第六話 生徒会長深田はじめ
昼休みの残り時間が半分を切った頃。
そしてこの学校全体をじわじわと覆い尽くしつつある異常な空気の正体を突き止めるため、凪は一人、校舎の最上階の奥に位置する『生徒会室』へと足を運んでいた。
下層階から微かに響いていた生徒たちの喧騒は、冷え切った階段を上るごとに遠のき、やがて耳鳴りがするほどの完全な静寂へと変わっていく。
長く人気のない廊下を歩くたび、凪の上履きの底がリノリウムの床を擦る音だけが、不気味なほど大きく反響した。
やがて凪は、突き当たりにある重厚な木製の扉の前に立ち止まる。
その扉は固く閉ざされており、真鍮製のドアノブのすぐ横には、達筆な筆文字で『入る際はノック厳守』と書かれた張り紙が貼られていた。ただの生徒たちが集まる活動部屋にしては、ひどく仰々しく、人を遠ざけるような冷たい威圧感を放っている。
凪は小さく深呼吸をし、張り紙の指示通りにコンコン、と二回ノックをしてから、ゆっくりとドアノブを回して扉を押し開けた。
「……え?」
部屋に足を踏み入れた瞬間、凪は思わず息を漏らし、その場に立ち尽くした。
そこは、およそ地方の高校の一教室とは思えないような、完全に外界から切り離された異質な空間だったのだ。
床には足音が沈み込むほど分厚くふかふかとした絨毯が敷き詰められ、壁沿いにはアンティーク調の重厚な本棚や、細工の施された革張りのソファが所狭しと並べられている。まるでどこかの貴族の執務室か、高級ホテルのスイートルームにでも迷い込んだかのような錯覚を覚える。
そして、その異様な部屋の最奥。
ひときわ立派なマホガニーのデスクに、一人の男子生徒が深く腰掛けていた。
彼が、ゆっくりと顔を上げる。
容姿端麗という言葉をそのまま人間の形に造形したような、非の打ち所のない整った顔つきだった。色素の薄いサラサラとした髪に、ガラス玉のように透き通った瞳。口元には、絵画から抜け出てきたような、完璧で柔和な微笑みを浮かべている。
机の上に置かれた真鍮の三角プレートには、〈生徒会長:深田はじめ〉と記されており、彼がこの異質な部屋の主であることを示していた。
凪の脳裏を、強烈な違和感と警戒心が駆け抜ける。
凪自身、心臓の病気のために一年間学校を休学していたとはいえ、これほど容姿が整い、周囲を圧倒するような存在感を放つ生徒がいれば、入院する前の記憶に絶対に刻まれているはずだ。ましてや、全校生徒から異常なまでの注目と崇拝を浴びる「生徒会長」という立場にいる男なのだから。
だが、凪の記憶の糸をいくら手繰り寄せても、目の前の『深田はじめ』という生徒に見覚えは一切なかった。ただ単に忘れているだけかもしれないと自分に言い聞かせようとしたが、これほど特異でカリスマ性を放つ人物を完全に忘却するなど、そうそうあり得る事ではない。
凪が入り口で警戒心を露わにして立ち尽くしていると、深田はじめは手元の机から、古びた手帳サイズの革装丁の本を一冊持ち上げ、音もなく立ち上がった。
深田は柔らかな笑みを全く崩さないまま、凪の方へと歩み寄ってくる。
いや、凪の元へ来るのではない。凪の横を通り抜け、この部屋から出ようと入り口へと近づいてきているのだ。
「……待ってください。あなたに、いくつか聞きたいことがあるんです」
凪はすれ違おうとする深田の前に一歩踏み出して立ち塞がり、喉から声を絞り出した。
そんな凪を見て、深田はふっと優しげに目を細めた。
「………?...ああ、君は、確か九条凪くんか。退院おめでとう、そしてようこそ、久しぶりの学校へ。僕は深田はじめ。君と同じ二年生だよ」
同じ二年生。
その響きにさらなる違和感を覚えながらも、凪は躊躇いを振り捨て、核心を突くことにした。
「……俺のクラスの志村良平が、昼休みから姿を見せないんだけど、もしかしたら生徒会関連で何かしてるんじゃないかって思って。深田会長は、何か知りませんか」
「良平くん? ああ、そういう事か。なら心配しなくて大丈夫だよ。彼なら委員会の仕事で、体育館の倉庫で備品の整理作業をしているはずだ」
――知らなかった。
凪が入院中、良平は学校についてあまり多くは言わなかったし、凪もまた深く聞くことはなかった。当時の凪は、その事に何一つ違和感を感じることもなかった。
(……俺は、本当に何も知らないんだな)
良平はいつもヘラヘラと笑って、病人の俺を励まし続けてくれていたのだ。
(あの痛々しい痣……。俺がいない間、ずっと一人で耐えて……っ!)
親友のSOSに気づけず、のうのうと昨日まで浮かれていた自分自身への強烈な怒りと自己嫌悪が、凪の胸をギリギリと締め付ける。
「……会長。良平は、クラスの奴らに酷いいじめを受けてる! 首や腕に、生々しい痣がたくさんあった!」
凪は両手を強く握り込み、深田の透き通るような瞳を真っ直ぐに睨みつけた。
「生徒たちはみんな、あなたを異常なくらい尊敬していたよ。だったら、あのいじめを止めるように何とかできないのか!?」
激昂し、懇願するような凪の言葉に対し、深田はじめはあくまで涼しい顔のまま、ふっと柔和な微笑みを深めた。
「もちろん分かっているとも。僕も良平くんのことはとても気にかけているんだ。彼がこれ以上理不尽な目に遭わないよう、すでに善処しているから、安心していいよ」
一切の淀みもない、完璧な模範解答だった。
だが、声のトーンは限りなく優しいのに、目の前の男からは、良平を本気で心配しているような血の通った人間らしい温もりが一切感じられなかった。プログラムされた台詞を、ただ美しい声帯から再生しているだけの機械のような空虚さ。
これ以上良平の件を追及しても、暖簾に腕押しだ。
そう悟った凪は、焦燥感と怒りを無理やり喉の奥へと押し殺し、もう一つの話題へと切り替えるしかなかった。
「もういいかな?」と深田はじめは、小脇に抱えた革装丁の本を指で軽く叩きながら、再び入り口の扉へと向かおうとする。
「……これから、どこか行くんですか?」
凪が咎めるように問いかけると、深田は歩みを止めず、肩越しに凪を一瞥した。
「すまないね。生徒会は忙しいんだ。君たちの意見をゆっくり聞く暇がないほどね。最初に言おうと思ってたんだけど、次からは要件があるなら手短にお願いするよ」
優等生めいた丁寧な口調の裏に、明確な『君にかまっている暇はない』という冷酷な拒絶が透けて見える。
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。クラスメイトたちは「生徒会長なら何でも知っている」と口を揃えて彼を崇拝していたのだ。
凪は彼の背中に向かって、天下崎たち大人組から共有されていた、もう一つの核心を突く質問を背中越しに投げかけた。
「最後に……二年前の『虹橋デパート爆破事故』について、あなたは何か知っていますか?」
その言葉に、深田の足がピタリと止まった。
張り詰めた数秒の沈黙が、重厚な絨毯の上に落ちる。
凪は身をこわばらせ、相手の出方を待った。
やがて、深田はゆっくりと振り返り、相変わらずの貼り付けたような完璧な笑顔で首を横に振った。
「あー、それについては答えられないんだ。やましい理由とかじゃないよ。実は僕、その事故が起きたちょっと後に、この町に引っ越してきたんだよね。だからそれ以前の事には疎いのさ」
「……引っ越してきた?」
「そう。だから、君が期待するような答えは持ち合わせていないよ」
あっけらかんとした、いっそ清々しいほどの物言いに、凪は眉をひそめた。
嘘をついているようには見えないが、かといって鵜呑みにできるほど、この男に対する本能的な不信感は拭えない。
凪の視線は、深田が小脇に抱えている分厚い本へと向いた。
「……その本は、何ですか?」
「最後じゃなかったのかい?...まあいいけど」
深田は手元にあるその古い革装丁の本を軽く持ち上げてみせた。
表紙には何かの模様が書いてあるが、深田の手が覆いかぶさっている為何かまでは分からない。黒ずんだ革が年月を感じさせるだけだ。
「……記録みたいなものだよ」
深田はそう短く答えたきり、中身を見せようとする素振りは一切見せなかった。
深田はパタン、と片手で本の表紙を軽く叩いた。
「さて、もういいだろう。そろそろ行くよ」
深田はそう言うと、静かな足音を立てて豪華な生徒会室の出口へと向かいかける。
しかし、ドアノブに手をかける直前、ハッと思い出したかのように足を止め、凪の方を振り返った。
「ああ、そうだ。九条くん。明日は休校日なんだけど、実は学校でちょっとした特別なイベントがあってね……それは自由参加だからね」
深田はガラス玉のような感情のない目で凪を見つめ、ひどく優しい、それゆえに酷く不気味な声で続けた。
「君はまだ病み上がりで、疲れが取れていないだろう? だから明日は無理に参加しなくても構わないよ。ああ、勿論気になったら参加して貰って構わないよ?」
これ以上の問答は無意味だと切り捨てるように、深田は再び凪に背を向け、部屋を出て行く。そのまま廊下へ出ると、一切振り返ることなく角を曲がり、静かに姿を消した。
静寂が戻った生徒会室の奥で、凪はハッとして慌てて生徒会室のドアノブに手をかけた。
しかし、ガチャガチャと無機質な金属音が鳴るだけで、扉は開かない。
鍵をかける音など一切しなかった。いつの間にか、内側からでも外側からでもない、物理法則を無視した得体の知れない力によって、扉が完全に封鎖されてしまったかのようだった。
(くそっ……開かない……!オートロックなのか?)
凪が外ドアを強く押し引きしていると、昼休みの終わりを告げる予鈴のチャイムが校舎に鳴り響く。
明日の休校。自由参加の特別なイベント。
凪はひとまず頭の中を整理する為、そして午後の授業に出るため、重い足取りで自身の教室へと引き返していった。
午後の五時間目と六時間目の授業は、凪にとってまるで熱にうなされたような、ひどく現実味のない時間だった。
教師が黒板に書く文字も、クラスメイトの朗読の声も、すべてが水底から聞こえてくるようなくぐもった音にしか感じられない。
何より凪の心を苛立たせていたのは、斜め後ろにある良平の席が、ずっと空席のままであるということだった。
体育館の倉庫で作業をしていると言っていた深田の言葉が真実だとしても、午後の授業をすべてサボってまでやることなどあり得ない。良平は今、どこで何をしているのか。
やがて、放課後を告げるチャイムが鳴り響いた。
傾きかけた太陽が、教室の窓から赤黒い光を差し込ませ、生徒たちの顔を不気味な黄昏色に染め上げている。
生徒たちが部活動や帰宅のために次々と教室を後にしていく中、凪は席を立ち、一階の廊下へと向かった。
(良平のいじめの件、それにあの得体の知れない生徒会長のこと……誰かまともな大人の先生がいれば、相談するしかない)
冷え切った階段を下り、凪は『職員室』の前で足を止めた。
職員室の扉はピタリと閉ざされており、中からは複数の教師たちの穏やかな話し声が漏れ聞こえてくる。どうやら中で小規模な会議か打ち合わせが行われているようだ。
(この時間に会議なんて珍しいな…)
凪は訝しげに眉をひそめ、扉のすりガラス越しから、そっと中の様子を覗き込んだ。
中は、一見するとどこにでもある一般的な職員室の風景だった。
机の上には先生方の持ち物や書類が山積みになっており、教師たちは集まって「今度のテストの平均点が」「あの生徒の成績が」と、ごくありふれた日常の会話を交わしている。そこだけを切り取って見れば、何もおかしなところはなかった。
だが、凪の視線が職員室の『奥の壁』に向いた瞬間、心臓が早鐘のように激しく鳴り始めた。
「……なんだ、あれ……っ」
職員室の壁一帯。本来なら時間割や年間行事のプリント、教育目標などが貼られているはずのその広大なスペースが、すべて――生徒会長である「深田はじめ」の大きな顔写真や、異常なほど精巧に描かれた肖像画で、隙間なくびっしりと埋め尽くされていたのだ。
壁だけではない。黒板の端、キャビネットの側面、パソコンのモニターの裏側。至る所に、あの深田の柔和な笑顔が貼り付けられ、室内を見下ろしている。
何よりおぞましいのは、その明らかに常軌を逸した狂った室内で、教師たちが誰一人として壁の異様に触れることなく、まるでそれが当たり前の風景であるかのように普段通りに話し合っていることだった。
その異常なまでの「日常」の振る舞いが、かえってこの空間の決定的な狂気を際立たせている。
その理解不能な光景に強烈な吐き気を催し、凪が窓から離れようとした、その時だった。
――ガチャリ。
突然、目の前の職員室の扉が開いた。
「っ……!」
凪が驚いて後ずさる。中から出てきたのは、くたびれたジャージを着た、ガタイの良い体育教師らしき男だった。
「何をコソコソやっている?」
低く、ひどく濁った、粘り気のある声。
凪は恐る恐る顔を上げ、その教師の顔を見て――ゾッと背筋が凍りつくのを感じた。
(嘘だろ……なんで、学校の先生が……!)
ジャージを着たその教師は、顔に鱗があったりエラ呼吸をしていたりするわけではない。間違いなく『人間の顔』をしていた。
だが、その造形はあまりにも不自然だった。左右の眼球がこめかみに届くほど異常に離れており、まぶたの動きが極端に鈍く、常に乾燥したガラス玉のようにギョロリと見開かれている。鼻筋はのっぺりと低く、半開きの口元からは不揃いな歯が覗いていた。
それはあくまで人間の範疇に収まる顔立ちでありながら、凪が昨日遭遇したあの『魚顔の化け物』のシルエットを強烈に想起させる、生理的な嫌悪感を掻き立てる顔つきだった。
「会議の邪魔をするな。今すぐ去れ」
魚顔を思わせるその教師は、ギョロリとした生気のない目で凪をねめつけると、有無を言わせぬすさまじい威圧感を放ちながら、凪を職員室の前から遠ざけた。そして、再び「ガチャリ」と無機質な音を立てて職員室の中へと戻っていった。
その場にへたり込みそうになるのを必死でこらえ、凪はガチガチと震える歯を強く食いしばった。
(なんなんだよ……やっと元の日常に戻れると思ったら……何が起きてるんだよ……!)
凪はこれ以上の探索を断念し、這うようにして昇降口へと向かった。良平への罪悪感と、明日待ち受けているという特別なイベントへの不吉な予感を抱えたまま、凪は夕闇に沈む学校から逃げるように走り去っていった。
【深田はじめ】
凪が高校にいない間に入ってきた転校生で、現在の夢見ヵ原高校の生徒会長。
才色兼備で、多くの生徒たちから信頼を得ており、先生間でも人気が高い。
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