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箱庭の百合  作者: Kibana
黄昏時に夢をみる
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第三十六話 黄昏時

 ――元々、この計画の成功確率など、限りなくゼロに等しかったのだ。

 だからこそ、途中で死の恐怖に耐えきれず命惜しさに逃げ出す者もいれば、狂気の世界へ現実逃避して自我を失う者もいた。白石柊生は、彼らを責める気にはなれなかった。

 人間とは本来、それほどまでに弱く、脆い生き物なのだから。

 だが、彼にはたった一つだけ、どうしても拭いきれない強烈な後悔があった。


(……本当は、お前だけはこんな場所に連れてきたくなかった。こんな事態になる前に、何も知らないまま、どこか遠い所に逃げてほしかった)


 吹き荒れる暴風雨の中。

 深口貿易の敷地の端にそびえ立つ、巨大な鉄塔の屋上。そこに、一人の青年の姿があった。

 彼が着ているのは黒いレインコートではない。あの大津波を間一髪で生き延びた後、空から墜落してきた教団信者から取った『黄色いレインコート』だった。

 その黄色の裾からは、絶え間なく赤い血がポタポタと滴り落ち、足元の鉄骨を濡らしている。

 波に飲まれた際の全身の骨折や打撲、そして無理な魔術行使による反動で、柊生の肉体はすでにボロボロの限界を迎えていた。

 立っていることすら不思議な状態。しかし、その瞳の光だけは決して死んではいなかった。

 柊生は、塔の上から彼方の海上を見据えた。

 視線の先には、夢見ヶ原市へ向けて無機質な歩みを進める山のような『海底邪神』の巨体。

 そして、その足元で四方八方に乱れ飛ぶ紫色の死の閃光の中、魔力切れで墜落の危機に瀕しながらも、必死に抗い続けている小さな影たちがあった。

 そのビヤーキーの背中に、愛する妹――結衣がまだ生きていることを確認した瞬間。

 柊生の張り詰めていた死人のような顔が、憑き物が落ちたようにふっと柔らかく緩んだ。


(……ああ、よかった)


 柊生は血まみれの口元で優しく微笑み、ほっと胸を撫で下ろすと、静かに目を閉じる。

 ボウッ、と。

 彼を包む黄色いレインコートの表面から、すべてを焼き尽くすような白熱の炎が、凄まじい勢いで吹き上がり始める。

 全身を包み込む白熱の炎の熱さが、皮肉にも柊生の脳裏に、かつての温かく穏やかな記憶を呼び覚ましていた。


 ――まだ結衣が中学生だった頃。

 白い壁と消毒液の匂いが鼻をつく、退屈な病室。

 当時、重い病気で長期間の入院生活を送っていた柊生のもとへ、結衣は毎週欠かさずにお見舞いに来てくれていた。

 パイプ椅子に座り、学校での出来事を身振り手振りで楽しそうに話す妹の姿を見るのが、あの頃の柊生にとって世界と繋がる唯一の光だった。


『いつもお見舞い、ありがとうな。……でも、結衣だって自分の時間があるだろう? 友達とかと遊ぶ時間も、中学生には大事なんだぞ』


 ベッドの上で申し訳なさそうにそう言うと、制服姿の結衣は少しだけ頬を膨らませて、呆れたように笑った。


『もう、友達とはしっかり遊んでるし、余計なお節介!』


 そして、結衣はベッドのシーツ越しに柊生の細い手をぎゅっと握りしめ、ひまわりのような満面の笑みを向けたのだ。


『この借りは……お兄ちゃんの病気がすっかり治ったら、いーっぱい返してもらうんだからね! 覚悟しといてよ』


 その無邪気で、未来を微塵も疑っていない真っ直ぐな言葉に、柊生はどれほど心を救われたことか。


『……ああ、そうだな』


 そう言って微笑み返したあの日の約束。

 病室の窓から差し込む陽だまりの暖かさを思い出しながら、塔の上に立つ柊生は、全身を覆う白熱の炎をさらに高く、さらに激しく燃え上がらせた。


(……ごめんな、結衣。どうやら俺は、お前から貰った大きすぎる借りを、返してやれそうにない)


 燃え盛る炎が、柊生の肉体から最後の生命力を容赦なく削り取っていく。




 一方、荒れ狂う海上の空域では、翼たち四人が真の絶望の淵に立たされていた。


「結衣さん、気をしっかり!」


 翼の悲痛な叫び。結衣の魔力が完全に底をつき、彼らを乗せたビヤーキーが大きくよろめいて高度を下げていく。

 天下崎もまた、凪の身体を掴んだまま必死に怪鳥を操っていたが、四方八方から雨霰と降り注ぐ紫色のビームの弾幕を前に、もはや回避の余地はどこにも残されていなかった。

 巨大な海底邪神は、足元で蠢く彼らなど意にも介さず、ただ無機質に夢見ヶ原市へと山のような足を向けようとしている。

 万策尽きた。天下崎が魔力を練り上げる時間も、攻撃を躱す機動力もない。

 四人が完全に死を覚悟し、目を閉じた――その瞬間だった。


 ――ゴオオオオオオオオオオオオオッ!!


 突如として、背後の陸地側から、大気を文字通り『焼き焦がす』ような凄まじい轟音が響き渡った。

 翼たちが弾かれたように振り返ると、深口貿易の鉄塔がそびえる方角から、まるで太陽の欠片が落ちてきたかのような『巨大な白熱の炎の塊』が、一直線に空を裂いて飛来してきたのだ。


「な、なんだあれは……!?」


 翼が驚愕に目を剥く。

 その炎の塊は、恐るべき速度で彼らのすぐ脇を通り抜け――そのまま、夢見ヶ原市へ向けて歩みを進めようとしていた山のように巨大な海底邪神の背中へと、自らの命を弾丸に変えるかのように、真正面から激突した。


 ドッゴオオオオオオオオオオオオオンッ!!!


 天地を揺るがす、規格外の大爆発。

 直撃を受けた海底邪神の深緑色の巨体が、激しい衝撃と共に大きくよろめき、一瞬にしてすべてを灰にする白熱の業火に包み込まれたのだ。


『ツツツツ!!』


 巨大な海底邪神のタコのような頭部から、先ほどまでの無機質なうめき声とは明確に違う、苦悶の絶叫が迸った。

 山のような巨体を包み込んだ白熱の炎は、ただの物理的な熱ではない。生ける炎による執念の業火だった。

 ぬらぬらとした深緑色の表皮がひび割れ、四方八方へ乱れ飛んでいた無数の触手が、炎に舐められてチリチリと焼け焦げ、灰となって崩れ落ちていく。

 あれほど異常だった絶対的な自己修復能力すらも、命を代償にした炎の前に完全に機能不全に陥り、邪神はその場でのたうち回るように巨体を激しく揺らした。

 致命的な紫色の光が、嘘のように止む。

 強風の中、限界を迎えて翼の背中にしがみついていた結衣が、ゆっくりと顔を上げた。


「……お兄、ちゃん……?」


 強風に掻き消されてしまいそうな、ひどく掠れた、消え入るような声だった。

 邪神の動きが完全に止まり、複雑な術式を構築するための猶予が、ついに生まれた。

 天下崎は自身の内に流れる呪われた血と、限界まで高めた全魔力を、開かれたページに刻まれた冒涜的な文字へと一気に流し込む。

 彼の目と鼻から、人間の限界を超えた魔力行使の代償として赤い血が噴き出した。

 天下崎は全身の筋肉を軋ませ、大気を震わせるほどの凄まじい言霊を込めて、邪神に対して呪文を咆哮した。


「――『ダゴン・フムグル・ナフ・ナフル』ッ!!」


 血を吐くような天下崎の咆哮と共に放たれた呪文は、目に見えない巨大な衝撃波となって、兄の炎に包まれ悶え苦しむ海底邪神の巨体を打ち据えた。

 直後、人間の理解を超えた光景が海上に広がる。

 山のように巨大な深緑色の肉体が、まるで熱した鉄板に落とされた飴細工のように、内側からドロドロと崩れ落ち始めたのだ。


『ヴ……オオ……オ』


 最後のうめき声を残し、形を保てなくなった邪神の体は、凄まじい質量の『赤い血液』へと変質していく。

 天を覆うほどの威容を誇っていた巨体が完全に液状化し、滝のような血の濁流となって、真っ二つに割れていた海の底へと崩れ落ちていった。


 ズザアアアアアアアアッ!!


 膨大な血の海が弾け、嵐で黒く濁っていた海面を、見渡す限りの赤へと染め上げていく。

 やがて、巨体が完全に溶け落ちると、海を割っていた不自然な力も霧散し、大きく隆起していた海水が元の平らな海面へと戻っていく。

 巨大な門も、魔法陣も、狂信に溺れた深田はじめの姿も、すべてが赤い海の底へと飲み込まれ、静かに消え去った。

 それと同時に、彼らを閉じ込め、世界を覆い尽くしていた分厚い暗雲と暴風雨が、まるで悪い夢から覚めるようにスゥッと薄れ、風と共に流れ去っていく。

 雲の切れ間から、眩しく、そしてひどく優しい光が差し込んだ。

 荒れ狂っていた海は嘘のように穏やかな凪を取り戻し、赤く染まった水面を、西の空へ傾きかけた夕日が黄金色に照らし出している。

 温かい夕方の光が、天下崎のビヤーキーの脚にぶら下がる気を失った凪、本を抱えて荒い息を吐く天下崎、そして――ビヤーキーの背で、翼の背中に顔を埋めて眠るように目を瞑る結衣を横目に、翼は夕日をただ見つめていた。

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