Level16:『木洩れ灯に惑う森林』
「暗いな……」
「森そのものが変わってちまってるみてェな感じだなァ、こりゃ」
空は白くとも森は暗い。その迷宮に、三人共々がそのような印象を覚えた。朝早くであるがゆえに未だ陽が上りきっていない、ということもあるのだが、それでも不自然なまでの薄暗さだった。ほとんど月明かりと変わらないのではないかというほどの幽かな木漏れ日。森の探索ということで黒い簡素なローブを着こみ、ブーツを履きこんだクロエが、ランタンに油をさす。周囲を木々に囲われた迷宮を進むためには、確かな灯火が要された。
「……薬草、摘みに、くることが、あるの、だけど」
「うん」
「……こんな……とこ、しらなかった」
ぽつりと呟き、クロエは不思議そうな表情で、きょろきょろと辺りを見渡す。周囲はまさしく迷宮と称すべき様相を呈しながら、どこか整然としていた。密集してはいながらも等間隔に木々が並び立つさまは、どこか意図的なものが垣間見える。なんらかの意志の介在とでも言うべき、侵入する者の感覚を損なわせる、いわば──結界。道行きの最中では時々、クロエが道端に屈みこみ、使えそうな草花などを摘み取っていた。
「まァ、知らなかったっつゥか──」
「出来た、んだろうな」
「……かな」
ウィリアムとエリオの間で、クロエがこくりと頷く。仮に何者かの襲撃に遭遇しようとも、身を盾とすることでクロエにまでは届かせまいとする隊列だ。エリオは方位磁針を片手に方角を確認し、ウィリアムはその手を剣にかけ、不測の事態にも対応せんとする構えを取る。
しかし万全の警戒態勢を取ったにも関わらず、行けども行けども、目立った異常は見られなかった。それはそれで歓迎すべきことだが、ウィリアムはそれをむしろ不気味だと思った。なにせ辺りは酷く静かで、音といえば枝葉の節々が風にざわめくくらいのものなのだ。それに加えて、ウィリアムとクロエの足音か。エリオのそれは、流石の盗賊と言うべきか、実に静謐な足運びであったが。そして、だからこそ、奇妙。
異変は、すぐに訪れた。
「ウィル! 右だッ!」
「──ッ!!」
エリオの声に、ウィリアムは咄嗟に振り返る。その目に映ったのは──白き狼。否、本来のそれを遙かに上回る巨躯だった。凶悪なまでに発達した牙、大木も一閃のもとに切り伏せる事が出来そうな爪。ガルムと称される獣牙の魔物がウィリアムに向けて牙を剥いていた。その異形を潜ませていながらに、先ほどの奇妙なまでの無音──それは即ち、襲撃者が、その気配を意識して消していたからに他ならない。
ウィリアムの構える刀身と、草木の影から振るわれた鋭い爪が、互いを打ち合いて火花を散らす。流石に重厚な鋼鉄は断ち切りかねたか。しかしその膂力はウィリアムを圧倒的に上回る。その力のほど、地を踏みしめたウィリアムの身体が土に靴跡を残し、滑らされるまでのそれ。
「クロエ、下がってくれッ!」
「後ろッから支援、頼まァッ」
「……りょう、かいッ」
ウィリアムの言葉に承服する少女がランタンを揺らして一歩飛び退き、少年を目掛けて更なる一閃が振るわれたのは、全くの同時であった。ガキンッ! 刃金の音を響かせ、ウィリアムの身が弾かれると共、エリオが前に飛び出す。方位磁針を懐中に放りこんで短刀を引き抜いた。
「……ぐッ!!」
ウィリアムが歯を食いしばって踏みとどまりながら、吹き飛ばされまいとする。かの化物は、ぐるるると唸り声を上げ、三匹の獲物を睥睨した。狩猟者の視線だ。振り抜いた爪を地に突き立てて、牙をむき出しにしている。小鬼など、比較にもならない。ともすればゴブリンチーフにも匹敵し得ようか。低級を軽々と飛び越えて中級を足掛かりとする白狼の魔物。──その白い毛皮に覆われた額に、がしゃりと音を立てて硝子の破砕音が響いた。
それは、後方のクロエが咄嗟に投げつけたフラスコだった。硬質な皮膚にぶつかった結果か、割れて弾けて中身がぶちまけられる。三メートルはあろうかという巨体にべっとりと付着する無色透明の液体。ガルムが──怒りに地を蹴った。その双眸の向う側にクロエを捉えている。立ち塞がるエリオはそのまま轢き潰されてしまいそうな勢いすら感じる。巨躯の躍動に烈風が吹き付け、エリオの金髪が乱れ舞い上がる。虫でも振り払うかのように無造作に払われる鋭爪。それを紙一重にエリオは躱す。衣鎧の生地が、刃に掠めたかのように一抹、宙に舞った。
「はッ、やっちめェッ!」
「……──ッ!!」
クロエが、詠唱を完了した。精霊魔術。属性は“炎”。練り上げられた魔力が尾を引き、緋弾と化してガルムへと飛来する。──ズドンッッ!! 森羅に響き渡る爆音。吹き抜ける爆風が枝葉をざわめかせ、林木を揺らめかせる。しかと着弾した火炎は、ガルムの身にまとわりついていた“油”に引火して、弾け、斯様な発破を引き起こしたのだ。
そもそもクロエは、攻撃的な魔術を得意としないが──使いようによっては、どうにでもなる。
「やったか、ァ!?」
「いや、まだ、だッ!」
「……ッ」
クロエが息を飲んだ。風の吹き抜けた後に刃を構え直したウィリアムが、その向う側に、傷を負ってなお健在な白狼を目に止める。間近のエリオが咄嗟に飛び出した。残り火をその身に纏い、爆発に焦げ跡を残した身の、その額に跳びかかり──短刀の刃を突き立てる。青年の手に伝わる、ガキン、という固い感触。端麗な顔立ちが、慄きに歪んだ。それでも痛みにか、傷に響くのか。ガルムは身を仰け反らせてのたうつ。
「──硬ェッ」
「任せ、ろッ!!」
続いてウィリアムが疾駆する。身を沈めて刃をたずさえ、仰け反る魔獣の脇から割り込んで、その横っ腹へと、幅広の刃を切っ先から突き立てた。そこは、頑強な皮膚の備わっていない──柔な部位。ズブリ、という確かな触感がウィリアムの手の中に残った。突き立てた刃を沈ませ、掻っ捌く。血流がほとばしり、溢れ、肉がこぼれる。
迷宮内に響き渡る、けだものの断末魔、雄叫び、最期の咆哮。森が、にわかにさざめく。
戦慄くその身から刃を引き抜くと共に蹴りをくれて、地に叩きつける。流石の巨躯、生命力も尋常のそれではない、暫く小刻みに震えていたが──血の流れはとどまらず、地を紅く濡らし続け、そしてやがて、止まった。
「……どうにか、なったみたいだな」
周囲を見渡し、そして動かざる屍を見下ろし、ぱしんと手のひらを打ち合わせ、一目。血濡れた刃を打ち振るってウィリアムは血払いする。
「ひやひや、だァな」
「クロエ、怪我、無いか?」
「……うん。だいじょうぶ。……魔力も、けっこう、余裕あり」
魔力を抑えて魔術を行使したのか、あるいは最近の短期間のことではあるが──何度も戦闘を経験した影響によって、成長したのか。それは定かではないが、クロエは落ち着いた調子でそう言うと、ランタンを掲げる。ぱちぱちと瞳を瞬かせて、少女は二人を見上げて、ふと言葉を零した。
「……ちょっと、強く、なって……る?」
はてなと小首を傾げて、投げかけられたクロエの問い。
「僕は実感ないんだけど」
「わかんねェな──いや、でも、うーん」
エリオは腕を組み、首を傾げ、にわかに一考した後、ウィリアムにピ、と指先を向ける。ウィリアムが、なんぞとわずかに仰け反った。薄暗い瞳を不思議そうに白黒とさせる。
「なんだよ」
「ウィル、おまえさ、そもそもガルムとか相手に出来たんかよ」
「無理に決まってるだろ。三人だからどうにかなったけど」
堂々たるお言葉である。
「“たった三人で”か?」
こんなにも、簡単にか? エリオは指先をウィリアムに突きつけたまま、淡々と言葉を叩きつける。クロエはほうと息を吐いて、しみじみと呟く。
「……成長、したの、かも」
「なのかな」
ウィリアムは無造作に手のひらを握り、開きと駆動させてみせるが、以前との明確な差異などは感じなかった。いや、当然かと思う。例え何かが変わっていたとしても、急激な成長などあるはずはない──その変化は、緩やかな弧を描いていることだろう。
と。
「あァああああああああ!?」
「……!?」
「なんだいきなり! エリオ! 落ち着けよ!」
神妙に手のひらを見つめていたウィリアムのかたわら、突如としてエリオが驚愕の叫び声を上げた。青年の碧眼は大きく見開かれ、愕然とした表情で眼を落としている。その視線の先には、懐から取り出したのであろう方位磁針があった。吃驚したクロエが、矮躯をかすかにわななかせながらも、その手の中をそろそろと覗きこもうとする。
「落ち着けッか! 取りあえず見れ!!」
ずいとエリオは、それを二人に突き出して見せつける。
ぐるん、ぐるん。
方位磁針の本針と逆針が、やたらめったらにその位置を入れ替える。三人はその場を一歩も動いていないにも関わらず、その磁針は無秩序に回転し、あちこちを好き勝手に指し示した。
────誰がどう見たって、壊れてるに決まっていた。
「……物の見事にイカれてるな……」
「パッと見、傷なんかは無ェんだけど」
焦燥にか、エリオは手に冷や汗を滲ませる。すでに、森の奥へ奥へと踏み込んできてしまった身の上だ。絶望的とまでは言えないが、抜き差し決めがたい状況であることに変わりはない。
「……森の磁気に、くるわされた……の、かな」
「磁気……ぜんぜんそんな感じはしないけども」
「……侵入者を惑わすために、迷宮そのものが、そういう力を持つ……のは、珍しく、ないんだって」
おばあちゃんがそう言ってた、と肩をすくめてクロエはつぶやく。もはや使い物にならなくなった方位磁針をエリオは懐にしまい込み、空を見上げた。日はまだ高い。引き返すのならば今のうち──そういった刻限だろう。視線をウィリアムへと改めた。
「どォするよ。大した収穫もねェが、きっちり進退決めといた方がいいぜ」
ウィリアムはガルムの死体から毛皮を毟り、皮を剥ぎ、そしてその肉を採取していた。魔獣はあくまで魔物だが、しかし人間の食料、糧にもなりえるのだ。少年はゆっくりと頷いて、エリオを返り見ると、静かに言う。
「退こう」
「──意外に潔いな。クロエが心配ってェのもあるか?」
きっぱりと言い切るウィリアムの言葉に、ひひとエリオがからかうように言う。恐縮したかのようにクロエが身を小さくして、ランタンを両手にぶらさげたまま、視線を伏せてしまった。その表情はいささかもうかがえない。が、ウィリアムは真剣な表情で首を横に振った。
「さっき、殺した時、あの狼、雄叫びを上げただろう。そのとき、なんというか、木のざわめきみたいなのが聞こえたんだよ」
「あァ。それがどうした──ッて、それって」
「…………仲間、を?」
「呼んだ、可能性は、あるんじゃないか」
あらかた、使えるであろうものを剥ぎ取り、袋に詰め終えると、ウィリアムは立ち上がる。一匹ずつでの各個撃破ならば相手取ることも不可能ではなかろうが、それこそガルムの群体などに襲われる事態となれば──ひとたまりもない。即ち地獄だ。エリオはそれを確認するためか、身軽な所作で手近な大木に足をかけ、するすると登っていった。高みから、遠方までを見渡してみせる。
「あァ────いるな、四匹。ガルムだ。大きさはまちまちだが、どいつも成体だァな、ありゃ」
エリオは再び地に降り立つと、神妙に零した。その言語を聞いた二人と、そしてエリオはそれぞれに頷きあい、大人しく来た道を戻ることにする。そんなものをマトモに相手にするなどありえない、という着地点で、彼らの意見は一致を見た。
「なんか、目印になるよォなもん、あったか? 正直、オレはさっぱりだ。普通の森なら、そこそこ慣れてんだがな」
踵を返しながら、ここはいけねえ、とエリオは忌々しげに辺りを見回す。改めて見れば、奇妙なまでに整然とした迷宮内部は、侵入者に正確な位置を把握させないための物とも思えた。
「……薬草、摘んだ……から。……あと、たどれば、もどれる、はず」
「それ、だな。クロエ、大体の道案内、頼む」
「ま、いざとなりゃ、また上から見てみるさ」
「……ん」
こくり、とクロエは首を縦に。そのまま二人を先導せんとする少女の姿は、随分とちいさなものであるにも関わらず、どこか頼りがいのある背中に見えた。さくり、と一歩一歩、土を踏みしめながら、ゆっくりと歩みを進めていく。これまでの道程でも脇目を振ることは無かったから、真っ直ぐに行けば問題はあるまい。誰もがそう考えていた。実際にクロエは道中、何度か目印を発見しては、逐一それをウィリアムとエリオに伝えた。
そして、空の天辺に昇っていた陽が、ほんの少しだけ傾き始めた頃合いである。不意にクロエが、ぴたりと足を止めた。
「ん? もうちょいってェとこかい」
不意に立ち止まる少女の様子に、エリオが後ろから言葉を投げかける。ゆっくりと振り返ったクロエは、ふるふると首を横に振りたくった。見ればどうやらその表情は、かすかに青ざめている。
「ちょっと顔色悪いぞ、クロエ。陽にやられたか」
「……た、たいへん」
心配そうに眉をひそめるウィリアムの声に、そうではないと遮って、クロエはわなわなと口元を震わせる。その目元にかすかな雫がにじんでいた。一体全体なにごとかと、ウィリアムとエリオに緊張が走った。「あれか、言いづれェことか、ずばり厠か」などとのたまうエリオの首に肘を打ち込みながら、ウィリアムは真顔で向きあう。
「……も、もどって、きてる」
「────な」
馬鹿な、と、ウィリアムは言葉すらも出なかった。そんな馬鹿なことがあるはずがないと、真っ直ぐな道行きを進んできていたはずが、どこをどうすれば元いた場所に戻ってくるなどということがありえるのかと。ウィリアムは、愕然とした思いを抱く。
「ほ、本当なのか、クロエ、それ」
「……」
半ば泣きそうな表情でクロエはしゃにむに頷いた。先導の役目を担っていた彼女のことだ、少なからず責任を感じているのだろう。エリオが、がしがしと金髪を掻きむしりながら軽い調子で言ってみせる。
「まァー、なんかの間違いか気のせいかもしんねェだろ。もうちょっと先行ってみねェか? 取りあえず」
「だな。──あと、ひとつだけ、クロエに言っておくべきことが、あるんだ」
「……うん」
クロエは、きっ、と瞳を見開いたまま、涙の粒を零さないように堪えていた。頷いて、真顔で見つめてくるウィリアムに相対する。
「正直、クロエですら迷うなら、僕でもエリオでも迷ってる」
「慰めてェんなら普通に慰めろよ! 巻き込むなよ!」
全くもって真っ当なエリオの突っ込みであったが、ウィリアムは困った様に頬を掻くばかりである。素っ頓狂なやり取りではあったが、ともあれ、慰みの言葉をかけようとしているということは、クロエにも伝わった。気落ちしてばかりもいられない。
「……あり、がとう」
と、一言零して、再び一行は歩き出した。涙はすでに乾いていた。
そして程なくして、今度こそクロエは卒倒しそうになった。
「く、クロエェー! 大丈夫か! 気を! 気を確かに!」
「……う、うん……あ、天国の、おばあちゃんが……」
「お祖母さんいるのこっちだから! 健在だから! そっちにはお祖母さんいないから!」
少女の身体が傾き、ぐったりと地に倒れかけるところを、ウィリアムが咄嗟に支える。エリオは、瞳を細めて、いっそ感心したような呟きを漏らした。
「……いやしかし、こりゃマジで、すげえな、こんなこと、あるもんなんだァな、エルフのくだりも信じても良いかもしんねェなこりゃあ──」
そんな風に独白するエリオの視線の先。
──先ほど仕留めたガルムの骸が転がっていた。