Level29:『旅路の一歩』
この世界にも、地図というものが存在する。例えば城塞都市『カタラウム』は大陸南東、その沿岸近くに位置し、この都市を街道沿いに北西へ北上、道なりに進めば大陸の中心、“帝国”へと至る──この程度の大まかな情報が記された地図は、一般の庶民でも入手することが出来た。もちろん、些か正確性に欠けるところはあるが、それでも持っているに越したことはない。言ってしまえば、その日暮らしの冒険者にとって細かな距離など大した差異ではなく、大体の方角と高低差さえ記されていればそれで良いのだ。
「──にしても随分とボロくねェか、地図」
「良いだろう別に! 金貨があるなら飯買うだろ!」
「……すごい、年季……」
街道沿いを少し横にそれて歩む、三者三様の珍道中。あの街を発ってから丸々三日間程、柔らかな土に繁る草原、野宿だの宿駅だのを辿りながら何ぞの足止めを食うこともなくひたすらの歩き詰め──しかしここに至り、休憩以外の意図によって三人の脚が止まった。いまだ太陽は天高くたたずむ日中のことである。
眼前、北の方角には道無き道、彼方にそびえるは高き山々。街道は西へと続いているが、あえて道筋を外れるという選択も無いではない──が。ぼろぼろに煤け、所々に穴があき、端々に切れ目が刻まれた一枚の地図。珍しいものを見るような目で、広げられたそれをクロエが覗きこむ最中、ウィリアムはいかにも似合わぬ羽ペンを片手に天を仰ぐ。
「まァーず。わざわざこっちから“帝国”に行ってやる理由も無ェだろ」
「ああ」
ちょいちょい、とエリオの細長い指先が、地図の中心を指差し示す。こくこくと頷いてみせるクロエ。そのことは一行の確定事項である。
「ッたって、東に行くってェのもな」
「なんも無いな」
「……無いね……」
クロエの、ひどく神妙な呟きが後に残った。いや、何も無いわけではないだろう。東の道無き道を行けば、自然、大陸の東沿岸際に至る。その近郊を当たれば、小さな漁村が少なからず点在しているだろう、という想像はつくのだが、載っていないのだ。地図に。そして、そこからの広がりが無い──
「となると、西、か。真っ直ぐ行くと、“麦穂の国”に行き着くな」
「まァ、はっきりと場所を定める理由も無ェが、ひとまずの目的地としては良いんじゃねェか。補給なりなんなりしてまた発てばいいわけで」
「……当面は、そんなところ……かな」
「問題ない、はず。近隣でも、他の国の属領で面倒は起こさない──と、僕は思う。たぶん」
広げた地図をくしゃりと丸めながら、小さく肩を竦めるウィリアム。かの城塞都市でのことは、“帝国”から遥か離れた遠方であったとはいえ、あくまでも“帝国”に属する領地であったからこそ可能であったという推察だ。
「……だからこその、初動の迅速さ……だろう、ね。……場所を構わない、なら、急ぐわけも……なし」
ウィリアムの所在が知れ、追手がかかり、その手が回るまでの動きが──あまりにも早すぎた。高位の魔術師などが行使し得る、遠隔連絡術式を用いてのことだろうが、そもそもその様な大規模魔法をわざわざ使ってまで急ぐ程のことか、とも思う。少なくともウィリアムにとって、自身の身柄に然程の価値があるとは、思えない。
しかし、事実は事実。ウィリアムが首肯し、立ち上がろうとした瞬間だった。その所作を咄嗟に遮り阻む、エリオの声。
「ちょっと待った──ひとつ、明らかにしとこォぜ」
「何をだ」
「個人的な物でもなんでも──オレらの目的、必要とするもの、旅の理由、その辺をだ」
「金」
即答である。
のんびりと膝に手を突き、立ち上がりながらそうのたまうウィリアムの言葉は、あまりにも即物的に過ぎた。そしてそのあまりにエリオはずっこけた。良い感じに金色の頭から草原に埋まる。何とも間の抜けた光景である。
「いやまあ金はついでなんだけど。ともかく要る。後ろ盾の類も何もない以上」
「ウィル、お前それ元々持ってたクセに自分で投げ捨ててんじゃねェか」
「後ろ盾は後ろ盾だけど、首輪つけられて後ろからリードで引っ張られてるようなもんだ。そりゃあ捨てる」
「あー。そォいうもんか」
「……首輪……リード……」
「クロエさんは何を考えてらっしゃるの!?」
至極、真顔である。遠くを見ている様な視線をどこかへとそそぐクロエの姿に、訝しげな瞳を向けるウィリアム。荒らげた声に、かくりと少女は小首を傾げるばかりである。あァ、とエリオがふと何かを思い出したかのように、言葉を付け加える。
「オレ、別に目的とか無ェから。ヨロ」
「言い出しておいてそれかよ!」
エリオの潜在的気質がダメ人間であるなどということは全く以て今更な事実であり、議論の余地はない。美しく、そして整っているのは顔だけである。うるせェなーオレは無目的な若者代表なんだよ、などと言ってはばからない青年。それがエリオという男であった。──それゆえに、ウィリアムの蛮行などに振り回された挙句の果てにもついていける、奇跡的な付き合いの良さを有しているのかもしれない。
「……個人的、知的好奇心の、充足……」
「知的レベルが蛮族から知識人に……」
「要するに何かワクワクするもん見て回りてェ、と」
「噛み砕きすぎだろ!」
「……うん」
「いいの!?」
問題ないらしい。
こくり、とクロエはウィリアムに向かってうなずいていた。となると、と少年は小さく首を振る。
「最終目標は世界一周、ってところか」
「ついでに武者修業にもなんだろ。丁度良いんじゃねェ?」
「……強くなれば、懇意にしてくれる、人も……いる、かな」
「厄介事も増えるだろォけどな」
ひょいと肩を竦めてうそぶくエリオ。
力というものは、人を惹きつける。良きにつけ、悪しきにつけ。その力がわかりやすく利益をもたらす類のものであったとしたら、尚更だ。どうなるにせよ、うまい話ばかりではない──クロエは難しそうな顔をして唇を引き結ぶ。一方でウィリアムは気楽そうに、ニィと悪童じみた笑みを浮かべるばかりである。
「まあ、まずは──身近な一歩から、だ」
そういって、ウィリアムはゆっくりと歩みだす。ひょいひょいと軽い歩調でエリオが並び立ち、ぱたぱたとその後ろにクロエが続いた。
命を張った、そのくせ酷く気の長い旅は、恐らくこの時になってようやく、明確な指針を──定められたのだろう。
さてそうなれば、歩みのしるべとすべきは、果たしていかなるか。まず中継の拠点とするには、いずれにせよ人が住む地でなければならない。では、人が暮らすために何よりも必要とされるものは、何か。──水である。川か、湖か。水源となり得るもの、それさえ見つけることが出来れば、さほど遠くない場所に、人の存在を求めることが出来るだろう。地図にその存在が記されていないような小さな村となれば、尚のこと。
「…………水浴み、出来るところ、あるかな」
「せめて祈っておこう……」
額に眉を寄せるクロエの表情は、極めて深刻なそれであった。旅慣れしない内は致し方のないことである。そのうち慣れらァよ、とエリオが気軽にうそぶく。──慣れるのは良いことなのか、悪いことなのか。いささか判断に苦しむウィリアムが出来るのは、まさしく天に祈ることのみであった。
水場を求めて歩み続けること、およそ二日と半日。その過程で川の所在を知り得た彼らは、北西へと続く街道からそれて、真っ直ぐに西へ。日は沈み、月が顔を出す段に至って、漸く三人は川のせせらぎを耳にすることが出来た。彼らは同時に、足を止める。
人が倒れていたからであった。──というか、どこからどう見ても、行き倒れであった。
「……どうしよう」
「ってェかまず、生きてんのか?」
「……ん」
伏した人の形を前にして、ひとまずその正体を確かめんと、クロエがその手に持つランタンを近づけた。そばかすの目立つ、赤毛を三つ編みにした少女。女性用のローブなどではなく、だぼっとしたズボンを身につけているためか、どこか少年のような印象を思わせる旅装束。年の功は、ウィリアムとそう変わらないか。暗闇に薄ぼんやりと浮かぶ肌は健康的な色合いで、灯に照らされて、少女は俯せのまま、ひくひくと睫を震わせていた。
「息はある、か」
視線を落とし、少女の様子を見て取ったウィリアムが、ほうと息を吐く。
「……どう、しよ、っか」
「放っておくにも忍びないし、取りあえず起こ、ってなにやってんの!? エリオなにやってんの!?」
「え?」
別に何もしてねェけど? と言わんばかりに──あるいは当然のごとく。屈みこんだエリオは少女にその身を寄せ、堂々と懐をまさぐっていた。手癖の悪さはまさに一級品と言えよう。しかも、いささか田舎臭さの目立つ風貌とはいえ、女人である。良からぬ行いをしているようにしか見えない。エリオの外見をもってしても、余裕で黒だ。
「金目のもんのひとつでもってェね」
「……さすがに、ちょっとひどい……」
などと、少女の頭越しに、呑気な言葉を交わす最中。
ひっ、という引き攣った音が、不意に聞こえた。エリオの漏らす調子良い笑い声のそれとは異なる、かすかに上擦った声。ウィリアムが視線を落とす先、少女が、目を覚ましていた。瞳を真ん丸に見開いて、驚愕にわなわなと口唇を震わせる。
少女からすれば、目覚めたばかりであるにも関わらず、眼前に三人の人間という状況。不審に思われても無理はないか。エリオはがしがしと億劫げに金色の髪をかき乱す。ふーむと頷くと、先立ってウィリアムが口火を切った。膝を屈め、少女に視線を合わせる。
「あー、君、だいじょ」
「……お、お助け、を、い、い、命だけは、勘弁してくだせえ──!!」
──命乞いから入られた。
敵意は無いと説得し、危害を加える意図もないと宥めすかすこと暫し。まずもってして、どうしてこんな所で行き倒れていたのかとウィリアムが問うくだりになって、少女は突然に「ああっ!?」と叫び声を上げた。びくんっ、とクロエの掲げる灯が跳ね上がるように揺れる。
「なんだどうした! 落ち着け!」
「忙しい娘さんだァなー」
どこ吹く風の様子で着々とキャンプを敷設するエリオ。調度良い区切りの上に、周囲は最早、天然の光など星ばかりとしか言いようのない真っ暗闇。これ以上の進行は危険である上に、明日にも差し支えるだろうという判断である。クロエはその小さな素足を晒し、川の清流に浸している。そもそも基礎的な体力が伴っていない以上、休養も彼女にとっては必要なつとめとなるのだった。クロエはちらりと、ウィリアムと少女を返り見て、その様子をうかがうように、ぱちぱちと瞳を瞬かせる。
「えーっと、その、なんで倒れてたかって話ッスよね。……襲われたんス」
「……おそ、われ、た?」
「です」
クロエの不思議げな言葉に、少女は大仰に首を縦に振る。ウィリアムが小さく首を傾げる。襲われたとすれば、今まさに、彼女が無事であるということが、不思議だったのだ。例えば魔物に襲われたとするのならば、生きているはずもない。しかも軽く周囲を見渡した限りでは、魔物の存在は見受けられない。
魔物とて、住家がある。洞穴、森林、天然の建築物。どんな形をしているにせよ、そこに多くの魔物が生きる限り、そこは人間にとって──“迷宮”と呼ぶに値する。しかしそれらしき物は、近場には見当たりそうになかった。
「襲われた、というと」
「賊ッス。気づいた時には囲まれてて、どうにも」
人か、とウィリアムはうそぶいて、肩をすくめる。
気の利く慰めの言葉を思いついたわけでもないが、ウィリアムは少女に視線を戻す。──と、少女は何やらもじもじと、物も言いづらそうに、身体を小さくしていた。
「どうかしたんかい。配達物でも奪われたとか。僕らが力になれるかはわかんないけど」
「ウィル、お前はまァた金にもならなさそォな話を、ついさっき定めた金ってェ目標は──あ、クロエ、火、頼まァ」
「……ん。わかった」
エリオの言葉に、クロエは水辺から生白い素足を引き上げると、積まれた薪に歩み寄る。第一印象としては怪しくはあるが、暖かみの──というよりはむしろ、なんとも気の抜ける印象を与える光景ではあるか。少女は意を決してか、一世一代と言わんばかりの気迫をもって、ウィリアムに詰め寄った。
「私は商人ス。で、賊がマヌケなおかげで、品は無事だったんスけど」
「うん」
────ぐぎゅるるる、と少女の腹が鳴った。
「……食料全部とられたので、わけてほしいッス。──無料とは言わないッス」
「残り、どんくらいあったっけか」
「……一週間分、くらいは……あった、よ」
「まあ、多分持つんじゃねェー?」
彼らの言葉に応じて、ウィリアムは、そっと頷いた。
話の流れを掴んでか、少女の顔がぱぁっと明るくなる。夜の暗闇にも関わらず、心なしか眩いような気さえする。
「ありがてえ……! このアドナ、恩に着させてもらうッス……!」
勢い良く、その頭を下げる少女、アドナ。
三つ編みの髪がそれにつられ、ゆらゆらと揺れる。
「……それ、じゃあ……ご飯、に、する?」
かくり、と小首を傾げるクロエ。薪にともる火は天に燃え、明かりは野生を遠ざける。決して確実ではないが、少々の安全は確保されたか、というところでの、少女の申し出。それにウィリアムが頷きかけたところで──ちょいと待ったと、エリオが手のひらを突き出して制した。
「……ど、どうか、したんっスか」
「隠れてっけど、周りに結構いやがる。人だァな。こりゃあ」
灯が見えた──と、エリオは静かに呟く。驚嘆すべきその視力は、暗幕を通してでも発揮されるようだった。生憎なことに、ウィリアムには視認することが出来なかったが、しかし気配くらいのものなら、感じられる。
「この辺で張って、襲ってる可能性もある──か」
「……どう……する?」
炎の影、ゆらりとクロエの瞳がウィリアムを見上げる。打って出るか、それとも迎え撃つか。判断を委ね、張り詰めた空気を感じ取ってか、アドナはにわかにその表情を引き締めた。
「そう、だな。……クロエ」
呼びかけに、少女はこくりと頷く。
ウィリアムは大真面目な顔をして、言い放った。
「夕餉の準備、頼んだ」
「……わかった。……磐石に、しとく」
「それでいいんスか!?」
「じゃ、ちょっとオレとウィルで行ってくらァ」
「ほんとに大丈夫なんスか!?」
ウィリアムは剣を、エリオは弓を。それぞれ片手に立ち上がる姿は、あまりに平然と。さほど年も変わらない少年二人、アドナの目にはいかように映ったか。少なくとも、それほど頼りがいのある姿には見えなかったかもしれない。先刻までの、どこか穏やかなやり取りを挟んでいれば、尚更であったか。
「しょっぺえ物盗りくれェならなんとかなんだろォよ」
ひひと何気なく笑ってエリオは言い切る。その様子は、常と何ら変りないほど。
だからか、余計にそれは、異様に見えた。
「大丈夫だ、アドナさん。速攻で行ってくる────空腹は、僕もだ」
剣を握るウィリアムは、ニィと口元を歪めて、笑みを浮かべる。──飢えた獣のそれに似ていた。