Level26:『旅のお供に道連れを』
「──ウィルは」
「うん」
至極賑やかな、市場であった。城塞都市カタラウム、その中央広場。そしてこの広場に面して連なる通りに、朝早くから人と人がごった返す。有象無象の区別なく、それが流れの商人であろうとも構うことは一切ない。否──客が何者かなど、そして売り手が何者かなど、究極的には関係が無いのだった。商品が真物で、それを前提とするならば、後は金が全てだ。
揃わぬものは無いのではないかという市場にただ一つ、“奴隷”という商品の影は見られなかったが──それはまた、別の物語だ。諸々の生薬の材料、その仕入れ分にポーチを一杯にさせたクロエは、通りを共に歩むウィリアムを見上げた。
「……旅に、いちばん、必要な、ものって……なんだと、おもう?」
「……うーん」
一番っていうと、難しいな──と、うそぶきながら、ウィリアムは小さく首をひねる。そうしながらも、左右を見渡し歩みをすすめる最中、ふと唐突に足を止めた。通りに並んだ商人の一人に歩み寄り、なんぞかを所望する。
「……それ、は?」
その様子に、後ろから控えめにクロエが覗きこんでくる。手のひらの中で金貨の枚数を数えながら、ウィリアムは彼女に向き直る。
「一番かはわからないけど、僕は大切なもんだと、思う」
「……?」
「────油」
大真面目である。極めて真剣な表情で、ウィリアムはそういった。少女の瞳が、ぱちぱちと瞬く。どこか不思議そうであり、あるいは興味深げでもある表情だ。金貨と商品を受け渡しあい、少年はその手に油袋をぶらさげる。ワイングラス数杯分、といったところか。
「正直、値は張る──けど、用途が広いんだ。照らす範囲も松明なんかよか広いし」
単に火をつけるにも必須だし獣肉なんかも油引いて焼けば大体はなんとか食えるんじゃないかな──とウィリアムは指折り数える。何とも大雑把な思索ではあるが、強ち間違いでもない。そして何より、沸き立った油をぶちまけてやれば、物理的手段が通用しない魔物であっても、幾ばくかの効果が得られる可能性がある。これは着目すべき点であろう。
「……夜には、やっぱり、大事?」
「だなあ。クロエには光明の魔法があるけど、それも人に寄るもんだし、それに費やす魔力を惜しんだって惜しくはない、と思う」
「……たしかに、高いし……ね。……“マナの水”……」
クロエはにわかに憂いを含んだ表情で、ぽつりと呟く。
マナの水。その名の通り、魔素と呼ばれる物質を多く含む水である。この物質は自然界に存在するが、例えば大気の様にどこにでもあるようなものではない。服用者の魔力回復を促す、天然の道具──これが実に高価だ。
土地の条件にもよるが、そもそも水が安からぬのだ。この街にも公衆浴場というものが存在する以上、公的な場においては上下水道が整えられているわけだが、それが一般の家々にまで行き届いているかといえば否である。無いわけでもないが、しかし水浴びに遠慮無く使えるほど潤沢でもない。
マナの水の源泉が近場に存在するか、そういった条件によって地域差はあるが、安くとも、ワイングラス一杯分につき金貨一〇枚は下らない。これは一般的な植物油の五倍程度の価格だ。
「美容、っていうのか? 香水だのに使うみたいだけど、僕はよくわからん──クロエは、そういうのは?」
「……作り方は、しってる、けど……私は、あんまり」
「ふーむ」
確かに、幼気なクロエに似つかわしくはないか──とはウィリアムの思考だ。とはいえ、その少女が如し容貌ゆえに忘れがちなことではあるが、クロエは年頃の女性である。十九の齢である。一言に若いとは言い切れないかもしれない、旦那と子がいても決しておかしくはない、そういう年代だ。箱入りに育ち、マイペースに隔世じみた生を刻んではいるが、果たしてクロエ自身は幼く見られることを煩わしく思うのではないか──と、ウィリアムは思う。
「……使うときは──いざという、とき」
「何知識だよ!」
「……おばあちゃんが、いってた」
「オォウ……」
色々と余計な思考が吹っ飛んだ。何教えてるんだクレハさん、いやむしろ何考えてるんだクレハさん。若き少年にとって、老年の彼女が何を考えているかなどとは全く及びもつかないところである。
「あー。でもあれだな」
「……どうか……した、の?」
クロエの問いかけに、バツが悪そうにがしがしと灰色の髪を掻きむしるウィリアム。
「僕なんかはともかく、人によったら香水とかが大切かも」
「……? ……あー……うん……」
一瞬、疑問符を浮かべたクロエの表情が、ぽんと納得に手を打つ。──長き旅の道筋ならば、湯浴みなどもっての外、清涼な水にさえ触れられぬことなど決して珍しくはあるまい。水の属性に分類される魔術師の力に頼るのならば、話は別だが──否が応にも身体は汚れ、申し訳程度の対処は出来るだろうが、それでも抜本的な改善は望めないことが多い。その上、手間である。──となればその場凌ぎとして、最も手軽なのが香水だ。
クロエは、途方もなく神妙な表情で口元を掌で覆い、頷く。
「……考えて、おかなきゃ」
「えっ」
「……?」
かくり、とちいさな頭が傾ぐ。ひとつに結われた黒髪が、ゆらりと揺れた。
──加えてウィリアムが保存食などを買い足しながら、やがて商人の列が途切れるまでの通りに至る。「エリオも用事済んだろうし──そろそろ戻ろうか」と、クロエを返り見ながらの、少年の問い掛け。
「……うん」
こくりと頷きながら、クロエはウィリアムを見上げた。
真っ直ぐな、曇りのない蒼穹が、ウィリアムの双眸を見つめる。
「……ウィル。……おぼえて、る?」
「何をだろう」
「……かんがえとく、って、いったこと」
はてなとウィリアムの脳裏に浮かぶ疑問符。ほんの少し前に交わした言葉だ。「香水でも見てくか」と、ウィリアムは何気なく、本当に何の気なしにそう言った。だからこそ──彼は、驚愕した。戦慄したと、言い換えても良い。
「……ううん」
クロエは静かに首を横に振る。
「……世界をまわる、こと」
彼女の視線は、定まったまま、揺らがない。
──覚えていないわけもない。あの日に、“わけあり”の彼女が背負いこんでいた面倒事が、全て片付いたあの日に、交わした言葉だった。たわむれのようだったと、思い返せば悔やんでしまうような言葉だった。しかしウィリアムにとっては、本心から出てきた言葉以外の何物でもなかったからこそ、悔やむのだ。自分がこそ、面倒な背景を背負いこんでいたということを。
「クロエ、僕は」
「……わかって、る」
狙われてることは、私も知っていると、ウィリアムの言葉を聞くよりも早く、クロエは答えた。真っ直ぐに視線を逸らさぬまま、明言する。少年は──二の句が告げない。知っているのならば、わかっているのならば、当然のように承知しているはずだ。それによって起こり得る面倒も、被る災厄も。全て身の危険に直結せざるをえない事実。
クロエは決して愚かではない。むしろ聡明だと言っても良いだろう。以前、レイヴンとの邂逅の折に見せた洞察力などは、その顕著な例である。いわば、相手の背景にあるものを察する能力に長けているのだ。
「……知ってる。……承知の、上」
「それなら」
ゆえに、ウィリアムが言いかけた言葉の内容を汲み取ることなど、造作もない。彼の性格を鑑みれば、なおさらのことだった。ならばこそ、合理的な思考の流れならば、断るほかない選択肢だった。命を懸けて日々を生きるからこそ、命というものを優先する冒険者ならば。
しかしこの時、クロエは冒険者でさえなく。
「……いこう。いっしょ、に」
真っ直ぐで、そして頑なな、ただの一人の少女だった。
うーあー、と呻き声を上げながらがしがしと頭を掻きむしるウィリアム。それは頭を抱えるにも似た姿である。クロエから向けられる迷いのない瞳が何とも辛い。やましさが無くとも目を逸らしてしまいそうになる、そういう真っ直ぐさだ。
「クロエ──クロエには、家も家族もある」
「うん。……帰る場所、だから」
……ぜったい、帰ってくるんだと、クロエは笑った。聞くにつけ、クレハ曰く、店の方はクロエが不在であっても何とか回るらしく、それは都合の良いことに、ネロという存在があってのものだった。
「……ウィルは、いろいろ……抱えすぎる、から」
「元より僕が運んできたような厄介だ」
「……でも、私のときも……そうだった、もの」
「それを言われると痛いな……」
そのことについては、ウィリアムにとって自分から勝手に首を突っ込んだも同然のことだが、それゆえに言い訳が効かない。ならばこそ今回のことで、例えばクロエが彼女自身の意志で首を突っ込むことを、否定は出来ないのだ。それでは道理が通らない。額を掌で押さえるウィリアムに、屈託なく少女は告げる。
「……私は、ほしいものが、ある。それに──」
きっと、楽しい、よ。
含羞むように、その表情をほころばせるクロエ。それは、いつかウィリアム自身が彼女に向けた言葉でもあった。だからウィリアムが返せた言葉は、「一日、僕にも考える時間をくれ──」という時間稼ぎに過ぎないものでしかなかった。しかしそれでも、クロエは笑みと共に承知する。
二人が歩む先は中央広場。その南門側に位置する大時計台。それが前もってエリオと定めておいた合流の際の目印であった。艶やかな金髪、鮮やかな碧眼。眉目秀麗と言っても過言ではない青年の姿は、遠目でも良く目立つ。エリオはすでにそこにいた。もっとも、口を開けばたちまちに口の軽い軟派な男が一人出来上がるばかりなのだが。彼の姿を見とめたウィリアムとクロエが、ひょいと人混みの中から片腕を掲げたその時だった。
面を突き合わせ、開口一番、エリオは言った。
「ウィル、おまえ指名手配食らってるみてェだわ」
「ああ!?」
「……わあ」
愕然、というべき反応である。
「手配っつっても、この辺の貴族様だか御領主様だか──つまりその周りくれェみたいだけどな」
「世間を騒がせるつもりはない、か」
「……にしても、どこで、聞いてくるの……そういう、の」
感心したような、呆れたような口振り。見上げるクロエの半目に、エリオはひひひと笑い返す。「人の口に戸は立てらんねェ──まァそういうこったァな」そう言って肩をすくめれば、さてとエリオはウィリアムに向き直る。
「どーォすんべ」
「……そうだな」
ウィリアムは瞳を眇め、腕を組み、数瞬、思索する。その様子をじっと見守るクロエ。
「出立は出来るだけ早める、か」
「庇護がある内は、ってのも考えられっけど。まァそうなるか」
「……長く、なるだけ、むずかしい……かな」
「──言っとくけど、さっきのこと、決めたわけじゃないからなクロエ……!」
「だいじょうぶ。……勝手についてく、だけ」
「あァそういう流れかァ」
ひひと引き攣った笑いを吐き出すエリオ。もうどうにでもなれと、ウィリアムは半ばやけっぱちに双手をかかげた。世の冒険者には、遥か昔から伝わる素晴らしき文言が存在しているのだ──“旅は道連れ”と。
城塞都市カタラウムは、大陸の南東に位置する小さな都市だ。それがゆえにか、南と東には特に街道が整備されていない。しかしそのことを差し置いても、南門の異様は際立つ。まず南門は、門と呼ばれてはいるが、原則的に開かない。一応の見張りが置かれてはいるが、閉ざされたままの開かずの門。それは数年と遡る──かつて魔物の大攻勢を受け、そして封鎖されてからの名残だった。何せ大陸の隅っこに位置する城塞都市。門の改修に着手すべきだと議題にはあがるが、必要性は低く、どうしても後回しにされてしまいがちなのが現状である。
──依然と聳える不動の門。銀月を冠する夜空の下、一人の女剣士、アルマは静寂と共にたたずんでいた。薄手のチュニック、鋼鉄のリングメイル、青白のサーコート。短く切り揃えられた赤髪が、肩を撫でるようにゆらゆらと風にたなびく。
「……ハ」
ゆっくりと見上げる空、高き月、溢れる吐息は色も無し。彼方の時計台は十の刻を指し示していた。腰にさげた剣の柄を握るアルマの手に、知らず知らずのうちに力がこもる。
程なくして、かつりかつりと、石畳を叩く響きが聞こえた。灰色の髪、薄暗い瞳。布の服に外套を羽織る、軽装の少年。塔にともる灯り、そして空に輝く月光。暗中を照らすはそれらばかりの薄闇の中、その姿は紛うことない。ウィリアムだった。
「待たせた」
「……久しいな」
ゆっくりと向き直るアルマ。久方振りであるにも関わらず大して語る言葉などなく、濃紺の視線がウィリアムを射止めるばかり。彼女は間もなく言葉を続けた。
「────殺す気で、来い」
かつて交わした刃はいわば偽。他の目的のために、あくまでも手段として剣を抜いたに過ぎなかった。少なくともウィリアムとしては。そこに相手を打倒せんとする意志は希薄であり、また、その必要も存在しなかった。勝利条件は彼女を打ち倒すことではなく、別の所にあった。──それゆえだろう、彼女のその言葉は。
今、この場に、約束を果たすという第一義はあれど、究極的には達成すべき目的など無い。刀交わすことこそがこの邂逅の意味であり、意義。ならばそれ以上の言葉は不要とでも言うように、アルマは白銀の長剣を抜剣する。
ウィリアムは、それに応じた。外套を背に流し、鞘より引き抜く。鋼鉄によって形作られた幅広の刃。
月下、輝きを返す刃。両者、相対す。
「──行くぞアルマ!!」
「来い、ウィリアムッ!」
駆け出す少年、掲げる刃。円を描いて振り下ろされる肉厚の刃が銀刃と打ち合い──繚乱と火花を咲かせた。
「ウィリアム君は──そう、行ったのね」
「はい、つい先程」
「わかったわ。……何かあれば、これを渡しておいてくれるかしら」
「……これは」
「きっと荒れるわ。今日は」
「何か、確信でも」
「直感よ」
「──は」
「……ふふ、冗談よ。直感は、半分ね」
「承知致しました。……失礼ながら、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「なにかしら?」
「クレハ様。貴方は何をお考えに」
「娘の幸せよ」
────主従の談話は夜半に流れる。