第三話 黄衣の教団
路地裏のコンクリートに散乱していた異形の肉片は、シュウシュウと耳障りな音を立てて白煙へと変わり、やがて夜の冷気の中へ完全に溶けて消え去った。
血の跡一つ残っていない暗がりに、重苦しいほどの静寂だけが降り積もっている。
「……終わった、のか」
天下崎が、靴の裏にへばりついていたわずかな粘液の感触を忌々しそうにアスファルトで削り落としながら呟いた。長年、凶悪な事件現場に足を踏み入れ、凄惨な死の光景には慣れ親しんできたはずの彼でさえ、今しがた直面した人智の枠を大きく踏み越える事象の前では、全身の筋肉が硬直するのを止められなかった。
凪はその場に両膝をつき、胃の底からせり上がってくる酸っぱい液体を必死に喉の奥へ押し戻している。
翼は、過度な緊張で小刻みな震えが止まらない両手を強く握り込み、ゆっくりと前を向いた。そして、レンガの壁際にへたり込んでいた人物へと視線を遣る。
「助けていただき、ありがとうございます」
黄色いレインコートを深く被った小柄な女性が、壁を支えにしてゆっくりと立ち上がった。
その声のトーンは、ひどく平坦だった。つい数分前まで死の淵に立たされ、間一髪で救い出されたばかりの人間が発するべき安堵や動揺の響きが、そこには微塵も含まれていない。それどころか、フードの奥から四人を静かに見据えるその両眼には、無機質なガラス玉のような冷たい光が宿っており、明らかな『懐疑』の色が色濃く浮かんでいた。
「お怪我はありませんか? 俺たちはただ、あなたが襲われているのを見て……」
翼が慎重に言葉を選びながら歩み寄ろうとした、その時だ。
「お聞きしますが、あなた方は何者ですか?」
ピシャリと、零下まで冷え切った水柱を浴びせるような鋭い声が、路地裏の空気を凍りつかせた。
翼の足が止まる。女性から発せられたのは、明確な『敵意』だった。自らを狙っていた化け物を一瞬にして駆逐してみせた四人の異常な能力に対して、命の恩人に向けるものとは到底思えない、底の抜けた警戒心と殺気。
「何者って、俺たちはただの……あぁただの一般市民だ。そんな警戒しなくて大丈夫。あんたがあの魚の化け物どもに殺されそうになってたから……」
天下崎が翼を庇うように一歩前へ出たが、女性はさらに鋭利な視線でそれを牽制した。
「そうですか。では重ねてひとつ。あなた方は我々を知っていて、この場に介入しましたか?」
「我々……?」
翼は息を呑んだ。この女性は、あの化け物たちの正体を知っているだけでなく、自らも何らかの特異な組織に属しているとでも言うのか。
四人の後ろで、結衣はビクッと肩を震わせていた。
ただの一般人ではない。この女性から漂う、ひどく冷たくて狂気を孕んだ気配。それは結衣がここ数ヶ月、毎晩のように自室のベッドでうなされている『黄色い装束を纏った集団』の悪夢と、あまりにも生々しくリンクしていたのだ。
(この人、あの夢の中で私を囲んでいた奴らと同じ……!)
本能的な恐怖から後ずさろうとした結衣の目と、女性の冷酷な視線が、ふいに薄暗闇の中で真っ直ぐに交錯した。
――その瞬間だった。
女性の周囲に漂っていた張り詰めた空気が、唐突にパチンと弾けた。
「ん? あなた……いや、まさか……」
女性の瞳が、熱烈な信徒が奇跡を目の当たりにしたかのように、恍惚と大きく見開かれる。
彼女の視線は四人の全身を、それこそ衣服の奥の皮膚の繊維にまで至るほど執拗に観察し、やがて何か極めて重要な事実に気づいたかのように、ふっとその口元を緩めた。
「なるほど。どうやら本当に何も知らずにここへ迷い込んだようですね」
先ほどまでの刺すような敵意は、まるで初めから存在しなかったかのように跡形もなく消え去っていた。代わりに響いたのは、まるで舞台の上の喜劇役者のように大げさな抑揚のついた、酷く楽しげな声だった。
あまりにも不自然な態度の豹変に、翼も結衣も、肌を這い回るような薄気味悪さを抱いて固まることしかできなかった。
「な、何がおかしいのよ……」
結衣が震える声で絞り出す。彼女の目は、女性が深く被っている『黄色いレインコート』の鮮やかな色彩に釘付けになっていた。ここ数ヶ月、自分の精神を削り続けている陰惨な夢。そこに登場する不気味な顔のない集団と、目の前の女性の姿が、寸分の狂いもなく重なり合っている。
「おっと、これは失礼いたしました。あまりにも見事な偶然の巡り合わせに、つい運命というものを信じたくなってしまいましてね」
女性はフードの奥で三日月のようにつり上がった笑みを浮かべ、恭しく頭を下げた。
「改めて自己紹介をさせてください。私は『黄衣の教団』と呼ばれる組織に属している者です」
「教団……?」
天下崎が眉間に深いシワを寄せた。かつて法と秩序の番人であった頃の長年の習性が、相手の言葉の裏に潜む反社会的な匂いを的確に嗅ぎ取っている。
「我々教団は本来、遠く離れた海外を拠点として活動しているのですが、少々込み入った事情がありましてね。今はこうして、この日本の片隅に留まっているのです」
「あなた方も先ほど身をもって体験されたでしょう? あの醜悪な魚顔の異形たちを。奴らは今、この夢見ヶ原市で極めてよからぬ企みを進行させています。このまま野放しにしておけば、街一つが消し飛ぶような、取り返しのつかない大惨事が起こる……我々教団は、それを未然に防ぐために、海を渡ってこの街へやって来たのです」
「防ぐ、だと……?」
翼が疑念を隠そうともせずに問い返す。
「あの化け物たちが何者なのか、あんたたちは知っているのか」
「ええ、もちろん。だからこそ、あれほど素晴らしい力と正義感をお持ちの皆様方に、一つご提案があるのです」
女性は両手を広げ、ひどく友好的な、しかしどこか冷血動物を思わせる無機質な声で言った。
「我々の活動の、お手伝いをしていただけませんか?」
「……ふざけるな。誰がてめえらみたいな、素性の知れない奴らに手を貸すかよ」
天下崎が即座に吐き捨てた。
「俺たちはただ、あんたが路地裏で襲われていたから割って入っただけだ。これ以上、きな臭い面倒事に巻き込まれる気はねえ」
「おや、それは残念。ですが、決して難しい要求ではありませんよ?」
明確な拒絶を突きつけられてもなお、女性の笑みは微動だにしない。
「皆様にお願いしたいのはただ一つ。先ほどの魚顔の集団に関する情報を、街を歩き回ってできるだけ多く集めていただきたいのです。たったそれだけ引き受けてくだされば、我々教団は今後一切、あなた方の平穏な生活に干渉しないと固くお約束しましょう」
「……っ、そんなの、ただの脅迫じゃない!」
結衣が自身の恐怖を怒りの炎で塗り潰すように叫んだ。
「あなた方の内なる力はとても、とても素晴らしい……が故に、我々の目から見ても少々目に余るものがあります。もしその力が……我々の崇高な目的に対して牙を剥くのなら……。なのでこれは脅迫ではなく、あくまで対等な提案です」
「もし私たちが断ったら、どうするっていうのよ!」
女性は結衣の方へゆっくりと顔を向け、まるで愛しい我が子をあやすような、しかし絶対に光を反射しない濁った瞳で微笑んだ。
「もちろん、提案を聞き入れるか否かは皆様の自由です。ですが……どうか、ご自身の命を粗末にするような、愚かな真似だけはお控えくださいね」
その言葉の裏側にべったりと張り付いた、確かな殺意。
「我々とて、せっかくの命の恩人をこの手で始末するのは、少々寝覚めが悪いですから」
「てめぇ……っ!」
天下崎が怒りを爆発させ、再び胸元の青いペンダントを握りしめようと一歩を踏み出した。翼も咄嗟に防壁となる結界術の詠唱を口にしようと、深く息を吸い込む。
しかし、それよりも女性の行動の方が、遥かに迅速だった。
「…交渉決裂とは、とても残念です。あなた方とは良い関係を築けそうだったのですが」
女性が、すっと片手を四人の方へかざした。
彼女の口から、人間の喉の構造ではどうやっても発音できないような、生命の理を嘲笑うかのような奇妙な『一音節』が紡ぎ出される。
「あ……れ……?」
最初に肉体に異変をきたしたのは、度重なる精神の消耗で限界を迎えていた凪だった。
彼の膝の力がガクンと抜け、そのまま泥の塊のようにアスファルトへと崩れ落ちる。
「凪くん! ……っ、なんだ、これ……体が……」
翼も駆け寄ろうとしたが、まるで全身の血液が重い水銀にすり替わったかのような、抗いようのない急激な眠気が脳の髄を力一杯殴りつけた。
視界がぐらぐらとシーソーのように揺れ、二本足で立っていることすらままならない。天下崎が「クソッ」と悪態をつきながらレンガの壁に手をついて倒れ伏し、結衣も糸を切られた操り人形のように音を立てて倒れ込む。
薄れゆく意識の底。
完全に暗闇の淵へと沈み込む直前、翼の薄れゆく網膜に、黄色いレインコートを翻して路地裏の奥へと消えていく女性の姿が焼き付いた。
「黄衣の王は、いつでもあなたを見守っていることを……どうか、お忘れなく」
その狂気を孕んだ囁きを最後の子守唄にして、四人の意識は暗い泥の底のような深い眠りへと、強制的に引きずり込まれていった。
「……う、ん」
重い粘土のような暗闇の中から、天海翼の意識がゆっくりと水面に向かって浮上していく。
ぼやけた視界に最初に飛び込んできたのは、見知らぬ白い天井だった。木目調の立派な太い梁が走り、暖色系のダウンライトが目に優しい柔らかい光を落としている。
(ここは……どこだ?)
翼はバネ仕掛けのように上体を起こした。
全身の筋肉が軋むように痛むが、あの路地裏で嗅いだヘドロの死臭も、鼻を突く血の匂いもない。ふかふかとした手触りの良いラグマットの上に寝かされており、部屋の中には、微かにデミグラスソースを煮込んだような温かく人間らしい匂いが漂っていた。
ハッとして胸元を探ると、服の下にはあの『虹色』のペンダントが、氷のように冷たい質量を持って確かに存在している。夢ではなかったのだ。
「あ、れ……? ここ……私の、実家……?」
すぐ隣で、同じように目を覚ました結衣が、寝ぼけ眼をこすりながら周囲を見回した。
かなり広々としたリビングルームだった。翼と結衣だけでなく、少し離れた革張りの長いソファには天下崎が、その足元のクッションには凪が、それぞれ気絶したように横たわっている。
「結衣さん、ここがご実家なんですか?」
「う、うん。間違いないわ。でも、なんで私たちが……」
「――お、目が覚めた? よかった、ずっと寝てたから心配したんだよ」
不意に、キッチンのカウンターの奥から、ひどく穏やかで柔らかな声が響いた。
エプロン姿の青年――結衣の兄である白石柊生が、湯気の立つ深皿をいくつか乗せたお盆を両手で持ち、こちらへ歩いてくるところだった。
ふと翼の視線が、お盆を支える彼の手首に引き寄せられる。そこには、鈍い光を放つ『朱色の宝石のような石』が装飾された、少し目を引くアンティーク調のデザインの腕時計が巻かれていた。
「お兄ちゃん!?」
「……っ! ここは……!」
結衣の声に反応して跳ね起きた天下崎が、周囲を鋭く見回し、すぐさま警戒態勢をとった。
「あ、あれ、僕……生きてる……?」
凪もふらつく足で身を起こし、自身の腹部をペタペタと触って、内臓がえぐられていないことを確認している。何が夢で何が現実か分からないような表情を凪は見せる。
「落ち着いてください。どうやら、白石さんのお兄さんに助けていただいたみたいです」
翼が緊張状態にある二人をなだめつつ、柊生に向かって軽く頭を下げた。
「あの、見ず知らずの俺たちまで助けていただいて、ありがとうございます」
「いやいや、頭を上げるのはこっちの方だよ。結衣の兄の、白石柊生です。とりあえず、温かいものでも食べてよ。シチュー、多めに作っておいたからさ」
柊生はニコリと人懐っこい笑みを浮かべ、ダイニングテーブルに四人分の夕食を手際よく並べた。
「会社の帰りに、偶然六丁目の通りを車で通りかかったんだ。そうしたら、路地裏の入り口のところで、君たち四人が折り重なるようにして倒れていた。息はあったが、いくら肩を揺すっても起きないし……。救急車を呼ぼうかとも思ったけど、目立った外傷もなかったから、とりあえず俺の車に積んでここまで運んできたんだよ」
「お兄ちゃんが、私たちを……?」
結衣が状況を飲み込めず、戸惑ったように目を瞬かせる。
「ああ。本当に、心臓が止まるかと思ったよ」
柊生は困ったように眉尻を下げ、心配そうに四人の顔を順番に見つめた。
「でも……一体何があったんだい? 揃ってあんな寂れた場所で倒れてるなんて」
当然の質問だ。柊生の核心を突く問いかけに、リビングの空気がピシリと目に見えないヒビを入れたように凍りついた。
巨大な魚の異形との死闘、そして黄色い装束の女による魔術。そんな荒唐無稽な話を語ったところで、この善良そうな青年に信じてもらえるはずがない。
「あ、いや……その……」
翼は素早く頭を回転させ、可能な限り自然に聞こえる言葉を紡ぎ出した。
「実は、彼女……結衣さんが、あの路地裏の近くで急に気分を悪くして倒れてしまいまして。我々が偶然通りかかって介抱しようとしたんですが、路地の奥から酷い異臭……古いガスか何かが漏れていたみたいで。それを吸い込んだ途端、みんな一斉に意識が遠のいてしまったんです」
「そ、そうそう!」
天下崎が、翼の咄嗟の機転に力強く乗っかった。
「不法投棄のゴミか何かから、有毒なガスでも発生してたのかもしれねえ。情けない話だが、探偵の俺までミイラ取りがミイラになっちまった」
「ぼ、僕もです! すごく息苦しくなって、気づいたら倒れてて……!」
凪も慌てて首を縦に振り、裏返った声で話を合わせる。
全員がガス中毒のような症状で倒れたという理由なら、四人が折り重なって気絶していた不自然な状況にも辛うじて筋が通る。
「ガス漏れか。それは危なかったね。警察や消防に連絡した方がいいかもしれないな」
柊生は少し深刻そうな顔をした後、「でも、君たちに後遺症がなくて本当に良かった」と胸を撫で下ろした。
その時、四人分のシチューをテーブルに配り終えた柊生の視線が、ふと翼たちの胸元で止まった。
「それにしても、不思議な縁だね。みんな、お揃いのペンダントをしてる」
「えっ……!」
翼は心臓が跳ね上がるのを感じた。眠らされた際に服が乱れたのか、四人の首元からは、占い師から与えられたあの特徴的なペンダントが、はっきりと衣服の外に零れ落ちていたのだ。
結衣も凪も、青ざめた顔で慌てて石を服の中に隠そうとする。
「どこで買ったの? デザインがそれぞれ違って、すごく綺麗な石だね」
しかし、柊生は怪しむどころか、純粋な興味を惹かれたような無邪気な瞳で尋ねてきた。
「あ、これは……! 最近、ネットで流行ってるお守りみたいなもので……!」
結衣が引き攣った笑顔を浮かべながら、必死に誤魔化す。
「そうそう、厄除けのグッズなんですよ。たまたまみんな同じのを持ってたみたいで」
翼も冷や汗をかきながら同調した。
「へえ、そうなんだ。俺もそういうの好きだから、今度教えてよ」
柊生は特に疑う様子も見せず、朗らかに笑って話題を切り上げた。結衣は、(オカルト系信じてないって言ってたじゃん…)という言葉を胸の内に納め、笑顔で頷く。四人はテーブルの下で、誰にも気づかれないように深く、深い安堵の息を吐き出した。
「とにかく、冷める前に食べてよ。遠慮しないで」
柊生が促し、四人は銀色のスプーンを手に取った。先ほどまでの狂気の世界から一転、あまりにも温かく平和なシチューの味が、逆に彼らの心をひどく心細くさせた。
奇妙なほど和やかな夕食の時間が終わり、柊生が空になった食器を片付けようと立ち上がった時のことだった。
「……みんな無事で本当によかったよ。でも、これからは本当にああいう危ないところには近づかないように」
柊生は皿を重ねながら、ふと、窓の外を見るように独り言のように呟いた。
「そういう所には、『海還り(うみがえり)』が出るって噂だからね」
「……海還り?」
その聞き慣れない、しかし酷く不吉で粘り気のある響きを持った単語に、天下崎の肩がピクリと反応した。
翼も凪も、そして結衣も、一斉に柊生へと視線を向ける。あの薄暗い路地裏で遭遇した、魚と両生類を掛け合わせたような気味の悪い化け物たちの姿が、四人の脳裏に鮮明な色彩を持ってフラッシュバックした。
「海還り……? 白石さん、それについて何か……」
翼が思わず身を乗り出し、震える声で問いかけた。
しかし、柊生は重ねた皿を持ったまま、きょとんとした顔で振り返った。
「え? ああ、ごめんごめん。ネットの都市伝説だよ。最近の高校生や大学生の間で面白おかしく流行ってる怪談。結衣もオカルト好きだから知ってるかと思って。天下崎さんも探偵なら、そういう街の噂話くらい聞いたことあるんじゃないですか?」
柊生は悪びれる様子など少しもなく、ニコリと屈託なく微笑んだ。
「……ああ、ネットの噂話か」
天下崎は拍子抜けしたように小さく息を吐き、緊張を解いた。
「俺はてっきり、あんたが何か知ってるのかと勘違いしちまった。確かに、あそこは変な連中がたむろしててもおかしくない場所だからな」
「そうなんですよ。人気のない場所は、危ない人がいるかもしれないし、何かあったら大変だ。だから、行かない方がいいって警告はしたんですけどね」
と、柊生は一瞬結衣の顔を睨むような顔をすると、結衣は知らぬ顔でそっぽを向く。
凪も「都市伝説ですか……なるほど」と胸を撫で下ろした。あの異形の怪物の存在を、この一般人の青年が知っているはずがない。
その後、柊生は約束通り、自分の車に翼、天下崎、凪の三人を乗せ、それぞれの自宅の近くまで送り届けた。
夜の街を走る車内の空気は、疲労の色が濃く、誰も自ら口を開こうとはしなかった。三人をそれぞれの場所で降ろす際、柊生は「ゆっくり休んでくださいね」と窓越しに優しい言葉をかけた。その温かい響きに、翼たちは深く頭を下げて帰路についた。
夜も更け、実家の広いリビングには結衣と柊生の二人だけが残された。
「みんな、無事に家に着いたみたいでよかった。結衣も今日はもう疲れきってるだろ。二階のお前の部屋、ちゃんと掃除してあるから、今日はあそこを使って」
柊生は玄関の戸締まりを確認しながら、結衣に優しく声をかけた。
しかし、結衣はソファに座ったまま、根を張ったように動こうとはしなかった。
「……そうだ。実は今日、お父さんとお母さんから久しぶりに連絡があったんだ」
無言の結衣の空気を変えようとするように、柊生はご機嫌取りのような明るいトーンで話し始めた。
「今、二人はヨーロッパの方にいるらしい。仕事の合間に現地の観光地を回ってるみたいで、すごく景色がいいって写真が送られてきたよ」
「ヨーロッパ……?」
「ああ。どうだろう、結衣。お前、もうしばらく大学を休んで、二人のところへ遊びに行ってみないか? 航空券の手配なら俺がやってあげるから。日本を離れて、少し環境を変えれば、気も休まると思うんだ」
海外への旅行の提案。普段の彼女なら喜んで飛びついていたかもしれない。
しかし、今の結衣の心に湧き上がったのは、抑えきれない強烈な苛立ちだった。
「……なんで、お兄ちゃんにしか連絡してこないのよ」
結衣は不満げに顔を歪めた。
「私には、メッセージの一つも寄越さないくせに。私がどれだけ不安な思いをしてるか、お父さんたちもお兄ちゃんも、全然わかってない!」
「結衣、父さんたちも忙しいんだ。お前のことを心配してないわけじゃ……」
「いい! 私、行かないから。ここに残る!」
結衣は真っ直ぐに柊生を睨み返し、きっぱりと断言した。
今の彼女には「逃げる」という選択肢はあり得なかった。服の下に隠された『黄』のペンダントの重み。自分の意志で理不尽な死の運命に抗い、あのビヤーキーという名状しがたい怪物を呼び出した記憶が、彼女をこの街に太い釘で縫い付けていた。
気丈に振る舞う妹の、決して譲らない瞳。
柊生はしばらくの間、黙って結衣の顔を見つめていた。やがて、諦めたように短くため息をつくと、ズボンのポケットに手を入れた。
チャリン、と。
柊生はポケットから銀色の鍵を取り出すと、テーブルの上に置いた。
「実家のスペアキーだ。自由に使っていいよ」
「お兄ちゃん……」
「とはいっても、大学を一週間欠席するほど体調が悪いなら、自由に出歩く事はないと思うけどな」
柊生は結衣に背を向け、それ以上何も語ろうとせず、静かに二階の自室へと消えていった。
残された結衣は、テーブルの上に置かれた冷たいスペアキーを見つめながら、服の上から黄色のペンダントをきつく握りしめた。
柊生にそれぞれの自宅へ送り届けられ、天下崎星也が自身の「天下崎探偵事務所」兼住居の重い扉を開けたのは、深夜に近い時間だった。
上着を乱暴にソファへ投げ捨てると、部屋の奥にある鍵付きのキャビネットへと向かう。そこには、彼にとって何よりも重要な「過去の記録」が厳重に保管されていた。
天下崎はその中から、昨日自身のポストに投函されていた一通の手紙を取り出す。
差出人は不明。ただ一言、『虹橋デパート爆発事故の真相を知りたくば、夕暮れ時に六丁目の路地裏へ向かえ』とだけ印字された、気味の悪い代物だ。今日遭遇した異常な事態を思い返せば、あの『六丁目の占い師』と名乗った得体の知れない存在が仕組んだ罠だったのだろう。
その短い文面を指でなぞる天下崎の脳裏に、あの日の光景が生々しく蘇る。
(……二年前か)
当時、警視庁の捜査一課で多忙な日々を送っていた天下崎には、「絵梨花」という名の最愛の妻がいた。
運命の日、彼は別件の追跡調査に追われており、爆破現場からは遠く離れた場所にいた。都内を揺るがす未曾有の大惨事が起きたと知ったのは夕方。絵梨花の携帯にいくらコールしても繋がらず、彼女が永遠に帰らぬ人となったという決定的な事実に直面したのは、その日の夜遅く、静まり返った暗い自宅でのことだった。
二〇二二年。都内の大型商業施設『虹橋デパート』で発生した、原因不明の崩落爆破事故。
建物内にいた客や従業員のみならず、周囲数十メートル内にいた人々までもが瓦礫に飲み込まれ、死者七百二十四名、重軽傷者数千人という凄惨な被害を出した。
必死の現場検証の結果、爆発の発生源は地下フロアであると推測されたものの、そこには火薬やガスといった危険物は一切存在していなかった。さらに奇妙なことに、爆心地の跡は地下の中央周辺、およそ三十メートルの地面を「巨大な球体でえぐり取ったように」滑らかな円形状に消失していたのだ。
現場を視察した専門家たちでさえ、物理法則を無視したその光景に首を傾げるしかなかった。
結局、この惨劇は「原因不明」として処理された。事故から二年が経過した現在になっても真相は深い闇の底に沈み、警察機構も半ば諦めと共に捜査の規模を縮小している。
最愛の妻を不条理に奪われた天下崎の心には、底知れぬ後悔と、真実への異常な執着が植え付けられた。彼は事件の不自然さを上に訴え、個人的な捜査を強行しようとしたが、早々に蓋をしようとする組織の事なかれ主義に強い怒りを覚え、ついに自ら警察手帳を投げ捨てた。
辞職後は私立探偵に身をやつし、独自に事故の裏側を追い求めてきた。だが、いくら泥水をすするような地道な調査を重ねても、一向に有益な手掛かりは得られない。疲労と徒労感に押し潰されそうになりながら、ここ一年は過去の傷から目を背けるように、浮気調査や素行調査といったしがない日銭稼ぎに没頭して日々をやり過ごしてきたのだ。
だが昨日、この手紙が届いた。そして今日、六丁目であの理不尽な異形たちと遭遇し、死の淵を覗き込んだ。
「……絵梨花。俺は、お前が死んだ本当の理由に手が届くのか……?」
天下崎は、胸元で冷たく光る青いペンダントと手紙を強く握りしめた。
二年間、泥の中を這いずり回って追い求めてきた答えがようやく見つかるかもしれないという、微かな希望。そして、人間が決して触れてはならない深い狂気の領域に足を踏み入れてしまったという、本能的な恐怖。
二つの重い感情を胸に抱いたまま、天下崎はソファに深く体を沈め、疲労困憊の目を閉じた。
やがて、浅い眠りの中で周囲の壁や家具が水に溶けるように消え去っていく。
(ここは……どこだ?)
肺を四方から押し潰すような凄まじい水圧。一筋の光も届かない漆黒。どこまでも冷たく、ひどく淀んだ水の底。
彼は、果てしなく深い深海の底に沈んでいた。
息ができない。もがき苦しみ、喉を掻き毟る天下崎の鼓膜に、水底の泥が弾けるような、それでいてひどく明瞭な異質の声が直接響いてきた。
『………探せ』
『――少女を探せ……本物の……』
「……ッ!!」
激しくむせ返りながら、天下崎は窒息から逃れるようにソファから跳ね起きた。
視界には、見慣れた探偵事務所の黄ばんだ天井が映っている。全身は嫌な寝汗でびっしょりと濡れており、荒い呼吸だけが静まり返った部屋に反響した。
「……夢、か……」
気管を広げるように胸元を強く押さえながら、天下崎は首元で不気味な脈動を打つ青いペンダントを見下ろし、深海の悪夢の悍ましい余韻に身を震わせていた。
一方、その頃。
実家の二階、久しぶりの自室のベッドで眠りについていた結衣もまた、逃れられない狂気の淵に立たされていた。
どこまでも続く、広大で、コンクリートが剥き出しになった壁のある空間。
窓一つない閉鎖されたその場所は、肌にまとわりつく湿った空気と反響する水滴の音から、地下深くの空間であると直感的に理解できた。
彼女は、氷のように冷たい床の上に座り込まされていた。
周囲を取り囲んでいるのは、顔の見えない『黄色いレインコートの集団』。
ここ数ヶ月、結衣を毎晩のように苦しめてきた悪夢と全く同じ光景だ。だが、今夜の夢は、いつもよりもずっと輪郭がはっきりとしており、彼らの衣擦れの音すら聞こえるほど生々しかった。
集団は結衣を囲み、一定のリズムでゆらゆらと体を揺らしながら、何かの儀式を行っていた。
フードの奥から、不気味な異界の言語が合唱のように紡ぎ出される。
『――いや いや はすたー』
『いや いや はすたー』
そのひどく粘着質で、虫が耳の奥を這い回るような呪文の響きが、結衣の鼓膜を震わせた瞬間だった。
「あ、ああっ……!?」
結衣の全身の神経を、真っ赤に焼けた鉄串を直接脳髄に突き立てられたような凄まじい激痛が駆け巡った。内臓が雑巾のようにねじ切れ、血液が沸騰するような、致死量の苦痛。
「やめ、て……いやああああああっ!!」
自らの絶叫で、結衣は無理やり意識を浮上させて目を覚ました。
「はっ、あ、はあっ……!!」
シーツを強く握りしめ、過呼吸のように肩を上下させる。現実の自室の窓からは、白み始めた薄明かりが差し込んでいた。長かった夜が明け、朝が来たのだ。
全身が滝のような冷や汗に塗れ、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち据えられている。胸元で異様な光を放つ『黄』のペンダントが、火傷しそうなほど嫌な熱を持っていた。
(……また、あの夢……)
ただの悪夢じゃない。あの窓のない石造りの地下室と黄色いレインコートの集団は、数時間前に六丁目の路地裏で出会ったあの女と同じ『教団』の人間たちだ。彼らが口にしていた気味の悪い言葉と、全身の細胞を焼き尽くすようなあの痛みが、現実の残滓として皮膚に張り付いている。
結衣は震える膝をきつく抱え込み、音を立てて崩れていく自分の日常の残骸に、ただ恐怖の涙を流すことしかできなかった。
【白石柊生】
20代前半の青年で、白石結衣の兄、
昔から体が弱く、結衣が小学生になる頃から入院するようになる。
約1年半前の2023年6月頃に奇跡的に病気が治り、現在は両親の知り合いの会社で勤めている。
両親は海外出張で家にいない為、現在白石家の管理は実質柊生が行っている。
最後までお読みいただきありがとうございます。もし『面白かった』『続きが気になる』と思っていただけましたら、ページ下部の★マークから評価をいただけると、執筆の大きな励みになります。よろしくお願いします。




