Level10:『都市の暗がりに無法者が踊る』
がきんっ!!
高らかに響く金属音。エリオの持ち合わせる短刀が、突き出される拳を受け止めた音だった。受け止めて、そしてその上で、遙かに勝る膂力に押し返される。まさしく、怪物じみた鉄拳。刃を立てたにも関わらず、その手からは、血の一滴さえも零れ出ていない。
「──ふむ。止めて、みせますか」
「……化物めッ」
感心したような、くぐもった声。それに対して吐き捨てるように返しながら、エリオは拳を掻い潜り、黒尽くめの脇に躍り出る。不意、唸りを上げて、空を裂き、脚が跳ね上げられた。靴底がエリオの胸を穿つ。そのまま彼の身は背後まで吹き飛び──地に、叩きつけられた。床とぶつかり、その威力のあまりに跳ね上がる彼の身体。その勢いに任せ、エリオはそのまま着地した。臓腑でも傷めたのか、ひゅうひゅうと尋常ならざる息を吐きながら、ゆらりと相手の姿を一瞥する。
「苦しませるつもりは無いのですけれども──恨みもありませんし」
「恩義はあるがなッ」
「少々、後悔は感じないでも無いのですが」
ぺ、と唾棄しながらエリオは言う。そう、彼には恩義があった。“気乗りしない仕事”を受けるに足りる程の恩が。とはいえそれは、“食い詰めて行き倒れた所を助けられ一宿一飯の世話を受けた”という実に情けのない話であり、仔細を語られる機会は恐らくあるまい。そこまでされて仕事の世話までをも持ちかけられては、心情としては断り難いのが人情ではある。
「そうかい、悪いなッ!」
とはいえ、此処で大人しく殺されるまでの義理は、エリオには無かった。そのまま脇目もふらずに、背を向けての逃走を開始した。極めて迅速な判断である。そして、最良の行動でもあるだろう。──しかし、結果は芳しくなかった。たんっ、と床を蹴る音がひとつして、直後、エリオはその背に迫る気配を感じ取った。ぞくりと、悪寒に身体が震える。風切音を引き連れて、迫る剛拳。エリオは半ば転げるように前のめりに駆け出し、一撃をいなす。
そもそも“戦い”が成立する実力差では無かった。その身は確実に、遙か高みに鍛え上げられた拳士である。あるいは、魔術によって極限まで身体を硬化させ、運動性能を底上げしているのか。少し剣が扱えるだけの、それもきちんとした剣術を学んでいるわけではないエリオが──真っ当に渡り合う術はない。
「じゃあな!」
ゆえにエリオは迷いなく飛び出した。それは、先刻に開いた窓だった。まるで宙に身体を投げ出すかのようにして、相手の視界から姿を消す。ほんの一瞬、黒尽くめの姿が足を止めた。
「逃がす訳には、参りませんね」
そう言って、窓から身を乗り出す。
「真逆──落ちましたか」
よもや飛び降りるつもりではあるまいが、果たしてロープ伝いに壁面を降りているのだろうか、その確認のためだった。後は警備の兵を配置して、先回りをしてやれば、それでおしまいになるお話だった。
そのはずだった。
突如、黒尽くめの襟首辺りを、ぐいと掴む手が伸びた。その腕は、窓の上方から伸びていた。開いた窓から身を乗り出していた相手には、為す術がない。そして、それ以上に──“上”など、完全に意識の外だった。視線を向ける間もなく、声が落ちてきた。エリオの声だった。
「落ちるのはオレじゃねえ、あんただ」
エリオは、窓のその上、壁面に鉤爪を引っ掛けて、どうにかこうにかといった様子で、ぶら下がっていた。その姿態のままで、引っ掴んだ黒尽くめの身を、ぐい、と全力で引っ張る。存外に軽い身体だった。上半身のほとんどを引きずりだして、空中に投げ出された身体を、エリオは無造作に土足で踏む。
「“じゃあな”」
「な──ッ!!」
上擦った声を意に介さず、別れの言葉を繰り返した。そのまま身体を引きずりだして、蹴落とす。悲痛な叫びを引き連れて、そしてどんどん小さくなっていく声を聞きながら、エリオは邸内に、再び侵入した。下は、見ない。重力に引きずられて落ちていったことは確かだろう。何せ、四階の高さだ。生きてはいるかもしれないが、無事では済むまいとたかをくくり、エリオは探索を再開した。はぁ、と息を吐く。
「……やれやれ」
大いに損耗した肉体を引きずる。痛みも、疲労も、限界に達していた。エリオとしては、出来ればさっさとトンズラしたいところなのだが、しかし、彼にはやらなければならないことがあった。やけに警備の薄っぺらな邸内を探り、駆け回り、そして最奥に辿り着く。最早、こそこそと動きまわる必要もあるまい。バァン!! と派手な音を立てて、エリオは扉を蹴り開けた。
「よう、旦那ァ」
軽い調子の言葉を吐きながら、室内に押し入る。豪奢な調度品が一揃いした一室であった。そして、そこには、一人の男がいた。商店の主、バリー・バルザック。彼とて邸内の異変を悟ってはいただろうが──しかし、此処に至るとまでは夢にも思っていなかったのだろう。突如としての闖入者に、彼は露骨な驚愕の表情を浮かべていた。
「──誰だ、否ッ、ネロッ、いないのか、疾く来い!」
常人ならば思考が停止しかける所を、咄嗟の判断で男は声を上げた。助けを呼ぶ声だったが、それに応えて駆けつける者はいない。人望云々のお話ではなく、純粋に人がいないのだろう。あるいは彼の呼ぶその名は、今、地に伏している者の名であったろうか。男のそんな様子に構わないで、エリオはずんずんと彼に歩み寄った。凶器たる刃を片手にして。
「……何だ、何が望みだッ」
「オレは“同職ギルド”の者だ。薬屋から手をひけ」
「……ッ!」
男が声に詰まる。
同職ギルドとは、職人たちの手によるギルドだ。ギルドの中で、製造する商品の質などを保持し、流通ルートを確立する。商人ギルドからすれば、立派な商売敵と言ったところだ。世界的規模で鑑みれば、勢力としてほとんど拮抗した状態としても良いだろう。その言葉が意味する、即ち互いがバックとする存在の関係に、男──バリーは顔を青くする。
もちろんエリオのハッタリだった。
「わ……分かった」
「宜しい」
ニィ、とエリオは笑った。ぽい、と手にした刃を捨てて背を向ける。男が安堵に吐息を零す音が、聞こえた。
「──わきゃ無えだろうよォォォォッ!!」
「ヒイ!?!?」
瞬間的に振り返り、怒涛の勢いでエリオは拳を振り上げた。正直なところ、エリオにとって、先刻までのやり取りは、全く以てどうでも良かった。そもそも、今交わした口約束が、いかなる効力を発揮すると言うのか。クロエが襲撃を受ける羽目になった元凶でもある目の前にいる男、“商店の主”に、何はともあれ拳をぶち込んでやるという、その一点こそが肝要であり、この点でウィリアムとエリオの意見は完全なる一致を見た。そしてクロエも概ね賛同した。
ゆえに、振り下ろす。殴打する。「これはオレの分ッ! これがウィルの分ッ! これが嬢ちゃんの分ッ! んでこれが嬢ちゃんの婆ちゃんの分だァァァァッ!!」「ギャアアア!!!」殴る。殴る。殴った。物凄い勢いで殴った。それこそ、顔の形が変わるのではないかというほどに。
「ふぅ」
ひとしきり拳を振るい、ピクピクと痙攣するバリーが静かになったところで、エリオは室内の物色を始めた。短剣を拾い上げ、恐らく非常時のための備えだろう、傷薬などを頂戴する。少しでも怪我を癒さなければ、例え大急ぎでクロエ等の所に戻ったとして、足手まといになる公算が高すぎた。故にこれまでの行為も、それほど状況を逸脱したものではないと言える、その範疇だろう。回復薬の類をいそいそと着服しながら呟く。
「急ぐか」
下の階層が少々騒がしくなっていた。エリオはその様子を敏感に気取る。
言葉のとおりに早足で、くだんの窓の所まで戻り、ロープを使って外に降り立った。ようやく人心地、と息を吐く。そしてそこには、かの黒尽くめの身体が転がっていた。ぐったりと倒れ伏しているようだが、どうやら息はある。と、不意に好奇心をくすぐられたエリオは、ひょいと無造作に、そのフードをまくり上げた。
女の顔だった。鮮やかな翡翠色の瞳。藍色の髪を二つ結い。中々に愛らしい。
「……」
見なかったことにしよう、とエリオは心に決めた。
さて、街の片隅──少女を取り囲む集団の男達、といった異様な絵面。いささかも穏やかさを感じられない光景のまさに渦中で、クロエは男達の代表格らしき者と相対していた。あるいは、集団を統制する役割に当たる彼がいなければ、今すぐにでもクロエの矮躯は引き裂かれてしまっていたかもしれない。男、ホークはゆるりと自らの顎を撫でて、視線を少女に落とした。
「そいつは──頂けねえな」
そう言う男の表情から、野卑な笑みは失せていた。鋭く細められた瞳は、目の前の少女を品定めするように、見つめている。周囲の男達が、“長”に同調するかのごとく野次を飛ばした。「巫山戯んな!」「もうやっちめえ」「面倒だしな」「ついでに焼こうぜ」──多種多様に騒がしい声が上がる。
「……」
正装の少女は、ゆっくりと様子をうかがうように周囲を見渡した。
そして、静かに口を開く。
「……ふざけるな!」
か細く涼やかな声で、精一杯に張り上げられる怒声。釣り上がった瞳。目を見開きながら、クロエは逃げようといった様子を見せない。眼前の理不尽に立ち向かおうという姿勢を、崩さない。彼女の一声を皮切りとしてか、元より殺気立った集団が、弾けた。どっと群れをなして、彼らが少女に襲いかからんとする。それと同時に、クロエは懐中から小さな短剣を取り出した。否、短剣というにも頼りない、ただの短刀。
それを少女は己の首筋に押し当てた。
「──野郎共ッ!!」
ホークが一喝する。その雷声で、途端に集団がぴたりと動きを止めた。振り上げられたそれぞれの武器は降ろされて、やり場を失った殺意がわだかまりながらも、次第に静寂を取り戻す。
その中心に、クロエがいる。その白く細い首に、かすかに食い込んだ短刀。その刃を伝い、血の雫が一滴一滴と零れ、地を紅く濡らす。ほのかな痛みに表情を歪めながらも、少女は整然と立ち尽くし、たたずんでいた。
「死ぬ気か」
「……死にたくは、ない。でも、私が死ねば困るのは、貴方達も、おなじ」
今、クロエが彼らと対等な状況を創りだすには、これしかなかった。それでも暗闇の中で、彼女のナイフを握る両手は、かすかに震えている。当然のことだった。怖いし、死にたくもない。おまけに、少し本気を出せば簡単に蹂躙されてしまうだろうという相手、それも十数人に包囲されているという絶望的なまでの劣勢。平静ならぬ息が漏れ、泉のごとき瞳に波紋が起こり、わずかな揺らぎを生んでいた。
「そうか」
瞬間にホークが動いた。迅速な初動で、少女との距離を一瞬にしてゼロにする。
「──!!!」
クロエの瞳が驚愕に見開かれた。彼女に覚悟があったのならば、それこそ命を捨てても良いという覚悟があれば、その一瞬のうちに、己の喉を突くことが出来たかもしれない。だがそんなことは、土台無理な話だ。彼女の握る短刀の切っ先は、にわかに肌を裂いたばかりで、止まる。男が、クロエの華奢な腕を捕まえた。
ごつごつとしたホークの手が、クロエの細い手首を握り、捻った。からん、と音を立ててナイフが地に落ちる。その柄を男の脚が蹴り飛ばし、彼方へと追いやった。
「っ、痛……!」
「──どうにも出来ねえよ、餓鬼」
「……う、あっ……!」
「……お前ら、ロープ持ってこい、取り押さえるぞ」
クロエの矮躯がびくりと震え、瞳が潤む。いくらクロエが足掻いてみても、男の腕はびくともしなかった。周囲の男達が、沸きに沸く。
どうにもならない、ままならない。少女はあまりにも、無力だった。
このままえっちされてもおかしくない