Level24:『始まりへと至る道』
迷いなく断じるウィリアムの、その少年の決意は、固いようだった。ダークブラウンの双眸が、真っ直ぐとエリオへ向けられている。ハ──と息を吐いて、エリオは指先でテーブルをこつこつと叩きながら言う。
「ウィル、一個忘れてることがあんじゃねェかい」
「なんだろう」
「アルマとの約束」
「────あ」
それを聞いた瞬間、ウィリアムはぽかんと口を開いた後に、あー、と天をおもむろに仰ぎ、ああ、と手を打ち合わせ、漸くと言ったように得心が行った様子を見せる。あまりにもうろ覚えであった。これもまた一期一会のその日暮らし、刹那的に生きる冒険者がゆえの逃れられぬ性と言ったところだろうか。
バリー総合商店私兵部隊長。女剣士アルマ。彼女との約束、であった。
そして、その辺りのくだり──決着を着ける旨──をはっきりと思い出したウィリアムは、大いに後悔した。今ここで、その約束を想起してしまったことを。そして過去に軽はずみな約束を取り付けてしまった自分を。とはいえその時は、彼女の言葉に応えることが“筋”というものだと、ウィリアムは考えていたのだ。果たして過去に舞い戻ったとして、彼はやはり同じ選択をするだろう。
「そうだ……そうだった……やってしまった……ということはあれだろ、アルマと剣戟やってる即ち僕がこの街出てくってことになっちゃうんだな」
ウィリアムの身としては、手紙でも残して知られぬ内に夜逃げする心積もりだったのだが、そうは行きそうにない、という事実が明らかになってしまったということになる。少年にとっては憂慮すべきことである。ぐぬぬと頭を押さえて唸るウィリアムに、エリオは何気なく言う。
「ブッチしちゃおうぜもう」
無責任此処に極まれり。
その言葉に、ウィリアムは渋い表情を浮かべた。
「それはちょっとな……」
いかにも切れがない様子で言いよどむ。がしがしと灰色の髪を掻きむしり、ッとにどうしたもんかな、とウィリアムは大いに頭を抱えた。その様子を、苦悩を──エリオはひひひといかにも気楽に笑い飛ばした。他人事のように、否、身内だからこその適当さ加減か。エリオはエールのグラスを静かに傾けて、それをごとりと机上に置きながら、何の気なしにうそぶく。
「じゃあこうしようぜ──実際に困ってから対応するってのはどォよ」
「現実逃避じゃねえか!」
「おうよ」
思わずがたんと立ち上がるウィリアムに、にやりとエリオは親指を突き立ててみせる。良い笑顔であった。無闇に良い笑顔を浮かべて、応える。「良いんだよ世話になれる内ァならせて貰おうぜ」とは、眠気と酒気の入り交じったエリオの脳髄から吐き出された戯言である。
とはいえ、明日の命さえも不安定な冒険者という立場からすれば、安定して存在する拠点は喉から手が出るほど欲しいものではあるのだが。その観点から言えば、エリオの言葉は幾許かの真実を含む。
「ま、アレもだめコレもだめって訳にゃいかねェだろ。どっかで妥協しなきゃなんねェってのは変わらん」
などと訳知り顔で、エリオは再びエールを喉に流し込んだ。白く整った顔立ちに、不思議と酔いに赤らんだ気配は見られなかった。確かに、その通りだ。腕を組みながら、ウィリアムは大人しく首を縦に振る。
「なんなり話付けて来いよ。オレはちょいとあることないことおばちゃんに土産話しなきゃなんねェし」
お前さんたち出てくんかい、と穏やかな調子で語りかけてくるイルに、これでもえらく長く居着いたもんじゃねェかなあとエリオが答える。視線がゆっくりとウィリアムに向けられると、少年は小さく会釈し、頭を下げた。
「ちょっと色々あったんで。お世話んなったのに、唐突で──申し訳もない」
恐縮した様子の彼に、妙齢の彼女は恰幅良い身体を張って、大いに笑った。細やかなことなど一息に吹き飛ばしてしまいそうな、豪快な笑い声だった。力強い。
「なあに、面倒な仕事を片付けておいてくれたからね、上客さ」
いつかまた来な──という風にあっけらかんと、しかし朗々と。彼女のその言葉に、ウィリアムもまた、ほのかに笑みを表情にほころばせる。少年はそのまま、テーブルの木目に手を突いて立ち上がれば、その場を辞す構えとなる。
「おや、一杯くらい飲っていかないのかい?」
「いえ、十分頂きましたんで──」
ありがたい、と真摯にウィリアムは零して、背を向ける。ウィルの分までオレが飲むから安心しろよォおばちゃん、とはエリオのお言葉。言うたね、と笑うイル。売り言葉に買い言葉か。エリオはゆっくりと腕を掲げて、別れる背を見送りながら、あァそうだと、ウィリアムの後ろ姿に一声、投げ掛ける。
「出てく時ンなったら言えよ。オレもついてくから」
「それは一番先に言えよエリオォオオオオ!!!」
「面倒だろォが付き合わねえ訳もねェだろ、第一だな──」
元より根無し草の無目的、お前ら“二人”の破天荒に振り回されんのは嫌いじゃねェのよ。
背を返り見たウィリアムが凄まじい勢いでずっこけかける様を見やりながら、エリオはひゃははと諧謔的に笑った。
さて、それからの状況を、端的に言おう。
白昼堂々、ウィリアムは襲撃を受けていた。
厳密には白昼堂々とは言いがたい、薄暗く影の落ちる路地ではあるが──後をつけられていたのか、あるいは薬屋に戻るまでのルートに、何者かが張りこんでいたのか。少年とて、全く警戒していなかったわけではないが、ただでさえ休養も満足に取れていない状態──加えて、相手方の動きが早すぎた。先日の騒動から一日と経過していないというのに、この有様。果たしていかなる魔法を用いて情報を伝達したのかは定かではないが、ともかく現在、ウィリアムの首筋には、背後から銀色の刃が突きつけられていた。血管に触れる冷たい刀身。ウィリアムの額に、知らず冷や汗が伝った。
「ご同行願います」
低く、くぐもった声だった。男のそれか。目深に黄衣のフードを被りこんだその姿に、ウィリアムは視線すらをも向けられない。意図せず肩をすくめて、ため息を吐いた。
「用件は」
「申しかねますな」
聞いて教えてもらえるはずもない。そんなことは勿論のこと、試すまでもなく少年も心得ている。ゆえにこれは、ただの時間稼ぎに過ぎない。決断までの引き伸ばし、せめてもの思索の猶予を得ること。恐らくウィリアムの背後についた一人、その一人を打ち倒すことは決して不可能では無いだろうが、しかし単独での行動とも思い難い。ウィリアムというただの個人を捕らえる目的、そしてその利益は、かの帝国に絡んだ事項以外にあるまい。そしてその事が真っ先に通達されるのは、この地に居座るどこぞの王侯貴族か──ごつん。
ウィリアムが思考の淵に至る最中、ひどく嫌な音が響いた。からんと音を立て、刃が地に落ちる。気づけば背後に刺客の気配はなくなっていた。咄嗟にウィリアムは背後を返り見る。
細く鋭利な目付き。乱雑に切り揃えられた茶髪。いかにも破落戸といった顔付きに、しかし装備は手入れの行き届いたクロースアーマー。二十と、その半ばに届くかどうかといった年頃の男。中々に様になった姿のその男に、ウィリアムは見覚えがあった。
「お──おぉ、えーと」
「あぁ? んだ、あの時の、灰髪の餓鬼じゃねえか」
「誰だっけ」
「テメエ」
男の細い視線がぎろりと狭まる。どうやら目付きが宜しくないのは元々であるらしかった。どうやら彼が、ウィリアムを狙った刺客の首根っこを引っ掴み、背後から引きずり倒し、地に叩きつけたらしい。流れるような仕事ぶりである。ケッ、と粗野に唾棄した男は、じろりとウィリアムの姿を覗き込む。
「……まさか本気で忘れたとか言わねえだろうな」
「残念なことに僕はむかついた相手の顔は覚えてる。……ホークか」
然り、然りだよと男は笑って大いに頷いた。
──ほんの数週間ほど前のことか。事件の加害者であると同時に、結果的には被害者となってしまった、ひとつの集団が存在した。十数人の人員、主に破落戸やチンピラによって構成されたならず者の集まり、それは“鷹の爪”と名付けられた小規模のクランであった。男はその長。ホークである。
「って、あれだ、どうして僕は助けられてんだ」
大いに首をひねるウィリアム。男と少年は、利害の不一致の結果とはいえども、かつては敵対した間柄である。憎みあうほどに互いのことを知っていた訳ではないため、大したわだかまりは存在していないが──しかし、違和感は感じざるをえない。
「お前らのおかげ様だよ。というか、お前らのせいだ」
「というと」
「有事にはギルドの私兵、平時には治安維持」
治安維持、クソったれ極まりねえ俺らが治安維持だとよ──と、ホークは自嘲気味に笑った。その言葉に、なるほどとウィリアムは首肯する。“同職ギルド”の手に引き渡された彼らには、そのような処遇が下されていたのかと、漸く得心が行った様子である。なんとも今更、今頃の話ではあるのだが。
「衣食と寝床は保証され、週の末には酒が飲める。全く笑える話だぜ──餓鬼」
「ウィリアムだ」
「良い街だな、此処は」
──俺らみてえなクソったれを受け入れる場所があるんだからな、と。
そんな本当に何気ない言葉に、ウィリアムはなんだか、ひどく気が抜けた気持ちになった。ぶっきらぼうに吐き捨てるようなホークの言葉に含まれていた、幾許かの真実味が由縁か。そんな男の傍らに駆け寄ってくるいかにもチンピラ風情といった男が一人。「なんすかソイツ」「曲者だ」「縛っときますか」「頼んだ、ついでに連れてってくれ」「縛り方はどうするッスかねえ~」「どうでもいいだろうがそんなもん!!」などといった愉快な会話を経て、改めてホークはウィリアムへと向き直る。
「と、そういうわけだ──あまり構えてくれるなよ」
「ははあ。……クロエの判断もあながち間違いじゃなかったってことか」
明日はお客様かもしれないから。何気なく零したのであろう、過去の少女の言葉が、不思議とウィリアムの脳裏に浮かび上がった。ほうと息を零して、ウィリアムは静かに頷く。
「まあ無理もないがな──って物分り良いなお前……」
物分りのいい餓鬼は好かねえなあ、などとホークはおかしそうに瞳を眇めた。
「相変わらずトラブル続きみてえだし」
「僕も大いに困ってる」
「今回はたまたま通りかかったから良かったが、目の届かない所まではどうにもならん。そいつは勝手にどうにかしろよ──それでは、善良な市民」
異様なまでに似合わない丁寧な言葉遣いで、ホークは背を向けた。ありがとう、とウィリアムは笑って返す。少年自身は一介の冒険者であるがゆえに、市民権などを持ちあわせていようはずもないのだが、それはまた別のお話である。背を向けた男は、振り返るまでもないと言うように、歩み出しながら言う。
「言っといてくんねえか」
「何を」
「あの薬屋ん子にだ。“許さなくていい。だが、すまなかった”と」
「そういうのは、自分で言うべきだ」
「──こいつァ手厳しい」
意外そうなホークの声。その口の端には、不思議と笑みが浮かんでいた。いや、そうだな、その通りだ──と男は腕を掲げて別れを告げると、己の職務に戻った。そしてウィリアムもまた、帰路に着く。
──出来るだけ大通りを歩くようにするか。そう考えながら、出来る限りの急ぎ足で行く。彼ら警邏の努力を無に帰してしまうのは、ウィリアムとて望むところではなかった。にわかに陽が傾きかけた空、漸う辿り着くは薬屋の前。さて、とウィリアムは首をひねる。
どうしたものか。
この際、単刀直入に切り出してしまえば簡単な話だ。それでこの事項には片がつく。立つ鳥跡を濁さず、綺麗に痕跡を消し去ってこっそりと旅立つという選択肢も、無いではなかったが──あいにく、少年一人の手で消し去ることが出来るほど、この街に残したウィリアムの足跡は、少なくはなかった。
ままよ。
結局のところ、ウィリアムが選んだ決断は、身投げであった。考えはまったくもってまとまっていないし、その選択も定まったわけではない。即ち、なるようになれ、というある種投げっぱなしな精神に寄るところが大きい。ぐいと木造の扉を引けば、ちりん、と小さな鈴の音が響いた。店番に立つは、メイドの姿。二つ結いの藍髪も相まって、やけに目立つ。──ネロだった。
「いらっしゃいませ──嗚呼、ウィリアムさんですか。お帰りなさいませ。クロエさんなら部屋でお休みになられていますよ」
やけに丁寧な言葉遣いは一日ぶりながら、ウィリアムにはどこか懐かしく聞こえた。もうちょっとこう、普通で頼めないか、とウィリアムが言ったのは果たしていつの日のことだったか。生まれてこのかたの性分でして、と返されたものである。同時に、こうも言い含められたのだが。────お構い無く、丁寧なのは言葉遣いばかりですから。
言葉の内容はどこにやったのか。
「ただいま──うぃ、わかった」
そういったウィリアムが、ぐるりと周りを見渡してから問う。
「クレハさんは?」
「何でもお昼前から御用事だそうですよ、夜には戻ると仰っておりましたが──しかし、まあ、ボロ雑巾のていですね。これで成果なしなら笑うしかないですね、全く。あはは」
「あんたが笑ってどうする!!」
そう、ご覧の有様である。抑揚のない声で笑ってみせてはいるが、彼女の表情そのものは不動を保ち続けているためか、ひどく不気味な様相であった。声を張り上げたウィリアムが思わず気を抜くと、どっとその身に疲労が押し寄せてきたかのように、肩を落とす。なんというか、ぐったりである。頭脳も肉体も疲労困憊であった──が、今のうちに伝えておくべきことはいくつか存在していた。
「それで、実利はいかばかり?」
「甲斐はあったよ、いや、十分すぎるくらいだな。二〇〇金貨、後で等分して幾らか渡すよ」
家賃としていくらかを収めるにしても、それでも十二分に過ぎる額であろう。それは重畳、とネロは無表情のままに頷く。
「お祖母様がお帰りになられましたら、お伝えしておきますよ。この後、お休みになられるのでしょう」
「うん。頼む」
ともすれば慇懃無礼ですらネロという人間だが、しかし流石に気が回る。伊達に長く奴隷をやっているわけではあるまい。真っ直ぐにウィリアムを見据えるその目は、少年の体調のほども、しっかりと理解しているのだろう。ありがとう、と言いながら、ウィリアムは内心──参ったな、と思った。なるようになれと飛び込んだ結果が、決断の先送りである。なんともうまくない。気を紛らわすように、ウィリアムは一つ問うた。
「そういえば、クロエの様子は? 大丈夫そうだったか」
「元気でしたよ。調べ物と言って、書斎から何冊か持って行かれましたし。一緒に置いていた私の私物も持って行かれてしまいましたが」
──エルフ、などというものが、存在していたのですね。
どこか感慨深く、そして嘆息するかのように、ネロは呟いた。その面に、明確な表情の色はうかがえない。喜ぶでもなく、憂いるでもなく。しかし、その表情は──決して何も感じていないというものでは、なかった。
彼女の伝えるクロエの様子にも、そしてネロのそんな様子にも、どこか安堵したような息を零しながら、ウィリアムは言葉を続けた。もっともこれは、純粋な好奇心に過ぎないのだが。
「私物って、ネロさん、そんなの持ってたのか」
そのことについては、至極意外そうに──ウィリアムは瞳を丸くする。私物、それも、書物とは。まだ活版印刷技術というものが行き渡っていないこの世界に、本はそれほど安い代物ではない。そもそもこの衣装こそ私物なのですけれどね、と、いかにも心外だというようにネロは息を吐いて、小さく首肯してみせた。
「ええ、愛読書です。本とは言っても簡単な形式ですよ。嵩張らないものを何冊か」
「どんなの?」
「『初歩から学ぶ暗殺術』などなど」
「なんてものを……」
「大丈夫ですよ。冗談の類ではありません。先祖代々に伝わる由緒正しき技術相伝の書でして」
「なお悪いわ!!」
クロエが美少女暗殺者になったら一体誰がどうしてくれるというのなら。いや、ならないだろうが。ウィリアムは首を振り、頭の中から余計な想像を取り払いながら、不意に──思い浮かんだことがあった。
ネロに頼めることがひとつ、あったということを、思い出したのだ。
「ネロさん、アルマって知ってるか」
「商店私兵隊のアルマさんでしたら」
同年代の女性はあまりおりませんでしたから、良く覚えておりますよ、と幽かに懐かしむような響きを残して、ネロはうそぶく。翡翠の瞳が水面に波立つかのごとく、ほのかに揺れた。
「仲良かったのか」
「仲睦まじくとは行きません。浴場で共湯する程度です」
「めちゃくちゃ仲いいなあ!?」
「冗談ですよ」
一貫して無表情で通しているネロは、果たしてその言葉が冗談なのか本気なのか、その判断は極めて困難である。とはいえ彼女の過去の振る舞いを鑑みるならば、冗談と考えておくべきが妥当ではあるだろうが。ともあれ知り合いということは、ウィリアムにとっては好都合である。明日にでも手紙を渡しに行ってくれないかという頼みに、彼女は快諾してみせた。
──さて、とウィリアムは一息つく。これで今出来ること、やるべきことは一通り済んだだろう。最終的な結果、到達地点は定まっているにしても、それまでの筋道はよくよく考えなければならない。そう思いながらウィリアムが、ふらふらと自らの寝床たる地下室に足先を向けた、その時だった。
「後程にクロエさんと浴場にでもいかがでしょう」
「真顔で言われても困るよ!!」