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箱庭の百合  作者: Kibana
黄昏時に夢をみる
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第五話 夢見ヶ原高校

 深い、泥のような暗闇の底。


『――おいおい、喉渇いてるんだろ?』


『――ほら、遠慮すんなって。たっぷり飲めよ』


『――うわ!本当に便器の水飲みやがった!きたねぇ』


『――なんだこれ、キッショ! 高校生にもなって、特撮ヒーローの落書き?』


『――お前みたいな暗いキモヲタがなれるわけねえだろ!』


 ビリッ、ビリビリッ。


(助けて……誰か、僕を……)


 声にならない悲鳴。冷たいタイルの感触。引き裂かれる大切なノート。それを見て見ぬふりをする傍観者。

 しかし、その絶望の深淵のさらに奥底から、ひどく甘く、粘り気を帯びた未知の『声』が響いてきた。


『――大丈夫。時がくれば、きっと奴らを見返す事ができる』


 その言葉は、極限まで追い詰められてすり減った良平の心に、致死量の猛毒のように甘く、そして確実に染み込んでいく。


――キーンコーンカーンコーン


 良平の意識は泥の底から急速に現実へと引き上げられた。

 ホームルームの始まりを告げる、無機質な始業チャイムの音だ。


「……はっ、あ……っ」


 良平は自身の机に突っ伏していた顔を、勢いよく上げた。

 荒い呼吸を繰り返しながら周囲を見渡す。そこは冷たいトイレの床でも、絶望の暗闇でもなく、朝の光が差し込む見慣れた二年B組の教室だった。

 クラスメイトたちが気怠そうに席につき、他愛のない雑談を交わしている。しかし、彼らの何気ない笑い声すら、今の良平の耳には鼓膜を引っ掻くような嘲笑に聞こえ、無意識に両肩を強く抱きしめた。

 額に浮かんだ嫌な寝汗を手の甲で拭いながら、良平はひどく淀んだ目を虚空へと向ける。


(……そうだ。時がくれば、きっと……)


 夢の中で聞いたあの悍ましい声の残響が、今も耳の奥にべっとりとこびりついて離れなかった。




 ガラリ、と教室の前方の引き戸が開き、初老の担任教師が束ねたプリントを持って教壇に立った。


「はい、席につけー。ホームームを始めるぞ」


 教師の気だるげな声で、教室内のざわめきが徐々に収まっていく。


「えー、今日は連絡事項の前に、皆に紹介したいやつがいる」


 教師がそう言って廊下の方へ視線を向けると、クラスの空気が微かに揺れた。転校生でも来るのかという、無邪気な好奇心の混じった空気。

 しかし、教室の最後列の窓際に座る良平だけは、その言葉にビクリと肩を震わせて顔を上げた。


「入れ、九条」


 教師の呼びかけに応え、一人の男子生徒が教室へと足を踏み入れた。


「……おはようございます。九条凪です!」


 黒板の前に立ったその少年は、教室の空気を一瞬にして明るく染め上げるような、屈託のない満面の笑みを浮かべていた。

 一年間の休学を経て、死の淵から生還した九条凪。

 その表情には、重い心臓病を患っていた頃の青白さや、昨日の夕方に薄暗い路地裏で異形のバケモノに腹を抉られた凄惨な記憶など、微塵も感じさせないほどの強い生命力が満ち溢れていた。

 凪は、制服のシャツの下で重く冷たい質量を放つ『赤』のペンダントの存在を意識の隅へと強引に押しやりながら、クラスメイトたちに向かって深く頭を下げた。


「心臓の病気で一年間休学していましたが、手術も無事に終わって、すっかり元気になりました! 勉強も運動もかなり遅れちゃってますが、これからまた、みんなと一緒に普通の高校生活を楽しみたいと思ってます。よろしくお願いします!」


 凪の明るく堂々とした挨拶に、教室中からパラパラと温かい拍手が巻き起こる。

 一年前、急に学校に来なくなった彼の事情を知っていた生徒も多く、「おー、マジで戻ってきたのか」「よかったな」といった安堵の声がいくつも漏れ聞こえてきた。

 凪は拍手を受けながら、その視線を教室の奥へと真っ直ぐに向けた。

 最後列の窓際。

 そこには、一年間ずっと会いたくて仕方がなかった、たった一人の幼馴染の姿があった。

 目が合った瞬間、凪は白い歯を見せて笑いかけた。

 しかし。

 凪の目に映った志村良平の反応は、彼が病室で想像していたような、照れくさそうに微笑み返してくれる姿ではなかった。

 良平は、光を通さない虚な目で、どこか遠くを見るようにこちらを見ていた。


(……良平?)


 凪の心に、冷たい水滴がぽつりと落ちたような違和感が広がる。

 だが、その疑問を深掘りする間もなく、担任の声が教室に響いた。


「よし、九条の席は一番前の窓際だ。しばらくは授業のペースを掴むのが大変だろうが、周りのやつらもフォローしてやってくれ」


「…はい!」


 凪は努めて明るく返事をし、指定された席へと向かった。




 短いホームルームが終わり、一時間目の授業が始まるまでの十分間の休み時間。

 凪の席の周りには、かつて彼とそこそこ仲の良かった男子生徒や、好奇心旺盛な女子生徒たちがすぐに集まってきた。


「九条、マジで生きてたんだな! 心臓の手術したって聞いて、もうダメかと思ってたぞ」


「お前、一年も休んでて単位どうすんの? 補習地獄確定じゃん」


「九条くん、背伸びた? なんか少し大人っぽくなったね」


 次々と投げかけられる無邪気で悪意のない質問の嵐。

 凪はそれら一つ一つに、嫌な顔一つせずに笑顔で応えていった。


「いやー、マジで死にかけたけどね。勉強の方は……もう絶望的だから、ノート見せてくれよ〜」


 冗談交じりに笑い合う、どこにでもある平和な高校生の日常風景。

 チョークの粉の匂い、床のワックスの匂い、そして同世代の若者たちの他愛のない喧騒。

 凪が一年間、ベッドの上でずっと焦がれ続けていた『普通の世界』が、今まさに目の前に広がっていた。


(……でも)


 笑顔を取り繕いながらも、凪の心の奥底には、決して拭い去ることのできない黒い染みがこびりついている。

 昨日、六丁目の路地裏で嗅いだ、あの魚が腐ったような強烈なヘドロの死臭。

 巨大な怪物の鉤爪が、自分の腹部の肉を易々と引き裂いた生々しい感触。

 そして、狂気に満ちた占い師の空間で、自らの脳に無理やりねじ込まれた未知の魔術の呪文。

 それらの非日常の記憶が、目の前で笑っているクラスメイトたちとの間に、分厚く透明なガラスの壁を構築しているように感じられた。

 彼らが生きている平和な世界と、自分が足を踏み入れてしまった狂気の世界。自分はもう、純粋な意味での『彼らと同じ高校生』には戻れないのではないかという、ひどく冷たい疎外感。


「あ、ごめん。ちょっと挨拶したい奴がいるから」


 会話が一段落したタイミングを見計らい、凪は周囲の友人たちに軽く手を上げて席を立った。

 向かう先は、教室の最後列。

 クラスの喧騒から完全に切り離されたように、一人だけポツンと座って机の木目を見つめている、良平の席だ。


「よっ。おはよう良平」


 凪はいつもと同じように、明るく気安い声で話しかけ、良平の前の席の背もたれに両手をついて身を乗り出した。

 良平の肩が、ビクッと大きく跳ねた。

 彼はゆっくりと、錆びついた機械のように首を上げ、凪の顔を見た。


「凪……。 また学校で会えて嬉しいよ……よかった……」


 消え入りそうな、掠れた声だった。

 至近距離で顔を合わせた良平の姿に、凪は思わず息を呑んだ。

 元々色白で線の細い少年だったが、今の彼は病人の自分よりも遥かに不健康な顔色をしていた。目の下には色濃いクマが張り付き、頬はこけ、何よりもその瞳から『生気』というものが完全に失われている。

 まるで、深い井戸の底から外界を怯えて見上げているような、そんな暗く濁った目だった。


「良平……お前、なんか凄く顔色悪いぞ? それに、なんだよその傷……」


 凪の視線は、良平の手首から首筋にかけて点在している、複数の黒ずんだ『不自然な痣』や擦り傷を確実に見逃さなかった。


「あ、いや……これはその、ちょっと転んだだけで……」


 良平は慌てて制服の袖を伸ばして傷を隠そうとするが、その手が小刻みに震えているのは明白だった。


「おいおい、良平。久々に学校来た凪の前で、そんな暗い顔すんなよなぁ?」


 不意に、背後からニヤニヤと笑う声が響いた。

 クラスの中心グループにいる男子数人が、良平の席を囲むようにして立っていた。彼らが良平を見下ろす目には、明確な『悪意』と『嘲笑』が混じっている。


「お前がトロいから、ちょっと『指導』してやってるだけだろ? なぁ?」


「やめろよ!」


 凪は咄嗟に良平の前に立ち塞がり、男子たちを鋭く睨みつけた。

 凪はその時全てを察した。明らかな、そして陰湿ないじめの空気。凪が学校を休んでいる間に、良平が何を受けてきたのか。


「いいんだ、凪……。僕が、どんくさいから……」


 良平は凪の背中を弱々しく引き、それ以上波風を立てないでくれと哀願するような目を向けた。


「それに大丈夫……僕にはもう、凪の助けは必要ないんだ」


「……は?何言ってんだよ良平……」


 親友の思いもよらない言葉に、凪は奥歯を強く噛み締める。

 そうこうしているうちに、一時間目の授業の始まる鐘が鳴り響く。


「っ……後でな!」


 凪は精一杯の笑顔を向けた後、後ろ髪を引かれる思いで自分の席に戻った。




 一時間目の授業が終わり、徐々に生徒が次の移動教室へと向かって出ていく。凪は良平と一緒に行こうとしたが、いつの間にか良平は教室から居なくなっていた。

 凪はスマートフォンを開き、グループチャットの画面を重苦しい気分で見つめた。

 天下崎たち大人からのメッセージはまだない。彼らも今頃、それぞれの場所で調査を行っているはずだ。


(良平も気になるけど……俺も、何か調べないといけないよな)


 凪は天下崎たちから共有された情報について収集をするため、クラスでまだ比較的言葉を交わしてくれそうな数人の生徒に声をかけた。


「ねえ……ちょっと聞きたいことがあるんだけど。二年前の、『虹橋デパート爆破事故』のこと、何か知ってる人いないかな」


 黒ローブの男たちについての情報は学校では得られないと考えた凪は、天下崎や翼が追っているもう一つのターゲットについて探りを入れたのだ。

 しかし。


「二年前の事故? ……何かって、何?」


「ニュースで聞いた話しか知らないけど…急にどうしたの?」


 その質問を聞いた生徒たちは微妙なな反応を示した。


(……まあ、そうだよな。俺だって別に知ってる訳じゃないし)


 凪は、さっさと良平に会いに行こうと、その場を去ろうとすると、一人の生徒が口を開く。


「でも……『生徒会長』なら何か知ってるかもしれないよ」


「……生徒会長?」


凪は思わぬ回答に素朴な疑問が湧いてくる。


「そうそう。深田ふかだはじめ会長なら、何でも知ってるから」


「会長なら、きっと教えてくれるよ。だって会長は、誰よりも優しくて、完璧な人だから」


 ――深田はじめ。

 この夢見ヶ原高校の現生徒会長の名前だろうか。

 だが、凪は彼らの答え方に、強烈な違和感を覚えた。生徒たちはみな、深田の名前を出した途端、虚ろな笑顔で同じような賛辞を口にし始めたのだ。


「会長に聞けば、すべて解決するよ」


「そう、すべては深田会長のおかげなんだから」


 異常なほどの心酔。

 昨日までただの退屈な場所だったはずの学校が、今や、外の路地裏と同じような不気味な狂気に汚染され始めているような気がする。


「あぁ、ありがとう……じゃあ次の教室行こうか……」


 凪はそれ以上話は振らず、薄ら寒さを感じながら、静かに次の教室への移動準備を始めた。




 昼休み、凪は無意識のうちに人通りの少ない特別教室棟へと足を向けていた。


(みんなどうしちゃったんだ……)


 昼休みが始まってすぐに、良平の方へ向かおうとした凪だったが、そこそこ話していた同級生や、一年の時の同級生が囲って凪の話を聞こうとしていた為、凪が集団から出れた頃には、良平の姿は無くなっていた。


(良平も良平だ。俺が話しかける前にどっか行っちまうし)


 考えを巡らせながら静まり返った廊下を歩いていると、ふと、理科室や準備室が並ぶ区画の奥――『化学室』の引き戸が少しだけ開いているのが目に留まった。

 中からは、薬品の匂いに混じって、どこか生臭いような……あの路地裏で嗅いだ『潮の匂い』に似た微かな悪臭が漂い出ている気がした。

 凪は息を殺し、そっと引き戸の隙間から化学室の中を覗き込んだ。


「……え?」


 思わず、小さく声が漏れた。

 本来ならビーカーやフラスコ、アルコールランプなどが整然と並べられているはずの実験台の奥。部屋の隅のスペースを埋め尽くすように、不自然なほどの『段ボール箱の山』が積み上げられていたのだ。

 ざっと数えても数十箱はある。高校の備品としては明らかに異常な量だった。

 凪は周囲に教師がいないことを確認すると、足音を忍ばせて化学室の中へと忍び込んだ。

 積み上げられた段ボールの山に近づく。箱はどれも真新しく、頑丈なガムテープで厳重に封がされていた。そして、その側面に印字された黒いロゴマークと文字を見て、凪は眉をひそめた。


『――貿易会社:深口ふかぐち


「貿易会社……? なんで、貿易会社の荷物が、学校の化学室にこんなに大量に……?」


 凪が訝しげに段ボールの表面を撫でようと手を伸ばした、その時だった。


「……何をしてるの?」


「ヒッ!?」


 背後から唐突にかけられた声に、凪は心臓が跳ね上がるほど驚き、勢いよく振り返った。

 いつの間にか、化学室の入り口に二人の女子生徒が立っていた。彼女たちの手には、追加の段ボール箱が抱えられている。


「あ、いや……その、ちょっと探し物をしてて……」


 凪がしどろもどろになって言い訳をすると、女子生徒たちは凪を咎めるでもなく、ただ薄気味悪い、貼り付けたような笑顔を浮かべた。


「ここは、大切な物資の保管庫だよ」


「そう。これも全部、優しい生徒会長様のおかげ」


 まただ。

 女子生徒たちは、うわ言のように深田はじめへの賛辞を口にしながら、凪の横を通り過ぎて段ボール箱を積み重ねていく。


「ねえ……その箱の中身は、何なの?」


 凪が恐る恐る尋ねると、二人の女子生徒は同時に首を傾げた。


「さあ? 私たちには分からない。でも、会長が手配してくれたんだから、素晴らしいものに決まってる」


「そう。深田会長は、私たちの学校を良くするために、一生懸命動いてくださってるんだから」


「すべては、生徒会長様のおかげ――」


 焦点の合わない瞳で微笑む彼女たちの異様な不気味さに、凪はついに耐えきれず、後ずさりを始めた。


「あ、ご、ごめん……俺、教室に戻るよ……!」


 足早に化学室を逃げ出し、廊下を小走りで進む。背中にまとわりつくような潮の匂いと、薬品の匂いが、いつまでも鼻の奥から消えなかった。


(なんだ……何があったんだ、この学校で……)


 凪は冷たい階段の手すりに額を押し当てた。

 先ほどの教室での異様な光景と、化学室で出会った女子生徒たちの焦点の合わない笑顔が脳裏にこびりついている。彼女たちはみな、口を揃えて生徒会長である深田はじめを讃えていた。

 しかし、凪の記憶の糸をいくら手繰っても、そんな名前の生徒に覚えはなかった。確かに入院のせいでこの高校にそこまで長く居た訳ではない。だが、今は完全に別の場所にいるような、常にアウェイに立たされているような不安が絶えない。

 昼休みはまだ半分ほど残っている。凪は足早に階段を駆け上がり、自分たちの教室である二年B組へと戻った。


「なぁ!誰か良平がどこに行ったか知らないか?」


 引き戸を開けて教室を見渡す。いじめグループの男子たちの姿はなかったが、同時に、教室の隅にあったはずの良平の姿も消えていた。

 生徒たちは、突然の言葉にポカンとした顔を見せる。


(……いない…か)


「生徒会室……生徒会室にいる会長に聞けば分かるかも……」


 あまり話したことのない女子生徒が沈黙を破る様に答える。その目は、何かを崇める様な、信仰するような眼差しだった。


(また、会長……なんなんだ深田って奴は……)


 生徒たちの話の中心にいる男、深田はじめ。

 この学校に来てから抱く違和感。だが、その男に会えば違和感の正体を払拭できるかもしれない。そう考えた凪は、胸元で微かに冷気を放つ『赤』のペンダントを服の上から強く握りしめ、凪は覚悟を決めた。

 目指すは、校舎の最上階の奥に位置する生徒会室。

 凪は周囲の目を警戒しながら、ひっそりと静まり返った廊下を歩き出した。




 十一月の冷たい木枯らしがビル風となって吹き抜ける、夢見ヶ原市の中央大通り。

 これから天海翼と白石結衣が始めるのは、得体の知れない怪しい教団と異形の怪物たち、そして自分たちの運命を狂わせた二年前の大惨事についての、極めてシリアスな情報収集――のはずだった。


「翼ー! あっちでクレープ売ってる! チョコバナナのやつ食べたい!」


「こら百合、引っ張るな! 今日は遊びに来たんじゃないんだぞ! まずは手分けして聞き込みをしてだな……」


「えー! じゃあ、お話聞いたら買ってくれる!?」


「わ、分かった、善処するから! 頼むからコートの裾を引っ張らないでくれ!」


 休日の買い物客で賑わう大通りのど真ん中で、キャッキャとはしゃぎ回る黄花百合と、彼女の底無しのアクティブさに振り回されてワタワタと狼狽えている翼。

 その光景を少し離れた場所から腕を組んで眺めていた結衣は、深く、そして盛大なため息をつき、痛むこめかみを指で押さえた。


「……ちょっと、天海さん。あんたたち、完全に休日のお出かけを楽しむお父さんと娘の図になってるわよ。私たち、命懸けの調査に来てるってこと忘れてない?」


「す、すみません白石さん! ほら百合、お姉さんに怒られただろ!」


「えへへ、ごめんなさい結衣お姉ちゃん!」


「お、お姉ちゃん……ふふっ、まあ、可愛いから許すけど」


 百合の屈託のない無邪気な笑顔に絆され、結衣もつい怒ったふりを崩して頬を緩めてしまう。

 昨夜の陰惨な悪夢の余韻と、教団の底知れぬ影に怯えていた結衣の張り詰めた心が、このドタバタのおかげで少しだけ救われているのは確かな事実だった。


「コホン。とにかく、まずは聞き込みよ」


 結衣は小さく咳払いをして気を取り直し、行き交う歩行者たちへ真剣な視線を向けた。


「怪しい教団や黒ローブの男たち……それと、二年前の爆破事故についてね。手当たり次第に通行人に声をかけて、噂話レベルでもいいから情報を拾っていくしかないわ」


「分かりました。まずは俺に任せてください」


 翼はビシッと頼もしく敬礼をすると、通りすがりの買い物袋を提げた中年の女性に、持ち前の爽やかで人の良さそうな笑顔を向けて声をかけた。


「すみません。少しお話を伺ってもよろしいですか?」


「えっ? あ、はい。何かしら……?」


 女性が立ち止まる。第一印象の掴みは上々だ。結衣も期待して背後から見守る中、翼は真剣な顔つきに切り替わり、ズバッと本題に切り込んだ。


「最近この辺りで、魚とカエルを混ぜたような顔の男たちや、黄色いレインコートを着た怪しい集団を見かけませんでしたか?」


「…………は?」


 女性の顔から、スッと表情が消え失せた。


(バカ! 天海さん、いくらなんでも直球すぎる!!)


 結衣が心の中で盛大にツッコミを入れる。案の定、女性は「ヤバい宗教の勧誘かしら」とでも言いたげな、ひどく警戒した引き攣った顔になり、ジリジリと後ずさりを始めた。


「あ、いや、えっと、ごめんなさい! 今のは忘れてください!」


 翼は慌てて両手を振り、必死に軌道修正を図る。


「そ、それじゃあ、二年前の『虹橋デパート爆破事故』について、何か覚えていることや、変な噂を聞いたことはありませんか!?」


 その単語を出した瞬間、女性の顔から先ほどの警戒心がスッと抜け落ち、どこかワイドショー好きなおしゃべりな主婦の顔へと変わった。


「ああ、あの事故ね。私、あの時のニュースを生中継で見たんですけど、本当に酷い有様でしたよねえ」


 女性はスーパーの袋を持ち直し、饒舌に語り始めた。


「警察やら救急隊が大量に出動されてましたけど、あの瓦礫の山じゃあねえ。生き残った人も一人? 二人くらいしかいなかったんでしょ? とにかく大勢の人がお亡くなりになって……不慮の事故って本当に恐ろしいですねえ」


「…………」


 その言葉を聞いた瞬間、翼の動きがピタッと一時停止した。

 女性が悪気なく口にした「生き残った一人、二人」。それは間違いなく、今まさに彼女の目の前に立っている、天海、そして百合のことである。


「……そうですね。あ、ありがとうございました! とても参考になりました!」


 翼が引きつった笑顔で深くお辞儀をし、満足げに去っていく女性を見送る。

 その後も、翼と結衣は交代で数回ほど同じような聞き込みを試みたが、得られる答えはどれも似たり寄ったりで、これといった有益な成果は得られなかった。


「……それにしても、翼たちが調べてるのってあの事故の事だったんだね。別に隠さなくてもなんとも思わないのに」


 百合がジト目で翼を見つめると、翼はガックリと肩を落として白い息を吐いた。


「ああ……黙ってて悪かったよ。でも、やっぱり一般の人から教団や黒いローブの集団の具体的な情報を引き出すのは難しそうだな。みんな、ただの都市伝説か、よくある新興宗教の勧誘くらいにしか思ってないみたいだ」


「そうね。やっぱり直球すぎるのもダメみたいだし。よくよく考えたら私たちだって、こんな事になる前はそんなもの一切知らなかったんだし」


 結衣は呆れたように言いながら、大通りの先に見える巨大な建造物を指差した。


「次は少し歩くけど、新しくできたあの大型ショッピングモールに行ってみない?気分転換にもなるでしょ」


「賛成! 翼、ショッピングモールならクレープあるよね!」


「百合、お前はさっきからクレープのことばっかりだな……!」


 文句を言いながらも、どこか楽しげな三人の珍道中は、そのまま駅前の大型ショッピングモールへと続いていくのだった。




「やっと着いた……。はい百合、約束のチョコバナナクレープだぞ。落とすなよ」


「わーい! 翼、結衣お姉ちゃん、ありがとう!」


 大型ショッピングモールの広大なフードコート。

 暖房がしっかりと効いた快適な空間で、百合は顔をほころばせて甘いクレープに齧り付いている。

 翼はどっと疲れた顔でプラスチックの椅子に深く腰を下ろし、結衣も呆れ半分、微笑ましさ半分といった顔つきで、紙コップに入った温かい紅茶に口をつけていた。


「ふう。まあ、かなり歩き回ったし少し休憩ね。それにしても、ここは平日のお昼過ぎなのに随分と人が多いわね」


「ええ。夢見ヶ原市で一番新しくて大きな商業施設ですからね。……それにしても、百合の底無し体力に振り回されて、俺の足が……」


 三人が席で一息ついていると、すぐ隣のテーブルで談笑している二人の主婦の会話が、不意に結衣たちの耳に飛び込んできた。


『このデパート、本当にいいわよね。何でも揃ってるし、設備も広くて快適だし』


『本当ね。二年前の事故で前のデパートが崩れちゃった時は、これからどうなることかと思ったけど……すぐにここに新設してくれたおかげで、日用品にも困らずに生活できたわ』


 二年前の事故。間違いなく、彼らが追っている「虹橋デパート」のことだ。

 翼と結衣はハッとして顔を見合わせ、クレープを食べている百合に「しーっ」と指を立てて合図を送りながら、気配を殺してその隣の会話に聞き耳を立てた。


『でも、前のデパートみたいに、子供用の遊具コーナーが少なくて少し残念よね』


『あー、確かに。虹橋デパートって、やけに子供向けのコーナーが多かったものね』


 主婦たちはそのまま、デパートの品揃えについての他愛のない世間話へと移行していく。

 しかし、その会話の端くれは、翼の胸の奥に、ざらりとした奇妙な引っ掛かりを覚えさせた。


(……虹橋デパートには、子供向けのコーナーが多かった?)


「ッ!」


 突然鋭い頭痛と眩暈が翼を襲う。それは耳鳴りがゆっくりと消えるのと同時に、翼の頭から払われる。


「……天海さん。天海さん!ちょっと、大丈夫?」


 結衣が身を乗り出し、声をひそめて翼に囁く。


「ああ……すみません」


 結衣はコートのポケットからスマートフォンを取り出した。


「とりあえず、今の話をグループチャットで天下崎さんたちに共有しておくわ」


 結衣が手早くメッセージを打ち込み、送信ボタンをタップした。

 すると、ほぼ同時のタイミングで、凪から化学室で見つけた不審な段ボール箱についての報告がグループチャットに上がってきた。


「……『関係するか分からないけど、一応報告しておきます』だって」


「深口貿易…聞いた事のない会社ですね」


結衣はスマートフォンのブラウザを開いた。

『貿易会社 深口』

 検索ボタンをタップすると、いくつかのウェブページがヒットした。しかし、出てくるのは簡易的な企業情報が載ったペラペラのホームページ一つだけだった。


「設立は……二年前。代表者の名前も顔写真もないし、事業内容も『海産物の輸入および雑貨の卸売』って書いてあるだけで、具体的な取引実績が何一つ載ってない……」


 画面をスクロールしながら、結衣は眉をひそめた。どう見ても、実体のないダミー会社ペーパーカンパニーの類だ。そんな得体の知れない会社の荷物が、なぜ高校の化学室に運び込まれているのか。

 結衣が深刻な顔で画面を見せると、翼も険しく眉を寄せて頷いた。


「ごちそうさまでした! ねぇねぇ、次はどこ行くの?」


 口の周りにチョコレートをつけた百合が、空になったクレープの包み紙を持って無邪気に笑いかけてくる。


「次は……そうね。そろそろお昼も回ったし、一回あの探偵と合流して、情報を整理した方がよさそうね」


 結衣は百合の口元をハンカチで優しく拭ってやりながら、力強く立ち上がった。




 時刻は午後一時を回った頃。

 天海、結衣、百合の三人は、駅前のファミリーレストランの奥まったボックス席で、警察署から一足先に到着していた天下崎星也と合流していた。


「……で、お前らは遊園地帰りの仲良し親子みたいなツラして、そのクレープの食べかすは何だ」


 天下崎が呆れたように眉を寄せて睨むと、天海は気まずそうに頭を掻いた。


「す、すみません。色々と歩き回ったもので、百合のご機嫌取りも兼ねて……」


「…まあいい……」


 天下崎は短く鼻を鳴らし、目の前で嬉しそうに二個目のデザートであるチョコレートパフェを頬張る百合を一瞥してから、スッと表情を引き締めた。

 天下崎は周囲の客席から見えないよう、テーブルの低く保った位置に、警察署で杉浦から受け取った茶封筒の中身を広げた。


「今、この街では三十代以上の男女を狙った『神隠し事件』が多発してるらしい。警察が犯人候補として挙げてるのが、黒ローブの連中……通称『海還り』だ」


「大人の男女の、神隠し……」


「そしてもう一つ。昨日お前たちを魔法で眠らせた『黄色いレインコートの教団』。あいつらは、二年前の『虹橋デパート爆破事故』の跡地……つまりあの廃墟を拠点にしている可能性がある」


 その決定的な情報に、翼と結衣は息を呑んだ。


「デパートの跡地が、教団の拠点に……?」


「ああ。警察もマークしちゃいるが、確たる証拠がなくて手が出せてない状況らしい。この街は建物が多い分、何をやっているか分からないような会社、身を隠せそうな場所も多い。俺が警察だった頃も苦労したもんだ。恐らく、高校生が言っていた『深口貿易』ってのもその一つだろう。……そっちの収穫は?」


 天下崎の問いに、結衣が目線を翼に向け、そっぽを向くように答えた。


「……こっちは、さっきチャットで打った通りよ」


「残念ながら、どれも爆破事故や教団、海還りに繋がるようなものとは言えないようなものばかりでした」


 結衣と翼の言葉を受け、天下崎はふっと視線を落とし、低く唸るような声で返した。


「……まあ、事故の事は俺も何回も聞いた事はあるが、碌な情報は出てこなかった。警察の上層部が徹底的に情報統制を敷いていたからな」


 翼がテーブルの上に広げられた事件の資料を見つめながら、事実を繋ぎ合わせた。


「三十代以上の『大人』を狙って攫う海還り。跡地に居座ってるかもしれない教団。そして、高校に大量の物資を送り込む謎の貿易会社……」


 バラバラだったそれぞれの情報。点と点は、都合よく一直線の線では結び付かない。一つの疑問が解ければ、また新たな不気味な疑問が生まれるばかりだ。


「あの黄色いレインコートの女の言う事を聞くのは癪だが、ひとまず目標はあの魚顔、海還りについて調べる事だな。連中の目的は分からないが、この街で何かをしているのは確かだ。しかもそれは、昨日今日の話じゃなく、今よりもずっと前から……」


 天下崎がギリッと奥歯を鳴らした。

 二年前のあの爆破事故も、何者かの意図的な思惑で引き起こされたのだとしたら。怒りで太い拳が震えるのを、彼はテーブルの下で必死に押さえ込んだ。


「よし。午後からの行動分担を決めるぞ」


 天下崎は資料を素早く茶封筒にしまい込み、翼と結衣を真っ直ぐに見据えた。


「俺はこれから、今朝のニュースで女子高生が襲われた『河川敷』に向かう。海還りの連中の痕跡や、新たな潜伏先の手がかりを追うつもりだ」


「天下崎さん一人でですか? それなら俺たちも……」


「お前らはここで待機だ」


 同行を申し出ようとした翼を、天下崎は有無を言わさぬ強い口調で制した。

 その言葉に、結衣が納得いかないというように目を吊り上げ、天下崎を強く睨みつけた。


「ちょっと待ってよ。ならせめてどこか別な場所に調査に行かせるか、一人は着いて行かせて。このままじゃ、天下崎さんのほぼ単独調査じゃない」


 彼は深くため息をつくと、パフェに夢中になっている百合には絶対に聞こえないほどの、ひどく低い小声で二人に囁いた。


「……ああその通りだ。そもそも、人目につくような調査でお前たちがまともな情報が得られるとは最初から思っていない」


「えっ……」


「分かってるだろう。こんな小さな少女を連れてきた時点で、初めから。お前らの役目は、保護者として四六時中見張る事くらいだ」


 その冷徹な、しかし確かな気遣いを含んだ本音に、結衣と翼は言葉を詰まらせた。

 天下崎は元から、彼らを前線に出すつもりなどなかったのだ。特に、何の自衛手段も持たない百合を連れている以上、彼らに機動力は期待できない。だからこそ「安全な大通りで聞き込みをしろ」と指示を出したのだ。


「いいか、間違っても『デパート跡地』には近づくなよ。あそこは敵の本丸かもしれない。昨日あの路地裏のように不用意に近づけば、今度こそ命はないと思うことだ」


「……分かりました。俺たちはここで、大人しく待機します」


「夕方にはまた連絡を送る」


 翼の苦渋の返事を聞き届けると、天下崎は伝票をひったくって足早にファミレスを出て行った。

 残された翼と結衣は、小さくため息をついてからスマートフォンを取り出し、検索ブラウザを立ち上げた。


「……天下崎さんの言う通りね。私たちはここで、外堀を埋める情報を探しましょう」


「はい。百合、俺たちは少し調べ物をするから、大人しくパフェ食べてるんだぞ」


 翼が隣を見ると、百合はスプーンを口に咥えたまま、焦点の合わない虚ろな瞳でテーブルの上の何もない空間をじっと見つめていた。


「百合? どうした?」


「……デパートの、跡地」


 百合が、誰に言うでもなくぽつりと呟く。

 その小さな両手は、自らのスカートの黒い裾を、指の関節が真っ白になるほどギュッと強く握りしめていた。

【夢見ヶ原高校】

立地の良さと偏差値の高さで有名な高校。

夢見ヶ原市に住む多くの学生がこの高校を目指して勉学を励んでおり、海外への留学体験といったグローバルな活動も積極的に行っている。


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