Level21:『暗闇の彷徨』
「国の者たちが探し続けてついに数年、見つからず仕舞いが、斯様な場にあろうとは──大きくなられた御姿、しかし見間違えようはずもなし!」
ウィリアムは眉をひそめて、レイチェルの言葉を聞いていた。厄介だ、と少年は思う。否──厄介でしか、なかった。当然だった。自ずから逃げ出した家なのだから。自らの意思で、飛び出した国なのだから。愉快な気持ちになるはずも、なかった。
「ウィル、マジで? マジ王子?」
「不本意ながら、本当だ」
「金ねェの」
「全く」
「ぜんぜん意味ねェなあ」
「無いなあ……」
だからこそ、エリオの実に軽々しい反応が、ウィリアムにとってはありがたくもあった。ひひとエリオは軽い調子で笑い飛ばして、ひょいと肩をすくめてみせた。と、クロエがウィリアムの表情をうかがうようにして、覗き込む。見上げる視線だ。
「……ウィル」
「うん」
「……家に、かえる……?」
クロエの瞳がにわかに波立った。恐れにも近しい問いかけ。彼女の覚えた危惧は、家族というものを大いに信ずる身がゆえにだろう。彼女と祖母の間に育まれた絆は、通常のそれよりも、あるいは遙かに深い。
「そのつもりは、ないよ」
そう、ウィリアムにそんなつもりはなかった。レイチェルに真っ向から返す視線は、半ば睨みつけるようなそれだ。──自ら生きるためだった。生かされるのではなく生きるために、家を──国を出た己が、よもや望みもせぬ場所に戻るものかと真っ直ぐに拒絶の意志を叩きつける。
ほう、と溢れるのはクロエの安堵に似た吐息。しかし同時に、ウィリアムは自身の家を好んでいない、ということでもあった。その事実にクロエは少しだけ、寂しそうな表情を浮かべた。
「──そう。なら、実力を行使せざるをえないわ」
「……くそ」
親衛部隊長。ウィリアムがあるいは幼少の時代までしか“帝国”に在していなかったとして、その面子を、その名を事細かに把握していなかったとしても──その実力は、知っていた。その実力の程は、知っていた。そして、思い知らされた。レイヴンの身が倒れ伏しているという、絶望的な事実を突きつけられて。
「ご覚悟を」
そう言って、ウィリアムに刃先が向けられる。きっと彼女に、傷つける意志はないだろう。ただ徹底的に、抗うウィリアムのあらゆる手を、武器をもぎとって、屈させるつもりなのだろう。この意志を貫き通すには、ウィリアムには圧倒的に、力が足りなかった。ぎちりとウィリアムは言葉なきままに歯噛みする。
「普通、とっくに血縁から無かったことになるもんじゃねェかと思うんだがなァ」
肩をすくめながら、エリオは不審げに瞳を細める。しかしどうやら、レイチェルは聞く耳を持たない様子であった。エリオは億劫げに刃を掲げて、そしてクロエは──どうにもできない。どうにもできない、けれどもしかし、祈るように手を結んだ。
果たして天への祈りが届いたかどうか、それは定かではないが。
「──オイ、お前の相手は俺だろ。パワーバランスって物を考えろ」
ゆらりと幽鬼のように、レイヴンが立ち上がった。がしがしと頭を掻きむしりながら、爆発を引き起こすほどの魔力を叩き付けられたにも関わらず、罅一つ刻まれずに健在な大剣を肩に掲げて、身を起こす。まるで襤褸の風体のような男が、鋭利な視線を女へと向けた。レイチェルは、いささかの驚きを隠せないようにゆっくりと男へ向き直る。
「よくも、生きているものだ。アレを食って」
「あれくらいで死ぬか。傭兵の売りは継戦能力だ。お前らがうだうだ話してる内に回復しちまった」
ふんと鼻を鳴らすレイヴンは、ゆらりゆらりと揺らぎかける身を引きずるように、しかと地を踏みしめて立つ。流石に無傷とは行かない。否、十分に効き過ぎるほどに、先ほどの一撃はレイヴンの身を蝕んでいた。彼の言葉も、明確に虚勢であると知れるであろう。だが、それゆえに異常だった。
それだけの傷を負いながらなお立ち上がり、戦うことが出来る。そのことが異常なのだ。
「……なぜだ?」
「ああ?」
「何が──そうまでさせる! 貴様とて知っているはず! 王は、あの勇者は、決して彼女を悪いようにはしないわ!」
レイチェルが一寸、エルフの少女、アウルに視線を向けた。彼女の口ぶりはまるで、レイヴンもまた、その者を知っているかのような語り口だった。こきこきと音を鳴らして、面倒くさそうに首を回しながら、レイヴンは応える。
「約束の為だ」
「──な」
「悪い様にするとか、しないとか、そんなことは知らん。譲れぬ約束があるのだ。あまり──傭兵の国の男をなめてくれるな」
傲岸不遜。ともすれば傲慢に、薄汚れた男はきっぱりと言い切った。いささかならずレイチェルは、その白い美貌を驚愕に歪ませる。その周囲、気がつく内に彼女の配下たる兵が集まっていた。そのことに気を取り直しながらもしかし、心のぶれ、揺らぎまでは拭いきれない。
「──王子を捕らえる事を最優先と。エルフの少女の保護は、私が、こいつを打ち倒したその時で、構わない」
レイチェルは、静かな声で命令を下す。表面上は確かに冷静だった。剣に纏わる魔力にも、揺らぎも歪みも迷いも、その全てはうかがえない。相対するレイヴンが、くははと笑い飛ばした。
「それじゃあ、とわに無理な話だ──倒せる、ものか」
そううそぶきながら、レイヴンは一瞬、ウィリアムに双眸を向けた。険しい視線だ。眇めるようなそれは、一種の警告の意か。つまり自分の身は自分で守れと、そういうことだろう。──ウィリアムは辺りを見渡して戦況を把握し、そして予見する。囲われた状況、不意を打てる場ではなく、なれば実力差は目に明らか。フルプレート兵と、魔術師の組み合わせが一小隊。
ウィリアムは、ふと口を開いた。
「エリオ、クロエ」
「……うん」
「あァ──って、お前まさかッ」
エリオが真っ先にその空気を気取ったか。そして、そのまさかだった。瞬間に、クロエがその瞳を見開くと同時。ウィリアムは一息に言い捨てて、その身を翻した。
「アウルを頼んだッ!」
僕を狙いとするのならば、狙えば良い。何はともあれ一手に引きつけられるのならば、それが最善だ──そう考えたウィリアムは一人、その身を更なる深き闇に沈めた。一拍の間を置いて、配下の兵達がウィリアムを追う。クロエやエリオには目もくれない。確かに今は、眼前にレイチェルの様な、圧倒的な戦闘能力を誇る人物が立ちふさがっている状況──よもや逃げ出せようはずもないが。
レイヴンとレイチェルが、再度として相対する。最早エリオとクロエには、手の出しようもない領域だ。エリオは、ぐったりと肩を落として、嘆息する。
「──あンの馬鹿」
「……ウィル……」
不安げなクロエの呟きが、溢れる。祈るように、否、真実──助けを願うかのように、クロエのちいさな手が、ぎゅっとアウルの白い掌を握りしめた。
──少女の身体が、ぴくりと小さく震えた。
一人だった。
暗路を一人、ウィリアムはひたすらに行く。出来る限り兵の気配を避けて、歩みを進める。灯りもない。月光も木々の合間をすり抜けはすまい。頼るものも寄る辺もなく、ただ一人。物心ついたころからずっと一人でいたことを、不意に思い出す。長い間、ウィリアムは孤独だった。一人で、誰と手を取り合うこともなく生きていた。ウィリアムとて、ずっと一人でいたことに大した理由があったわけじゃない。家を出て国を逃げ出した、ただの一人の何者でもない薄汚れた子どもに、手を差し伸べる人間はいなかったのだという──ありふれた、ただそれだけのお話だった。酷く長い時間をそうやって生きていたせいか、一人には慣れている。ウィリアムは、そう思っていた。
しかし皮肉なものだ。一人でいた期間が長かっただけ、一人ではないということの暖かみを知っただけに今、この暗闇の孤独は──ウィリアムには割合、予想以上に堪えた。
「……こんなだったっけな、僕は」
初めの記憶は、逃亡。逃走の過去。仮にも、例え二十番目の子であろうとも、かの帝王の子息であることには相違無い。逃げ出したウィリアムには長い間、追っ手がかけられた。帝国の兵に追われ続ける日々。民間に知れ渡った様子はなく、ある程度の情報規制が敷かれていたのかもしれないが──それでも穏やかならぬ日々を幼いウィリアムが過ごしたことは、想像に難くない。おかげで、忍び隠れる術は随分と磨かれたものだが。
生きるために、慣れぬ接客商売もした。あるいは戦場跡を行き、武具をかき集めることを覚えた。破損したくず鉄であろうとも、小銭くらいにはなった。良からぬ仕事にも手を染めた。真に食い詰めた日には、盗みを働いた覚えも無いではなかった。悪童そのものと言わざるをえない。
────それでも良かった。“帝国”の閉塞的な離宮での生活を思い出せば、世界を生きるということはこれほどに自由なのだと、ウィリアムは知った。それこそが、ウィリアムが国を脱出するに至った由縁だった。その実感が、ウィリアムの性根を腐らせなかった。
地位を、金を──即ち“力”を求めながらも、後悔しないように生きるための“力”を求めるのだと、ウィリアムは冒険者に身をやつした。
そして、知った。
ウィリアムにも、仲間と呼べる、戦友が出来たのだと。
知ってしまった。
「……弱くなったのかね」
ウィリアム自身は、そんなことはないと思う。だが、まるで手足をもがれたかのような心許なさは、どうしても拭えない。その感触は、違和感のようにウィリアムを付き纏った。別れが決まった訳でもないというのに。そうなるかもしれない、という、ただの悲観的観測でしかないにも関わらず。それに戻ることが出来たとして、どうしても──ウィリアムのせいで余計な被害を与えてしまったのではないか、という気持ちは、無きにしもあらずだった。
さくり、さくりと小さな足音を立てながら、暗闇の森に潜む最中。不意に暗闇の向こう側、光が瞬いた。
────劫。
それはさながら森を焼き払う燎原の火。暗闇を引き裂いてウィリアムを取り囲む炎。いつの間に──いや、周到に用意され、追い込まれていたのか。かなり大規模な焔の災害が、ウィリアムへ今にも襲いかからんとしていた。それこそ陣でも敷かなければ起こし得ないのではないかという程の、大魔術。これ程の力量を持つ魔術師が、相手方にいたのか、ウィリアムは周りへ視線を巡らせる。
「──ウィリアム殿」
ローブに身を包んだ男の姿が、一つあった。その周囲を守護するように、フルプレート兵が三人、取り囲んでいる。ごうごうとウィリアムを取り囲う炎の向こう側で、フードの下、男は冷厳な口ぶりで告げる。
「どうか投降を。私めとて殺すつもりはありませぬ」
ぎちり、と剣を握りしめる手に力がこもる。焔に照らされるウィリアムの額は、焦燥に汗ばんでいた。どうにか、どうにかしなければならない。だが、これではどうしようもない。例えこの炎を突っ切ったとして、どれだけ逃げ切れることだろうか。炎の勢いは次第に強まりながら、ウィリアムに迫り来る。それはさながら業火の結界。
詰み、か。ウィリアムは小さく肩を竦める。
「害は貴方様に留まらず。──“彼ら”に及ぶとも知れませねば」
静かな声が、酷薄な言葉を突きつける。クロエ。エリオ。その名がウィリアムの頭に浮かぶ。本当にそうか。疑問が浮かぶが、しかし炎が迫り来る中、冷静な思考を働かせられるほどに、ウィリアムは老練ではなかった。
これでお終いになるわけじゃない。今は、期をうかがおう。そう考える。そう考えて、ウィリアムは、自身をごまかしながら、両手を掲げ──かけて、止まった。
不意に、声が聞こえたのだ。
『待つのだわ』
聞いたことのない、声だった。一度たりとて聞き覚えのない、おそらくは少女であろう声。鈴を転がすような音色。幼さの中に、かすかな威厳が滲む。ウィリアムは思わず視線を掲げ、目の前の魔術師らの様子をうかがうが──何も動じた様子はない。そして、周囲に、彼ら以外の姿は見つけられない。そう、その声は、ウィリアムの頭の中に、直接に語りかけられていたのだった。
『貴方の見ているその火。良くできた幻術だわ。信じなさい。よくよく考えて。ここまで大規模な炎の魔術を、この短期間に行使できるかしら。あいつらの反対側に突っ切って。闇にまぎれるのだわ』
一息に言葉が叩き付けられる。僕は幻聴を聞いているのか、極限状態に陥ってあらぬ声を聞いてしまっているのか、そう考えた方がウィリアムにとってはよほど自然であったが──だが少年は、もはや藁にもすがる気持ちであったのだ。“下手くそな欺瞞”と言い聞かせたところで、そんなもので誤魔化し切れるはずもない。
ウィリアムは、猛然と走りだした。燃え盛る炎へ、真っ直ぐに突っ込む。
魔術師が目を剥いていたが、ウィリアムの知ったことではない。なんということか。ウィリアムが炎の結界から抜けだした瞬間、燎原の火は完全に消え失せてしまった。視界の内から、消失する。そんなものは、初めから無かったかのように。──幻術。
『精神系の幻術じゃないわね。感覚系を改変してみせたのだわ。幻術と──わかった、かしら』
「……あ、ああ」
『返事はしなくて良いのだわ。頭の中で答えてくれればそれで伝わる』
呆気に取られて呆けた声を漏らすウィリアムを、少女の声はぴしゃりとたしなめる。走る脚を止めぬがままに森林をわけいり、暗闇に潜みながら、ウィリアムは剣を抜いた。
『左右から挟撃だわ。ぐるりと迂回してやれば背後を突ける』
ウィリアムは──ただものならぬ何者かの言葉を、大人しく受け止める。果たして何者かはうかがい知れぬが、しかし、ウィリアムを助けようとする者であることは確かな様子だった。忍足にて気配を殺し、走りだしながら転身──『北東十歩に標的よ』──真っ直ぐに身を跳躍す。狙いは先刻の作戦時と変わらない。どうしても生まれざるを得ない鎧の継ぎ目。背後から真っ逆さま、中空から刃をさながら突き立てるがごとく──首筋に、突き落とす。
ずしゃり、と肉に刃が埋まり、弾ける血飛沫。一人。
『目の前にもう一人。たたんでやりなさいな』
振り落とした刃を、ウィリアムは右手に掲げる。全力で、何の技もなく、刀身を思い切りヘルメットに叩きつけた。鎧と兜をつなぎ止めていたリベットがはじけ飛び、恐怖に歪んだ表情が露となる。──間を置かず、空っぽの左拳を握りしめる。
力のかぎり、押しこむかのように男の顔面に叩きつける拳。一度、二度、三度。その感触は、それほど堅いものではなかった。肉の歪む気色の悪い感覚が、ウィリアムの手に伝わる。骨が軋みを上げながらも、拳には赤い色が付着していた。男はゆらりと倒れこんで、がしゃりと地に沈む。
『後ろだわ、飛びなさい、足払いよ、槍持ちだわね』
言葉のとおり、ウィリアムは飛んだ。瞬間、足元を払う一閃が空を切る。そのまま脚を、長柄に叩き落す。踏み締める感触と同時、振り返れば──振り切った刃を翻し、槍の柄に思いっ切り叩きつけた。
へし折る。呵責なき武器破壊。躊躇なく人の身を斬りつけるウィリアムは、無機物を破壊することに──それ以上に迷いがない。胴と腰の隙間に、切り上げざまの刃をねじ込む。ずぶりと、腹の肉を引き裂く感触が刃先に残った。がつんとプレートアーマーの胴を蹴りつけ、その身を蹴り倒しながら、ウィリアムは息を吐く。
『やるじゃない、思ったより。どれだけ頼りないかと思えば、なのだわ』
「誰なんだ、あんたは」
どこに向けるでもなく言葉を吐きながら、ウィリアムは肩を落とす。意外にも声は、あっさりと正直に聞こえた。
『わたしはアウル』
「な」
『クロエちゃんの願いに応えてあげたのだわ。貴方を助けてってね。良き友情だわ。愛情かしら。何にせよ──ここはわたしの庭。荒らすやからはことごとく許さないのだけどもね』
ふふとほほえむ声が──アウルの声が、ウィリアムの脳に、直接に届いた。唖然とする。唖然としながら、ウィリアムは、ふと彼方に視線を向けた。
「あ、ああああッ!」
男の悲鳴であった。若い男だった。散らばったローブの切れ端から推察するに、先程の魔術師のそれだろうかとうかがい知れる。──なんたることか。ウィリアムとて同情を禁じ得ない光景が、そこにあった。
男は、食われていた。生きたままに貪られていた。何匹もの魔獣ガルムの牙を突き立てられ、その身を掠め取られ──血となり肉となっていた。骨さえも余さず、食いつくされる。
『憐れだわね、ふふ、全く可哀想。可哀想に!』
少女の悪戯めいた声。無邪気さゆえの残酷か。人間の常識を当てはめることが、そもそも的外れなのかもしれない。そう思わせるほどにエルフの少女は楽しげに、そう言った。
「……ありがとう、アウル、助かった」
『礼は直接言うが良いのだわ。否、違うわね、クロエちゃんに言うのだわ。そしてクロエちゃんを安心させてあげなさいな』
くふふと愉快げな笑い声。彼女は、いたくクロエのことを気に入っているのだろうか。レイヴンの言葉を信じるのならば、齢は五十を重ねるということだったが、全くそうとは感じられない。……それこそ、人と重ねて考える方が、偏屈か。ウィリアムは、思わずおかしげに息を吐きながら──いくつもの骸を背に、ゆっくりと歩き出した。
仲間の元に、帰るのだ。