Level39:『そぼ降る雨下に流れる血潮』
クロエはウィリアムという一人の少年の身、そのものを重んずるあまりに見落としていたのだろう。剣士にとっては命綱ともいえる得物の損壊という事実を。
武器がない。
そう、ウィリアムは予備の武器というものをひとつも所持していなかった。果たしてそのゆえんはと過去を辿っていくのならば事は単純で、武器のために所持金の一部を割くような余裕を少年が持ち合わせていなかったからに他ならない。以前、ちょうどクロエと出会った頃にウィリアムが振るっていた二刀の長剣にしても、古戦場跡をさらった折の戦利品に過ぎなかった。使い古しの品も良いところだ。そしてその長剣はとっくのとうに、度重なる戦闘によって叩き折られてしまっていた。
と、なれば。何かを期待するかのようにウィリアムの視線がアドナの姿を捉えた。しかし少女は静かに息を吐き、ふるふると首を横にふる。赤髪の三つ編みがゆらゆらと宙を揺らいだ。
「そんなに都合よく武器を取り扱ってるわけがないッス」
「やっぱりそうか……」
「気が利かねェなァ。『こんなこともあろうかと』とか言えねェの?」
「ねえッスよ!!」
原材料になりそうな物なら無くもないッスけど、武器に向いてるかは微妙ッスよ──と、アドナは彼らをなだめるように言う。しかし言われた当人のウィリアムはさして落胆を覚えた様子も無く、肩をすくめて仕方がないとつぶやいた。
「……村の、鍛冶屋さんは、あったと……おもう、けど」
そんな様子のウィリアムを、そぉと見上げてクロエが告げる。急を要するこの場、鍛造から始めていてはあまりにも悠長に過ぎるということを、彼女とて心得ていないわけではなかった──が。それでも休養を取ることを選択のひとつと捉えるならば、一考の余地があるのではないかという条件の提示である。
ウィリアムの黒い瞳を、少女の青い視線がじいと覗き込んだ。
「確かに鍛冶屋は、ある。ただ、武器を鍛つ技術があるかというと」
「……むう」
いくら僻村とはいえども、そこは鍛冶屋のはしくれ。刃をうつことなどは訳ないだろう。その程度のことが出来なくては、例えば村の誰ぞがキッチンナイフを壊してしまったとして、それを修理することが出来ないということになってしまう。そんなことは、ありえない。だから技術的に不可能とは言いがたいのだが──しかし恐らく、“武器の鍛造”に対する知識と技術の積み重ねは存在していないのだ。
武器とそれ以外の用途では、わけが違う。武器とは即ち、最終的に持ち手を生かすことを目的としているのだから。
「……命をあずける、には。……かなあ」
「まあ、今回は相手が悪いというのも──」
あるんだけど、と。ウィリアムがそう続けかけた言葉を遮るかのように、スパァン! とけたたましく木製の扉が壁に叩きつけられる音が響き渡った。というか、こじ開けられていた。何奴かとウィリアムが刃の鞘に手をかけるのも束の間、その向こう側にいる正体を確かめれば、少年は静かに腰を落とした。
「まーまー。そう不穏にしないで、ねえ」
威厳の欠片も漂わせずに、フィアーノがただ一人、相も変わらずの布切れ一枚のような風体──しかしその腕の中、純白の羽衣に包まれた長物の如きものを抱えて──そこにいた。先刻にはさんざっぱらウィリアムに無茶を吹っかけてきた当人である彼女だが、しかしその表情に悪びれたような様子はとんとうかがえない。全くもって常通り、にこやかな笑みをたたえるがまま。
「邪険にしねェだけオレらの心の広さを思い知るがいいぜ」
悪態を吐き捨てるエリオの態度は不信心者と切り捨てられても一向に文句の言いようもない姿ではあるが、しかしフィアーノはその様子に一段と笑みを深めてみせる。
「そういうだろうと思ってね」
──持ってきた。
彼女はそういって、さながら紐解くかのごとく腕の中にある羽衣、いわば覆い隠しとなっているその包みを静かに剥ぎとった。質素なようで、しかし上質な絹糸を思わせる衣がはらりと部屋の床に落ちて広がる。
そしてウィリアムらの視界に姿を現したそれは、黄金に良く似た土くれの色をしていた。果たしてクロエの背丈さえをも軽々と飛び越えかねない、長大な一振りの大剣。極めて幅広にあつらえられた刃は、流麗さよりも無骨な力強さを感じさせる造り。それはいかなる製法によって形作られた鉄塊なのか、最早うかがい知るすべは今生には残されていないかというように思われた。
──なんだ、それは。
惹きつけられたか、あるいは呆れ返ったとでも言うべきか。しかし視線を外すことも出来なかったという紛れも無い事実に、ウィリアムは神妙に嘆息して──フィアーノに、そう疑問の声を投げかけた。
「御神刀、というやつかなあ。けれども、同時に魔導器でもある」
「大層なものを持ちだしてきたな……」
「押し付けるばかりじゃ不満もあるだろう? ──だから、“ぼくの使徒”に相応のモノを持ってきたというわけ。どうせ死蔵品だからね」
「……使われて、ない……の?」
クロエが興味深げに、フィアーノの手の中にあるそれを見上げた。その視線はまた、どこか不思議そうでもある。なぜならば、金属で形作られているであろうその御神刀の外装には、錆びの一片つさえ浮かび上がっていなかったのだ。
「ぼくを降ろす依代に使って、それっきりみたいだねえ。どう?」
「えらく都合のいい話だァな。ウィルの剣が逝ったのは昨日の今日ですらねェんだぜ。どっかから見てたんかよ」
「警戒するね」
訝しむように細められたエリオの視線。しかしフィアーノは何食わぬ顔で笑みを浮かべながら、その手を胸元に忍ばせた。その指先は何かを掴み、にわかに輝きを返すそれを床に向けて放り投げる。一目向ければ、その正体は見て取ることが出来た。なんのことはない──ウィリアムの剣の、刃先である。鋭利な断面をありありと晒す、最早ただの金属の塊と言ってもさしつかえない剣先。
「困るな。ゴミはきちんと拾っていってもらわなきゃあ」
「だそうだ、ウィル」
「僕に振るのかよ! いや僕なんだが」
「それはそれとして。──使ってみるかい」
彼女から差し出される、一振り。にこりとフィアーノは笑みを浮かべる。その表情はどこか人の困惑を楽しんでいるかのようにも見える、意地の悪い面構えだ。
ウィリアムは静かに頷くと、その剣に向けて手を伸ばす。おのが手のひらに掴み取ると、ずしりと腕にのしかかってくるような確かな重みが少年に感じられた。ウィリアムは静かな沈黙を保ったまま、剣を地と水平に構え──ゆっくりと、鞘からその刃を引き抜いていく。
「……わ」
クロエがかすれるような、感嘆の声を上げた。──鞘より覗く刀身がうかがわせる、眩いばかりの黄金の煌き。無骨な外観を裏切るかのように、神性さえも垣間見せる輝かしさ。あるいはそれは、人を惹きつける魔性か。
「……借り受ける」
「ちゃんと返してね」
ちゃきりと音を立て、その光を覆い隠すかのように少年は刃を鞘へと納めた。フィアーノの言葉に承知とでも言うかのごとく頷いて、そしてウィリアムは立ち上がり──ずいと歩き出す。
ベッドに座する、アドナの眼前に。
「アドナさん」
「……? なんスかね」
至極真顔でアドナと相対したウィリアムは、彼女の怪訝な様子をさして意に介さず、ぐいと剣を握る手をまっすぐに突き出した。──果たしてこれはいかなる意図か。その心中をはかりかねるように首をかしげるアドナに、ウィリアムは表情を崩さないまま厳か極まる口調で、言い放つ。
「これ、失くさないようにしまっといてほしい」
お留守番との宣告である。
アドナの開いた口がふさがらなくなった。
「なに考えてんスか! せっかく借りたのに!」
「結局死蔵だよ!? ぼくの厚意の意味は!?」
若干二名より壮絶なツッコミを受けるウィリアム。クロエなど背後で思いっきりずっこける始末である。エリオばかりは「まァ、ウィルの身の丈に合ったもんじゃねェしなァ」と納得することしきりだったが。
「いや、だってなんか呪われそうだし」
「呪われない魔導器なんてあると思ったのかい?」
「クソだな……」
踏んだり蹴ったりの扱いである。
「まあ、私に出来ることくらいはしておくッスよ──」
どこか釈然としない様子ながらも、突き出されたその一刀を重そうにアドナは受け取る。ようよう気を取り直したクロエが、その様子を見届けながら──やはり納得しかねるように、その小さな腕を組みかすかなうなり声を零した。
「……なにもないよりかは、いいと……思う、けど。……やっぱり、むずかしい……かな」
「それもある。ただ、それは別の使い方のほうがいいと思ったんだよ。相手の得物が規格外な以上、無事に返せる保証もなし──で、“それ”に頼らなくても何とかする算段は、ある。だから」
ウィリアムは身を返し、どこか不安げな表情を見せるクロエと向かい合う。互い瞬く瞳、交錯する視線。
──僕を信じろ、と少年はまっすぐに言い切る。
──うん、と少女はなにも問うことなく頷いた。
「……へえ。考えなしってえわけでもなさそうだ」
そんな彼らの様子をいとも愉快気に見守れば、すでに用は済んだとでも言うかのように、ひらりと手を振ってフィアーノはきびすを返す。
「朗報を期待するよ。ぼくの使者」
「使者じゃねェえええよッ」
去り際の言葉へのエリオの反論。果たしてそれを最後まで聞き届けたのか否か──ほのかに薫る山草の気配を残して、彼女はその姿を消した。
場をかき乱すだけかき回されたというような風情だが、しかし彼女なりの計らいであったことは間違いがあるまい。とはいえども、眼前の問題──振るうべき武器が無い──は解決していないということに変わりは無かった。
「……というわけだ、エリオ。持ってた短剣、貸してくれないか。ナイフじゃ流石にきちい」
「頑丈なのか切れ味重視、どっちがいい」
「後者で」
ウィリアムがエリオに向き直ってそう言うと共、少年に向けて一振りの小刀が投じられた。盗賊御用達の一品であると言えよう武器──“硝子をも切りうる鋭刃”。ちょうど手のひらの中に収まるほどの小振りの柄に、刃渡りもまた心もとない短刀。特筆すべきは向こう側を見通せるのではないかとすら思わせる、刃の薄さ。文字通りの薄刃と称すべきそれは、相手の攻勢を受け止めることを完全に度外視し、切れ味のみを追求した一振りであった。
月明かり返す華奢な抜き身。それを見て、クロエはほうと嘆息した。ゆらりと視線が外界を向けば、そこはすでに月光がさし込む夜の暗闇。
それを認めて、ウィリアムはそれぞれに目配りする。
「行くか!」
「怪我なんぞで倒れんじゃねェぜ」
「……ん。追撃戦」
「留守番は預かったッスよ」
長大な剣をその腕に抱えたまま、アドナは小さくその手を振って戦に出向く彼らを見送る。
──朝には帰る、と三人は笑みと共にそれに応じた。
とどまることを知らぬかのごとく。それほどまでに降り続いていた雨は、しかし夜を迎えてようやくその勢いを弱めていた。しとしとと。はらはらと。人の身を打つ小雨はもはや、いっそ穏やかにさえ思われよう。だが──空を、そして月を翳らせるほどの雲は、いまだ健在。おまけに夜の暗闇も相俟っては、見通し良い大平原であっても周囲の様子を完全に把握することははなはだ困難であると言えた。
大平原──かの小さな村を出て、半日足らず。賊の集団は本拠に向けての道程を踏破するに至らず、その途上でやむを得ずキャンプを敷くことと相成った。十を越える大人数、悪天候、そして怪我人を引きずっての行軍──といった悪条件がいくつも重なっているのだから、これは致し方のないことである。
「交代の時間だぞ──お?」
テントから這い出でた男が、この夜半に見張りに立っていた男へと声をかける。酒精を片手、岩陰にもたれて。真剣とはかけ離れた態度、見張りとしての役目を保っていたとは言いがたいが、しかしそもそもが一寸先を見通せぬほどの暗闇。気を張り詰めていたとしても、結果は同じであったに相違ない。
返事を寄越さぬ見張りの彼を訝しんだように、男は彼に歩み寄ってその肩を叩く。その身はぐらりと、重力に引かれて地面に向かい倒れ込む。──その胸元には鉄の矢が突き立ち、その傷口から紅い血潮を滾々とあふれさせていた。
──敵襲! 敵襲!!
男が声を上げたその瞬間、彼の後頭部は暗闇から迫り来る一矢によって呆気無く射抜かれていた。しかしその男の叫びを先触れとして、危険は瞬く間に集団の全体へと伝播する。襲撃を受けているという、その事実。それに対して頭であるところのボリスは、すぐさまに事態への対応策を発した。
「俺らの中で今動ける人員、六人ずつを半々で本隊と分隊に割く。俺含む本隊は怪我してるバカを引き連れて帰還を優先、迅速にだ。分隊は相手を引きつけながら時間をかせげ。ま、向こうも深入りは望むところじゃねえだろうが──なあ?」
────かくしてウィリアムらの眼前に立ちふさがるは六。各々に統一感なく凶器を構えた彼らは、明確な殺意を滲ませてそこにいた。三人の行路を遮る、壁にも似た陣形。
「……エリオ、もうちょっとなんとかならなかったのか」
「ちィとバレんのが早かったなァ。芋づる式で潰せねェかと思ったんだが」
上手く行かねえもんだ、とエリオは肩をすくめる。──賊達の殺意は見るからに、エリオに向けて注がれていると断言しても良い。片手に弓を、背に矢筒を。そんな風体を隠しもせずに晒す青年が、念頭の標的にされないわけが無かった。ともすれば一斉にかかってこられてもおかしくないような一触即発の状況だが、現在は硬直が続いている。その理由は──クロエ。いかにも魔法使いじみた黒いローブに、頭からすっぽりと身を包んだ小柄な少女。
それを果たして誰が恐怖に感じられようか。少女の姿ならば、油断さえ誘えようかという小さな影。しかしその全身が黒衣に覆い包まれている現状では、話が別である。いかにも剣士、明らかに弓手といったウィリアム、エリオとは異なり──クロエのそれは、不気味だった。少なくとも、彼女のことを何も知らない彼らにとっては。得体が知れない、と換言してもよいだろう。
戦闘にも行軍にも明らかに向いていない身の丈。そのような人物を伴う意味。──さして多からぬ、そして脅威たる魔術の行使者を連想するに、どれほどのためらいが存在し得よう。
「……このままじゃ、逃げられる……か、な」
少女のか細い声──鈴鳴のような声色は、小雨に紛れてどこか判然としない。衣越しのくぐもった声は、賊の者にはとてもではないが届かないだろう。
「だなあ。考えても仕方ないし」
──行くか。
いかようにでも埒があけようぞ、と。ウィリアムは力強く地を踏み締め蹴り飛ばし、身を翻らせんばかりに迅速なる疾駆をなさしめた。抜けば玉散る“硝子斬りの刃”を抜剣すると共、少年は人と人の隙間をすり抜けるかのようにして一閃──駆け抜けていく。背後は振り返らず、その向こう側の前だけを見て。その躍動は決して人間離れした動きではないにも関わらず、立ちはだかる彼らの反応を許さなかった。少年のその迷いのなさ、躊躇いのなさゆえに。
通常、相対するものが凶器を握るならば身は竦む。恐怖心が起こる。わずかながらも、躊躇いは生まれざるをえない。──だが、これと決めたウィリアムにはそれが無い。一直線に眼前の目的をなすため、ただそれだけに少年の身は駆動する。
ぱしゃん、と。ウィリアムの駆け抜けた後で、鮮血が宙に弾けた。すれ違いざまに振るわれた一閃が、一人の男を切り伏せた証左。後から遅れてやってくる苦痛の叫びに、動揺が残る五人へと走り抜ける。そしてその隙につけいるかのごとく、少年はかき乱す。──背を一切返り見ること無く、真っ直ぐに走りだすことによって。
現在の彼らにとって、三人は通してはならない存在であった。ゆえにウィリアムが一人、壁を突っ切ったことは想定外であり──これは本来ならばすぐさま追いかけなければならない。だが冷静に考えれば、実力未知数の少年剣士がただ一人、本隊の元へ追いついたところで何が出来るというのか──という考えにも至ることだろう。この思考に基づくならばウィリアムのことは放っておいて、残る弓手と魔術師を排除することが正道である。
しかし集団の意見とは往々にして、容易にはまとまらない。追うべきか追わざるべきか、必然的に混乱が生まれる。
その時、ひうんと風切りの音が鳴る。
「──隙、ありィ」
ひひひと喉を鳴らして、エリオは悪辣な笑みを漏らした。同時、正確に男の脳天を貫く一矢。男の一人がぐらりと揺らぎ、額から血流を溢れさせながら身を倒れこませる様。それを認めた時、残された者たちは覚悟した。──時間稼ぎなどとんでもない。殺らねば殺られる、と。
次の瞬間、エリオに向けて斧の刃が迷うこと無く肉薄を果たしていた。咄嗟のこと、腰から引き抜く短刀が青年の命を助け──刃を止める。ぎりぎりと眼前に迫る鉄塊。雫にまぎれ、エリオの額に冷や汗がひたりと伝った。
無論、それだけには留まらぬ。一閃を受け止めた直後、立て続けに迫る振り抜かれし長剣。すでに刃を受け止めるべきものは存在しない。
「──ひゅうッ」
ゆえに決死。眼前、斧持ちの男の腹部に向けて全力の蹴りをくれ──そしてすぐさま切り返す刃が、長剣と打ち合い再度の拮抗を保つ。響き渡る鋼音、綱渡りの立ち回り。否が応でも皆が皆、その注意はエリオへと引きつけられざるをえない。
ずしゃり、と。
一人の男が背後を突かれて、前のめりに地に伏した。
「……なるほど。切れ味は確か、だ」
なんのことはない。ウィリアムがその身を切って返して、エリオと相対するがゆえの必然。無防備に晒された背へ、その手に握る刃を突き立てただけのことだった。
なッ──と驚愕の声がひとつ上がるもすでに遅し。咄嗟に振り返らんとする動作の最中は、ウィリアムからすれば無防備極まりない。引き抜いた刃を一閃するに十分すぎる間隙が、そこには存在していた。
振り抜くと同時、腹部に走り抜ける紅の横一文字。ぐらりと手折れる身が、その場にふたつ転がる。
「──さァて、旗色やべェが、どうすんよ」
長剣と短剣を噛み合わせる最中。エリオの言葉に相対する相手──彼らの中で唯一無事な者──は舌打ちすると、こればかりはやむ無しかと周囲に一瞥を送り、じりじりとその身を後退させていく。
それに並行し、蹴りを喰らった男がゆらりと起き上がった。その視線は、しかしエリオを捉えておらず──ことさらに小さな影、クロエへと向いた。この至近、この矮躯。魔術師ごときに果たして何が出来るものか。現状はすでに惨状に違いないが、その上で刺し違えてでもとばかりに──斧が素早く振り上げられる。
落ちる刃が、少女へと到達する。
それよりもなお疾く。
「──ご、ぶッ」
破砕音。ずどんという爆発の音さえ伴いかねない勢いをもって──少女の小さな拳が、男の腹部へとめり込んでいた。焔さえ纏うその拳はいかようにしてか、大の男さえ地に伏せさせるほどの威力をもって発せられている。
「……これなら……つかえる、かな」
熱のこもった息を吐き出して、クロエはゆっくりと拳を引いた。身体の熱へ干渉することによる運動能力向上、加えて身体性能強化。いわば肉体へと作用する付与術といったところだろう。
同朋のことごとくが倒れ伏し、取り残された男の不利はすでに確定的。数瞬の迷いを経て彼はゆっくりと後ずさり、そして本格的な逃走を開始した。
「──はッ。余計な時間取らされちまったァな。これじゃ向うさんには結果オーライだ」
その様子を一瞥してから視線を切り、つぶやくエリオ。ウィリアムはそれに応じながら、ふたりの様子をうかがう。
「二人とも、怪我はない……な」
「……ん。だいじょう、ぶ」
「前座で消耗してらんねェさ」
ひっひ、と青年の浮かべる人の悪い笑み。クロエはこくりと首肯して、己の無事を知らせる。炎をまとわせていたその小さな手のひらは真っ白で、火傷どころか傷一つ、染みの断片さえも見当たらなかった。良しとウィリアムは頷いて、向かうべき先へと歩を進める。即ち──
「行くか。徹底的に、本拠──根っこから叩く」
「……撫で斬り?」
「そこまでしなくても」
真顔であった。