Level18:『森の女王と渡り鳥』
「やばいッ!!」
エリオの警告──それがクロエの叫びと重なってウィリアムに届く。それとほぼ同時、ウィリアムは気取っていた。誤るはずもないほどの膨大な殺気を。それと共に引き抜いた剣を、天に掲げ、構える。
──バキンッ!!
音さえも置き去りにして落ちた凶刃。激突、重なる金属音、破砕の音色。その衝突の衝撃で、あまりにも呆気無く、ウィリアムの鉄の剣は──砕けた。蜘蛛の巣のような罅が刻まれ、根本から真っ二つに叩き折られる。何の使い物にもならない鉄屑と化す。中空からの一閃が、そのまま振り抜かれた。
「────ッづ、あああァァァッ!!!」
踏みとどまることすら出来ない。決して小柄ではないウィリアムの身体が、風に吹かれた木の葉のように宙を舞い、空を切り裂いて吹き飛ぶ。飛んだ身体が頭から重力のままに地に叩き付けられ、地を滑りながら何度も草地を転がり、静止する。咄嗟に受け、止めた、はずだ。それは間違いない。にも関わらずウィリアムの身体は、全身に罅割れが走り抜けたかのごとく軋みを上げ──咳き込むと、げほ、と溢れる血液交じりの咳。
最早、咄嗟の防衛本能としか言いようがない。どうして逃げられるなどと思えようか。エリオは反射的に短刀を引き抜きながら相対する。眼前の、脅威と。地に降り立ったそれ──彼、その男は、確かに人間に違いない。
薄汚れた男であった。年の頃は四十に至るか否か、その体躯は常人を遥かに上回る背丈の大男。鬼にも見粉いかねない姿が、エルフの少女を背にして立つ。ぼさぼさに伸びた青黒い髪は背で纏めて括られ、ぎらつく瞳は、獲物を射止めんとするかのごとき獣じみた視線を発する。顎元に点々と残る無精な髭、衣服はどうやら衣鎧のようだが、しかしあちこちに綻びやほつれが垣間見え、まるで襤褸のような風体。その手には、背丈に見合って長大なる、鋼鉄の大剣があった。
エリオが果たして刃を構え終えるか、そういった瞬間に、男が更なる一撃を横薙ぎに切り込んだ。並大抵ならばまともに構えることも困難だろうその得物を、彼は軽々と振り回す。とても手の中にある短剣で、凌ぎきれるような代物ではない。おまけに、一閃は──凄まじく迅速であった。エリオは、冗談でなく、死を──覚悟する。
「……っぶないっ……!」
どん、と横合いから身体を引きずり倒される。クロエが横合いからエリオにタックルを食わせたのだった。凶悪な刃が頭上を通りすぎていく。
「──退け。大人しくな」
男が二人を見下ろして呟く。重々しい声色であった。クロエが、じっと彼の様子をうかがうように、瞳を細めて見つめる。男は微動だにせず、振り切った刃を、ゆらりと肩の上に持ち上げた。クロエは、目をそらさずに、視線を掲げる。その背後から、ざくりと草原を踏み締める足音。
「ちょっとは、待て、よ!!」
疾駆せしウィリアムが、残る二刀の内の一刀──幅広の剣の刃を、ざくりと地に突き立てるかのごとく振り落とした。クロエ、そしてエリオと、男を分断する形で、合間に割って入る。まるで見当はずれの所に振るわれたかに見える一刀であったが、しかしその一手により、一寸の間が生まれた。否、止まってもらえたと言うべきか。大きく隙を晒さざるをえない、その一見無謀な行動によって。
この男は何者か、かのエルフを狙う者か。ウィリアムが男に向け、険しい視線を叩きつける。
「先ので懲りないのなら──死んでみるか」
「……ここを、まもって……る、の?」
振り上げられた刃の矛先が、ウィリアムへと向けられた瞬間、かすかにぶれる。クロエだった。緩慢に立ち上がりながら、彼女が男へと向けた言葉に──本来ならばそのまま振り下ろされていたであろう一刀が、宙に留まる。ウィリアムは漸うの思いで息を吐き、その場を一歩退いた。男が、ふうむと鼻を鳴らして、後方の少女に鋭く視線を投げつける。
「何故、そう思った」
「んだァな、見るからに怪しいぜこのオッサン」
「そこのお前は黙ってろ」
「ハイ」
起こした身を縮めて、大人しくならざるをえないエリオだった。先刻のウィリアムのやられようを見てなお、まともに戦えようとは、彼とて思うべくもなし。彼女の身をウィリアムとエリオらの影から、そう──唯一、観察の眼を光らせることの出来たクロエが、訥々と声を零し始める。
「……若し、仮に……害意があるなら、その子を連れ去ってる、はず。……私たちに、構うわけもない、し。……見る限り、それが出来る力も……ある、みたい、だから」
「それだけか」
「……ウィル……が、吹き飛んだときも、追い打ちを、かけなかった────なぜなら」
ゆらりと、今、彼女自身の盾の役目に徹しているウィリアムに指先を向ける。そして、ウィリアムと、そしてその男さえも通り越して向う側に視線をやるかのごとく、瞳を細めた。
「……その子を庇う、ため……離れるのを、良しと……しなかった……?」
淡々と声を紡ぐクロエ。そこで途切れる言葉は、即ち回答の提出を示していた。かくり、と小首をかしげる仕草はさながら、いかがなものかと答えを求むるかのように。対する男は、掲げた大剣をそのまま肩から下ろした。かちゃりと音を立て、宙に揺らぐ刃。
──ひうん。
風を切り、音を置き去りにして、ウィリアムの目の前、舌先三寸の手前に、刃が迫っていた。少年は微動だにせず、ただ、暗い光を湛えた相貌が、男の面を見定めするかのように見つめている。巻き起こった疾風に、灰色の髪がふわりとかすかに揺らいだ。その頬を、じわりと冷や汗が伝う。──抑え切れない緊張の証左だ。しかし同時に、敵意を押さえ込んだ様は、即ち、クロエの言葉に命を任せているということでもある。
もしそれが、迂闊な言動であったならば、首が飛んでいたに相違無い。
「……話くらいは聞こうか。あのガキに手を出すつもりなら別だがな」
男はくるりと無用心に背を向け、真に刃を下ろした。ウィリアムは安堵のため息を漏らしながら、刃を鞘に収める。と、エリオがその背に、初っ端から遠慮のない言葉を投げ掛けた。
「待てよオッサン。そもあんたが、あの子どものなんなんだ、あまりにも──穏やかじゃあねェぜ」
「あんまりオッサンと言ってくれんな──レイヴンって者だ」
男は背を向けたまま歩を進め、眠りこけていた少女の近くに歩み寄る。ゆっくりと彼女を見下ろして、別に何をするでもなく、ため息を吐く。見れば少女は、先刻の騒ぎにも関わらず、何も意に介するところが無いかのように、平然と、依然として、眠り続けていた。幼い外見にも関わらずの度量か胆力なのか、あるいは。少しばかりクロエと似た所があるのか、しかしそれにしても、あまりにも、何事も無かったかのようだ。
恐怖を堪え得るというよりは──恐怖を、感じていない。
男、レイヴンはゆっくりと振り返り、がしがしと薄汚れた青髪を掻きむしりながら──漸う、エリオの問いに口を開く。
「このガキの、仮の────保護者だ」
少しだけ気恥ずかしげに、彼は言った。
一同が、揃って愕然とした。
ぱちり、ぱちり。火種の弾ける音だ。焚き火に捧げられた獣の肉が焼け、油が滴り落ち、一層と燃え上がる。組み木の中心に据えられた炎は、周囲の草花に燃え移るといったことはない。暗闇の森林に一点の光源を生み、ひたすらに燃え盛り続ける。とうに日は傾き、辺りは夜に包まれていた。四人が火を囲い、座する。周囲は、不自然なくらいの静けさを保つ。穏やかな世界だった。
「……なるほどな。外ではちいと騒ぎになってたわけだ、まずったな、思っていたよりも早かったらしい」
四人のうち一人、レイヴンが、ぐいと瓶酒に口を付けながら、零した。さりとて、その表情に酔いの気配は一分すら見られない。
「早い、というと」
ウィリアムはやおら首をひねる。
──あれから三人は、素直に自分達の目的を話した。即ち、突如として迷宮と化した森をどうにかするべくの侵入であり、害意は無い、といった旨である。動機の中に幾許かの好奇が含まれていたことは否定できないが、その点はそっと伏せておいた。雉も鳴かずば撃たれまい。
「いやその前に、あの子どもはなんなんですってェ話が」
「エルフだよ」
レイヴンはこともなげに言い放った。なんだ、知っていたわけじゃあねえのか──とでも言いたげな様子で、実に何気なく。「思い当たる所は無きしにもあらず、ですが」とウィリアムが言い含め、だろうな、とレイヴンは頷いた。しかして彼はゆらりと、この広間の中心、大樹の根元を指差し示した。金髪に、楕円形の尖った耳──葉っぱに良く似ている──を持った少女。彼女はただただ寝入ったままで、微動だにしない。
「見た目ただのガキだが──エルフって生き物は面倒に出来ているらしいな。そもそも時間の感覚が人間とてんで違うんだろうよ、ああやって寝っぱなし、それも下手すりゃ数日間なんてザラだ。で──周りの環境を、自分を守るために、無意識につくりかえる」
「……は」
なんだその荒唐無稽は、とは言えなかった。さんざに自分たちの目で、見てきたものだ。体感してきたものだ。ゆえにウィリアムはただただ、感嘆の息を吐く。まあ食え、と兎でも捌いたのだろう。レイブンは串に突き刺して焼いたばかりの獣肉を手渡しながら、肩を竦める。
「日にちを追うごとに変化は顕著になる。一所に放っておいたらあっという間に大迷宮の出来上がりだ──で、俺はあのガキを連れてその辺をほっつき歩いてる、と」
今回はその変化が早かった、そういうことだ──と、レイヴンは再び酒精を傾けた。億劫そうに見上げた空は、満天の星空だ。雲一つとて無く、遠く輝く月灯がやけに目立つ。
「つまり何が言いたいかというと、だ。──夜が明けたら此処を離れよう。悪いことをしたな。無用な疑いをかけた。ガキがこの地を離れりゃ、この森も元に戻る」
済まなかった。
意外や意外にか、薄汚れた中年の男は、二十と年のかけ離れているだろう彼らに、そう言って、大人しく頭を下げた。思わず三人の側が恐縮してしまうほどである。
「依頼はこなせることになる訳ッスし、万々歳ってェやつですよ」
「僕としては十二分に。一晩の滞在許して貰ってる身なんですし」
串焼きの肉と悪戦苦闘する彼らの傍ら、困った様に眉を下げたクロエが、小さく頭を下げ返して、ゆっくりと立ち上がった。草地を踏みしめて、大樹の根元──エルフの少女の傍に歩み寄らんとする。
「……この子、なんて、名前……です?」
「アウル、だ」
「……アウル、ちゃん」
クロエは少女の近くに屈み込むと、おもむろに手を伸ばした。そろそろと、割れ物を扱うような手つきで。
「……気をつけな。そいつが自然をつくりかえるとは言ったが、同時に自然はエルフを守護する」
「──それは、なんというか」
「化物じみている、か?」
ウィリアムの言いかけたところを、レイヴンが続けた。歯に衣着せぬ物言いは、わざわざウィリアムらが言いふらしはせぬと考えたか、あるいは信じるものもいるまいという思考の上でか。こくり、と少年は静かに頷く。
「凄い、と、思う。……自然そのもの、みたいだ」
「第五の精霊──“森羅の精霊”なんて呼ばれることもあるらしいな」
それはあくまで物語や伝説などに語られるエルフの姿であったが。しかし同時にそれは、決して的外れというわけでも無かった。在り方そのものが、そう、ウィリアムの言葉通り、自然を具現化させたかのようだ。感嘆に、値する。
「……どうにか、ならない……の?」
「ガキじゃあなくなったら、無意識の内に面倒を起こすことは無くなるらしい、な。あくまで防衛機構だから、って見立てらしい。確かじゃないが」
「……となりゃァ、あと十年はこのままスかい」
「あいつ、今五十だよ。俺より十は年上だ」
「あァ!?」
素っ頓狂な声を上げるエリオを、レイヴンは豪快に笑い飛ばしてみせる。本来ならば途方にくれてもおかしくないような話だが、男は──その大人は、実に楽しげに笑ってみせていた。
「……ん」
一方で、クロエの伸ばした手が、少女に届く。そぉっと、その表面を撫でるくらいに淡く触れる。白く、柔い肌だ。ほんの少しばかりの力で、崩れてしまいそうな脆さ、儚ささえ漂わせる。クロエは、ふにりといたずらに、その頬を指先で、押した。
ごづん。
クロエの頭に何かが落ちてきた。──少女のこぶし大に相当する大きさの木の実であった。脳天に直撃したそれが、鈍い音を立てる。声にならない声を上げて頭を押さえ、ごろごろと転がって悶絶しながらも痛みに堪えるクロエ。ふわふわ揺らぐ黒い髪に草木がひっついて、そこはかとなく儚い様相を呈していた。
「だから言ったろうが」
がははとレイヴンは笑い声を上げる。偶然か否かであるかは定かではないが、先刻までの話を統合してみれば、偶然でないようにも思えるのだから不思議なものである。その光景を目の当たりにしたウィリアムは、ばふぉと盛大になにかを噴いた。
「こいつァ恐ろしいぜェ……って、クロエ、何やってんのん」
視線を向けたエリオが、不思議そうに声を上げ、訝しげな視線をそそぐ。というのも、思い切り痛い目を見たはずのクロエがよろよろと立ち上がると、無謀にも再度、エルフの少女に手を伸ばしていたからだった。ウィリアムは咄嗟に、彼女を制する声を上げかける。指先が、かすかに、ふれた。
エルフの少女──アウル。
眠りこけるがままに彼女のちいさな手が、クロエの指に伸びる。ふれ合う。柔く握り返すように、わずかな力がこもった。クロエは、ふれた場所から、ほのかな体温を感じる。休日のお日様のような、優しい熱。
「……あ」
ふわりと、クロエの顔にほころぶ笑み。
「大丈夫……だった、みたい、か」
ウィリアムは、正直なところ、呆気に取られた。だがしかし、よくよく考えれば、道理だ。まずもって、クロエには害意、悪意の類は無いのだから。眠りに耽る少女とて、この間近であるならば、そのことを気取れるのだろう。ほう、と溢れる安堵の吐息。
クロエはゆっくりとアウルに近づき、寄り添う。覗きこむ表情は、無邪気そのものだった。
「──畏れるのは結構。だが遠ざけすぎるなよ。恐怖は排撃に繋がる。まあ、そうだな、ウィリアム」
男は初めて、名乗った少年の名を呼んだ。真っ直ぐに、少年を見据える瞳。ともすれば気圧されてしまいそうな、強い視線だ。ぎちりと肉に歯を立てながら、ウィリアムは真っ向より向かい合う。
「お前は弱いが」
「ウウッ」
図星であり、事実である。大いに嘆きの声が上がる。
「守るため──目的がはっきりした時の剣は、悪くなかった。ひよっこなりにな」
「本当ですか」
「剣才は今ひとつだが。どこで習得したんだか知らないが、お手本みたいに馬鹿丁寧な剣だ」
「ウウッ」
レイヴンの言葉はいささか容赦がなかった。顔色などに一切の変化は見られないが、もしかしたら酔っているのかもしれない。余さず肉の食われた串を火に捧げ、「オレはどうッスかねェ」と、エリオが横から首を突っ込む。
「お前は確実に女に刺されて死ぬ」
「死ぬな」
「あァ!?」
幸運の女神というものに見放された軽薄な美青年とでも称せようか。当人としては実に不本意の様子だったが、少年からすれば真に納得の見解である。親子ほどの歳の差があろう冒険者ふたりは大いに頷きあう。
そして不意に、やけに静かだなと、ウィリアムが視線をかの樹の根本に渡した。そこには黒と、きんいろの少女が二人。
──揃って眠っていた。クロエにとってはいささか、体力的に厳しい道行きだったのだろう。疲れ切っていたか、草木にもたれかかるようにして、小さな寝息を立てている。何とも──微笑ましく思う。
ウィリアムとエリオにとっては、彼女ら二人は共に年上なのだが。
「……僕らも、寝るか。明日の早いうちに辞そう」
「オッサンもとっとと場所移してェとこだろうしな」
エリオに至ってはレイヴンの名を知ったにも関わらず、全く変わらぬ調子でオッサン呼ばわりである。意に介した様子なくレイヴンは頷いて、酒精を一口する。
「……ああ。見張りは任せて先に寝ろ、ガキは寝る時間、だ」
此処に至れば遠く彼方にも思える、かの街では遙か鐘の音が聞えようか。礼を落として辞する二人に彼が会釈すれば、眠る少女らに毛布なんぞをかける様が見えた。若いな──と、天を仰ぐ。
「……あのガキが、懐くような奴もいる──か」
世界は広いと男は呟く。周囲は静かだが、しかしそれゆえに完全にはうかがい知れぬ。エルフの少女、アウルならば森の中の全てを把握出来るだろうが、あいにく彼女は眠りの中だ。どれだけ起こそうと踏ん張ろうが、てこでも動かない──むしろ彼女の睡眠を妨げるものは、そのまま敵だとも言える。レイヴンは経験上、そのことを、知っていた。
「……嵐でも来なきゃいいんだがな」
彼は憂いる様に、嘯いた。