第三十七話 生還
まぶたの裏に優しく差し込む朝日の眩しさに、翼はゆっくりと重い目を覚ました。
鼻を突くのは、あの狂気の空間に充満していた焦げた鉄や生肉の悪臭ではない。清潔で、どこか安心感をもたらす微かな消毒液の匂いだった。
ぼんやりとした視界が徐々に焦点を結ぶと、そこが見慣れない……否、二年前の事故の直後には嫌というほど見慣れていた、真っ白な天井と、真新しいカーテンに仕切られた広い病室のベッドの上であることが分かった。
荒れ狂う波の音も、鼓膜を劈くような異形の化け物たちの咆哮も、もう聞こえない。
少し開いた窓の隙間からは、穏やかな小鳥のさえずりと、夢見ヶ原市の平和な日常の喧騒が、ひどく遠くの方から聞こえてくるだけだ。
「……翼さん。おはようございます」
横からふいに声がして顔を向けると、隣のベッドで上体を起こしていた九条凪が、少しホッとしたような、年相応の柔らかい笑顔を向けていた。
彼の頭には痛々しい分厚い包帯が巻かれているが、その顔色は昨日の夜の、あの血の気を失った死人のような蒼白さよりもずっといい。
「凪くん……そうか……終わったんだな」
「ええ。結衣さんも天下崎さんも、もう起きてますよ」
凪が視線を向けた先。病室の窓際に置かれた丸椅子には、片腕を白い三角巾で痛々しく吊った結衣と、顔中絆創膏だらけになった天下崎星也が腰掛けていた。
どうやら四人とも、同じ大部屋に収容されたらしい。
「気持ちよく寝やがって。こちとら、隣の女のいびきで......痛てて!」
「何? そっちこそ、寝言がうるさくて夢見心地が悪かったわ〜」
天下崎と結衣の言い合いが繰り広げられている。いつの間に仲良くなったのか、翼はそれを見てつい笑みを浮かべた。
四人とも満身創痍でボロボロの限界状態だ。
だが、その病室に流れる空気はどこまでも温かく、あの名状しがたい絶対的な絶望を退け、世界を救い切ったという確かな安堵と団欒の空気に満ちていた。
翼が痛む身体を軋ませながらゆっくりと上体を起こし、三人と言葉を交わしてささやかな生還の喜びを分かち合っていた、まさにその時だった。
――ガラッ。
病室の引き戸が遠慮なく開き、スーツを着た男が入ってきたのだ。
「よぉ、全員お目覚めか」
片手に大きめの紙袋をぶら下げて現れたその男の顔を見て、天下崎が露骨に嫌そうな顔をする。
「……悪いが、事情聴取なら後にしてくれ。こいつらは昨日、『世界を救った』ばかりでな」
病室に入ってきた杉浦は、呆れたように鼻を鳴らして天下崎をねめつけた。
「二年前のあのデパート事故の直後……記憶を失って混乱しているそこの男を相手に、情け容赦ない事情聴取をぶっ込んだのは、どこのどいつだったかな?」
「……チッ」
痛いところを正確に突かれた天下崎が、ばつが悪そうに舌打ちをして視線を逸らす。
その反応に満足したのか、杉浦は深いため息をついて、手に提げていた紙袋を病室のテーブルの上にドサリと置いた。
「安心しろ。今日は仕事じゃねぇ、ただの見舞いだ」
そう言って、杉浦は袋の中から見舞い品の果物の詰め合わせを取り出し、四人の前に差し出した。
そのやり取りを見ていた翼が、少し緊張した面持ちで杉浦に尋ねる。
「あの……あなたは、昨日の電話の人ですか?」
「あぁ。初めましてだな、天海翼さん。俺は杉浦だ」
男は、スーツのポケットに手を突っ込んだまま、翼に向かって軽く頭を下げた。
そして、隣のベッドにいる凪と、椅子に座る結衣へも順番に視線を向ける。
「俺は、君たち三人が天下崎と行動を共にしてることは一方的に知ってたが……こうして面と向かって挨拶するのはこれが初めてだな。昨日は、本当によくやってくれた」
「大層な挨拶だな。柄じゃねぇぞ」
天下崎が顔の絆創膏をさすりながら皮肉交じりに言うと、杉浦はふんと鼻を鳴らして、病室の壁掛けテレビのリモコンを手に取り、電源を入れた。
「……まぁ、今朝のニュースを見てみろ」
画面に映し出されたのは、昨夜の夢見ヶ原市の惨状だった。
ヘリコプターからの空撮映像が、海岸沿いの無惨な光景を捉えている。
だが、女性アナウンサーが深刻な顔で報じていたのは、巨大な邪神の出現でも、異形の化け物たちの狂宴でもなかった。
『昨夜、夢見ヶ原市沿岸部を襲った局地的な地震と津波により、甚大な被害が発生しています』
『沿岸の深口貿易の敷地内では大規模な陥没と浸水が確認されており、現在も複数の社員と連絡が取れず、行方不明となっています』
映像には、真っ二つに割れていたはずの海が嘘のように穏やかな表情を見せ、ただ深口貿易の敷地だけが、まるで巨大なスプーンで不自然に抉り取られたように水没している光景が映し出されていた。
あの世にも恐ろしい、世界を終わらせんとした儀式の痕跡は。すべて『自然災害』という強固で絶対的なベールの下に、完全に隠蔽されていたのだ。
「……今朝からあの手この手でマスコミの懐柔と情報統制に手一杯でな。おかげで、こっそり抜け出してもバレない。少しだけ自由に動けるようになったってわけだ」
杉浦はポケットから煙草の箱を取り出しかけ、ここが病室であることを思い出して引っ込めた。
「それに今日は、身内の墓参りもあってな。そのついでに、英雄様のツラを拝みに来たってわけだ」
杉浦の「身内の墓参り」という言葉に、天下崎の顔がわずかに翳る。
その中、結衣が真剣な顔で杉浦に向き直った。
「杉浦さん。……あの『黄衣の教団』の連中は、どうなったんですか?」
結衣の問いかけに、杉浦は腕を組んで小さく息を吐いた。
「上司からの報告だがな。今朝になって、奴らが潜伏していた教団の跡地、潜伏期間候補先の廃工場などなどに部隊を踏み込ませたが、誰もいなかったそうだ。まあ、死体の方はチラホラあったみたいだが」
「もうこの街にはいないってこと……?」
「さあな。念のため、しばらくはまた水面下での捜索が続くだろうな」
杉浦の言葉に、病室に少しだけ緊張が走るが、彼はすぐにそれを和らげるように言葉を継いだ。
「深口貿易の敷地周辺に潜んでいた『深きもの』どもも、同じようにすっかり行方を眩ませたよ。連中の計画が完全に失敗し、主とやらが海の底へ溶けて消えた以上、当分は音沙汰もないだろうさ。お前らはもう、心配しなくていい」
「……そう、ですか」
ベッドの上の凪が、壁掛けテレビのニュース画面に映る『行方不明』というテロップを見つめながら、ぽつりと呟いた。
(深田はじめも、行方不明……か)
最後の最後まで自分たちを見下し、狂信に溺れていたあの男。
確実な死体を見たわけではない。自分の魔術でも傷一つ負わせられず、結局はあの赤い海へと飲み込まれていった彼を「この手で殺しきれなかった」という無念が、凪の胸の奥で一瞬だけチクリと疼いた。
だが、窓から差し込む穏やかな朝の光と、生きて隣で笑い合っている仲間たちの姿を見れば、そんなドス黒い悔しさはすぐに溶けて消えていった。
今はただ、あの最悪の計画を食い止め、夢見ヶ原市を――世界を守り抜けたことに深く安堵しよう。凪はそう思い直し、自分に言い聞かせるように小さく微笑んだ。
「結局、あの事故の真相も分からなかったし、そのヒントを知るかもしれない奴らも居なくなったか...また降り出しだな」
天下崎は残念そうな顔をするも、その顔はどこか穏やかな雰囲気を醸し出している。
安堵の空気が病室を包む中、翼はふと、自分にとって何よりも大切な少女の安否を思い出し、身を乗り出して杉浦に尋ねた。
「あの、杉浦さん。そういえば、百合は……黄花百合は無事ですか?」
その問いに、杉浦は眉間に深い皺を寄せ、ひどく訝しげに首を傾げた。
「……百合? 誰だ、そりゃあ」
予期せぬ杉浦の反応に、翼だけでなく、結衣や凪も顔を見合わせる。
天下崎が怪訝そうに口を挟んだ。
「昨日、俺たちが海に向かう前……空飛ぶ怪物に乗って、一人で警察署の方へ逃げてきた嬢ちゃんがいただろ」
「空飛ぶ怪物に乗った少女、ねぇ……」
杉浦は無精髭を撫でながら記憶を探るように天井を見上げたが、すぐに首を横に振った。
「いや、署にそんな報告は一切上がってきてないぞ。まあ、昨夜から地震と津波の対応で、警察も消防も蜂の巣をつついたような大騒ぎだったからな」
「そんな……じゃあ、百合はどこに!?」
翼が血相を変えて布団を強く握りしめると、杉浦は慌ててそれを手で制した。
「落ち着け、翼さん。情報の伝達が遅れてるだけかもしれん。もしかしたら、パトロール中の一般の警官が保護してそのまま家まで送り届けたか、あるいはどこかの避難所に身を寄せているんじゃないか?」
杉浦のその推測は、災害時の大混乱の中では十分にあり得る話だった。
翼は少しだけ安堵の息を吐きつつも、胸の奥に落ちた『小さな違和感の染み』をどうしても拭い去ることができずにいた。
「まぁ、その子のことは後で警察の方でも照会をかけておいてやる」
杉浦はそう言って話を区切ると、翼たちの胸元――それぞれがしっかりと身につけているペンダントへと視線を落とした。
「それより、君たちが首から下げてるそのペンダントだが……後々、特殊刑事課の方で正式に預からせてもらうことになっている」
天下崎が怪訝そうに眉をひそめる。
「今すぐ回収しなくていいのか? 危険な道具だぞ。お前ら警察にしちゃあ、随分と悠長だな」
「できることなら、今すぐむしり取って厳重に保管したいところだがな」
杉浦は肩をすくめて息を吐いた。
「そのペンダントは今、お前ら自身の『生命力の向上』や回復にも作用してるらしい。これだけボロボロの状態で下手に今すぐ外させると、ショックで命に関わる危険があるそうだ。完全に傷が癒えるまでは、特例として身につけておくことを許可する」
その言葉に、翼たちは無意識に胸元のペンダントを握りしめ、ホッと胸を撫で下ろした。凄まじい死闘を生き抜いた自分たちが、今はまだこの不思議な石の力に生かされているのだと実感する。
用件を伝え終えた杉浦は、ふと、何かを深く噛み締めるような、どこか遠くを見るような瞳で翼を真っ直ぐに見据えた。
「……にしても」
杉浦が、しみじみと深い感慨を込めて翼に向かってそう呟いた。
「あの凄惨な事故の、『たった一人の生還者』に、こうして直接会えるとはな」
――たった一人の生還者。
「……たった一人? 何を言ってるんですか、杉浦さん」
翼は怪訝そうに眉をひそめ、杉浦の顔をまじまじと見つめ返した。
「百合もいるじゃないですか。黄花百合も、俺と一緒にあの事故から生き残った生還者です。さっき話した通り、昨日まで俺たちと一緒に……」
「……は? なに言ってるんだ。そんな訳ないだろ」
杉浦は、翼の言葉を冷水を浴びせるようにピシャリと否定した。
その声には、一切の迷いも冗談の色も含まれていない。
病室の空気が、急激に冷えていく。
「おいおい、警察のデータが絶対ってわけじゃねぇだろ」
たまらず天下崎が口を挟んだ。
「当時の事故じゃ、遺体が見つからずに行方不明扱いになってた奴もいた。何かの手違いで記録から漏れてたか、あるいは後からひょっこり見つかって、データが更新されてねぇだけなんじゃねぇのか?」
だが、杉浦はゆっくりと、しかし確実に首を横に振った。
「あの事故の生存者と犠牲者の記録は何度も……それこそ穴が空くほど確認している。生存者は翼さん、あんた一人だけだ。それに、当時行方不明になっていた連中も、その後の瓦礫の撤去作業で『全員の遺体が発見』されている。それはお前にも共有した事あるだろ? 天下崎」
確かに、天下崎は黄花百合に会った時、違和感を覚えていた。自分の捜査、情報との乖離。しかし、実際にそこに生存しているという事実は強く、今まで天下崎の違和感を無いものにしていたのだ。
全員の遺体が、発見されている。
その絶対的な事実が突きつけられ、翼の心臓がトクン、と不自然な音を立てた。
「でも、生き残ってた人が多いに越したことはないじゃないですか」
重苦しい空気を振り払うように、結衣が努めて明るい声で言った。
「警察の記録が間違ってて、本当は生きてましたってことなら、誰も悲しまなくて済むし……」
「もしそれが本当なら、大問題なんだよ」
杉浦は結衣を一瞥し、再び鋭い眼光を翼へと向けた。
「いいか、翼さん。もし本当にその『黄花百合』という少女があの事故に巻き込まれていたのなら……現在の警察や戸籍の記録上、その少女は間違いなく『死亡扱い』になっているはずなんだ。この現代日本で、そんな幽霊みたいな状態で普通に生活できるわけがない」
杉浦は、ベッドに座る翼へ一歩にじり寄った。
長年現場を踏み続けてきた鋭く冷たい追及の目が、翼を真っ直ぐに射抜く。
「翼さん、あんた、その少女と一緒に暮らしていたのか? なら、彼女の身分証になるようなものは見たことがあるか? 健康保険証は? ……そもそもその少女は、どこの学校に通っているんだ?」
「え……?」
翼は口を開きかけた。
そんなの、知っていて当然だ。だって二年間、ずっと一緒に暮らしてきたのだから。
だが――声が出ない。
「あ……、れ……?」
答えようとして、翼は己の記憶の異常な『空白』に気づいてしまった。
翼は口を開いたまま、ひゅう、と浅い息を吸い込んだ。
頭の奥が、ぐらりと揺れる。
(百合の、通っている学校……?)
どこの学校だ? 学校の名前は? 担任の先生の名前は? 友達は?
(身分証……保険証……?)
二年間、一緒に暮らしてきた。病院に連れて行った記憶は? 彼女の『親族』はどこにいる? そもそも、彼女はどこからやって来た?
なぜ、こんな当たり前のことを、今まで一度も『疑問に思わなかった』のだろう。
なぜ、彼女の素性について深く知ろうと『しなかった』のだろう。
まるで、脳のその部分だけが、何者かによって意図的に思考をロックされていたかのように。
ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ……!
突如として、翼の胸の奥で異常なほどの動悸が跳ね上がり、心臓の鼓動が急激に早鐘を打ち始めた。
じわりと、全身の毛穴から冷たい汗が噴き出す。
愛しくて、命を懸けて守るべき存在だったはずの『黄花百合』という少女の輪郭が。急に得体の知れない、恐ろしい異形のもののように歪んで感じられた。
病室は、水を打ったように静まり返っていた。
杉浦は、逃げ場のない真実を突きつけるように、鋭く冷たい眼光で翼を射抜いた。
「————『黄花百合』は、何者だ?」




