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箱庭の百合  作者: Kibana
黄昏時に夢をみる
38/43

第三十五話 決戦

 真っ二つに割れた漆黒の海の底から、途方もない質量を持った異形の怪物が、その冒涜的な全貌を現した。

 山のように膨れ上がった頭部は巨大な水棲生物を思わせ、顎の周囲からは無数のぬらぬらとした極太の触手が、まるでそれ自体が独立した意志を持っているかのように蠢いている。

 ずんぐりとした巨大な胴体からは、岩盤すら容易く抉り取るであろう鉤爪を備えた腕がだらりと垂れ下がり、背中には、天の星々すらも覆い隠してしまいそうなほど広大な、ぬかるんだ被膜を持つ両翼が折り畳まれていた。

 腐りきった海藻と、何万年もの間淀み続けた深海の泥の悪臭。

 ただそこに存在しているだけで、世界そのものが重圧に軋むような、人間の矮小な理解を完全に超越した異常な威圧感を放っていた。


「おお……おおお! ついに、ついに目覚められたのですね! 我らが偉大なる主よ!!」


 海上に浮かぶ魔法陣の上に立つ深田はじめが、血走った目で歓喜の涙をボロボロと流し、両腕を大きく広げてその巨大な『海底邪神』へと語りかけた。

 自身のすべてを捧げ、何百人もの命を無慈悲にすり潰してまで呼び覚ました、絶対的な神への狂信的な祈り。


 だが――深田の喉を裂くような呼びかけに対し、海底邪神は一切の反応を示さなかった。


 巨大な頭部にある、濁りきった二つの瞳。

 それは深田を見下ろすこともなく、ただ暗い虚空をぼんやりと見つめている。ピクリとも動かず、まるで魂の入っていない精巧で巨大な『肉の人形』のように、不気味なほどの沈黙を保っていたのだ。


「……なんだ?」


 空中でビヤーキーの背に跨る天下崎が、怪訝そうに太い眉をひそめる。

 翼や結衣、そして宙に浮遊する凪も、眼下の規格外の怪物を見下ろしながら、全く同じ強烈な『違和感』を覚えていた。そこにあるのは圧倒的な巨大さに対する生物としての警戒だけで、魂が凍りつくような『畏怖』がすっぽりと抜け落ちていた。

 目の前の巨大な存在からは、世界を破壊しようとする明確な悪意はおろか、生き物としての『自我』すら全く感じられないのだ。


「なぜです!? なぜ、御言葉をくださらないのですか!?」


 一切の反応を示さない神を前に、深田の狂喜に満ちていた顔が、徐々に焦燥と混乱へと変わっていく。

 儀式の手順は完璧だったはずだ。どこかで間違えたのか。

 その時だった。


 ――キェエエエエエッ!!


 上空の濃霧を切り裂き、黄色いレインコートを着た『ビヤーキー部隊』の生き残りがただ一人、真っ逆さまに海底邪神の巨大な頭部へと向かって、決死の特攻を仕掛けたのだ。

 ドゴォッ! という、岩壁に生卵をぶつけたような鈍い衝突音。

 ビヤーキーの身体が邪神のぶよぶよとした深緑色の表皮に激突し、無惨に弾け飛んで血飛沫を上げる。

 当然、そんな程度の衝撃で邪神に傷一つ負わせることなどできはしなかった。

 だが、その『物理的な刺激』が、沈黙していた巨大な人形のスイッチを、最悪な形で入れてしまった。


『――ヴ、オオオオオオオオオ……』


 海底邪神のタコのような頭部の奥底から、星が軋んで割れるような、低く不気味なうめき声が響き渡った。

 虚空を見つめていた淀んだ瞳が、ギョロリとゆっくり動き、眼前へと焦点を合わせる。

 そして、山のような巨大な足を、ズズンッ……! と無機質に持ち上げ、真っ直ぐに前進させ始めたのだ。


「ッ! 行かせるかッ……!」


 空中に浮遊していた凪が、胸元の赤黒いペンダントを千切れるほど力強く握りしめ、前方に両腕を突き出した。


 ドオオオオオオオオンッ!!


 凪の魔力が限界まで練り上げられ、大気を激しく切り裂くほどの凄まじい『暴風』が竜巻となって、海底邪神の巨大な胴体へと真正面から直撃する。

 強烈な風圧が海水を大きく巻き上げる。

 だが、突風を真っ向から受けてなお、海底邪神のぬらぬらとした深緑色の表皮は微かに波打つだけで、その山のような歩みを一歩たりとも遅らせることはなかった。

 凪が絶望に顔を歪め、風の魔術を放った両手をワナワナと震わせた。

 だが、ダメージこそ全く通らなかったものの、その魔術の『物理的な衝撃』は、確実に海底邪神の何らかのスイッチを過剰に刺激していた。


『ヴ、オオオオオオオオオ……ッ!!』


 再び星が軋むような地鳴りのうめき声が響いた直後。

 海底邪神の顎から垂れ下がる無数の触手、そして巨大な胴体から生え揃う大木のような極太の触手群が、突如として狂ったように四方八方へと振り回され始めたのだ。


 ビュゴオオオオオオオオッ!!


 ただ己に触れた不快な刺激を鬱陶しそうに払いのけるような、完全に見境のない、無差別な暴力の嵐。

 凪の放った暴風と、海底邪神がデタラメに振り回す巨大な触手の風圧によって、海上の空域を覆っていた分厚い濃霧が一気に吹き飛ばされていく。

 視界が晴れた翼たちの目に飛び込んできたのは、あまりにも残酷で、無慈悲な光景だった。


「グギャアアアアアアアッ!?」


 乱れ飛ぶ巨大な触手の鞭は、魔法陣の周囲の海面に浮かんでいた『深きもの』たち――本来ならこの邪神を崇め、必死の祈りで呼び覚ましたはずの眷属たちの上にすら、一切の容赦なく叩きつけられたのだ。

 翼の『多重結界』の透明な箱ごと、自らが狂信した神の無機質な暴力によって、深きものたちの身体が次々と海上でひしゃげ、緑色の血飛沫を上げて無惨にすり潰されていく。


「味方ごと……!?」


 天下崎がビヤーキーの背の突起にしがみつきながら、信じられないというように怒鳴り声を上げた。


「来るわ、避けてッ!!」


 結衣の悲痛な叫びと共に、家屋ほどの太さがある触手の一撃が、上空の翼たちをハエでも叩き落とすように薙ぎ払ってきた。

 四人はそれぞれビヤーキーの手綱を限界まで引き、あるいは風の魔術の軌道を強引に捻じ曲げて、死の暴風が吹き荒れる海上を必死の形相で飛び回る。


「くそっ、キリがない……!」


 翼はビヤーキーの背に低く這いつくばり、上下左右からデタラメに迫り来る巨大な触手の群れを、紙一重で躱し続けていた。

 しかし、法則性のない見境のない暴力の嵐の中で、ついに運の尽きる瞬間が訪れた。


 ――ドゴオッ!!


「しまっ……!?」


 完全に死角となっていた下方の海面から跳ね上がってきた極太の触手が、翼の乗るビヤーキーの片翼を無惨に薙ぎ払ったのだ。

 怪鳥は鼓膜を劈くような断末魔の悲鳴を上げ、バランスを崩して錐揉み回転しながら、真っ逆さまに荒れ狂う海へと墜落していく。

 激しい回転の遠心力で、翼の身体はビヤーキーの背中から強引に引き剥がされ、強風の吹き荒れる空中へと放り出された。


「翼さんッ!!」


 悲痛な叫びと共に、少し上空を飛んでいた結衣の乗るビヤーキーが、弾かれたように急降下する。


「ぐっ……!」


 翼は間一髪のところで、結衣のビヤーキーの背中にしがみつき、荒い息を吐きながら海面への激突を免れた。


「ありがとう、結衣さん……」


「お礼は後! でも、さっきみたいに速くは動けないわよ!」


 結衣が歯を食いしばりながら、悲鳴を上げるビヤーキーの手綱を必死に引いて高度を保つ。

 機動力が極端に落ちた今、次にあの一撃を食らえば間違いなく二人とも回避できず、命はない。


「あいつ、俺たちを狙って攻撃してきてるわけじゃねぇ!」


 少し離れた空域で、巧みに触手を躱していた天下崎が大声で叫んだ。


「さっきの凪の風や、自分にぶつかってきた『物理的な刺激』に対して、反射的に暴れ回ってるだけだ! まるで意志のない、ただの巨大な機械みたいにな!」


「だったら……! 僕たちが攻撃をしなければ、あいつも大人しくなるんじゃないですか!?」


 浮遊魔術で宙に留まる凪が、希望に縋るように叫び返す。

 だが、天下崎は苦渋に満ちた顔で、海底邪神の巨大な足元――その先にある彼方の陸地を指差した。


「ダメだ! あいつの歩く先を見てみろ! このまま放置すれば、あの巨大な足で、夢見ヶ原市を真っ直ぐ踏み潰すことになるぞ!」


 その言葉に、翼たちはハッとして息を呑んだ。

 意志を持たない、ただ前進するだけの厄災。だからこそタチが悪いのだ。

 あんな規格外の質量が市街地に上陸すれば、悪意すらなく、数万人の命が虫けらのようにすり潰されてしまう。


「……やるしかない」


 翼は結衣の背後で拳を固く握り締め、真っ直ぐにあの絶望的な巨体を見据え、悲壮な覚悟を込めて言う。


「あんな規格外の化け物を、どうやって!?」


 結衣が二人分の重みで高度の落ちるビヤーキーを必死に操りながら、絶望的な声を上げた。

 その時、彼女の視線が、天下崎の小脇に大事に抱えられている『革装丁の魔導書』に引き寄せられる。


「ねえ、天下崎さん! 深田はその本を使ってあの怪物を呼び出したんでしょ!? だったら、その本で操ったりできないの!?」


 強風の中で結衣の叫びを聞き、天下崎はハッとして奪い取った本をバサリと開いた。

 だが、その顔はすぐに苦渋に歪む。


「……ダメだ。さっきまで魔法陣に注がれていた不気味な力が、すっかり抜け落ちてやがる。ただの本になっちまった」


「そんな……!」


「だが、待てよ」


 天下崎は胸元の青いペンダントを力強く握りしめ、禍々しいページに目を凝らした。


「この本に俺自身の『魔力』を流し込めば、何かしらの術は起動できそうだ。それに……」


 ページにびっしりと書き込まれた、ミミズがのたうち回ったような冒涜的な象形文字。

 人間には到底解読不可能なはずのその文字列が、なぜか天下崎の脳内には、まるで母語を読むようにスラスラと意味を成して入り込んできたのだ。


「なんとなく意味は分かる! だが、この状況を引っ繰り返せる術を見つけて発動させるには、どうしても少し時間がかかるぞ!」


「……分かりました。なら、僕たちがその時間を稼ぎます!」


 宙に浮遊する凪が、決死の覚悟を宿した瞳で叫び返した。


「今の僕なら、もしかしたらあいつの足止めができるかもしれない!」


 凪が胸元の赤いペンダントを両手で強く握りしめる。

 結衣もまた、自身の黄色いペンダントにそっと触れた。

 今朝、奇妙な夢を見た時から、彼女自身もその石の奥底に眠る、より巨大で凶悪な『別の気配』を感じ取っていたのだ。


「……私も、心当たりがあるわ。天下崎さん、絶対にその本から解決策を見つけて!」


「あぁ、死んでも見つけ出してやる! 頼んだぞ、お前ら!」


 天下崎が本を睨みつけながら怒鳴り返し、翼も結衣の背中にしがみつきながらゴクリと息を呑んで頷いた。


「行きます……ッ!」


 凪が自身の全魔力、そして生命力すらも削るような勢いで、赤いペンダントの力を完全に解放した。

 突如として、台風の目の空間に、凍てつくような極寒の吹雪が巻き起こった。

 猛烈な風が凪の頭上へ向けて一気に収束し、周囲の海水と大気を激しく巻き込みながら、天を衝くほどの巨大な竜巻を形成していく。

 そしてその竜巻の中から、山のように巨大な『風の化身』が、二つの赤く爛々と輝く凶星のような瞳を瞬かせて顕現したのだ。


「で、でけぇ……!」


 天下崎が思わず本から目を離し、唖然と呟く。

 それは実体を持たない、荒れ狂う暴風と冷気だけで構成された巨大な人型の怪物。

 その大きさは、海を割って現れたあの絶望的な海底邪神と完全に同等だった。


「うおおおおおッ!!」


 凪の叫びと連動するように、風の化身が竜巻で構成された巨大な両腕を振り上げ、夢見ヶ原市へと歩みを進めようとしていた海底邪神の胴体へと、渾身の力で叩きつけた。


 ドゴオオオオオオオオンッ!!


 超質量の風圧の激突。

 あれほどびくともしなかった海底邪神の巨体が、初めて大きく揺らぎ、その歩みがピタリと止まる。


『ヴ、オオオオオオオオオ……ッ!!』


 強烈な物理的衝撃に反応し、海底邪神の身体から無数の巨大な触手が弾けるように伸び、反撃として風の化身を串刺しにせんと四方八方から襲いかかった。

 だが。


 シュゴオオオオッ!!


 物理的な実体を持たない風の化身の身体を、海底邪神の放った極太の触手群は、虚しく空を切ってすり抜けていく。

 触手が風を裂いても、瞬時に大気が渦を巻いて、元の巨体を修復してしまうのだ。


「はぁっ、はぁっ……!」


 邪神の足止めに成功した凪だったが、その顔は異常なほど蒼白になり、鼻からはタラーッと一筋の血が流れ落ちていた。

 神に匹敵する規格外の怪物を顕現させ、使役し続ける代償は、少年の体に凄まじい負荷をかけている。


「ダメだ……! 長くてあと数分……」


 荒い呼吸を繰り返す凪の悲痛な声。

 それを聞いた結衣が、決然と顔を上げた。


「凪君!」


 荒れ狂う暴風雨の中、限界を迎えて血を流す凪の悲鳴に応えるように、結衣は自らの胸元で光る黄色いペンダントを天高く掲げた。


「お願い……ッ、来て!!」


 結衣が己の生命力すらも削り取る勢いで、限界を凌駕する魔力を一気に解放する。

 すると、眼下の荒れ狂う暗い海面が、不自然に大きく盛り上がった。

 ズザアアアアッ! という鼓膜を破るような激しい水音と共に、真っ二つに割れた漆黒の海の中から、『数メートルほどの大きさの二体の怪物』が空へと浮かび上がってきたのだ。

 一体は、大気をビリビリと震わせるほどの紫電を全身に纏い、ぬらりとした爬虫類のような表皮を持つ怪物。

 もう一体は、定まった形すら持たず、周囲の空間そのものを不気味に歪ませながらドロドロと蠢く、おぞましい肉塊のような怪物だった。


「お願いッ!!」


 結衣の悲鳴のような命令に応じ、二体の怪物が、天を衝く海底邪神の巨大な触手群へと突撃する。

 まず、紫電を纏った怪物が、落雷のような耳を劈く轟音を海上に響かせた。

 その瞬間、空気を伝わる凄まじい衝撃波と爆発が巻き起こり、海底邪神の巨大な胴体から伸びていた無数の触手が、内側から弾けるように次々と木っ端微塵に吹き飛ばされていく。

 さらに、空間を歪める肉塊の怪物が邪神の頭上へとにじり寄ると、その中心に『ブラックホール』のような漆黒の重力場を生成した。


 ギュルルルルルッ!!


 空間ごと捻じ曲げられる異常な引力。

 それに巻き込まれた大木のような極太の触手たちが、まるで雑巾のように無惨に捻り切られ、ブチブチと音を立てて千切れ、深緑色の体液を雨のように撒き散らした。

 二体の怪物が邪神の分厚い防御網を強引に削り取った隙を見逃さず、翼が自身の胸のペンダントを強く握りしめた。

 翼の全魔力を注ぎ込んだ無色透明の結界が、海底邪神の山のような巨体をすっぽりと覆い隠すように展開される。


 ――パアアアンッ!!


 だが、それは文字通り『一瞬』だった。

 傷を負わされ、本能的な防衛機能を働かせた海底邪神の規格外の魔力と質量が僅かに膨張しただけで、翼の張った強固な結界は、薄氷のようにあっけなく粉砕されてしまったのだ。

 しかし――その一瞬の足止めと隙こそが、彼らの狙いだった。


「ああああああああッ!!」


 限界を迎え、意識を失う寸前の凪が最後の力を振り絞り、邪神に向けて両手を突き出した。

 結界が割れた直後、邪神の目の前で動きを止めていた巨大な『風の化身』が、その人型を崩し、天を貫くほどの巨大な『竜巻』へと姿を変えたのだ。


 ギュイイイイイイイインッ!!


 凄まじい回転を伴った暴風の刃が、無防備になった海底邪神の巨大な胴体を、真正面から無慈悲に抉り取る。

 深緑色の肉片が天高く舞い上がり、邪神の胴体に、向こうの景色が見えるほどのぽっかりとした大穴が開いたのを見届けた瞬間。

 力を完全に使い果たした風の化身は、霧散するように大気へと溶け込み、跡形もなく消滅した。


「やったか……!?」


 吹き荒れる強風の中、翼が息を呑んで巨大な姿を見つめる。

 風の化身が最期に残した規格外の竜巻は、確かに海底邪神の巨大な胴体を撃ち抜き、致命的な風穴を空けていた。

 しかし、その希望的観測は、あまりにも無情に打ち砕かれた。


 ――ブクブクブクッ……!


「嘘でしょ……!?」


 結衣が絶望に顔を歪める。

 抉り取られた深緑色の肉の断面が、まるで沸騰する泥のように蠢き出したかと思うと、無数の触手となって互いに絡み合い、あの大穴を『瞬きする間』に完全に塞いでしまったのだ。

 異常な自己修復能力。

 のみならず、二体の怪物によって千切られた無数の触手すらも瞬時に再生を果たし、そのすべての先端が、チリチリと空気を焦がすような禍々しい『紫色』の光を帯び始めた。


『――ヴ、オオオオオオオオオ……!!』


 星の瞬きを思わせる静寂が、ほんの数秒。

 直後、光を帯びた何百、何千という触手の先端から、全方位へ向けて高出力の『紫色の光』が雨霰と乱れ撃たれたのだ。


 ピシャアアアアアアアンッ!!


 台風の目の空間が、致死の紫光に塗り潰される。

 最も近くで邪神を攻撃していた二体の召喚怪物――紫電を纏う爬虫類の怪物と、空間を歪める肉塊の怪物が、その圧倒的な光の奔流を真正面から浴びた。

 回避する間もなく全身を焼き切られた二体は、断末魔の悲鳴を上げる暇すら与えられず、一瞬にして消滅させられてしまう。


「避けろオオッ!!」


 天下崎の怒声と共に、翼と結衣を乗せたビヤーキー、そして天下崎のビヤーキーが、四方八方から迫り来る死の閃光の隙間を縫うようにして空を駆け回る。

 かすっただけでビヤーキーの強靭な皮膚が焼け焦げ、焦燥感と恐怖が頂点に達した、その時だった。


「っ……」


 空中で浮遊していた凪の胸元。彼を支えていた赤いペンダントの光が、ふっと完全に消え失せた。

 規格外の『風の化身』を顕現させ、魔力と体力のすべてを使い果たした凪は、ついに限界を迎えて意識を手放してしまったのだ。


「凪くんッ!!」


 翼が血の気を引かせて絶叫する。

 支えを失った少年の身体は、紫のビームが飛び交う空から、真っ逆さまに荒れ狂う暗い海へと落下していく。


「クソッタレがアアアッ!!」


 天下崎が奪った本を小脇に抱えたまま、自身のビヤーキーの首元を乱暴に叩いて急降下させた。

 乱れ飛ぶビームを紙一重で掻き潜り、海面に激突する寸前。巨大な怪鳥の太い脚が、意識を失った凪の衣服をギリギリで掴み取り、そのまま強引に上空へと引き上げた。


「ハァッ……ハァッ……! 死んじゃいねぇな、坊主!」


 天下崎がビヤーキーの背から身を乗り出し、ぐったりとぶら下がる凪の無事を確認して吠える。

 だが、安堵している余裕など一秒たりとも残されていなかった。


「……くっ、ああああッ!」


 少し離れた空域で、翼を背後に乗せて飛ぶ結衣が、血を吐くような悲鳴を上げたのだ。

 彼女の胸元で輝いていた『黄色いペンダント』の光が、まるで風前の灯火のように明滅を始めている。

 二体の強大な怪物を顕現させ、さらに今も天下崎の乗る分を含めた二体のビヤーキーを同時に使役し続けている結衣の魔力は、とうに限界の底をついていた。


「結衣さん! しっかりして!」


「ごめ、なさい……翼さん。多分もう、魔力が……っ」


 結衣の顔は雪のように白く、手綱を握る両手は痙攣するように震えていた。

 彼女の意識が途切れかけるのに呼応して、彼らを乗せているビヤーキーの羽ばたきが鈍り、高度がズルズルと落ちていく。

 眼下では、完全な自己修復を果たした山のような巨大な海底邪神が、再び彼方の夢見ヶ原市へ向けて、無機質で絶望的な歩みを進めようとしていた。

 頭上からは紫のビームが雨霰と降り注ぎ、それを躱すだけの機動力も、敵を足止めする魔力も、彼らにはもう残されていない。


「天下崎さんッ!! 本は……その本に、何か方法は載ってないんですか!?」


 翼が結衣の小さな背中を必死に支えながら、強風の向こうを飛ぶ天下崎へ向けて血を吐くような思いで叫んだ。


「……見つけた! 見つけたぞ!!」


 天下崎が、血走った目で忌まわしい本のページを睨みつけながら怒鳴り返す。

 その目と鼻からは、人間の脳が処理しきれない冒涜的な知識を強引に読み解いた代償として、タラーッと赤い血が流れ落ちていた。


「こいつを送り返すような、それらしい術の記述を見つけた! 俺の魔力を全部ぶち込めば、あるいは……っ!」


「なら……!」


「だが、ダメだ! ……俺の魔力を完全に練り上げて発動させるには、どうしても少しだけ時間が必要なんだよッ!!」


 天下崎の痛切な叫びが、暴風雨の中に虚しく吸い込まれていく。

 時間が必要だ。しかし、限界を迎えた結衣がビヤーキーの維持を解き、彼らがこの冷たい海へ墜落するのは、もはや数秒後の未来に迫っていた。

 打つ手はすべて尽きた。

 彼らの命運も、夢見ヶ原市の数万の命も、ただ意志を持たない巨大な厄災の足元で無惨にすり潰されるのを待つしかない。

 上空を飛び交う四人は、為す術もなく絶体絶命の危機に陥っていた。

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