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箱庭の百合  作者: Kibana
黄昏時に夢をみる
35/42

第三十二話 潜入、救出

 横殴りの冷たい雨が、容赦なくアスファルトを打ち据えていた。

 昨夜の異常気象の予報通り、厚い灰色の雨雲に覆われた空からはバケツをひっくり返したような豪雨が降り注ぎ、周囲には視界を数メートル先まで白く濁らせるほどの濃霧が立ち込めている。

 ここは湾岸エリアの外れに位置する、広大な敷地を持つ『深口貿易』の正面入り口。

 重厚な鉄格子の門の前では、雨合羽を着た二人の警備員が、うんざりした顔で立ち尽くしていた。


「あーあ、最悪だ。こんな土砂降りの中、外で立ちんぼさせられるなんてキツすぎるだろ」


「全くっす。……それにしても、あっちの海沿いの異常な霧、なんだですかあれ? 気味が悪いったらない」


「気にするな。上司に聞いたんだが、この会社はやけに羽振りがいいらしくてな。立ってるだけで大儲けできる破格のボーナスが出るらしい。金のためだ、少しの我慢だろ」


 そんな世間話で寒さと退屈を紛らわせている警備員たちの前へ、深くフードを被った『黒いレインコート姿』の二つの人影が、雨のカーテンを抜けて音もなく近づいてきた。


「おい、こんな日に誰だ?」


 警備員の一人が訝しげに声をかけ、道を塞ぐように前に出る。


「……急用で、忘れ物を取りに来たんだ」


 黒いレインコートの男は、フードの奥で表情を隠し、努めて低く、冷静な声で答えた。


「社員ですか? なら、社員証を見せてもらえますか」


「急ぎだったから社員証は持ってきていない。社長から直々に言われて、荷物を取りに来ただけだ。通してくれ」


「……そう言われても。マニュアルがあるんですよ。念のため、中の他の社員に確認の連絡を入れさせてもらいますよ」


 警備員が腰の無線機に手を伸ばそうとした瞬間、隣にいたもう一人の黒いレインコートの人物が一歩前に出て、強気に言い放った。


「その必要はない。社長と私たちだけが知る極秘情報なの。他の社員が知るはずないでしょ? そんなに不安なら、裏口の警備も連れてくればいい」


 その言葉を聞いた瞬間、二人の警備員はピタリと動きを止め、スッと冷たい目つきに変わった。


「……そうですか」


 チャキ、と。

 警備員たちが腰から硬質な警棒を引き抜く音が、雨音に混じって響いた。


「これもマニュアルなんだが、ここの会社の社員に、女性はいない。……こんな会社になんの用があるか知らんが、手荒な真似をされたく無かったらご同行願おうか」


 警備員たちが、警棒を二人のレインコートの男女に向けられる。


(やはりそう上手くは行かないか……)


 黒いレインコートの男の脳裏に、今朝の白石家のリビングで行われた、静かで、しかし強固な決意に満ちた『作戦会議』の記憶が蘇っていた。


 ――数時間前。白石家リビング。

 階段を軋ませる足音が聞こえ、二階から白石柊生がゆっくりと降りてきた。


「……おはようございます。どうやら、少しは休めたようですね」


 柊生はそう言って四人を見渡した。彼の身には、昨日までの黄色いレインコートではなく、闇に溶け込むような『黒いレインコート』が纏われている。

 そして彼の手には、同じように真っ黒なレインコートが四着抱えられていた。


「これを着てください。今日の作戦で使います」


 柊生がソファのテーブルに黒いレインコートを置くと、翼が一歩前へ歩み出た。

 昨夜、百合の縛られた姿を見せつけられ、怒りと焦燥に駆られて柊生に掴みかからんばかりに激昂した温厚な翼は。一晩の休息と奇妙な夢を経て、今は憑き物が落ちたように静かな瞳をしていた。


「柊生さん。……昨日は、どうかしてました。冷静な判断ができていなかった俺を止めてくれて、ありがとうございます」


 翼が深く頭を下げる。柊生は小さく首を横に振った。


「謝る必要はないですよ。百合ちゃんは、必ず助け出しましょう」


 柊生の誠実な言葉に、翼が顔を上げる。

 すると、部屋の隅に立っていた九条凪が、真新しい包帯の巻かれた右肩を庇いながら、ぽつりと口を開いた。


「僕も……一晩寝て、頭が冷えました」


 凪の言葉は、以前の刺々しい拒絶の響きを持たない、大人たちに対する真っ直ぐな言葉だった。


「深田を殺す。その目的は絶対に変わりません。……でも、それより先に、まずは百合ちゃんを助けましょう」


 凪は翼の方を真っ直ぐに見つめて言った。


「僕みたいに……大切な人を理不尽に奪われる絶望は、もう誰にも味わってほしくない。絶対に取り戻しましょう」


「……凪くん」


 翼は込み上げてくるものを噛み締めるように、強く、強く頷いた。


「一応、今日の作戦への参加は強制じゃない。今からでも遠くの国に逃げたり、安全な場所に避難するのは遅くない。それでも、命懸けの作戦に参加するかい?」


柊生は、四人の、特に結衣の目を見て話す。


「今更だろ? ここで逃げたら、何の為にここまで戦ったのか分からなくなっちまう。それに、俺にはあの事故の謎を解明する使命がある。全部終わったら、あんたにもしっかり協力してもらうぜ」


 天下崎がそう言うと、翼と凪も、強い眼差して柊生を見つめ返す。


「お兄ちゃん、私も戦うわ。百合ちゃんを助けたい……それに、この作戦が成功しないと、お兄ちゃんから根掘り葉掘り聞く事ができないものね」


「結衣……四人とも、覚悟は決まっているようだね」


 柊生は静かに頷くと、リビングのテーブルに一枚の地図を広げた。

 そこには、港周辺の地図の一部――『深口貿易』と記された広大な区画が詳細に描かれていた。


「教団の部隊は現在四十三名。その内、十名が深口貿易の施設付近のビルに潜伏し、監視と偵察を続けている」


「奴らの動きに変化はあったのか?」


 天下崎が腕を組んで尋ねる。


「昨夜の時点では、あの深田という男が貿易会社に帰還したという目撃情報はありませんでした。ですが、今朝になって、深田らしき人物と複数の男たちが、施設から出てきて『海沿い』へと向かう姿が確認されたんです」


「施設から出てきた……? 正面の入り口からの出入りがなかったってことは、中に何らかの秘密通路や地下施設があるってことか」


「恐らくは。そして現在、奴らが向かった海沿いの一帯は、異常に広範囲で濃密な霧に覆われています。そのせいで、儀式の詳細や深きものを視認することはできていない状況です」


 柊生の説明を聞いた天下崎は、自身のスマートフォンを取り出した。


「警察の方も動いちゃいるが、すぐにはアテにできねぇぞ。さっき、俺の元同僚の杉浦って刑事から連絡が来たんだがな」


 天下崎は画面を軽く叩きながら続ける。


「現在、警察も濃霧の付近にある会社数十社に目をつけて見張りを配置しているらしい。その中に深口貿易も含まれている。万が一深口貿易がデコイである事も念頭に置いているそうだ。……事態を重く見て、上層部へ特殊部隊の出動を要請したらしいが、どうやら手こずっているらしくてな。上手くいっても、それがこちらへ送られてくるのは早くても『一日後』になるそうだ」


「一日後……それでは、遅すぎる」


 柊生が険しい顔で首を横に振った。


「海還りの儀式は、ほぼ間違えなく今日完遂される。まあ、元よりあの組織に期待はしてませんが、まさかこの状況になっても動く気がないとは…」


「あぁ、全くだ……」


 一日後の警察の到着を待っていては、世界が終わる。

 重苦しい沈黙が落ちたリビングで、凪が少し思案するように目を伏せ、柊生に問いかけた。


「……黄衣の教団には、柊生さんのように魔術を扱える人は他にいるんですか? もしいるなら、戦力として計算できるはずですが」


 その問いに、柊生は静かに首を振った。


「いや、教団内で魔術を扱えるのは俺だけです。魔術というものは、俺のこの腕時計や深田が持っていた本のような『道具』と、それを使用する人間の『適性』が合わさって初めて効力を発揮します。教団の他の連中は、デパート跡地で呼び出したビヤーキーを一体ずつ使役しているに過ぎません……そんな道具を何故皆さんが持ってるかは、今は聞かないでおきましょう」


 そう言うと、柊生は再びテーブルの地図に視線を落とし、深口貿易の広大な敷地を指で三つのブロックになぞって区切った。


「戦力についてですが……深口貿易の敷地は、大きく分けて三つのエリアで構成されています。大量のコンテナ群が並ぶ『外エリア』、建物内部の『施設エリア』、そして海に直接面した『海沿いエリア』です」


「海沿い……さっきあんたが、深田らしき男たちが向かったと言っていた場所だな」


 天下崎の確認に、柊生が頷く。


「そうです。奴らの最終目的が『海底邪神の復活』である以上、儀式は海と直結した海沿いエリア、または海上で行われるとみて間違いない。つまり、深きものどもの主力戦力もそこに集中している可能性が極めて高い」


「なるほど……じゃあ、手前のエリアはどうなってるんだ?」


「一般の警備会社から、少なくとも十名以上の人間を雇って配置しているようです」


 柊生の答えに、翼が少し意外そうな顔をした。


「今朝の偵察でも、施設の正面入り口に二名、裏口に二名の警備員が確認されている。奴らはあくまで表向きの貿易会社を装っている。……一般人の警備員を立たせている以上、外エリアや施設エリアに異形の化け物である『深きもの』が徘徊している可能性は低いでしょう」


 化け物ではなく、人間の警備員が守るエリア。

 それは潜入において有利にも思えるが、同時に無関係な一般人を傷つけずに突破しなければならないという枷でもあった。


「突入は一時間後」


 柊生は地図の『施設エリア』をトントンと指先で叩いた。


「最優先事項は、攫われた黄花百合の救出。もし他の失踪者も生きているなら、同時に助け出す。昨日深田が見せてきた映像の背景は、窓のない黒い部屋でした。恐らく、この施設内部のどこか――地下、或いはコンテナ内などに監禁されているはずです」


 その言葉に、天下崎は違和感を覚える。


(たった一人のガキのために、世界を危険に晒すってのか。警察もアテにならねぇ今、どう考えてもあの冒涜的な邪神復活の儀式をぶっ潰すことの方が先決だろうが……)


 冷徹な計算と大局的な視点が、作戦の優先順位に異を唱える。だが、天下崎はふと視線を上げ、真っ直ぐに地図を見つめる柊生の横顔を見た。


(……いや、違うな。こいつは分かってて言ってやがる。この五人を一つにまとめ上げ、決死の死地へ向かわせるには、今は『少女の救出』を最優先に掲げるしかねぇんだ。あいつもあいつで、苦しい立場だな)


 天下崎は己の不満を喉の奥に飲み込み、あえて反論を口にすることはしなかった。


「だが、あの動画自体が俺たちを誘き寄せるための罠だった場合はどうなる?」


 天下崎の鋭い指摘に、柊生は険しい顔で頷いた。


「その時は、警備員の目を盗んで『深きもの』が跋扈している可能性が高いでしょう。何か魔術を使える者、妨害が無いとも言い切れない。……警戒は怠らないように」


 柊生はそこで一度言葉を区切り、五着の黒いレインコートへ視線を向けた。


「敵である海還りの連中は、我々『黄衣の教団』がビヤーキーを使役していることを知っている。奴らが海を儀式の場に選んだのは、恐らくホームグラウンドである事と、移動手段を限らせる事が考えられます。当然、一番可能性のある空からの強襲を第一に警戒しているはず。……だから、生き残った教団の数名にビヤーキー部隊として上空から『陽動』をかけてもらいます」


「なるほど。敵の目が空に向いている隙に、魔術を扱える俺たち五人が地上から潜入するってわけか」


「この土砂降りの雨と濃霧です。この黒いレインコートを着て顔を隠せば、深きものは兎も角、人間の警備員たちの目はある程度誤魔化せるかもしれない。強行突破も視野に入れますが、無用な騒ぎは避けるに越したことはありません」


 柊生は地図の上に、五つの駒を置くように指を滑らせた。


「潜入後は二手に分かれましょう。俺と天下崎さんは、外の『コンテナエリア』を捜索。天下崎さん、あなたの経験と勘を貸してほしい」


「……まあいいだろう」


 天下崎が鼻を鳴らして承諾する。


「天海さん、結衣、凪君の三人は『施設エリア』へ潜入し、黄花百合の救出に向かって欲しい。凪くんは裏口で待機し、天海さんたちが正面から陽動をかけて警備員を惹きつけている隙に、手薄になった裏口から侵入して内側から潜入。天海さんと結衣は上手くいけばそのまま中で合流し、中を探索するようお願いします」


 その割り振りに、結衣は少し不安そうに眉を寄せた。


「私たち三人だけで、そんなに上手く施設内に潜入できるの? 侵入って、そんな鍵開けなんかできないし、こんな上手くいくかな……それにもし警備員にバレたら……」


「大事にならなければ、何をしても構わない」


 柊生は極めて冷徹な、しかし背に腹は代えられないという響きで断言した。


「覚悟は決めたんだろ? 何も知らない一般人かもしれないが、今はこの世界と少女の命がかかっている。これはあくまで上手くいけばの話だ。多少の荒事は躊躇するな」




 ――そして、現在。

 深口貿易の正面入り口。

 二人の警備員が、警棒を黒いレインコート姿の翼と結衣へ向けて指した時。


 ドゴオオオオオッ!!


「「うおわぁっ!?」」


 背後のエントランスから凄まじい轟音と突風が吹き荒れ、頑丈なはずの分厚いガラス扉が、内側からまるごと木端微塵に吹き飛んできたのだ。

 突如として自分たちの背後で起きた大爆発のような現象に、二人の警備員は完全にパニックを起こして硬直した。


「ッ!」


 その決定的な隙を、翼と結衣は見逃さない。

 翼が一人の警備員の背後に回り込んで腕を羽交い締めにし、結衣がもう一人の足を鋭く払って地面に組み伏せ、手刀で首筋を打って素早く気絶させた。

 二人の警備員がぐったりと雨の地面に崩れ落ちた後。

 粉々になったエントランスの奥から、一人の少年が、ガラスの破片を踏み越えて平然とした顔で歩み出てきた。

 九条凪だった。

 作戦で着るはずだった黒いレインコートは何故か途中で脱ぎ捨てており、私服姿のままである。


「な、凪くん!? 裏口で待機してるはずだろ。なんでこんな正面から、しかも派手に……」


 フードを取った翼が驚きと呆れの混じった声で問い詰めると、凪は事も無げに答えた。


「裏口にいた警備員二人。眠そうにサボっていたので、近づいてみたら案外簡単に気絶させれたんですよ。柊生さんも言ってたでしょう。多少の荒事は躊躇するなって。裏口の扉は『暴風』で簡単に壊れたので、そのまま中を通って正面入り口まで来たんです」


「……それより黒いレインコートは?」


「動きにくかったので脱ぎました、もう必要なさそうなので」


 昨日までの気弱で、争い事を避けていた凪からは想像もつかない、あまりにも脳筋で物理的な強行突破。

 翼と結衣は顔を見合わせ、その容赦のない変わりように少しだけ引いてしまう。


「ほら、早く行きますよ。時間が惜しい」


「え、ええ……そうね」


 すっかり冷酷で頼もしく(?)なった凪に促され、翼と結衣は顔を隠していた黒いレインコートを脱ぎ捨てた。

 三人は破壊されたエントランスから、深口貿易の施設内へと足を踏み入れた。

 施設の一階は広々としたロビーになっていたが、受付にもフロアにも全く人影はなく、不気味なほど静まり返っていた。


「……本当に誰もいないみたいわね」


「ええ。だが油断はできない。まずは館内地図を探しましょう」


 壁に設置されていた案内板を見つけると、三人はバラバラに行動するリスクを避け、一緒にまとまって探索を開始することにした。

 階段を上がり、二階のフロアへ。

 いくつかの空き部屋を調べた後、『資料室』とプレートが掲げられた部屋の扉を開ける。中は乱雑に書類が積まれており、慌ただしく立ち去ったような形跡があった。


「ここにも百合はいなそうですね……ん?」


 翼が、机の上に無造作に広げられていた一つのバインダーを手に取る。


「これは……『作戦草案』?」


 そこには、手書きで『作戦草案』と記された計画書が挟まれていた。


「翼さん、なんて書いてあるの?」


 結衣が横から覗き込み、翼は書面の文字を小さな声で読み上げた。


「……『プランA。想定通り実験が成功した場合、各員直ちに儀式の用意に移る事。実験が失敗、もしくは敵対者の脅威が想定を超えた場合は即座にプラン Bに移る事』」


「実験……って、まさかあの学校で生徒たちに打たせていた注射のことか」


 凪が顔をしかめる。翼は続けて、儀式の具体的な手順が書かれた項目に目を落とした。


「『儀式は呪文の書に従い適切な順序で行う。一、執行は最も血が濃い者が行う事。二、贄の血を門を通じて故郷の海に送ること。血は時間をかけてゆっくりと海に溶け込ませるように混ぜること。三、血を注ぎきり門を魔力で浸し終えた執行者は眷属を従えたのち、主を讃える言葉を響かせること』……『全ての工程を終える事で我らの主は目覚めの時を迎える』」


「……贄の血を、海に送る。まさか」


「恐らくこの贄の血というのは、昨日の学校の生徒たちから回収した、あの莫大な魔力を孕んだ血の事でしょう……つまり儀式の準備は完全に整っている。急いでこの階の他の部屋も手分けして調べましょう」


(だが、何故こんなものをここに残したんだ……まるで、見せびらかすように)


 翼の言葉に二人は頷くと、三人は手分けして二階の残りの部屋を探索した後、一番奥にあった立派な両開きの扉――『社長室』と書かれた部屋の前に集まった。

 三人は警戒を最大にして慎重に足を踏み入れた。

 表向きは貿易会社の社長室。だが、中はひどく閑散としており、高価そうな調度品はあるものの、長い間まともに人が使っていたような生活感や業務の痕跡は一切なかった。

 翼は周りを警戒しながら、部屋の中央にある重厚なマホガニー製のデスクへと向かった。

 引き出しには鍵がかかっていなかった。一番上の引き出しを開けると、そこには黒い革張りの本が一冊だけ、ポツンと入れられていた。


「なんだ、これ……『実験観察日誌』?」


 翼が手帳を開くと、そこには夢見ヶ原高校で深田はじめが行っていた、あまりにもおぞましく、非人道的な『実験』の記録が、克明に記されていた。


「『一○回目。生徒たちに深きものの血液を注入したところ、数名に眷属化の初期症状が現れた。………七二回目。卒業予定の実験体C群のうちC1には多量の血液を注入したが、拒絶反応で肉体が崩壊。実験体C2にはC1よりも少量の血液を注入した所、肉体の崩壊はあれど多少の魔力を回収できた。C3以降は眷属化に発展が見られなかった為放棄。今後はA改めB群をより重点的に実験に使う事にする……条件は面倒だが、魔力を集めるという観点ではこれ以上効率的な手はない』」


「……あいつ、学校の生徒たちを、魔力を抽出するための生きたバッテリーとしか思っていなかったのね」


 結衣が吐き気を堪えるように口元を押さえる。だが、本当の絶望は次のページに記されていた。


「『一三五回目。イレギュラーが発生した。教団を監視させていた工作員三名が、魔術を行使する人間に倒された。……同胞を殺した人間を特定したところ、その内の一名は、潜入中の高校の生徒だという』」


 その一文を聞いた瞬間、凪の肩がビクッと跳ねた。

 工作員三名。それは数日前、六丁目の路地裏で天下崎たちが戦ったあの黒ローブの男たちのことだ。


「まさか……」


 凪が青ざめる中、翼は辛そうに顔を歪めながら続きを読んだ。


「『この生徒は実験体B12と特別仲が良いとのことなので、計画を一部変更し、B12には呪文書による魔術使用の実験と共に……イレギュラー四人を誘き寄せるための“餌”として利用することにする。結果次第では、B12を我々の仲間として歓迎する』」


「……ッ!!」


 凪の口から、声にならない獣のような呻きが漏れた。

 翼は痛む胸を押さえながら、日誌の最後のページ――『一三六回目』と書かれた項目に目を落とした。

 そこには、これまでの記録とは全く違う、まるで彼らに直接語りかけるような挑発的な文章が綴られていた。


「『ここまで長時間頑張って読んでくれた諸君へ。少女はこの施設の地下にいるよ。観葉植物の影にマスターキーを隠しているから、それを使って『管理室』から地下に入れば彼女がいるはずだ。ああ、これは罠でもなんでも無いから安心して。そういう約束なんだ、好きにするといい。……勿論、君たちにその猶予があればの話だけどね』」


「観葉植物の影……これだわ!」


 結衣が部屋の隅にあった大きな鉢植えの裏を探り、銀色に光る『マスターキー』を引っ張り出した。


「すぐに管理室へ向かって地下に――」


 翼がマスターキーを受け取り、部屋を飛び出そうとした、その時だった。


 ――ズゴゴゴゴゴゴオオオオオッ!!


「な、なんだ!?」


 突如として、施設全体を根底から揺るがすような凄まじい地響きが鳴り響いた。

 三人が咄嗟に体勢を低くして社長室の大きな窓ガラスへ視線を向けると――。

 分厚い雨雲の下、港の防波堤を軽々と越えるほどの『巨大な津波』が、こちらへ向かってドス黒い口を開けて押し寄せてきているのが見えた。


「急ごう! 津波が来る前に、地下へ!」


 翼の叫びと共に、三人は社長室を飛び出した。

 薄暗い廊下を駆け抜け、案内板で確認した目的の『管理室』へと雪崩れ込む。部屋の奥には、周囲の壁とは明らかに不釣り合いな、分厚く冷たい鉄扉が重々しく鎮座していた。

 翼が震える手でマスターキーを鍵穴に差し込み、力任せに回す。ガコン、と重い音が響き、鉄扉が開いた。


 その先には、真っ暗な地下へと続くコンクリートの階段がぽっかりと口を開けていた。

 三人はスマートフォンのライトを頼りに、カビと湿った冷気が漂う階段を一気に駆け下りる。

 地下空間の最奥に存在していたのは、異様な『黒い正方形の箱のような部屋』だった。翼が息を呑みながらその扉を押し開ける。


「百合……ッ!」


 翼の悲痛な叫びが、冷たい地下室に響き渡った。

 コンクリートの床の上。手足をきつくロープで縛られ、ぐったりと座り込んでいた少女――黄花百合が、弾かれたように顔を上げた。


「翼……?」


「ああ、俺だ! 迎えに来た、遅くなって本当にごめん……!」


 翼は床に這いつくばるようにして百合に駆け寄り、もつれる手で彼女を縛っていたロープを解き捨てた。そして、その小さな身体を痛いほど強く抱きしめる。


「怪我はないか!? あいつらに、何か酷いことをされなかったか!?」


 翼が半狂乱で身体中を確かめると、百合は戸惑ったようにコクリと首を横に振った。


「ごめんね、翼。不安にさせちゃって……大丈夫、何もされてないよ」


「なんで百合が謝るんだ! 俺こそごめん、もう一人にしないって約束したのに……よかった、本当によかった……」


 百合の無事を確認し、翼が安堵の涙を滲ませた、まさにその時だった。


 ――ドゴオオオオオオオオッ!!


 先ほどよりもさらに巨大な地響きが施設全体を激しく揺さぶり、頭上の階から『メリメリ』と建物が砕けるような絶望的な音が響き渡った。

 続いて聞こえてきたのは、轟々という恐ろしい水流の音。先ほど窓の外に見えた巨大な津波がついに、この深口貿易の施設に直撃したのだ。


「まずいです! 入り口から海水の濁流が流れ込んできます!」


 階段の上の方から、滝のような水の音が急速に近づいてくるのを聞きつけ、凪が鋭く叫んだ。


「百合、走れるか!? とにかく上の階へ、少しでも高いところへ避難するんだ!」


 翼は百合の手を強く引き、結衣、凪と共に。

 頭上から迫り来る死の濁流から逃れるために、決死の覚悟でコンクリートの階段を駆け上がり始めた。

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