第三十四話 海底邪神
――ズゴゴゴゴゴゴオオオオオッ!!
港の強固なコンクリートの防波堤を軽々と粉砕し、天を衝くほどの高さにまで膨れ上がった漆黒の大津波が、深口貿易の施設に直撃した直後。
施設地下の頑強な鉄扉を拉げさせ、一階のロビーへとどうにか駆け上がった翼たちの目に真っ先に飛び込んできたのは。
木端微塵に砕け散ったエントランスから、黒く濁った海水の暴力的な塊が、まるで世界を飲み込もうとするように雪崩れ込んでくる、圧倒的で絶望的な光景だった。
「急いで! 上の階へッ!!」
翼が喉を裂くように叫び、腕に抱えていた百合の小さな手を力一杯引いて、一階から二階へと続く幅広いコンクリートの階段へ、決死の思いで飛び乗る。
そのすぐ後ろを、結衣と凪が血の気を失った必死の形相で追いかけていた。
しかし、建物を容赦なく飲み込む大自然の濁流の勢いは、人間の足の速さなど容易く凌駕していた。
ゴボゴボッ、メキメキッ、と。
水流がロビーの太い柱や分厚い大理石のカウンターをまるで小枝のようになぎ倒し、不気味な破壊音を立てながら、水位はみるみるうちに上昇していく。
階段を一段、また一段と駆け上がる彼らの足首から膝下へと、氷のように冷たく重い水が、死神の腕のように容赦なく絡みついてきた。
「きゃっ……!?」
「百合ッ!」
死の焦りと、想像を絶する水の強い抵抗に足を取られ、一番身体の小さな百合が、階段の中腹で大きくつまずいて転倒してしまった。
バシャッ! と冷たい水しぶきが上がり、百合の身体が黒い水面へと沈みかける。
翼は咄嗟に振り返り、濁流に呑み込まれそうになった百合の細い腕を掴み、己の肩の関節が外れそうになるほどの力で強引に引っ張り起こした。
しかし、そのほんの数秒のタイムロスが命取りだった。
まるで明確な殺意を持った大蛇のように、黒く濁った海水の塊がすぐ目の前まで迫り上がってきていたのだ。
足元の水はすでに翼たちの腰の高さまで達しようとしている。このままでは二階へ辿り着く前に間違いなく全員が飲み込まれ、建物の瓦礫と共に水死する――。
誰もがそう直感した時だった。
「……ッ!」
最後尾で階段を上っていた凪が、瞬時に振り返った。
彼は胸元で赤黒い禍々しい光を放つペンダントを両手で強く握りしめ、迫り来る黒い水の壁に向かって、決死の覚悟で右手を真っ直ぐに突き出した。
『暴風』
ドオオオオオンッ!!
凪の掌から不可視の巨大な大砲が放たれ、強烈な『風の塊』が、下から迫り来る濁流の壁のど真ん中に激突する。
凄まじい風圧が海水を大きく凹ませ、その進行を力任せに押し留めようとする。
だが、相手は港の防波堤すら易々と越えてきた、何百万トンという大津波の質量そのものだ。一人の放つ魔術の風など、一時的な時間稼ぎどころか、ほんの数秒の足止めにしかならない。
バチバチバチッ! と、風の防壁と強烈な水圧がぶつかり合い、空気が悲鳴を上げる。
暴風はすぐに圧倒的な水の重量に押し潰され始め、勢いを全く衰えさせることなく、死の濁流が四人の頭上から覆い被さろうとしていた。
「くそっ、ダメだ……水が……ッ!」
(このままじゃ……アレを使うしかないのか……!)
ペンダントを持つ手をガタガタと震わせ、凪が絶望に顔を歪める。
「……百合ちゃん、お姉さんを信じて、目を瞑って!」
頭上から迫り来る死の濁流を前に、結衣が鋭く叫んだ。
翼の腕の中で震える百合が、言われた通りにギュッと両目を強く瞑る。
その直後、結衣は胸元の『黄色のペンダント』を両手で力強く握りしめ、自身の精神の限界を削るようにして、ありったけの魔力を一気に解放した。
「来てッ!!」
結衣の悲痛な叫びに呼応するように、四人が立っている狭い階段の壁面が、まるでドロリとした黒い泥のように不気味に歪んだ。
そして次の瞬間。
硬いコンクリートの壁をすり抜けるようにして、コウモリと巨大な昆虫を悪趣味に掛け合わせたような異形の怪物――『ビヤーキー』が三体、鼓膜を劈くような悍ましい羽音と共に這い出してきたのだ。
一切の光を吸い込むような漆黒の身体から放たれる、強烈な冷気と腐った臓物の匂い。
本来なら、一般人が直視するだけで理解を激しく拒み発狂しかねないおぞましい怪鳥だが、結衣の確固たる使役下にある彼らは、一切の無駄な動きなく三人の足元へ滑り降りた。
「乗って!」
結衣の指示と同時に、三体のビヤーキーが素早く動き、それぞれ結衣、凪、そして翼と百合の二人を巨大でひんやりとした背中に担ぎ上げる。
直後、凪の風の防壁が完全に決壊し、黒い海水の塊が、鋭い牙を剥くように四人を飲み込もうと襲いかかってきた。
ガシャアアアァンッ!!
三体のビヤーキーは強靭な両翼を力強く羽ばたかせ、階段の踊り場にあった分厚い大きな窓ガラスを粉々に突き破って、暴風雨の吹き荒れる外の空間へと強引に飛び出した。
横殴りの冷たい雨が、顔を容赦なく打ちつける。
間一髪で濁流から逃れた四人を乗せたビヤーキーは、そのまま豪雨の空へと舞い上がった。
眼下では、先ほどまで彼らが走っていた深口貿易の施設の一階と二階部分が、凄まじい水しぶきと破壊音と共に、完全に暗い海へと沈み込んでいるのが見えた。
「はぁっ、はぁっ……た、助かった……」
翼が腕の中の百合を痛いほどきつく抱きしめたまま、安堵と疲労の入り混じった重い息を吐く。
ビヤーキーはそのまま上空へと高度を上げ、完全に水没することを免れていた施設の『屋上』を目指して滑空し、乱暴な羽音と共にコンクリートの床へと着地した。
「……誰かいる?」
背中から降りた結衣が、土砂降りの雨の向こうを指差した。
広々とした屋上の中央。
そこには、ずぶ濡れのくたびれたシャツ一枚で、海沿いの方角を呆然と見つめながら立ち尽くす、大柄な男の背中があった。
「天下崎さん……!?」
翼が驚きと安堵の声を上げる。
その声に天下崎はゆっくりと振り返り、ビヤーキーと共に現れた四人の無事な姿を認めて、ひどく疲労し、掠れたような声で口を開いた。
「……お前ら。無事で、よかったな」
安堵の言葉。
しかし、その顔は雨に濡れているせいだけではないほどにひどく蒼白で、目には底知れない暗い絶望と自責の色がべったりと張り付いていた。
土砂降りの雨が打ちつける深口貿易の屋上。
一人で立ち尽くす天下崎の姿に、翼は戸惑いながら声をかけた。
「天下崎さん……なぜ、ここに? それに、着ていたあの黒いレインコートはどうしたんですか?」
「お兄ちゃんはどこ!? もしかして、一足先に海沿いへ向かったの!?」
結衣がすがるような声で、コンクリートの床を蹴って天下崎に駆け寄る。
しかし、天下崎はその問いにすぐには答えられなかった。
ギリッと音が鳴るほど奥歯を噛み締め、ひどく後悔と苦痛に満ちた瞳で、足元の水たまりを見つめる。
「……すまねぇ」
絞り出すようにこぼれ落ちたその一言に、結衣の顔からすっと血の気が引いた。
「コンテナエリアを調べている時……海から、あの規格外の大津波が押し寄せてきた。逃げ場なんてどこにもなかった。……だが、波に飲み込まれる直前、あいつは自身の炎の魔術を使って……俺だけを、この屋上へ移動させやがったんだ」
「そ、そんな……」
「……すまねぇ、全部俺のせいだ」
天下崎の痛切な告白。
それはつまり、白石柊生がただ一人で、あの絶望的な質量の『大津波の直撃を受けた』という絶対的な事実を意味していた。
「あ、ああ……お兄ちゃん……ッ」
結衣の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。
彼女は糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ち、冷たい雨が打ちつける屋上の床に両手をつき、声を殺して泣き崩れた。
「結衣さん……」
翼は悲痛な面持ちで結衣の傍に膝をつき、その激しく震える小さな肩に優しく手を置いた。
昨日、深田から四人を助けてくれた恩人であり、百合を助ける為に協力してくれた彼女の兄。
彼が、自分たちを生かすために自らを犠牲にした。翼にとっても、その事実は身を引き裂かれるほど辛く、重いものだった。
「……結衣さん。まだ、柊生さんが死んだと決まったわけじゃない」
翼は自分自身にも強く言い聞かせるように、真っ直ぐな声で言った。
「……今は、柊生さんが無事だと信じるしかない。俺たちがここで立ち止まったら、あの人の思いまで、無駄になってしまう」
「……ッ」
翼の言葉に、結衣はビクッと肩を震わせた。
そうだ。兄は、自分たちに世界と攫われた少女を救うという使命を託してくれたのだ。ここで泣いていれば、彼のその覚悟と犠牲を裏切ることになる。
「……そう、ね」
結衣は乱暴に目元を拭い、雨水と涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「……恨むなら、好きなだけ恨んでくれ」
「………そんなことしないわ。お兄ちゃんはそんなこと望まない、それに、あなたをここに移動させたのなら、それはきっと、あなたに『生きて欲しい』って思ったからだろうし」
天下崎の贖罪を望む声に対して、震える足に力を込め、結衣が泥水の跳ねる床から再び立ち上がった。
その時だった。
――ピリリリリリリッ!
激しい雨音を切り裂くように、天下崎のズボンのポケットから、スマートフォンの無機質な着信音が鳴り響いた。
天下崎が画面を確認すると、そこには元同僚の刑事である『杉浦』の名前が表示されていた。
「……もしもし」
『天下崎か! お前、今どこにいる!』
電話越しに聞こえてきた杉浦の声は、いつになく切羽詰まった、完全にパニックに陥っている様子だった。背後からはけたたましい複数のサイレンの音や、怒号のような警察無線の声が入り乱れて聞こえてくる。
「どこって……あぁ、安心しろ。もう避難済みだ……」
『ならいい……今、市内は異常な津波の直撃を受けて全域に避難誘導が出されている。自衛隊、特殊部隊があと数時間でこの町に来る手筈だ。いいか、もうすぐここは戦場になるんだ! もう個人で何とかできる域を超えている! 分かっていると思うが、絶対にあの霧には近づくな!』
杉浦の悲痛な警告に、天下崎は完全に水没し、黒い波が渦巻く眼下のコンテナエリアを冷たい目で見下ろしながら、低く呟いた。
「……それは、特殊刑事課としての『命令』か?」
『あ? ふざけてんのか!』
「……お前こそ、今どこにいるんだ」
『俺か? 今は署にいるが…もうすぐ車両が来たら、警察署に避難した住民を市外に……おい、聞いてるのか!?』
「ああ。……あんな所でも、ここよりはまだ安心みたいだな。もう一人、小さな女の子が来る。頼んだぞ」
天下崎はそれだけ言うと、杉浦の怒鳴り声を無視して一方的に通話を切った。
そして、スマートフォンをポケットに乱暴に突っ込むと、振り返って結衣と翼、そして百合の方へと真っ直ぐに向き直った。
「結衣。その飛ぶ化け物に、百合を『警察署の付近』まで送らせろ」
「えっ……」
突然の提案に、結衣と翼が目を丸くする。
「さっきの電話は、俺の昔の同僚の刑事だ。これから署にいる人を安全な市外へ避難させるそうだ。……少なくとも、この港にいるよりは、あいつに連れて行ってもらう方が、この子にとっては絶対に安全だ」
天下崎の言葉に、翼はハッとして百合の顔を見た。
これから彼らが向かうのは、海還りの儀式の中心地であり、人間の理解を絶する異形の化け物どもが跋扈する真の死地だ。
魔術を持たない非戦闘員である百合をこれ以上連れ回すことは、彼女の命を確実に危険に晒すことに他ならない。
「翼……私だけ、逃げるの?」
翼が百合の方を見ると、そこには既にしっかりと目を開けている少女の姿があった。
恐怖に震えながらも、その大きな瞳には強い意志が宿っている。
「百合……! 目を開けちゃダメだって……」
「大丈夫」
百合は、本来なら発狂しかねない不浄の生き物であるビヤーキーを見つめて、ハッキリと言い切った。
彼女もまた、ただ守られるだけの子供ではなく、覚悟を決めているのだ。
「……これから俺たちが向かう場所は、お前がいていい場所じゃない。それに、俺たちの目的は『お前を無事に家に帰すこと』だ。ここで警察に保護してもらえば、その目的は半分達成されたことになる」
翼は優しく、しかし確固たる意志を込めて百合の目線に合わせてしゃがみ込み、微笑みかけた。
「怖がらせてごめんな。でも、心配しないでくれ。全部終わらせて……絶対に、お前を迎えに戻ってくるから」
「……約束だよ?」
百合は泣き出しそうな顔で、それでも必死に頷いて、翼と小さな小指を絡ませた。
結衣の指示を受け、一体のビヤーキーが百合の前に恭しく身を屈める。
翼が彼女をその背にしっかりと乗せると、異形の怪鳥は優しく羽音を立てて雨空へと飛び立ち、市街地の警察署がある方角へと一直線に飛んでいった。
黒い点が分厚い雨雲に吸い込まれて見えなくなるのを見届け、翼は小さく息を吐いて振り返った。
「さて……俺たちも急ごう」
「ええ。でも、一つ問題があるの」
結衣が険しい顔で、足元に控える二体のビヤーキーと、新たに屋上の床から這い出させてきたもう一体のビヤーキーを見つめた。
「今の私の力じゃ、同時に使役できるビヤーキーは四体が限界。さっき百合ちゃんを乗せて一体向かわせちゃったから、今ここに呼べるのはこの三体だけなの」
結衣の言葉に、翼と天下崎が顔を見合わせる。
今ここにいるのは、翼、結衣、凪、天下崎の四人。移動手段であるビヤーキーが一体足りない。
誰か一人がこの屋上に取り残されるか、あるいは危険を承知で二人乗りをするしかない状況だった。
「……なら、僕が自力で飛びます」
沈黙を破ったのは、胸元で赤黒いペンダントを握りしめた凪だった。
「風の魔術を使えば、空中に『浮遊』して移動することができます。みんなの乗る化け物よりは少しスピードが遅れるかもしれませんが……必ず、後から追いつきますから」
凪の力強い提案に、翼と結衣が頷く。
だが、そのやり取りを無言で見つめていた天下崎は、ひどく居心地が悪そうに濡れた頭を掻き、そしてぽつりと重い口を開いた。
「……俺は今まで、お前らのことを、ただ偶然厄介事に巻き込まれただけの、甘ったれた素人だと思っていた」
突然の独白に、三人が驚いて天下崎を見上げる。
「俺は、俺だけが命を懸けて戦っている気になっていた。お前らを信用しきれず、どこかで下に見下していた。……だが、アイツが命を懸けて俺を生かした。お前らも、一歩も引かずにこんな死地までやって来た」
天下崎は深く、深く頭を下げ、冷たい雨に打たれながら絞り出すように言った。
「すまなかった。俺が間違っていた」
プライドも面子も全て捨て、天下崎は若者たちに向けて心から頭を下げる。
その泥臭くも誠実な光景に、翼は慌てて首を横に振った。
「天下崎さん、謝らないでください。まだ俺たちが出会ってから数日じゃないですか。お互いの素性も、抱えているものも、そんなに深く知っていたわけじゃないんだから」
翼は少し照れくさそうに笑い、天下崎に向かって真っ直ぐに続けた。
「でも……俺は、あのデパートの事故で全ての過去の記憶を失ってから、人との付き合い方が分からなくなって、ずっと孤独でした。頼れるのは百合だけだった」
それは、天海翼という青年の、偽りのない本音だった。
「だから……この二年間で初めて、こうして命を預け合える『仲間』みたいな……友人だと呼べる人たちに出会えたことが、本当に嬉しいです」
雨音だけが激しく響く屋上に、翼の真っ直ぐで少し気恥ずかしい言葉が落ちる。
その言葉に、結衣が呆れたような、でもどこか心の底から嬉しそうなため息をついた。
「……翼さんって、たまにそういう恥ずかしいことを堂々と言うわよね」
「えっ、そうかな? 本心なんだけどな」
「本当ですよ。聞いてるこっちが照れますから、やめてください」
凪が少しだけ毒気を抜かれたように敬語で苦笑交じりに同意し、三人の間にほんの少しだけ、張り詰めていた空気が緩んだ。
(仲間、か……)
その言葉を反芻した天下崎の口元にも、皮肉めいた、だがどこか完全に吹っ切れたような笑みが浮かんだ。
胸元で脈打つ青いペンダント。不浄の触手を呼び出すこの魔力が自分に扱えるのは、恐らく自身のルーツ――あの深海の夢で見せられた、異形の化け物たちとどこかで濃い『血』の繋がりがあるからなのだろう。
だが、そんな忌まわしい血脈がどうというのだ。
今、この瞬間を共に戦うと決めた『仲間』がいる。彼らのために、絵梨花の無念のために、この忌まわしい力を使ってやる。
「全員、準備は万端なようだな」
天下崎の覚悟の乗った言葉に、翼、結衣、凪の三人は力強く頷いた。
「儀式を止めましょう!」
翼の号令と共に、彼らは動き出した。
翼、結衣、そして巨体の天下崎が、それぞれ這いつくばって待機していた三体のビヤーキーの背へと跨がる。
凪は大きく深呼吸をし、胸の赤黒いペンダントを強く握りしめると、自らの足元に強力な上昇気流を発生させた。
風を纏った凪の身体が、ふわりと重力を失ったように雨の宙へと浮き上がる。
「……あぁ、行くぞッ!!」
天下崎の咆哮を合図に、三体のビヤーキーが鼓膜を劈く羽音を立てて屋上から一斉に飛び立った。
続いて凪も、風の魔術を推進力に変えて雨空へと舞い上がる。
目指すは、深口貿易の敷地の先。
すべてを飲み込むような漆黒の海と、異常なまでに濃密な霧が立ち込める『決戦の地』。
土砂降りの雨の中、四人の覚悟を乗せた影は、世界の終わりを食い止めるために、真の死地へと突入していった。
上空は、世界を終わらせんとするような荒れ狂う暴風雨。
眼下には、すべてを飲み込むような漆黒の海が底知れぬ口を開けている。
翼、結衣、天下崎の三人を乗せた三体のビヤーキーは、完全に水没した深口貿易の敷地を抜け、異常なまでに濃密な『霧』が立ち込める海上の空域へと突入した。
前を飛ぶ仲間の背中すら霞むほどの、乳白色の絶対的な視界不良。
顔を容赦なく打ちつける氷のような冷たい雨と、身体を吹き飛ばさんとする暴風を必死に堪えながら、翼はビヤーキーの背に這いつくばって目を凝らした。
「……前方に、いくつか影が見える!」
翼が風の音に負けじと喉を裂くように叫んだ、その視線の先。
分厚い霧の壁の向こう側を、自分たちと同じように異形の怪鳥ビヤーキーに跨り、猛スピードで飛んでいく複数の人影があった。
彼らが着ているのは、闇の中でも不気味に浮かび上がる『黄色いレインコート』。
「教団の生き残り……という事は、すぐ向こう側に敵がいるのか?」
天下崎がビヤーキーの背の突起を強く握りしめながら、鋭い声で呟く。
だが、彼らがその黄色い信徒たちの影に追いつこうとした、その直後だった。
――ヒユゴオオオオオオオオオオッ!!
暴風雨の音すらも切り裂いて、眼下の見えない暗い海面から、巨大な『銛』のようなものが、恐ろしい速度で一直線に射出されてきたのだ。
「なっ……!?」
それは寸分の狂いもなく、前方を飛んでいた黄色いレインコートの信者の一人が乗るビヤーキーの胴体を、下から深々と、そして無慈悲に串刺しにした。
「ギャアアアアアアアアアアアッ!!」
怪鳥の鼓膜を劈くような、断末魔の痛ましい悲鳴が響き渡る。
太い銛に腹部から背中までを完全に貫通され、致命傷を負ったビヤーキーはそのまま空中でバランスを崩した。乗っていた信者も為す術なく宙へ投げ出され、怪鳥もろとも、真っ逆さまに暗い霧の底――荒れ狂う海へと、水しぶきすら見えない絶望の彼方へと墜落していった。
「下だ! 海の中から、俺たちを狙ってきてるぞ!」
天下崎が怒声と共に警告を発する。
濃霧でこちらの視界は完全に奪われている。だが、暗い海の底から水面を見上げる『深きもの』たちからは、空を飛ぶ彼らの影がはっきりと見えているのだ。
見えない深淵からの狙撃という、死の恐怖が背筋を完全に凍りつかせる。それでも翼たちはビヤーキーの背に必死にしがみつき、ただひたすらに分厚い霧の壁を突き進んだ。
そして――視界を白く塗り潰していた濃霧の壁が、不意に、まるで嘘のようにパッと晴れ渡った。
「……なんだ、ここは?」
天下崎が、信じられないものを見るように呆然と呟く。
分厚い霧を抜けた先には、まるで『台風の目』のように、ぽっかりと円形に空いた異様な空間が広がっていた。
周囲は天を衝くほどの分厚い暗雲と暴風雨の壁にぐるりと囲まれているというのに、この空間の中だけは風がピタリと止み、不気味なほどの絶対的な静寂に包まれている。
そして、彼らの眼下に広がる漆黒の海。
本来なら嵐で荒れ狂っているはずのその海面は、まるでガラス板のように、波一つない不自然な凪を見せていた。
だが、真に彼らの目を釘付けにし、心臓を鷲掴みにしたのは、その海面に浮かび上がっていた圧倒的な『異常』だった。
海上の中心。
直径数十メートルにも及ぶ、巨大な『赤い魔法陣』が展開されていたのだ。
鮮血を思わせる禍々しい光で海面に直接描かれたその陣は、複雑な幾何学模様と、中心に向かって絡みつくような『巨大なタコ』を模した冒涜的な紋様で構成されている。まるで海そのものが一つの巨大な心臓になったかのように、ドクン、ドクンと脈打って毒々しい光を放っていた。
そして、その魔法陣の周囲。
波のない海面から、ぬらりとした暗緑色の鱗に覆われた頭と、巨大な魚のような濁った両目を覗かせている十数体の異形の化け物たち――『深きもの』が、魔法陣を取り囲むようにして、静かにこちらを見上げていた。
さらに、その魔法陣のど真ん中。
本来なら足場など一切ないはずの海面の上に、まるで薄氷の上にでも立っているかのように、靴を一切濡らすことなく平然と立ち尽くす、一人の男の姿があった。
「……深田、はじめッ!!」
翼がギリッと、歯が砕けるほどに奥歯を噛み鳴らす。
夢見ヶ原高校で生徒たちを狂わせ、黄花百合を攫い、この忌まわしい儀式を執り行っているすべての元凶。深田はじめは、片手にあの禍々しい革装丁の『本』を持ち、静かに空の翼たちを見上げていた。
「教団のビヤーキーはもう多くなさそうだ……どうする!? 奴らはもう、儀式の最終段階だぞ!」
天下崎が焦燥に駆られた声を上げる。翼は咄嗟に振り返り、自分たちが抜けてきた霧の壁の方角へと視線を巡らせた。
「……凪君が、まだ来ていない!」
風の魔術の『浮遊』で後から追いかけてきているはずの凪。だが、彼がこの台風の目に到着するのを待っている猶予は、どう見ても残されていなかった。
「……翼さん、焦らないで。あの子なら絶対に間に合うわ」
焦る翼の横で、結衣が黄色いペンダントを固く握りしめながら、ひどく冷静な、芯のある声で言い放った。
「それに、さっき屋上で『信じるしかない』って、かっこつけて言ったのはあんたよね?」
「……っ、そうですね」
結衣の鋭くも頼もしい言葉に、翼はハッと我に返り、短く息を吐いて己の頬を両手でバチンと強く叩いた。そうだ、今は目の前の敵に集中しなければならない。
上空で旋回する三体のビヤーキー。
その存在に、眼下の魔法陣の上に立つ深田はじめは当然気づいていた。
だが、彼は羽虫が迷い込んだ程度の冷ややかな一瞥を三人にくれただけで、一切の動揺を見せることなく、手に持った本を妖しく発光させた。
そして、静寂の空間に、深田の低く冒涜的な詠唱が響き渡り始めた。
『――ふんぐるい、むぐるうなふ、くとぅるう、るるいえ、うがふなぐる、ふたぐん』
人間の発声器官では到底発することのできないはずの、泥と粘液が絡まったようなおぞましい水音の響き。
その呪文が紡がれた瞬間、周囲の空間がビリビリと悲鳴を上げ、海面に浮かぶ赤い魔法陣が、ひときわ強烈な光を放って脈動を始めた。
それに呼応するように、海面から顔を出していた十数体の深きものたちが、一斉に天を仰いで悍ましい合唱に加わった。
「いあ! いあ!」
何千匹もの巨大なヒキガエルが同時に喉を鳴らしたような、水気を帯びた不気味な声のうねり。それが台風の目のような静寂の空間に反響し、上空にいる翼たちの三半規管を直接暴力的に揺さぶってくる。
そして、深田が掲げた『本』のページの中から、物理法則を完全に無視したおびただしい量の『血液』が、まるで滝のように溢れ出したのだ。
「あれは……学校の生徒たちから集めた、魔力……!」
翼が顔をしかめる。
どす黒い赤の奔流は、深田の足元から海面へととめどなく注ぎ込まれ、海に浮かぶタコ模様の巨大な赤い魔法陣へとドロドロと溶け込んでいく。
すると、赤く明滅していた魔法陣がその血を貪欲に啜るように吸収し、より深く、より禍々しい『紫色』の光へと変容し始めた。
海全体が低く唸るような地響きを立て、いよいよ海底に眠る『主』の目覚めが秒読み段階に入ったであろうことが、肌を刺すような絶望的なプレッシャーとして伝わってくる。
「……結衣さん、天下崎さん。作戦通り行こう!」
翼が鋭く叫んだ。儀式の完成をこれ以上待つわけにはいかない。
「ええッ!」
「おうッ」
翼と結衣は、それぞれ跨っているビヤーキーの手綱(に代わる首元の突起)を強く引き、魔法陣の中央に立つ深田の元へと一気に急降下を開始した。
だが、侵入者をみすみす見逃すほど、深きものたちも無能ではない。
紫に光る魔法陣を取り囲んでいた緑色の化け物たちが、ぬらりとした腕を振り上げ、空から迫る翼たちに向けて、血で作られたような巨大な『銛』を一斉に投擲してきたのだ。
ヒュンッ! ヒュゴオオオッ!
下から突き上げてくる、必殺の銛の雨。
だが、結衣の使役するビヤーキーは空中の姿勢を器用に捻り、バレルロールを打つようにして紙一重でその切先を回避していく。
「……ッ!」
その隙に翼はビヤーキーの背で身を乗り出し、自身の胸元で白く光るペンダントを強く握りしめた。
視界に映る十数体の深きものたち。その醜悪な姿を一つ残らず網膜に焼き付け、強い意志を魔力へと変換して一気に解き放つ。
すると、魔法陣を取り囲む深きものたちの周囲の空間が、唐突にぐにゃりと歪んだ。
カキンッ! という硬質な音と共に空中に現れたのは、無色透明の強固な立方体の結界。
それは翼の視界に映った『すべての深きものたち』を個別にすっぽりと閉じ込め、水面に浮かんだまま、彼らの悍ましい動きを完全に封じ込めたのだ。
銛を投げようと腕を振り上げた姿勢のまま、透明な箱の中でピタリと静止する異形の化け物たち。
その光景を魔法陣の中央で見下ろしていた深田はじめが、詠唱を止め、感心したように目を細めた。
「……なるほど。厄介な魔術を使うようになったね、確か……天海、翼だっけ?」
自らの手駒である深きものたちが、翼の『多重結界』によって次々と水上の透明な箱に閉じ込められていく光景を見下ろしながら、深田はじめは微かに口角を上げた。
だが、その顔に焦りの色は微塵もない。
深田が手に持った本をかざすと、そこから魔法陣へと注ぎ込まれていたおびただしい量の血液の一部が、空中で意思を持ったように蠢き、凝縮し始めた。
それは瞬く間に、深紅に濡れそぼつ鋭利な『血の槍』へと形を変え、ビヤーキーに乗って急降下してくる翼の眉間へと真っ直ぐに狙いを定めた。
「ッ……!」
翼は多重結界の維持に集中力を割いており、咄嗟の回避行動が取れない。深田の冷酷な瞳が細められ、血の槍が恐るべき速度で射出されようとした――。
まさに、その瞬間だった。
――ズドオオオオオオンッ!!
背後の分厚い霧の壁を、凄まじい風圧が強引に抉り開けた。
赤黒いペンダントを強く握りしめ、自身の足元に発生させた上昇気流に乗って、九条凪が台風の目の中へと飛び込んできたのだ。
凪は瞬時に戦況を把握すると、空中で体勢を捻り、十数メートル先の海上に立つ深田へ向けて、殺意を込めた右腕を突き出した。
「深田ァアアッ!!」
深田への明確な殺意が、凪の口から放たれる。
凪の獣のような咆哮と共に、竜巻のような強烈な『暴風』が一直線に深田を襲う。
それは人間の身体など容易く空高く巻き上げ、木っ端微塵に引き裂くほどの圧倒的な破壊力を秘めた魔術の一撃だった。
だが。
深田はじめは、迫り来る致死の暴風を前にしても、顔色一つ変えずにただ薄く笑っていた。
――バキィィィインッ!!
「……なっ!?」
凪が驚愕に目を見開く。
深田の身体を吹き飛ばすはずだった暴風は、彼に届く数メートル手前の空中で、まるで『見えない分厚い壁』に激突したかのように、無残に弾け散ってしまったのだ。
虚空に青白い波紋が走り、海面上の紫に光る魔法陣をすっぽりと覆い隠す、巨大な半球状の『結界』がその輪郭を現した。
「残念だったね」
風の余波すらかからず、髪の毛一本揺らしていない深田が、結界の内側から哀れむような声で宣告する。
「この魔法陣の周囲には、儀式を邪魔されないよう、強固な防壁を張っている。……わかると思うが、選ばれし『我々』以外、何人たりともこの聖域に立ち入ることはできない」
それは、ただの物理的な壁ではない。人間という種そのものを拒絶する、絶対的な理の壁。
「これは昨日のとは訳が違う。念の為、時間稼ぎは幾つか用意していたんだが、必要もなかったかな?」
深田が血の槍を再び構え直し、無情な死の宣告を下した。結界の外でビヤーキーに乗る翼たちには、あの凶悪な魔術を防ぎ切り、内側の深田に攻撃を届かせる手段が完全に絶たれてしまった。
翼たちを拒絶する、絶対的な理の結界。
その内側で、深田はじめが空中の凪へ向けて『血の槍』を放とうともう一度腕を振りかぶった、まさにその瞬間だった。
「――どけェッ!!」
上空から、鼓膜を震わせる野太い咆哮が響いた。
翼たちがハッとして見上げると、結界の真上を旋回していたビヤーキーの背から、巨漢の男が一切の躊躇なく、海上の魔法陣へ向けて真っ逆さまに飛び降りてきたのだ。
彼の下には、凪の暴風すら木っ端微塵に弾き返したあの強固な結界が張られている。このまま落下すれば、激突して全身の骨が砕け散ってしまう。
だが。
天下崎の巨体が結界の表面に触れた瞬間――激突音は、鳴らなかった。
ドプンッ、と。
まるで水面を潜り抜けるかのように、半球状の結界に青白い波紋が広がり、天下崎の身体をいとも容易く『内側』へと通過させたのだ。
「……なっ!?」
今日初めて、深田はじめの顔から余裕の笑みが完全に剥がれ落ち、驚愕に目が見開かれた。
海に選ばれし者、すなわち『深きもの』の血を引く者しか通さないはずの結界。それを、ただの人間であるはずの男が易々とすり抜けてきたというあり得ない現実に、深田の思考が一瞬完全に停止した。
その致命的な隙を、天下崎が逃すはずがなかった。
「オラァアアアッ!!」
結界を通過し、紫に光る魔法陣の上へ着地した勢いそのままに、天下崎の丸太のような右腕が唸りを上げる。
体重のすべてを乗せた渾身の右ストレートが、深田の顔面にクリーンヒットした。
「ガハッ……!?」
鈍い骨の砕ける音と共に、深田の身体が紙屑のように宙を舞い、魔法陣の端まで無様に吹き飛ばされて海面を転がった。
同時に、深田の手から離れた禍々しい『本』が宙を舞う。天下崎は素早く手を伸ばし、儀式の要であるその魔道書を見事に空中で奪い取った。
本を奪い取った天下崎は、口の端についた血を手の甲で乱暴に拭いながら、倒れ伏す深田を見下ろしてニヤリと凶悪に笑った。
「……俺なら、入れると思ったよ」
自身の内に流れる忌まわしい『血』。
かつては目を背け、狂気に呑まれると恐れていたそのルーツを逆手に取り、天下崎は仲間を救うために見事、敵の絶対防壁を破ってみせたのだった。
「これで終わりだ、狂人」
天下崎は奪い取った忌まわしい人皮の本を片手に、足元に倒れ伏す深田を見下ろして吐き捨てた。儀式の起点である魔道書を奪った以上、この冒涜的な魔法陣の力も霧散するはずだ――誰もがそう信じた。
だが。
顔面を殴り飛ばされ、紫に光る魔法陣の上に倒れていた深田はじめは、苦痛に顔を歪めるどころか、折れた鼻から血を流しながら、ヒヒッ……と喉の奥で気味の悪い笑い声を漏らしたのだ。
「……終わりなのは……お前たちだ」
「あ?」
深田はゆっくりと上体を起こし、血に濡れた口元を醜く歪めて、狂信的な歓喜に満ちた両目を天下崎へと向けた。
「……一歩、遅かったんだよ」
深田のその言葉が落ちた瞬間だった。
――ゴゴゴゴゴゴゴオオオオオオッ!!
世界そのものが悲鳴を上げたかのような、次元の違う轟音。
いや、それは大地が揺れているのではない。彼らの足元にある『海』そのものが、けたたましい咆哮を上げていたのだ。
「な、なんだ!?」
上空でビヤーキーに乗る翼が、血の気を引かせて叫ぶ。
天下崎の足元――波一つなかった台風の目の海面が、突如として不自然に、まるで規格外の巨大な生き物が海中から浮上してくるかのように、ドーム状に『異常な隆起』を始めたのだ。
ドクン、ドクンと紫の魔法陣が限界を超えて明滅し、脈打つ海面が臨界点に達した、次の瞬間。
ズザアアアアアアアアッ!!
何百万トンもの海水が左右に割れる、鼓膜を完全に破るような圧倒的な轟音が響き渡った。
モーセの奇跡などという神聖なものではない。それは、海という自然の理が強引に引き裂かれる、冒涜的で悍ましい光景だった。
「クソッ!!」
本能的な、否、魂からの死の危険を察知した天下崎は、即座に奪った本を小脇に抱え、裂けゆく魔法陣の上から背後の宙へと大きく跳躍した。
人間を拒絶する結界を再び『内から外へ』とすり抜け、空中に投げ出された天下崎の巨体を、上空で旋回待機していた結衣のビヤーキーが見事に滑空して背中で受け止める。
「天下崎さん! 無事ですか!?」
翼が叫ぶ。
「ああ! だが……」
間一髪で翼や結衣、凪たちと合流を果たした天下崎が、割れた海の底を指差す。
左右に分かたれた漆黒の海壁。その遥か深淵、宙に浮く形となった深田はじめと魔法陣の真下にぽっかりと開いた奈落の底から――。
途方もない質量と威圧感を放つ『巨大な赤い扉』が、海底の泥を巻き上げながら、ゆっくりとせり上がってきたのだ。
その圧倒的な威容を前に、翼の『多重結界』に閉じ込められていた深きものたちが、一斉に透明な壁にへばりつき、狂喜乱舞して叫び始めた。
「いあ! いあ! くとぅるー!」
人間には発音不可能な、粘り気のある水音の絶叫。
それが十数体どころか、割れた海の底に蠢く無数の影からも沸き起こり、天地を揺るがす悍ましい大合唱となって台風の目の空間に反響する。
「ああ……おおおおッ! 主よ、我らが偉大なる主よオオオッ!!」
宙に浮く魔法陣の上に立つ深田はじめが、血まみれの顔で両腕を天高く掲げ、恍惚の涙を流して叫び声を上げた。
ズズズズズズズズッ!!
深きものたちの狂乱の祈りと、魔法陣に注がれた膨大な魔力に応えるように。
海底に鎮座する巨大な赤い扉が、この世の物とは思えない凄まじい重低音を軋ませながら、内側からゆっくりと開き始めたのだ。
扉の奥から溢れ出したのは、底知れぬ深緑色の瘴気。
空でビヤーキーに跨る翼たちの全身の産毛が総毛立ち、魂そのものが本能的な恐怖で完全に凍りつくような『絶対的な絶望』の気配だった。
「な、なんだよ、あれ……」
空中に浮遊する凪が、赤いペンダントを握る手をガタガタと震わせながら呻く。結衣は恐怖に顔を歪めて息を呑み、翼と天下崎も絶句して眼下を見下ろした。
開け放たれた門の奥から、山のように巨大な『それ』が、ゆっくりと姿を現したのだ。
ぬらぬらと光る、腐った海藻のような深緑色の皮膚。
膨れ上がった頭部の顎から無数に垂れ下がり、意思を持つように蠢く悍ましい触手の群れ。
そして背中には、天を覆い尽くすほど巨大な、ぬかるんだ蝙蝠のような両翼。
それは、人間の矮小な想像力など容易く超越した、宇宙的恐怖の具現化。
太古の地球を支配し、深い海の底で永き眠りについていた大邪神――『海底邪神』が、ついにこの世界へと顕現を果たした、最悪の瞬間だった。




