Level38:『犠牲に唾棄す』
ひとつの地に拠って生きるなど、夢のまた夢に過ぎないのだろうか。ウルクは天を仰ぎ見て、ため息を吐きながら心中ひそかに嘆いた。
教会の一室。外はいまだに降り続く雨。視線を落とせば瞳に映る、寝息すら立てず静かに眠る青髪の少女、イレーヌの姿。それはまるで、極度の緊張に身を晒し続けたことへの反動のような有様。ほのかに熱があるかのように見えたが、しかし傷らしい傷といったものは見当たらない。少なくとも、彼女の表面上にそのようなものはうかがえない。ウルクにはうかがえなかった──が。
仇。父の仇と、彼女は確かにそう言った。仇討ちのために彼女はその手に刃を握り、失敗した。そして損なった彼女を、ウルクは助けた。危うく四肢の一端が奪われんかという少女を、ウルクは確かに助けてみせた。
だが、それは果たして少女にとっての救いだったのか。少なくともウルクは、はっきりした考えあってのことでイレーヌを助けた──というわけでは、なかった。いわば勢いとでも言うべきか。そんな弾みのようなもので、わざわざ相手方の怒りを買うような行いをしてしまったのだから、救いようがない。ウルクは自嘲げに嘆息する。
長い目で見るならば、助けるべきではなかったのかもしれない。村という全体を優先するためならば、犠牲にしなければならないちっぽけな個だったのかもしれない。そんな思考がウルクの脳裏を掠めては通りすぎていく。もちろん、納得の行く考えとは到底言えなかった。
──瞬間、不意にウルクは室外の騒がしさに気づいた。室外とはそれ即ち聖堂にほかならず、静謐を保っているべき教会に喧騒は何よりも似つかわしくないものだが──現在は別。先刻のような有事の直後ゆえに、村内の男たちが集まっての寄合が開かれているのだ。司祭という立場の者が村のまとめ役をつとめているからこその、これは特例。“彼女を看ていたいのならば”と言い含められていたため、ウルクは部屋に引っ込んでいたのだが。
覗いてみよう。
思考の渦に耽溺していては、気が滅入るばかりだ。気分転換も良いだろう。自分にとってあまり喜ばしくないことが語られているという可能性も大いに存在するだろうが、閉じこもっているよりはまだ良い。ウルクはそう考えて立ち上がり、一度ベッドを返り見て──変わった様子が無いことを確かめ──部屋を出る。
人の気配に誘われるかのようにウルクが向かった先。聖堂の様子を覗き込み、ウルクは大いに愕然とした。慄然と言い換えても良い。
「あー、あー。静粛にー。せい、しゅく、にぃー!」
聖像の前で高らかに声を張り上げる娘がいた。蜂蜜のような色彩のブロンドに、呆れ返るばかりの巨体。白い布切れのような着衣に、羽衣一枚を羽織るばかり。黙っていれば多少は神秘的に見えたのかもしれないが、当人がいささか賑やかなためか、威厳の類はいまひとつ望めなかった。なんというか、残念だった。残念な土地神であるところのフィアーノが、老司祭をさしおいて村の男衆に堂々とその姿を晒していた。
「ほら、サノバク。きみは、ぼくを見たのは初めてじゃあないだろう? きちんと説明してくれなくちゃあ」
フィアーノは悪びれることなく、老父の名を呼び捨てにして命じる。彼はいささか面くらいながらも、集いに集った村の男達に、彼女がこの地の神そのものであることを告げた。即ち豊穣と肥沃をもたらすもの。聖像に描かれしもの。農耕神フィアーノ。そのどこか現実離れした事実に、男たちはひどく驚嘆した。
聖堂の片隅にひっそりとたたずむ四人のよそ者──ウィリアム、エリオ、クロエ、アドナ。事情が事情だけにこの場に引っ張り出されざるを得なかった彼らにとっては、すでに既知の情報であったが。
「して、フィアーノ様。御現れになったことには、いかなる理由で」
「うむ」
土地神の信仰が根底に息づく彼らにとって、神の実在とはさして疑いを向けるようなことでもない。男衆の概ねが納得した様子で、その代表として語りかけるサノバクに向け、彼女は大仰に頷いてみせる。
「なりゆきを見守ってたのだけれど。どうもぼくにとって話がよくないほうに転がりそうでね。──賊の者共に歯向かったせいで、いったいどんな手打ちをしてくるかもしれない、そういう話だったろう?」
フィアーノの明るい声色が、厳正な聖堂へと場違いなほどに響きわたる。その表情に浮かんだにこやかな笑顔には、深刻さというものが一片たりとも見受けられない。しかしそれは同時に、見るものの不安を拭い去ってくれるような満面の笑みでもあった。さざめく雨音にも負けないくらいの底抜けの日向。
「ゆえに先走った行いをしたものは責任を取るべきだ。そのものを突き出せば無茶な仕打ちはされるまいと。まあ──そうだねえ。一理は、ある」
押し黙ったままの男衆は、しかし無言をもって首肯する。当然、あるいは自然の帰結。全のために一は切り捨てられる。生き残るために、生き長らえるために。あるいはそれを酷薄と感じる心があるのだとしても、しかし他の手段など探り当てられるはずもない手詰まり。群体として存続し続けるのならば、犠牲は容認するほかないという諦観に──
「でも、それは不要」
それはさながら、差し伸べられた救いの手。
「そのものたちは使者。このぼくが差し向けた“神の下僕”。敬虔なる使途だよ。彼らがいかようにも解決するだろう。仕打ちなどおそれることはない。彼らがひれ伏すのは────このぼくにだけなのだからね」
いかにも大仰にフィアーノは、ウィリアムたち四人を指先で示して言い放った。どよりと男衆がざわめき、沸き立つ。彼ら一行に注がれる視線は、そのおおよそが訝しげなものばかり。それもそのはず、彼女の言葉はそのことごとくが──思いついたことを口走っているかのようなでまかせに過ぎないのだから。
アドナは大いにうろたえた。当然だ。そもそもが無茶振り極まりない。エリオはやれやれとでも言いたげに肩をすくめ、クロエは困ったように首をかしげながらも、つんつんとウィリアムの肩を柔く小突いた。そして少年は膝をつき、覚悟を決めた表情で厳かに口を開いた。
「フィアーノ様。直々に御手を煩わせた事、真に申し訳もございません」
──と。
この上ない茶番で、しかし渡りに船とばかりに。彼女がこちらを利用するのならば、逆にこちらからも利用し返してやれば良いのだと。半ばやけっぱちで、ウィリアムはそのでまかせに応じた。そしてこれは、助けられたわけでもなんでもない。大衆の目の前で、事件の解決を確約させられたということ。元よりとも言うべきか、もはや逃走はかなわず。少年はいまだその身に傷を残した容態ながらも──堂々として大見栄を張る。
もちろんのことだが、ウルクからすればこんなでまかせは見え見えだ。ウィリアム達は、ただの旅人に過ぎない。サノバクでさえも看破し得るだろう。怪しいとだけならば、誰もが感じるところに違いなかった。
しかし誰もが、そのことを口には出さなかった。
「いかようなる手段をもってしても。迅速な事態の解決をお見せしましょう」
ウィリアムは宣誓する。その言葉が自らを縛り付けることを知った上で。
「──構わないかな?」
口端を吊り上げて、フィアーノは小さく微笑みかけた。異議はない。ゆえにこれをもって、一同は合意したこととなる。“神の言葉”なればこそ致し方のないことなのだと、衆人は決断への言い訳を得た。ウィリアムらは大人しく犠牲に成り下がることに唾を吐き、そしてフィアーノは紛うことなく救いの手を差し出したものとなる。
──なんか、もう、どうなるってんだ、これ。
心中呟くウルクに理解できることは、ただひとつ。当面、彼やイレーヌが犠牲となる必要性は限りなく低くなった──というそのことばかりだった。
「とまあ、ぼくからはこんなところ、かなあ。任せるよ、サノバク」
不意に進行の権限を移譲されても慌てることなく、サノバクは頷いて一通りの注意を繰り返した。戸締りを忘れずに、不用意に出歩かないこと、そして有事の鐘は必ず守ること。勧告と共に解散を命じれば、村民らはぞろぞろと緩慢に掃ける。やがて静寂を取り戻した聖堂で、老司祭は大きなため息を漏らした。
「ふふ。ため息は幸せが逃げるよ司祭」
「こんな面倒になりゃあため息も出るだろォよ」
億劫そうに零れるエリオの呟き。その場に残ったものは冒険者四人、それに加えてウルクと司祭、そしてフィアーノ。この状況を作り出した張本人とも言える彼女は、雨の湿気にも負けじとばかりの爽やかな笑顔を浮かべる始末であった。
「ちょーっと時間的制約を設けただけだよ。そんなに大したことじゃあない──必要なことだもの」
ねえ、と問いかけられるような視線を向けられるウィリアムもまた、静かに嘆息した。やむを得ないことではあるが、なんとも気が重いことこの上ないからだろう。何より少年はいまだ手負いの身である。少し見ただけでも明らかに打撲の傷が目立つような姿。
「まあ、幸いにこの雨だ。僕らが今から行っても追いつけるくらいに行軍は遅れてるだろうけど」
なにせあの大人数だ、とウィリアムは小さく肩をすくめる。
「馬の類を使えれば、それこそ何の問題も無いんスけどね。どんな感じスか」
「乗れるけど、馬の命の保証はないよ」
「……おてあげ、かなあ」
「そんな騎士貴族御用達の技能があるわけねェだろ」
「見事なまでに全滅ッスね……」
ひどく神妙になるアドナ。と、その時──不意に老父の視線がウルクの姿を捉えた。少女の様子を看ていたと思われていたのだろう、何事かあったのかと目を丸くして問うサノバクに、ウルクは苦笑いを見せて答える。
「……元はといえば、俺の引き起こした面倒みたいなものですし」
ウルクにとっても、自らの処遇が気がかりでないはずは無かった。槍玉に挙げられなかっただけでも十二分に有り難い──と言うようにウルクは会釈する。しかしその様子を見て取ったフィアーノは、その巨躯をもってウルクを見下ろすようにして告げる。
「ふうむ。ならばきみは──彼女を助けず見捨てたほうがよかった、と?」
「それが村全体のためならば」
「見上げた考えだ。でも安心していい」
にこりと。
フィアーノは似つかわしくないほどの笑みをウルクに向け、堂々と言い切ってみせる。人間臭さもここに極まれりとさえ思われるような、一言。
「祝祭は幸いと実りによって行われるべきだ。贄なんか無いほうがいいに決まってる。少なくともぼくはね」
まぁ、その分の苦労は彼らに請け負ってもらうんだけどね。そう言って向けられる視線の先、「まかせろって言っちゃったからな」とウィリアムはやけくそ気味に笑った。
夜。夜までに準備を済ませると、ウィリアムは一応の期限を定めた。それが四人に対する猶予期間である。時はすでに夕刻とあって幾許と無い時間だが、些少の休息はあって然るべきだろう。それまでに攻め入る術のひとつふたつが見つかれば良いと、それくらいの気持ちで──ぐったりと少年は寝床に伏した。──思索もへったくれも無い有様だった。
「ウィル。……ちゃんと休んだほうが、いい、ような」
「大丈夫だ。もつ。というかもたせる。──そうだ」
ベッドの裾野から心配の声をかけるクロエを安心させるかのようにそう言って、ウィリアムは頭ばかりを引きずり起こす。ウィリアムには聞いておかなければならない疑問があった。そしてその答えは恐らく、アドナが知っているものだった。
「アドナさん、相手のが妙な剣を持ってたんだ。剣先が平たい両手持ちの両刃」
結局のところ、あの剣はなんだったのか。性質そのものは掴んでいても、しかしその正体そのものがウィリアムは気がかりでいた。その言葉を聞いて、ふうむとアドナはいかにも不思議そうに首をかしげる。
「執行剣ッスね。首落とすための剣ッス。……正直、実戦に耐えるもんじゃないッスよ」
少女のいかにも不思議そうな様子は、その正体が掴めないからではない。死刑執行に用いられる剣だということを知っているからこそ、そんな代物を実戦に持ち出すという違和感を感じざるを得なかったからだ。
「ありがとう。……となると、やっぱり魔剣なんだろうな。僕の剣が真っ二つにやられた」
「おいちょっと待った」
「なんだエリオ」
そいつはちょっと聞き流せねェとばかりにエリオが口を挟む。それは剣そのものが真っ二つに断ち切られたという、驚愕すべき事実そのものに慄く──というよりも、もっと別のこと。
「剣って、あれだろ。あの喧嘩用の剣だろ?」
「もちろんだ。というか僕にあれ以外の持ち合わせはない」
久しぶりに握った真っ当な剣だったんだけどなあ、とウィリアムの惜しむような声は絶えない。しかしエリオが言いたかったのは、そんなことではなかった。すでに眼前に迫っているな危機、切迫した現状を認識してしまったかのような焦燥が、エリオの涼しい顔立ちに浮かび上がってしまっている。
それ即ち。
「──ウィル。お前の武器、無くねェ?」
「ぁ」
完全に。
完膚なきまでに頭から抜け落ちていたと、クロエがちいさな、しかし確かな驚愕の声を漏らした。