれている様相のためいささか真剣味には欠けたが、ともかく本人が大真面目であるということに変わりはない。クロエがこくりと神妙に頷いて、同時。
「まず。あの迷宮──“飽食塔“って呼ばれてる塔なんだが。あれの攻略に懸賞がかけられてるのは確かで、それが健在なのも間違いねェ」
「でも、発見は結構前のことなんだろう。もう誰かが手をつけてたっておかしかないと思うんだけど」
「……だからこそ……情報を売り物に、してる……?」
「そう思ったんだけどな。どォも聞くと話が違ェ──」
いわく、かの迷宮は魔物の産物である。かの迷宮は、迷宮そのものが生きている。低階層に留まる内はそれほどでも無いが、ひとたび深入りすれば牙を剥くかのごとくその形を変え、一切の事前情報はまるで役に立たない。繰り返された調査が半ば無為と化し、攻略は難航。つい最近には迷宮の踏破にあたって比較的大規模な部隊が組織されたが、たった一人を残して全滅。おまけに、かの迷宮は時を経るにつれて外装から少しずつ“肥大化”している──と。
絶望的な情報がひとつひとつ明らかになるにつれて、迷宮に踏み込む無謀な輩は日に日に減り続ける一方──というのが最も正確な昨今の情勢のようだった。
「うーん」
「どったよ、ウィル」
「逃げるか……」
「早ェな!?」
柔らかなパンをちぎって口の中に放り込みながら、少年は思わず唸り声をあげる。聞くだに冷や汗が止まらぬ情報の数々。それに飛び込んでいくのは余程の命知らずか気狂いの何者でも無いのではないかと考えざるを得ないからだ。無理ないことである。ウィリアムはがりがりと髪を掻きむしって、軽く頭を抱えた。──強制的ではないといえども、決定権は半ば彼に委ねられている形なのだ。それは即ち、少年一人の決断によって三人の命運が左右されるということに他ならない。
悩まない方が、どうかしていた。
「……うう、ん」
湯気を立てる焦がしチーズ和えオニオンスープに息を吹きかけながら、クロエは暫しの思索に瞳を閉じ──やがて思い至ったかのように、ふわりと視線を緩めた。
「……とりあえず」
「うん」
「……見に、いって、みる?」
「……う、うーん」
なんとも漸進的な提案で、実りがあるかというとあまり意味がある行為には思えなかった。あるいは純粋な興味で、その様子を直に見るということにクロエは意味を見出していたのかもしれない。
「ま、注文したのが出来るまで二日だかそこらかかるだろォよ。それまでに決めときゃあ良いんだ」
一個の判断材料にするんなら悪くねェんじゃねえか、とエリオは忠言程度にとどめる。
「他にもなんか無ェかな、ってのは浚ってみるが。あんま期待しねェ方向で頼む」
「わかった。……よしッ!」
その言葉を受けてウィリアムは口にした食物を一息に飲み込むと、机に手を突いて勢い良く立ち上がる。元より少年は思い悩むよりも行動が性分だ。考えなければならないことがいささか多すぎるためか思索にふけることは少なくないが、それでも性に合うのは間違いなく身体を動かすことである。
「行ってくる!」
「……今、から?」
「もちろん」
「……じゃあ。私も、行く。……見てきたい、から」
そう言って熱々のスープを飲み切るクロエ。舌に火傷でも負いそうなものだが、構うことなくごちそうさまと言って立ち上がる少女の様子をふいに見上げて、エリオはぽつりと呟く。
「行くってェのは良いんだが」
「うん」
「場所わかってんのか」
「あ」
「……あ」
「おまえらは……」
ほのかに酒気を漂わせるエリオは、奇妙に冷静であった。
──巨大迷宮“飽食塔”は王都の城壁をにわかに離れて、しかし何ものに憚ることも無しに天高くそびえ立っていた。街道を外れて森の中を分け入った先、その足元に至るまでもなく見ることが出来るほどの巨塔。外殻の一切は襞をあしらった肉壁のごとき薄紅に覆い包まれ、見るものの悉くを尋常ではないと圧倒する威圧感を全方位に射出している──そういっても決して過言ではない光景だ。
「……帰りてェー」
「見るからにマズイ気配が漂ってるな……」
土を踏みしめるたびに近づく、異形の巨塔から感じられる圧迫感。極めて生物的な外観はなるほど、迷宮そのものが生きていると評されるも道理であると言えよう。クロエの表情の渋さといったら生半可ではない。心底から食後での探訪を後悔しているそれである。
三人が非常に穏やかならぬ心地で歩みを進める途上、不意に──夜の闇の向こう側、森を切り開いた細道の真ん中に立ちはだかる人影を認めた。
「──この先へ行くつもりですか」
何のこともなく、敵意を示されることもなく。投げかけられた言葉は静やかな女の声だ。その声音には、かすかに訝しむような色が入り交じる。
「……それを、考えてる。国をきっての攻略なんだろう。軽々には行けない」
それに物怖じすることなく応えるウィリアムの返答は、しかし慎重であった。
「どうしても、と言うのなら止めません。ですが、迷うのならば行くべきではありません。引き返すべきでしょう。──それとも、この国の事をお考えで?」
「いや全然。完全無欠にオレ本位だぜ」
清廉に言い切る女の言葉。それに向かいひひと悪辣に笑ってみせるエリオは、さながら汚れ役を買って出たかのような有様だ。そしてそれが不自然ではなく、彼の整った美貌がむしろ胡散臭さを助長させるようですらある。
「そうですか──いえ、いずれにせよ同じ事。すでにこの迷宮の探索は、形式上はともかく──半ば“帝国”に委任されています。兵力に乏しいこの国の手に及ぶものでは、ありません」
ゆえに、と彼女は依然として立ちはだかる。そんな女の様子を不思議げに、ウィリアムはその視線を鋭く細めて見据えた。
──彼女がそんな言葉を吐く理由がどこにある。その必要がどこにある。恐らくは国に遣わされた警備兵、といったところだろう。僕たちのような無法者がくたばったところで、彼女は一向に構わないのではないか。人を通してはならないのならば、それに相応しい警備を置いておくべきだ。ならば導きだされる自然な道理。考えられる理由はひとつ。彼女には僕たちを止めるような権限も力も義務も無く、ならば──無駄な犠牲者を減らすために一定の情報の開示を認められている、といったところか。
「……成る程」
この世界において間違いなく最高峰の戦力を有する“帝国”、その介入をもって漸うの攻略を果さんとする迷宮。常人を引き止めるにあたって、これ以上はない脅し文句だ。ウィリアムは一度頷きながら──しかし静かに首を横に振った。
その言葉はウィリアムにとって、決定的に逆効果だ。
「……ウィル」
「なんだろう」
「……“帝国”に先んじて、どうにか、できたら……?」
「クロエ────僕も全く同じことを考えていたとこだ」
──それは己等の力を示すにあたって、これ以上とない好機になり得る。
ニッ、とウィリアムは口端をつり上げるかのような笑みを見せた。悪童の笑顔だ。その表情を浮かべたまま、少年は女へと歩み寄る。ココアのように暖かな、そして柔らかな印象を与えるブラウンの髪。白く眩き法衣。その瞳は驚愕にか、ぱちぱちと忙しなく瞬いていた。
「──また、来る」
「お偉いさんの鼻っ柱折りてェのが動機ってのもどうなんだろうなァ」
「……ご心配、おかけ、します」
ひひ、と奇妙に小気味良いエリオの笑い声を残して彼らは来た道を振り返り行く。呆然と立ち尽くした彼女──第三次迷宮探査大隊唯一の生き残りにして巨大迷宮“飽食塔”観測班ニアは、ただただ彼らを見送る他なかった。