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箱庭の百合  作者: Kibana
黄昏時に夢をみる
34/43

第三十一話 黄昏の中

 次に四人が、身を包む熱気と眩い光を払い除けて、ゆっくりと目を開けた時。

 彼らはすでに、血塗られた夢見ヶ原高校のグラウンドにはいなかった。

 足元には、見慣れた木目のフローリング。

 周囲の壁には、趣味の良いシンプルな家具が置かれ、暖房の効いた穏やかな空気が漂っている。

 そこは、昨夜翼たちが温かい手料理を振る舞われた場所――白石家のリビングだった。


「ここは……私の、実家……?」


 結衣が、信じられないものを見るように呆然と呟く。

 つい数秒前までいた凄惨な死地から、一瞬にして数キロ離れた住宅街へと空間を跳躍させられたのだ。

 四人の前に立っていた黄色いレインコートの男は、無言で深く被っていたフードを下ろした。

 そして、レインコートのボタンを外して床に無造作に脱ぎ捨てると、指先から小さな炎を出してそのコートを瞬く間に燃やし、灰にして完全に証拠を隠滅した。

 燃え尽きたコートの下から現れたのは、ラフな私服姿の青年だった。

 彼は振り返ると、驚愕に目を見開く結衣と、警戒を解けないままの三人を前にして。

 深く、深く、頭を下げた。


「ごめん、結衣。そして、みんな……。ずっと騙していて、本当に申し訳なかった」


 炎の魔術を使い、自分たちを血の結界の窮地から救い出した謎の男。

 その正体は他でもない、結衣の実の兄――白石柊生だった。

 深く頭を下げる白石柊生の姿に、リビングに重く、息苦しい沈黙が落ちた。


「お兄、ちゃん……? どうして……」


 結衣は震える声で紡ぎ出しながら、本能的な恐怖から数歩後ずさった。

 いつも優しく、危険なことには絶対に関わるなと諭してくれていた、大好きな自慢の兄。

 彼が、あのおぞましい化け物たちと関わる『黄衣の教団』の人間だったという絶対的な事実。

 結衣の頭は完全に混乱し、感情の処理が全く追いついていない。いや、無意識のうちに理解を激しく拒絶していた。

 しかし、無数の黄色い冒涜的な紋章で埋め尽くされていた、鍵のかかった兄の部屋の狂気。

 薄々結衣が感じ取り、それでも「ただの偶然だ」と必死に否定しようとしてきた疑念が、今、最も残酷な形で現実を帯びて目の前に突きつけられていた。


「……お前が、あの狂信者どものお仲間だったとはな。まぁ、あの血の結界をぶち破った規格外の炎を見せられちゃ、疑う余地もねえか……」


 天下崎が、疲労困憊の身体を壁に預けながら、鋭い猛禽のような視線を柊生へと向ける。

 凪も無言のまま、油断なく柊生を睨みつけていた。


「どういうことか、すべて隠さずに話してもらおうか。お前がなぜあの教団にいて、俺たちをどうするつもりだったのか」


 天下崎の静かな、しかし殺気を孕んだ尋問に、柊生は顔を上げた。

 だが、彼は言葉を紡ぐ前に、ボロボロになった四人の姿――特に、血の棘に貫かれて出血している凪の右肩や、翼の頬の傷、そして泥と血にまみれて立っているのすらやっとの結衣たちを見て、ひどく痛ましげに顔を歪めた。


「……話すことは山ほどある。でも、まずはその怪我の手当てが先だ。そのままじゃ、まともに話もできないだろう」


 柊生はそう言うと、足早にリビングの奥にある戸棚へ向かい、手慣れた様子で大きな救急箱を取り出してきた。


「俺は敵じゃない。信じられないかもしれないが……少なくとも、結衣や君たちを傷つけるつもりはないんだ。どうか、手当てをさせてくれ」


 柊生の悲痛な眼差しに、天下崎は短く舌打ちをしたが、リボルバーを下ろしてソファへとドサリと腰を下ろした。

 翼と結衣も、限界を迎えていた足の力を抜き、床や椅子に崩れ落ちる。


 「凪くん。右肩の傷、かなり深いな。服を少し破るよ」


 柊生が救急箱からハサミと消毒液を取り出し、凪の前に片膝をついた。

 血で貼り付いた制服の布地を慎重に切り開き、鋭利な血の棘に抉られた傷口を露出させる。


「っ……」


 消毒液が沁み、凪は痛みに顔をしかめて身体をビクッと硬直させた。

 柊生は手際よく凪の肩に分厚いガーゼを当て、包帯をしっかりと巻きつけると、次は翼の元へと向かった。


「天海さん。頬の傷と、全身の打撲ですね」


「……」


 翼が気まずそうにガーゼを受け取ろうとするが、柊生は首を横に振って翼の顔の汚れと血を、濡らした布で丁寧に拭き取った。


「……どうして」


 結衣の瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。


「どうして、お兄ちゃんがそんな危険な教団にいるの? オカルトなんて信じないって、危険なことには関わるなって、いつも私に言っていたじゃない……!」


 自分にとって唯一の家族であった兄の裏切り。

 結衣の悲痛な問いかけに、柊生は救急箱を閉じ、ひどく苦しげに顔を歪めた。


「……二年近く前だ。俺が重い病気で、生死を彷徨って入院していた時……。現代医療ではどうにもならなかった俺の命を、魔術の力で救ってくれたのが、教団だったんだ」


「え……」


「この腕時計に嵌っている石には、適性者の身体能力と治癒能力、免疫力を高める効果がある。教団は病気の治癒を引き換えに、俺に教団への協力を打診した。最初はとても信じられなかったが……でも俺は、それに応える事にした。それで、病気の治療に助力してくれた彼らに恩を返すため、俺は教団に入った」


 柊生が、右腕の朱色の宝石を見つめて言う。

 だが、結衣にとってそれは、決して納得できる理由ではなかった。


「じゃあ……私がここ数ヶ月、毎晩のように見ているあの悪夢は? 黄色いレインコートの集団と化け物が出てくる、私の精神を削り取るようなあの夢の理由も……お兄ちゃんは、何か知ってるの!?」


 結衣がすがるように一歩前に出る。

 しかし、柊生はわずかに目を逸らし、きつく唇を噛み締めたまま、重い沈黙を貫いた。


「答えてよ……! 私、ずっとお兄ちゃんのこと信じてたのに……!」


 涙声で追及する結衣に、柊生はただ「……すまない」と、力なく謝罪の言葉を口にすることしかできなかった。


「……あなたが、もっと早く来ていれば」


 兄妹の悲痛なやり取りを切り裂くように、ひどく冷たく、感情の抜け落ちた声が響いた。

 包帯を巻かれた右肩を押さえながら、凪が真っ暗な瞳で柊生を見据えていた。


「監視...していたんですよね。でないと学校に来て、あの場に割り込むことなんて出来ない」


「...ああ」


凪の冷たい視線に対して、柊生は下を向くことしか出来なかった。


「あなたがその炎を持っていて、一日中僕たちを監視していたっていうなら……。どうして、もっと早く助けに来なかったんですか。あなたがもっと早くあの体育館に踏み込んでいれば……あんな大勢の犠牲者は出なかった。僕の親友も……良平も、死なずに済んだんじゃないんですか……!」


 凪の言葉には、どこに向けて発散したらいいのか分からない、絶対的な絶望と怒りが混じっていた。

 もしこの男が最初から炎で結界を焼き払ってくれていれば、良平は化け物になる前に深田から引き離せたかもしれない。そんなタラレバの思考が、凪の脳内を呪いのように駆け巡っている。


「……返す言葉もない」


 柊生は逃げることなく凪の暗い瞳を受け止め、深く頭を下げた。


「俺も、昼間に結衣が学校へ向かった後、すぐに後を追ったんだ。だが……君たちが入ってすぐ後に、あの薄黒い結界が生成された。あの深田という男が学校を覆っていた結界は、あまりにも異常だった。外部からの干渉を完全に弾き返す密度で……外から炎で焼き破って穴を開けるまでに、あれだけの膨大な時間がかかってしまった。……本当に、すまない」


 柊生の痛切な謝罪が、空しくリビングに響く。

 凪はそれ以上何も言わず、ただ忌々しげに視線を床へと落とした。

 彼が手を抜いていたわけではないことは分かっている。だが、失われた命は二度と戻らない。

 沈鬱な空気に包まれたリビングで、天下崎が短く息を吐き、ソファから身を乗り出してその空気を強引に断ち切った。


「……後悔や謝罪は後回しだ。今は何より、これからの情報が要る」


 天下崎は鋭い眼光を柊生に向けた。


「俺たちが聞きたいのは、教団の目的と、今の状況だ。一体何を目的にして、この街で何をやっていた」


 柊生は表情を硬くし、ゆっくりと答えた。


「俺たちが所属していた『黄衣の教団』は、あの虹橋デパートの爆破跡地という潤沢な地脈の魔力源を拠点にして、ある『生物』を戦力として大量に増殖させていました。結衣が呼び出していた不浄の生物……『ビヤーキー』です。俺たちの目的はただ一つ。邪神をこの地に呼ぼうとしている敵対組織、『海還り(深きもの)』の連中に対抗し、その計画をぶっ潰すことでした」


「計画をぶっ潰す……。だが、お前一人がこんなところにいるってことは、教団はどうなったんだ」


「……半壊状態ですよ」


 柊生は自嘲気味に、乾いた息を吐いた。


「今朝……教団に潜り込ませていた情報提供者兼、協力者から、絶望的な報告が入りました。海還りの連中の計画準備が、すでに整いつつあると。そして……教団がこれまでかき集めたビヤーキーの戦力では、もう奴らを止める手段はない、と」


 勝ち目がないと知った教団はパニックに陥り、内部分裂を起こした。真っ先に逃げ出そうとした教団のリーダーは殺され、一矢報いようとする強硬派と、解散して逃亡しようとする派閥で身内同士の血みどろの争いになり、組織としての機能は完全に崩壊した。

 それを聞いて、天下崎は午前中にあのデパート跡地で見た幻覚――黄色いレインコートの信者たちが、自分たちの使役していたはずのビヤーキーに無惨に食い殺されていたあの地獄絵図が、実際に今朝起きた凄惨な内紛の真実だったのだと気づいた。だが、一点だけの違和感が、天下崎には残っていた。どうしても目の前の男の言葉と、今までの教団の行動が、結び付かない点があった為だ。しかし、今の状況でその違和感を追求した所でメリットが薄いとして、天下崎は柊生への疑念を一先ず放置した。


「俺は……元々、君たちの監視役を命じられていて、たまたまその場にいなかったから……。生き残りからの伝言で状況を知ったんです。それで、急いで向かったんですが、教団がそんな有様になってしまっていて…」


「……その海還りの連中の『計画』ってのは、具体的に何だ? 今日、あの学校の生徒全員を犠牲にしてまで集めたあの莫大な魔力で、奴らは一体何をするつもりだ」


 柊生は表情を極限まで険しくし、重々しく答えた。


「……奴らの目的は……『海底邪神の復活』です」


「邪神……?」


 結衣が、思いもしなかった絵空事のような答えに疑問の言葉をこぼす。


「ああ。何らかの冒涜的な魔術を行使した、大規模な召喚儀式を行う気だろう。今回の騒動で奴らは莫大な魔力を得たが、それは逆に言えば、それほどの大掛かりな儀式である可能性が高いということだ」


 柊生は腕を組み、言葉を続ける。


「教団の有識者が言っていた。元来、魔術の儀式というものは規模が大きいほど、準備と手順に時間がかかるらしい。あれだけの魔力を注ぎ込んで邪神を呼び覚ますなら、すぐに実行に移したとしても、儀式の完了までには最低でも『一日』はかかるはずだと」


「……もし、その邪神とやらが復活したらどうなる?」


 天下崎の問いに、柊生は絶望的な宣告を口にした。


「……邪神は、自分の眷属……つまり『深きもの』にしか慈悲を与えない。もし復活を許せば、この街どころの話じゃない。人間の時代が完全に終わる」


「……スケールがデカすぎて、頭が痛くなってきやがる」


 天下崎は忌々しげに舌打ちをし、自身の無精髭をガリガリと掻いた。


「だが、儀式に一日の猶予があるなら、まだ手はあるってことだ。奴らの本拠地に乗り込んで儀式をぶっ潰すしかねぇが……その『本拠地』の心当たりはあるのか?」


「……『深口貿易』かもしれません」


 不意に、部屋の隅から感情の抜け落ちた声が響いた。凪だった。

 包帯が巻かれた右肩を庇いながら、凪は淡々と語り始めた。


「……体育館に向かう前、化学室を探した時。そこに『深口貿易』と書かれた段ボールがいくつも置かれていて、中身は空になっていました。……生徒たちが自分たちの首に打ち込んだ、あの液体の入った注射器。恐らくあれは、深口貿易の箱で学校に大量に運び込まれたんだと思います」


「深口貿易……。やはり、あのダミー会社の中に隠れていたのか」


 天下崎が鋭い目つきで呟き、点と点が完璧に繋がったことを確信する。

 凪が提示した『深口貿易』という明確な敵の本拠地。

 戦うべき場所が定まり、天下崎が頭の中で突入の作戦を練り始めようとした、その時だった。


「……そこに、百合はいるんですか」


 白石家にきてから、怪我の手当てを受けている間もただの一度も口を開いていなかった翼が、地を這うような低い声で尋ねた。

 前髪の影に隠れたその瞳には、かつての温厚な面影は微塵もない。ただ、大切な家族を奪われた男の、血を吐くような悲痛と焦燥だけが濃密に渦巻いていた。

 柊生は痛ましげに目を伏せ、慎重に言葉を選ぶように答えた。


「恐らくは。人質としてか、あるいは……『儀式に必要な何か』として捕らえられたのかもしれない」


「儀式に、必要……?」


 翼がギリッと奥歯を鳴らす。

 その不吉な推測を補強するように、天下崎がひどく苦い顔で口を開いた。


「……奴らは昨日あたりから、三十代の大人ではなく『若い少女』にターゲットを明確に絞っていた。……もしかしたら」


「もしかしたら、なんだッ!」


 翼が怒鳴り声を上げ、天下崎に掴みかからんばかりの勢いで身を乗り出した。


「百合が……あの儀式の『生贄』的な何かにされているとでも言うのか!? だとしたら、なおさら一秒たりとも待っていられない! 少なくとも、あの何百人もの生徒を呆気なく殺すような化け物どものところに、あの子を置いておけるわけがないだろう!」


 翼は血走った目でそう叫ぶと、弾かれたようにリビングの扉へと向かって歩き出した。

 自分の命がどうなろうと構わない。今すぐあの深口貿易に単身で乗り込み、百合を奪い返す。その盲目的な決意だけで、彼の足は動いていた。


「ダメだ、止まれ天海さんッ!」


 だが、その行く手を塞ぐように、柊生が両手を広げて立ちはだかった。


「明日の早朝だ」


 激昂する翼の言葉を遮り、柊生は極めて冷静な、しかし力強い声で告げた。


「明日の早朝、黄衣の教団の残存勢力が一矢報いるために、そこへ一斉に攻め込む計画を立てている。……行くなら、その教団の襲撃に紛れ込むべきだ」


「……」


「考えてもみてくれ。今、満身創痍のこのメンツだけで敵の本陣に正面から突っ込むより、教団の陽動に乗じた方が、君の大切な人を無事に『救出できる可能性』は遥かに高いはずだ」


 柊生の極めて理にかなった、しかし冷徹なまでの作戦の提示。

 翼は足を止め、ギリギリと拳から血が滲むほどに強く握りしめた。


「可能性とか、そういう話じゃないだろうッ!」


 翼の怒鳴り声が、深夜のリビングに痛いほど響き渡った。

 彼は血走った目で柊生を睨みつけ、胸倉を掴まんばかりの鬼気迫る表情で詰め寄る。


「なら、百合が明日まで無事だっていう根拠を述べてみろ! あの子が今この瞬間にも恐ろしい目に遭わされているかもしれないのに、ここで朝まで指をくわえて待っていろと言うのか!?」


「翼さん、待って……! お願い、落ち着いて!」


 見かねた結衣が、悲鳴のような声を上げて翼の腕にすがりつく。だが、翼の身体は怒りと焦燥でガチガチに強張っており、その静止の声すら届いていないようだった。

 柊生は翼の鋭い殺気を真っ向から受け止めながらも、決して目を逸らさず、極めて冷静なトーンで言葉を紡いだ。


「根拠なら、ある。……深田が、わざわざあの動画を君に見せたこと自体だ」


「なに……?」


「考えてもみてくれ。わざわざあの少女の姿を見せつけたのは、君たちを自分たちのテリトリーへ誘き出すためかもしれない。今ここで飛び出せば、奴らの思う壺になる」


 柊生の冷徹な指摘に、翼がハッと息を呑む。

 柊生はさらに言葉を続けた。


「それに、もし彼女が『邪神復活の儀式』における重要なパーツだとするなら……なおさらだ。奴らはこの計画のために、長い歳月をかけて周到に準備を進めてきた。儀式で利用する前に彼女を傷つけたり、あるいは君たちによって救出されるリスクを自ら負うような、間抜けな真似をするとは思えない」


 深田はじめという男は、異常だが極めて狡猾で理知的だった。そんな男が、自らの悲願である儀式を台無しにするようなリスクを無意味に犯すはずがない。

 柊生の提示した『根拠』は、冷酷なまでに理にかなっていた。


「くっ……ッ」


 翼はギリギリと奥歯を噛み締め、強く握りしめすぎて血の滲んだ拳を震わせた。

 今すぐ助けに行きたい。だが、無策で突っ込めば百合を危険に晒すことになりかねない。頭では柊生の言うことが正しいと理解できてしまうからこそ、己の無力さがどうしようもなく悔しかった。


「……分かりました」


 数十秒の重苦しい葛藤の末、翼は絞り出すようにそう告げ、ドサリと力なくソファに腰を下ろした。


「……すみません。辛い決断をさせてしまって」


 柊生は深く頭を下げると、疲労困憊の四人を見渡した。


「こちらからも聞きたい事は山程あるんですが……今日はもう遅い。明日に備えて……今は少しでも寝ましょう」


 外では、遠くからパトカーのサイレンが微かに聞こえ続けている。

 血塗られた惨劇の夜は、重く冷たい沈黙と共に、決戦の朝へと向かってゆっくりと更けていった。




 その日の夜。

 白石家のリビングで布団を敷いて泥のように眠る翼と凪、そして自身の部屋で浅い眠りについた結衣。


 凪、結衣、翼の三人は、自らの意識が『同じ漆黒の底』へと深く、深く沈み込んでいくのを感じていた。


 光の届かない完全な暗闇。

 だが、三人の目の前には、はっきりと一人の『男』が立っているのが分かった。いや、それを男と呼んでいいのかすら定かではない。

 首から下は、仕立ての良いスーツを着た人間の男性のシルエットをしているが、その『顔』があるべき場所には何もなく、ただひたすらに底知れない『虚空』が広がっていたからだ。

 その顔のない男は、三人の脳髄へ直接語りかけるように――まるで別々の空間にいる三人の意識を強引に繋ぎ合わせるように、不可思議な声で同時に言葉を紡ぎ出した。


『――明日の黄昏時。雨雲が世界を覆い尽くし、人の世は終わりを迎える』


 淡々とした絶望の宣告が、漆黒の空間に響く。


『アルデバランの光が閉ざされた事で、黄色い信徒の計画は崩れ落ちた』


 結衣の夢の中で、男が静かに告げる。


『役割を持たぬお前は、すべてを投げ売り、ただその終わりを見届けるのも良いだろう』


 顔のない男の冷たい言葉が、暗闇に重なり合って、凪の耳へと木霊する。


『――だが』


 暗闇の中で、顔のない男が翼へと一歩前へと踏み出した。


『もし、友の仇を討ちたければ』


 ――凪の真っ暗な瞳に、微かな復讐の光が宿る。


『もし、家族との思い出を守りたければ』


 ――結衣が、震える両手を強く握りしめる。


『もし、囚われた少女を救いたければ』


 ――翼が、怒りと決意を込めて顔を上げる。

 三人の異なる動機、異なる願いが、男の放つ『一つの啓示』へと収束していく。


『儀式が完成する前に、実行者の持つ書物を奪え。そして――門から降り落ちる虚像を打ち壊し、真実を見よ。お前たちの望む答えは、その先にある』


 言葉と共に、圧倒的で冒涜的な魔術の知識が、頭の中に強制的にねじ込まれていく。それは、路地裏で占い師からペンダントを受け取った時の感覚と、ひどく酷似していた。


「……」

「……ッ!」

「……!」


 激しく窓ガラスを叩きつける雨の音が、三人の意識を漆黒の夢から強引に引き剥がした。




 激しい雨音によって漆黒の夢から引き剥がされた凪、結衣、翼の三人は、無言のまま白石家のリビングへと集まっていた。

 薄暗い部屋の奥――キッチンカウンターのシンクの前には、すでに天下崎の姿がある。

 彼はくたびれたシャツのまま、蛇口からグラスに注いだ冷たい水を、一気に喉の奥へと流し込んでいる。その顔には酷い寝汗が浮かび、荒い呼吸を整える背中からは、彼もまた尋常ではない夢に苛まれていたことがありありと窺えた。


「……起きたか」


 足音に気づいた天下崎が、グラスをコトンと置いて振り返る。

 そして、三人のただならぬ顔色と、自分と同じように酷い寝汗をかいている様子を見て、小さく鼻を鳴らした。


「その顔を見るに……どうやら、タチの悪い悪夢で叩き起こされたのは俺だけじゃねぇみたいだな」


「天下崎さんも……夢を?」


 翼の問いに、天下崎は忌々しげに自身のこめかみをトントンと指差した。


「ああ。おかげでここ数時間起きっぱなしだ……。内容はともかくとして……ただの夢じゃねぇ」


「……魔術ですか」


 翼のその言葉に、三人は心当たりがありそうな表情をする。

 同時に奇妙な夢を見せられ、そして何者かによって『新たな力』を与えられたという事実は、もはや疑う余地がなかった。


「……一体、何が起きているんでしょうか。俺たちに、この力を与えたのは……」


 翼が戸惑いながら、自身の胸元に手をやった、その時だった。


「これは……」


 翼が服の内側から引き出した『虹色のペンダント』を見て、他の三人も息を呑んだ。

 昨日まで、どんな時でも淡く美しい七色の光を放っていたはずのその宝石が。今は完全に色を失い、まるでただのガラス玉のように『無色透明』に変色してしまっていたのだ。


「色が、変わっている……?」


 結衣が目を丸くする。翼は透明になったペンダントを不思議そうに指でなぞった。魔力が消え失せたわけではない。新たな魔術の知識は、確かに頭の中に存在している。それは、凪、結衣もまた同様だった。凪の赤いペンダントは、より赤黒く染まっており、結衣の黄色いペンダントはより濃く黄色い光沢を見せている。


「……どうでもいいですよ」


 静まり返るリビングで、真新しい包帯が巻かれた右肩をさすりながら凪がポツリと、しかし確かな決意を込めて呟いた。


「これが悪魔の力でも、誰かの掌の上だったとしても……奴らの計画をぶっ潰す力になるなら、僕は迷わず使います」


 親友の仇を討つ。そのためなら、自分の魂を悪魔に売り渡すことになっても構わない。

 翼もまた、透明になったペンダントを強く握り締め、百合を救い出すという強固な意志を瞳に宿して真っ直ぐに顔を上げた。

 窓の外では、世界を覆い尽くすような分厚い雨雲から、とめどなく冷たい雨が降り注いでいる。

 すべてに決着をつける黄昏時に向けて、四人は決戦の地『深口貿易』へと出撃する意志を固めるのだった。

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