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箱庭の百合  作者: Kibana
黄昏時に夢をみる
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第三十三話 炎

 翼たちが深口貿易の施設内へ潜入し、狂気の真実へと足を踏み入れていた頃。

 分厚い雨雲から絶え間なく冷たい雨が降り注ぐ外の『コンテナエリア』では、天下崎星也と白石柊生が、無言のまま闇に紛れる影のように立ち回っていた。

 ――ドスッ。


「ぐえっ……」


 巨大なコンテナの陰で雨宿りをしながらサボっていた警備員の鳩尾に、天下崎の容赦のない重い拳が深々とめり込んだ。

 肺から空気を搾り出され、声も上げられずに崩れ落ちた男の首根っこを掴み、コンテナの奥の暗がりへと素早く引きずり込む。天下崎は、羽織っている黒いレインコートに降りかかった雨のしずくを払いながら、短く、ひどく冷たい息を吐き出した。


「これで六人目だ。……拍子抜けだな」


「ええ。深きものどもの姿は一切見えません。やはり奴らの主戦力は、儀式を行う海沿いか、あるいは施設内部に集中しているのでしょう。……そもそも、深田の従えている手駒の数自体が、そこまで多くないのかもしれませんね」


 同じく黒いレインコートに身を包んだ柊生が、背中を預け合うようにして周囲を警戒しながら、静かな敬語で同意する。

 人間の警備員が数名配置されているだけで、あのぬめりを帯びたおぞましい異形の化け物たちの気配は、この広大なコンテナエリアには微塵も感じられなかった。

 二人がコンテナ群の入り組んだ迷路の奥へと進んでいくと、上空の分厚い雨雲の下を、いくつもの巨大な『黒い被膜の影』が、猛スピードで海沿いの方角へと飛んでいくのが見えた。


「……ビヤーキー部隊の陽動が始まったようですね」


 柊生が、雨粒の落ちてくる上空を見上げてポツリと呟く。

 天下崎はそれを横目で見ながら、手に持った黒光りするリボルバーの安全装置を、カチリと音を立てて弄った。


(にしてもあまりに簡単すぎる。そもそも俺たちを海沿いに向かわせない事自体が目的だったか。どちらにしろ、黄花百合が施設にいるか、生存してるかで状況は変わるが…)


「このエリアはもう大体調べたが、特に異常はなさそうだ。……施設の中にいる連中と合流するか、それとも一足先に俺たちだけで海沿いへ向かうか?」


 天下崎が次の行動を促しながら、コンテナエリアの最奥に位置する巨大な倉庫の、ひどく錆びついたシャッターを腕力で強引にこじ開けた。

 中は薄暗く、空の木箱がいくつか乱雑に積まれているだけで、敵の姿も怪しい儀式の設備も何一つない。ただ雨音がトタン屋根を叩く音だけが空虚に響く、ガランとした空間だった。


「……ここが最後ですね」


 何もない倉庫の中央まで歩みを進めたところで、柊生がふと足を止めた。

 そして、背を向けたまま、雨音に紛れさせるようなひどく静かな声で口を開いた。


「天下崎さん。魔術を行使するための『道具』には、適性があるという話を今朝しましたね」


「? ああ、聞いたぜ。それがどうした」


「適性を決めるのは、その人間のルーツや、精神の本質に近しいものです」


 柊生はゆっくりと振り向き、一切の感情を排したような冷徹な視線を、天下崎の胸元へと向けた。


「そのペンダントも、誰かが与えた魔術の道具なのだとすれば……当然、その魔術の性質とあなたたち自身には、何かしらの『強烈な共通点』があるということになります」


「……」


 天下崎は眉をひそめ、胡散臭そうに柊生を睨み返した。


「例えば、深田はじめ。奴はあの本を使って、生徒たちを洗脳したり、血を操る魔術を行使していました。あれは、奴が深きものの中で一番血が濃い者……もしくは、深きものの中で一番信奉する怪物に魅入られている、あるいは深く結びついているからだと俺は考えています」


 そこまで言うと、柊生はさらに一歩、天下崎へ近づいた。


「俺の場合は、別に血縁などはありませんが……恐らく人間としての本質の部分と、この石に宿った力が近しかったのでしょう」


 柊生は自身の黒いレインコートの袖をわずかにまくり、右腕に嵌められた腕時計の朱色の石を見つめる。


「そして……天下崎さん。あなたが使っているその青いペンダントの魔術は『触手』でしたよね。昨日、深田はじめが出した触手と、ひどく酷似していたと思いませんか?」


「……何が言いてぇ」


 天下崎の声が、地を這うように一段と低くなる。


「あなたが偶然そのペンダントを使えたとは思っていません。あなた自身の奥底に、海還りの連中と何らかの『繋がり』があるんじゃないかと疑っているんです」


「ふざけるな」


 天下崎は短く、忌々しげに吐き捨てた。


「俺はあんな得体の知れない化け物どもとは何の関係もねぇ。あの青い石は、たまたま路地裏で胡散臭い占い師から押し付けられただけだ。俺が海還りの仲間だとでも言いてぇのか?」


「仲間ではないかもしれません。ですが、無意識のうちに精神の奥底を侵食され、影響を受けている可能性はあります」


 柊生の目は、どこまでも冷たく、天下崎の核心を容赦なく抉り出そうとしていた。


「……天下崎さん。最近、何か奇妙な『夢』を見ませんでしたか?」


「……ッ」


 その言葉に、天下崎の心臓が、まるで冷たい氷の塊を飲み込んだように嫌な音を立てて跳ねた。


「海還りの連中が復活を目論む海底邪神は、強大な力で人の精神に直接干渉し、時に『夢』を通して人々を魅入ると言われています。……心当たりがあるんじゃないですか?」


「…………」


 天下崎は、咄嗟に否定の言葉を口にすることができなかった。

 昨日の夜、熱い湯船の中で溺れかけた時に見たばかりの夢。


 そこは、光の一切届かない、深く、ひどく冷たい海の底だった。しかし不思議なことに、息苦しさや水圧の苦しみはない。天下崎の目の前には、人間の文明とは明らかに異なる、不気味なほど整然とした『幾何学模様の石造りの建物群』が、絶対的な静寂の中でどこまでも連なるように沈んでいたのだ。

 圧倒的なスケールで広がる海底の未知の都市に一人佇んでいると、不意に、どこからともなく頭の芯を直接揺らすような巨大な声が響いてきた。


『――我が血を濃く引いた者よ』


 それは、人間の発声器官から紡がれたものではない、冒涜的で、粘り気のある水音のような響きだった。


『この夢に似た限られた世界でしか、我が言の葉は貴様に届かぬ』


 本来であれば、人間の脆弱な脳が理解を激しく拒み、発狂するほどの宇宙的な恐怖を伴うはずの声。


『探すのだ、箱庭の主を。狂気に染まる覚悟を持つのだ――』


 しかし、異様なことに。天下崎の意識の中で、その声は『ひどく甘美で、心地よく』感じられていたのだ。

 それが絶対的な存在に対する本能的な畏怖なのか、あるいは抗いがたい畏敬の念による服従なのか、天下崎自身にも全く分からない。

 ただ、声の主の強大な意志だけが、冷たい海を漂う魂の奥底に深く、深く浸透し、自分という存在が少しずつ別の何かへと塗り替えられていくような、恐ろしい感覚だけが残っていた。


 天下崎の脳内に、この異常な夢が鮮明に浮かび上がる。

 図星を突かれて押し黙ってしまった天下崎を見て、柊生は鋭く目を細めた。


「深田は、学校の生徒たちを気づかないうちに洗脳し、意のままに操って破裂させたそうですね……あなたが今、本当に俺たちの『仲間』としてこの場に立っているという確証は、どこにもありません」


「……冗談なら、それくらいにした方がいいぜ」


 天下崎はギリッと奥歯を鳴らし、握りしめたリボルバーのグリップに、わずかに力を込める。

 一触即発の空気が極限まで張り詰め、倉庫の中に冷たい雨音だけが異様に大きく響いた、その瞬間だった。


 ――ズゴゴゴゴゴオオオオッ!!


 突如として、巨大な地響きが足元のコンクリートを激しく揺さぶった。

 海沿いの方向から伝わってくる尋常ではない振動に、二人は咄嗟に体勢を低くし、ピンと張り詰めていた緊張の糸がふつりと切れる。

 しかし、激しい揺れの影響で体勢を崩し、二人の間にはわずかに致命的な間合いが生まれてしまっていた。


「……こんな時に、仲間割れをしてる場合か!」


 天下崎が苛立たしげに吐き捨てる。


「外では得体の知れねぇ儀式が始まろうとしてるんだぞ。てめぇのくだらねぇ妄想に付き合ってる暇はねぇ!」


 しかし、揺れが収まってもなお、柊生の瞳から敵意が消えることはなかった。

 結衣を守らなければならないという強い責任感が、彼の理性を限界まで研ぎ澄ませ、同時に感情のストッパーを完全に外させた。


「くだらない妄想だと? ……背中を預けた人間に裏切られれば、俺だけでなく、結衣や翼さんたちの命まで危険に晒すことになる! それだけは絶対に避けなきゃならない!」


 柊生はそう叫ぶと、右腕の腕時計の文字盤に左手を添え、低く、しかし確かな殺意を込めて強大な魔力を練り上げた。


 ボウッ!!


 柊生の足元から、爆発的な百熱の炎が噴き上がり、瞬く間に二人の周囲をぐるりと囲い込んだ。

 退路を断つような円状の『炎の壁』が、薄暗い倉庫の中を赤々と、そして暴力的に照らし出す。

 同時に、柊生は自らが着ていた邪魔な黒いレインコートを、魔力の熱で一瞬にして灰へと変える。


「チッ……!」


 天下崎が顔をしかめ、拳銃を構え直して引き金に指をかけた。

 だが、その銃口が火を噴くよりも早く、柊生の身体が炎の中から弾丸のように飛び出してきた。


「がッ!?」


 一切の容赦のない、柊生の鋭い飛び蹴りが、天下崎の鳩尾に深く突き刺さる。

 鈍い衝撃音と共に天下崎の巨体が宙に浮き、背後の炎の壁スレスレまで勢いよく吹き飛ばされた。


「……ぐ、ううッ!」


 天下崎は空中で強引に身体を捻り、背中から炎に突っ込む寸前でギリギリ受け身を取って、コンクリートの床を滑った。

 激しく咳き込みながら顔を上げると、炎を背負った柊生が、感情の読めない冷たい瞳で見下ろしているのが見えた。

 床を滑り、体勢を立て直そうとした天下崎の動きには、彼自身でもはっきりと自覚できるほどの、致命的な『迷い』が生じていた。


(……クソッ、俺はどうしちまったんだ)


 かつての勘と反射神経が、ひどく鈍っている。

 原因は分かっていた。

 彼にはまだ、完全にこの狂気と戦い、抗い切るだけの『心構え』ができていなかった。己の精神が深きものの領域へと侵食されていくことへの本能的な恐怖が、彼の肉体に無意識のブレーキをかけている。

 天下崎の僅かな動揺を見逃さず、柊生が容赦なく右手を突き出す。

 放たれた灼熱の『炎の弾』が、空気を焼き焦がしながら真っ直ぐに天下崎へと襲いかかった。


「……ッ!」


 天下崎は反射的に横へ跳んで直撃を避けたが、着ていた黒いレインコートの裾に炎が燃え移ってしまった。

 一瞬で燃え広がる炎から逃げるように、天下崎は素早くレインコートを脱ぎ捨てると、それを真正面の柊生に向けて勢いよく投げつけた。

 炎の壁に囲まれた逃げ場のない空間で、天下崎は丸腰のスーツ姿となり、自身の内側で渦巻く泥のような感情に苛まれていた。

 今まで、彼は翼や結衣、凪たちのことを、どこかで「ただ偶然巻き込まれただけの素人の若者」だと下に見ていた。

 自分は違う。最愛の妻を奪ったデパート跡地の事故の真相を暴くため、警察の面子も立場すらも捨てて、泥水を啜りながら執念深く追い続けてきた。何度も挫折し、一度は諦めかけた。ようやく、希望の一片が見えてきた。この命をかける覚悟なら、とっくの昔にできているつもりだった。

 だが、違ったのだ。

 凪、結衣、そして翼。彼らの強烈で、純粋で、眩しいほどの覚悟に触れた今、天下崎は痛感していた。

 本当に『今を戦う覚悟』を持っていなかったのは、他の誰でもない、自分自身だったのではないかと。


「なぜ鉛玉に頼る」


 投げつけられた燃えるコートを、柊生が自身の炎で容易く灰に変えながら冷酷に言い放つ。


「本当に戦う意志を持っているのなら……俺を殺してでも生き残る理由が、守るべき何かがあるのなら……その胸のペンダントの『魔術』を使ってみせろ!」


「うるせぇッ!!」


 パーンッ!!

 天下崎の怒号と共に、拳銃の乾いた発砲音が倉庫内に激しく響き渡った。

 だが、至近距離から放たれたはずのその弾丸は、柊生の顔の横を虚しく通り過ぎ、背後の壁に火花を散らして弾かれた。

 あの青いペンダントで『不浄の触手』を呼び出すたびに、天下崎は自身の精神が泥沼のような狂気に引きずり込まれそうになる強烈な悪寒を感じていた。

 ただでさえ昨夜から今朝にかけての侵食の夢があったのだ。今ここで自ら進んであの忌まわしい力を使えば、今度こそ己の自我が完全に崩壊し、深きものの狂気へと堕ちてしまうのではないかという、本能的な恐怖があった。


「俺は……ッ!」


 天下崎は空になった拳銃を床に叩きつけ、血走った目で柊生を睨みつけた。

 脳裏にフラッシュバックするのは、二年前のデパート跡地。

 瓦礫の山と化し、一切の希望が失われたあの絶望の空間で、最愛の妻・絵梨花は冷たい骸となって発見された。


「俺は、死んだあいつの無念を晴らすために……あの事故の謎を解決するために、警察の面子も立場も捨てて命を懸けてきたんだ!!」


 妻の死という、過去の呪縛。それだけが、今の天下崎が生きるための唯一のよすがだった。

 このまま、目の前の若造に負けて終わるわけにはいかない。


「こんなところで、終われるかアアッ!!」


 天下崎は獣のような咆哮を上げ、丸腰のまま炎の壁を蹴り上げて突進した。

 柊生が燃え盛るレインコートの灰を炎の魔術で完全に消し去り、視界が開けたその一瞬の隙を突き、天下崎の巨体が猛烈なタックルとなって柊生に襲いかかる。


「……ッ!」


 死に物狂いの突進。さすがの柊生も僅かに体勢を崩し、二人はもつれ合うようにして硬い床を転がった。

 だが、天下崎が馬乗りになって拳を振り上げようとした瞬間、柊生の瞳に冷酷な光が走る。


「……」


 ドゴオッ!

 柊生は下敷きになった状態から、コンパクトで的確な膝蹴りを、天下崎の腹部へ深く叩き込んだ。


「ガハッ……!?」


 呼吸を完全に封じられ、天下崎の巨体が痙攣したように硬直する。柊生はその隙を逃さず、流れるような動作で天下崎を蹴り飛ばし、瞬時に体勢を立て直して立ち上がった。

 床に這いつくばり、苦痛に顔を歪める天下崎を見下ろしながら、柊生は氷のように冷たく、そして厳しい声で言い放った。


「……あなたは命を懸けるという言葉を、随分と都合よく履き違えている」


「なんだと……?」


「何があったのかは知らない。それに同情する気もない。だがあなたは死人の思いを勝手に決めつけ、自分自身に都合の良い『呪い』をかけているだけだ。……あなたはただ、過去を言い訳にして『今』を見ようとしていないだけの、臆病者に過ぎない」


「てめぇ……ッ!!」


 天下崎の目が血走り、全身の筋肉が怒りでわななく。


「……知った風な口を、叩くんじゃねぇぞッ!!」


 天下崎は腹部の激痛を強靭な意志でねじ伏せ、血を吐くような咆哮と共に立ち上がった。


「過去にしか生きられない人間だっているんだ! 未来に向きたくても……どうしても向けない人間だっているんだッ!」


 天下崎の無骨な手が、胸元の『青いペンダント』を力強く握りしめる。


「生きる意味が、『今』だけにあると思うなよォッ!!」


 狂気に呑まれる恐怖。化け物と同じ力を使うことへの生理的な嫌悪感。

 それらすべてを、己の怒りと絵梨花への執念で強引にねじ伏せた瞬間――天下崎の握りしめた青いペンダントが、かつてないほど禍々しく、そして強烈な『深い海の底の光』を放ち始めた。

 己の魂を削り取るような魔力の奔流。

 天下崎の背後の空間が陽炎のように歪み、あの『不浄の触手』が、周囲を囲む炎の結界すらも侵食する勢いで実体化しようとした、まさにその時だった。


 ――ズゴゴゴゴゴゴオオオオオッ!!


 先ほどとは比べ物にならない、大地そのものを叩き割るような二度目の地響き。

 直後、倉庫の開け放たれたシャッターの外――海沿いの方角から、天を衝くほどの巨大な『黒い大津波』が、全てを飲み込む轟音と共に押し寄せてくるのが見えた。


「……!?」


 天下崎が驚愕に目を見開く。避ける場所などどこにもない、圧倒的な質量の死の壁。


「………どうやらここまでのようですね」


 柊生はいつに間にか、先程まで纏わせていた殺気を何処かへ払った、まるで別人になったかのような顔つきになっていた。


「……ああ、どうやら続きは地獄になりそうだ」


 天下崎は、ため息を吐くと少しずつ冷静さを取り戻していく。


「その必要はありませんよ。あなたの覚悟は伝わりました。……根負けというやつですかね」


「勝ち負けじゃねえだろ。お前からしたら、何も解決していないはずだ」


 天下崎は迫る津波を前に、自らの本心を吐露する。


「……お前の言う通りだよ。俺は生き残るべきじゃない、生きる覚悟もできていない半端者だ。俺が生きてりゃ、もしかしたら裏切るかもしれないんだろ? 後ろから刺される前に、さっさとその炎でここから離れろ。まだ間に合うならな」


 その言葉を聞くと、柊生はフッと笑みを浮かべる。安心した、と言いたげな表情で天下崎の方を向く。


「天下崎さん。俺は別にあなたを否定したかった訳じゃない。ただ、あなたには、見ようとしないだけで多くの『今』がある事を、感じて欲しかった。……それに、今のあなたなら狂気に魅入られるような事はありませんよ」


「……なぜ言い切れる?」


「……勘ですよ」


 柊生はそう言うと、迫り来る大津波を背にして真っ直ぐに天下崎を見据えた。

 そして、自身の右腕の腕時計――そこに込められていた莫大な炎の魔力を、攻撃としてではなく、躊躇うことなく天下崎の巨体へと放った。


「なにを……!?」


 紅蓮の炎が、天下崎の視界を真っ白に包み込む。

 だが、それは一切の熱を持たず、ただ優しく彼を光の中へ閉じ込めた。

 強烈な浮遊感が天下崎の身体を襲う。

 直後、海水とコンクリートが激突する凄まじい破壊音が耳を劈き――天下崎が次に目を開けた時、彼は土砂降りの雨が打ちつける、深口貿易施設の『屋上』に一人で立っていた。


「……は?」


 天下崎は呆然と周囲を見回し、そして弾かれたように屋上のフェンスへ駆け寄った。

 眼下には、絶望的な光景が広がっていた。

 彼らがつい数秒前までいたコンテナエリアは、完全に狂い狂った海水の濁流に飲み込まれ、巨大な倉庫もろとも無惨にひしゃげて、深い水底へと沈んでいくところだった。

 自分をここまで転移させた、あの青年の姿は、渦巻く波のどこにも見当たらない。


「……ふざけんな。ふざけんなよッ!!」


 天下崎はフェンスが歪むほど強く握り締め、白く濁って渦巻く海面に向かって、血を吐くような声で絶叫した。


「なんで……なんで……俺なんかを助けやがったァァアッ!!」


 分厚い雨雲から降り注ぐ冷たい雨が、己の過去に固執し続けた男の悲痛な叫びを、無情に掻き消していった。

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