第三十八話 黄昏時の夢は終わる
激しい暴風雨と、港の防波堤を容易く越えたあの不自然な大津波が去った、夢見ヶ原市。
沿岸部を中心に甚大な被害を受けた街では、朝から警察や消防による懸命な救助活動が絶え間なく行われていた。
けたたましく鳴り響き続ける救急車やパトカーのサイレンの音、崩れ落ちた建物の瓦礫を退ける重機の重々しい駆動音、そして、避難や安否確認のために行き交う人々の悲痛な声。
街は、いつも以上に異様な熱気と、焦燥感に満ちた喧騒に包まれていた。
そんなパニック状態に陥っている群衆の中を、一人の少女が誰とも目を合わせることなく、ただひたすらにある特定の場所へと向かって歩いていた。
まるで、喪服のように真っ黒な服を着た少女だった。
彼女は周囲の慌ただしい喧騒や、すれ違う人々のすすり泣く声にも、一切の関心を示さなかった。
この大災害という現実から完全に遊離してしまっているかのように、ただ無機質で規則正しい足取りで進み続け、やがて警察がバリケードを築いた、厳重な立ち入り禁止区域へと辿り着いた。
黄色と黒の『KEEP OUT』と印字された規制線。
何人もの警察官が周囲を警戒しているというのに、彼女はそれを、まるで実体を持たない幽霊のように、誰一人として気づかれることなくスリリとすり抜けていく。
規制線の先には、昨夜の局地的な地震と陥没によってポッカリと口を開けた、不自然なほど綺麗な『円形の穴』があった。
覗き込んでも底が見えない、数メートル以上の落差がある真っ暗な奈落。
普通の人類であれば、本能的な恐怖から絶対に足を踏み入れようとはしないその場所へ。少女は深さに目もくれず、一切の躊躇なくその小さな身を投じた。
トンッ、と。
人間離れした、羽毛のような軽やかな身のこなし。
まるで自宅の階段を一段降りただけのように、完全な無音で暗闇の底への着地を果たした少女は、何事もなかったかのように、光の届かない地下空間のさらに奥へと歩みを進めていく。
やがて彼女が辿り着いたのは、地上の喧騒が一切届かない、ひどく冷たく静まり返った広大な一室だった。
その空間には、今は人一人いない。
厳密に言えば、「生きた人間が一人もいない」というだけだ。
石造りの冷たい床やひび割れたコンクリートの壁には、元の形すら留めていない赤黒い死肉や、誰のものとも知れない無惨な残骸が、そこかしこに散乱している。
常人であれば、その濃密な死と血の臭いを嗅いだだけで胃液を吐き出し、発狂しかねないほどの異様な光景。
だが、黒服の少女はその凄惨な死肉の海を、靴底を汚すことすら全く気に留めず、ひたひたと静かな足音を立てて真っ直ぐに歩みを進めた。
部屋の最奥。
そこには、悍ましく禍々しい装飾が施された石の祭壇が鎮座していた。
祭壇の上には、一体の死体が仰向けに倒れている。
かつて何らかの狂気に魅入られ、そして無惨に命を散らした中年の男の遺体だった。
少女はその男の無惨な死体に、微かな哀れみや恐れを抱くこともなく。
無機質な瞳で冷たく見下ろすと、血にまみれた男の身体の下へと、白く細い手を伸ばした。
そして、そこに落ちていた『一冊の本』を静かに引っ張り出す。
三つ巴のような、触手のような模様が刻まれた、革装丁の本。
彼女は拾い上げたその本を、黒い服の胸元に大事そうに抱え込んだ。
目的を果たした少女は、死肉の散らばる部屋に二度と一瞥もくれることなく踵を返した。
再び元来た暗い道を引き返すと、常人離れした身のこなしで、あの深い大穴の壁面を這うようにして地上へと昇り始めた。
彼女が規制線の内側から抜け出し、再び外気と光の満ちる地表へと足を踏み出した、まさにその瞬間だった。
先程まで街全体を忙しなく包み込んでいたはずの、耳障りな重機の駆動音も、飛び交う警察官たちの怒号も、人々の悲痛な叫び声も、けたたましく鳴り響いていた救急車のサイレンも。
それらすべての喧騒が、まるで何者かがこの世界の電源をふっと強制的に切ってしまったかのように、唐突に消失した。
無音。
それは、単に静かになったというレベルの現象ではない。
風が瓦礫を撫でる音も、足元のコンクリートを歩く蟻の衣擦れすらも聞こえない。己の心臓の鼓動すら消失したかのような、鼓膜が鋭い痛みを覚えるほどの『絶対的な静寂』。
世界から、まるで『音』という概念そのものが根こそぎ奪い取られてしまったかのような、異様で恐ろしいほどの静けさが、突如としてこの街に……否、世界中へと訪れていたのだ。
少女は立ち止まり、魔道書を胸に抱いたまま、ゆっくりと顔を上げて頭上の天蓋を見つめた。
そこにあったのは、見慣れた青空でも、嵐の去った清々しい空でも、夕暮れの茜空でもなかった。
いつの間にか、見渡す限りの空全体が、毒々しいほどに鮮やかで、目を焼き尽くすような狂気的な『虹色』に染め上げられていたのだ。
泥水に浮かんだ油膜のように、あるいは狂気の画家が巨大なキャンバスへ無秩序にぶちまけた原色のように。
赤、青、緑、紫、黄色といったあらゆる色彩がマーブル状にドロドロと溶け合い、空一面で不気味に蠢き、混ざり合っている。
人間の眼球や脳の処理能力をあざ笑うかのような、人類の理屈を超えた、冒涜的で美しすぎる極彩色の空。
その圧倒的な空の下で、夢見ヶ原市の街並みはただ、時を止められた精巧なジオラマのように、沈黙しきっていた。
悍ましくも美しい虹色の空を、黒い服の少女は瞬き一つせず、底知れない無機質な瞳で見上げたまま、薄い桜色の唇をゆっくりと動かした。
「……記憶とは、今と過去を繋ぐ最大の記録でありながら、簡単に忘れ、無くしてしまうほど曖昧なものだ」
音が死に絶えた世界に、彼女の紡ぐ言葉だけが奇妙に反響していく。
その声は、かつて翼に向けていた無邪気な子供のものではなかった。途方もない長い年月を生き抜いてきたような、ひどく冷たく、残酷なほどに透き通った響きを持っていた。
「楽しかった思い出は都合の良いように脚色し、都合の悪いことは無かったようにする。……君は全てを忘れたとしても、君なり得るのだろうか」
少女は誰に問うでもなく、ただ蠢く極彩色の空へ向けて言葉を落とす。
「君の記憶の全てが偽りでも、君は君であり続けれるだろうか。……決断の時はもうすぐそこだ」
黄昏時の夢は終わりを迎えるが、少女の物語はまだ続く。
彼らが選択する、その時まで。
第一章、終幕。




