Level3:『賞金首との戦い』
ウィリアムは剣の一本を鞘に収め、そしてもう片方の剣──未だ毒塗りのそれ──を両手構えにて、静かに彼方を見据えた。刃の向こう側に佇む、悪鬼を、しかと据える。青色肌の鬼。異形の魔物。ゴブリン等の隊長格──ゴブリンチーフ。静かに、沈んだ瞳が観察する。今にも此方を食って掛からんとする鬼の姿、それは良く見ればどうやら──手負いのそれであった。深手ではないが、しかし身体の動かし方や関節の駆動に、そこはかとない“ぎこちなさ”が見受けられるのだ。とはいえウィリアムにとっては、例えその条件であっても真っ向勝負を挑める戦いではないということに、変わりは無いのだが。
ふるふると、横に振られた首を思い返す。少女はここから逃げられない。長距離に渡って通常通りに歩き続けることは、困難。ならばとウィリアムは考える。開けた平原であるこの場所において、不意の一撃など望むべくもない──即ち撃退は困難。だがしかし、長時間こちらに彼奴を引きつけることは、不可能ではないのではないか。彼女さえ逃げ果せてくれれば、手負いのゴブリンの頭領程度、一人で撒く手段くらいはどうとでもなろう。そう考えた所で──静かに刃を構える。相手方の出方を待つ。
瞬間、咆哮が響いた。知性の感じられない音響。魔物の威圧。風を切り、一足飛びに飛び掛る姿は、ケダモノと称するに些かの躊躇いも覚える類の所作。早い。それこそ、待ちに徹していなければ、ウィリアムごとき三流の剣士は、一撃で仕留められてしまうほどに。振りかぶられた剣が、真っ逆さまにウィリアムの脳天へと、落ちる。愚直に一直線に振り落とされる。その前動作。振り下ろされんと、掲げられた刃に、力を込められる瞬間────ウィリアムは、その一瞬を狙う。その一閃が莫大な威力を得る直前、両手に構えた剣を、下段から切り上げる。その動きには淀みなく、迷いがない。初めから、狙いはこれだった。何度も想定し、シミュレートし続けた、動き──その結果を出力する。刃と刃が撃ち合い、火花を散らした。
がきんっ!
硬質な金属音と共に、刃が跳ね上がる。にわかに仰け反りを見せるゴブリンチーフ。純粋な膂力に圧倒的に劣るウィリアムは、その力が発揮される前に、生かされる前に、殺す他ない。そして、その剣を見事“剣技”によって跳ね上げせしめても、ゴブリンチーフは、その剣を手放しすらしないのだから、脱帽だ。脳内麻薬が溢れでそうになる。脳内の思考を冷却しながら、斬り上げた剣を──落とす。その肩口へ。
「──喰らえッッ」
ずぐりと、突き立てる。突き立て、深々と抉り込む。剣先に塗りたくられた毒のあまり、その全てを肌の内側に摺り込むかのように、突き刺す。吹き出す血流。そしてその剣を引き抜きすらせずに、一歩距離を置きながら、腰に携えた剣を抜き放つ。刃を抜く暇すら、惜しい。その剣を向け、身体ごとぶち当たるように突き立てる。その土手っ腹へと、剣先を進ませる。穿つ。同時、轟く聞き苦しい叫び声。少しは効いたかくそったれ、ウィリアムは毒づきながら、脇腹を掻っ捌くように刃を横一線に切り抜け、振り抜く。──そして痛みすら厭わず、痛みを凌駕して、再度化物は刃を振り上げた。
「……あ」
「──ああッ!?」
危機を悟る声が、背後からもまた聞こえた。クロエの涼やかな音。まずい。それによって悟る。眼前の光景は、まぎれもなく現実である、と。まずい。この距離からではいかようにも切り込まれる。ウィリアムはそれを理解した瞬間、剣の柄を握るがままに拳を握り、固めた。一歩、バックステップ。そのまま踏み込みながら、振りかぶった拳を振るう。
ご、ずっ……! と、響く鈍い音。剣閃では遅い。それでは届かない。届くよりもなお速く、刻まれてしまう。ゆえに拳。顔面を、ぶん殴る。その感触は、まるで──鉄板か、鋼でも殴りつけたかのような手応え。拳ばかりが熱を持ったかのように、疼くような痛みを覚えていた。当の魔物は、まるで堪える様子がない。互いの間合いを開く結果にすら、至らない。自然。一閃が、ウィリアムの身体を、抜けた。
ぱしゃんっ。弾ける赤い色。全身を走り抜ける、まるで身を焦がすような熱と、激痛。身体が真っ二つになったかのような衝撃。あるいはあと一瞬遅れれば、事実その通りになっていただろうが──ほんの一瞬、身を跳ねさせ、致命は避けていた。致命の傷は、確かに避けた。しかし致命傷に限りなく近い、一閃だった。ウィリアムは、ぎちぎちと歯を食いしばり、苦悶の声を上げる。苦鳴の言葉を噛み締めて、飲み込む。怨嗟の呪いを殺意に換えて、刃に乗せ、その矛先を──目の前の異形に向ける。吐き出しそうになる弱音を噛み殺し、堪えながら、ぜいぜいと息を吐く。胸から胴にかけてを真っ直ぐに切り裂かれ、斜めに走り抜けた傷。とてもとても、無視しておいても構わないような傷ではない。間断なく溢れ出す血流の激しさが、それを雄弁に語っていた。そして、ウィリアムはそのことを自ら確認する余裕すらなかったが──しかし確かに、身体の熱が急速に失われていく状況を、リアルタイムに体感していた。早いとこ仕留めるか、逃げ果せるか。血に濡れた剣を構えたまま、背に向け、気にかけてくれるなと視線を投げかけようとしたところで──
忽然とクロエの姿が、消えていた。
良しと頷く。良いタイミングであった。今この時を逃していれば、これ以上の時間稼ぎは不可能に近い。逃げてくれたかとウィリアムは確信し、そして顔を上げた。自分もまた、こんな所で死んでやるものか──駆け出す構えで、ずしゃりと踏み出す一歩。身を屈め、地を踏み締め、手のひらを大地に手繰らせる。獣にも似た前傾、突貫の姿勢。がづんと音を立てるような勢いで、地を蹴り出して、ウィリアムは飛び出す。己が身を一本の矢とするが如く、駆け出す最中に、“ゴブリンの首”を全力で振りかぶって──ゴブリンチーフに目掛け、投擲する。悪逆の所業に、ゴブリンチーフは応えた。怒り。それは、怒りの声であった。仲間を冒涜されたかのような、その死を嘲笑われたかのような怒声。
──知ったことか……!
払いのけるか否か、怪物に生じた逡巡を、抜け目なくウィリアムは見逃さない。死骸の頭部がその身を打った瞬間に、躍りかかる。先刻突き刺した胴の傷を狙い、突剣。剣先から、一直線に貫く。響く、悲鳴じみた奇矯な声音。それに気圧されることなくウィリアムは、その青色の肌の肩口に“突き刺さった”ままとなっていた剣を、咄嗟に引き抜く。悲鳴は物狂いのごとき怒声へと転ずる。溢れる夥しいほどの血流が、刃にまとわりついていた。構うものかと息を吐き、剣を翳したその時だった。
突如として、猪突猛進。命の危機を、危険を省みず、まるで“死に物狂い”そのものの有り様で──ウィリアムに振り下ろされた、一閃。
がきんっ!!
響き渡る、鋼音。ウィリアムが真っ向から、まともにその刃を、受け止めてみせる。見事に受け止めてみせた。否。そうではない。受け止めて──しまった、のだ。反射的に、死への恐怖から、その刃を掻い潜ることままならず、構えた剣で押しとどめる。手遅れに近しい、圧倒的な失策。押しとどめれば、ウィリアムの膂力は、魔物のそれにはるかに劣る。即ち──後は押し込まれる他、ない。例え相手がどれほどに傷を負っていようとも、毒を含めども。あるいは死力を振り絞る敵は、常以上の膂力を発揮しようか。そもそものレベルが違う相手との力比べは──無謀以外の、なにものでもない。
歯を食いしばる。刃を食い込ませまいと、力を込めて堪える。しかし、僅かばかりも押し返せないどころか、押し込まれる。追い詰められる。どうしようもなく、追い込まれる。純粋な実力差という現実は、力量差を物ともしない奮戦、善戦を──たった一撃で引っくり返す。世は無情だ。この世に神はいない。ウィリアムはひとしきりいもしない神を呪い、覚悟を決めた。一息に殺されるか、緩慢な死にくびり殺されるか。どっちにしろ御免だが、あいにくウィリアムには、その程度の選択肢しか与えられていない。彼に、都合の良い運の持ち合わせは、すでに無い。持ちこたえたとて、第三者による助けなど、望むべくもなかった。都合の良いことは、そう何度も──起こらない。
まあ、良いか。
人一人、助けて死ねるのなら、僕の人生も────
そんなに、無意味じゃあなかった。
ウィリアムがそう己に言い聞かせた時、起こった現象は、だから都合の良いことでもなんでもなく───至極当然の、帰結だった。するりと、懐に忍ばされるように、何気なく差し出されるかのように──ウィリアムの眼前に、“死”が滑りこんでくる。目の前の、ゴブリンチーフの咽喉に。突き付けられた。そしてそのまま突き込まれる。背後から魔物の咽喉を貫き、そして突き出た刃が、ウィリアムの目にも見えた。
「な」
んだって、と。声すら続かないほどの驚愕を、ウィリアムは覚えた。ただただ、驚いた。ありえるはずがない、と思ったことが、起こってしまっていたからだった。彼は確信していた。だから、恐らくは誰よりも、目の前の出来事に驚いていた。あるいは今、その生命を貫かれた、ゴブリンチーフ以上に。彼は、確信していたのだ──クロエという名の少女は確かに逃げ果せたはずであった、と。
ゴブリンチーフの背後に、彼女は、クロエはそこにいた。ウィリアムが、逃げ果せたと思い込んでいた少女の姿はそこにあった。真っ当には動かない脚を引きずって、身を這い蹲り、先刻に撃破したゴブリンが所持していた鉄の剣を、得物にして──そっと、敵の背後に回っていたのだ。まるでウィリアムの慮外から、そして、ウィリアムを殺害することに注力していた魔物の、盲点から。ただただウィリアム目掛けて刃を押し込もうとしていた結果、無防備に晒された隙だらけの背を狙い──その咽喉を、突いたのだ。
そして驚愕も一瞬。後は流れるように、ウィリアムの身体が駆動する。半ば反射のレベルで、動き出す。生きるために、生への渇望を原動力に、力の抜けたゴブリンチーフの剣をさばく。そのまま喉元へと、刃を突き入れた。捻る。肉を抉り、横一線。掻っ捌き、切り開く。一片の容赦すらなく、ただただ自分が──自分たちが──生き残るために、殺す。声にも、音にすらもなりそこねた断末魔を残して、倒れる身体。その身を看取るものは、すでにもう亡い。
「クロエ」
強敵を、随分に格上の強敵を、撃破したものだとウィリアムは思った。二度は出来そうもない。未だ高鳴ったままの鼓動が収まらない。とはいえ、受けた傷も決して浅くはない。己も、そして彼女もだ。すぐにでも町に戻って然るべき処置を受けなければならない。ゆえにウィリアムは、その背にクロエの身体を負ぶさりながら言う。
「逃げれたんじゃなかったのな……」
「…………」こくり。
「一度ならず二度までも──ちょっと離れときゃそれで良かったろうに」
背に彼女の重みを感じれば、そのまま駆け出す。傷そのものはウィリアムの方が深いだろうが、しかしウィリアムは剣士である。肉体が資本だ。即ち、少し休みさえすればどうとでもなる。が、いかにも身体の弱いクロエは、そうも行かないだろう。現在の出血量を鑑みれば、結構にのっぴきならない状況であると言えた。かなり、危うい。
「…………」ふるふる。
「うん」
「……誰が私を運ぶの」
「それもそうだった」
それだけ、と少女の嘯く声。ははと軽く笑い飛ばしながら──ぐったりと小さな頭が背にもたれかかってくる感触を感じて、駆ける足並みを幾許か早めた。果たして彼らを追い詰めるかのごとく、天は曇りだす。
一雨来そうな空模様であった。