第二十九話 鮮血の結界②
「くそっ、足が……!」
凪が前へ進もうと足に力を込めるが、まるで底なし沼の泥に足を取られたかのように、血の海が恐ろしい粘着力で靴底に絡みつき、その動きを著しく鈍らせる。
「僕の創り出した結界の居心地はどうだい? ここでは、君たちの命はすべて僕の手のひらの上だ」
足元の血液に一切沈むことなく、まるで水面を歩くようにして悠然と佇む深田はじめが、血に濡れた本を開きながら冷酷に微笑んだ。
その言葉を合図にするかのように、四人をドーム状に閉じ込めている巨大な赤黒い壁が、不気味な脈動を激しく強めた。
ブクブクと沸騰するように壁の表面が波立ち、そこから鋭く尖った『無数の血の槍』が、まるでハリネズミの針のように全方位から一斉に突き出してくる。
「今度は避けれるかな?」
深田が本を持つ手を、指揮棒のように軽く振り下ろした。
ヒュンッ! という、空気を切り裂く無数の風切り音が空間を埋め尽くす。
壁面から射出された数百本もの血の槍が、足を取られて身動きの取れない四人に向かって、四方八方から凄まじい速度で襲いかかった。
「――させないッ!」
絶体絶命の死地の中、結衣が悲痛な叫びを上げ、胸元で冷たく光る『黄色のペンダント』を両手で強く握りしめた。
圧倒的な恐怖に震えながらも、立ち向かう彼女の強い意志に呼応し、ペンダントが眩い黄色の光を放つ。
直後、四人の足元に広がる血の海が泥のように黒く濁って盛り上がり、そこから蝙蝠のような薄気味悪い被膜の翼を持った悍ましい不浄の生物――『ビヤーキー』が四体、エラの裂けたような雄叫びを上げて這い出してきた。
結衣の悲壮な決意のもと召喚されたビヤーキーたちは、主たちを庇うように、その巨大な翼と身を挺して四人の周囲をドーム状に覆い隠す。
ズガガガガガガッ!!
雨あられと降り注ぐ無数の血の槍が、肉の盾となったビヤーキーたちの背中や翼に、容赦なく深々と突き刺さった。
「ギ、ギャアアアアアッ!」
断末魔の痛ましい悲鳴が響き渡る。
四人の完全な身代わりとなって全身を串刺しにされた三体のビヤーキーが、ドロドロの泥のように崩れ落ち、元の血の海へと溶けて消え去った。
「……なるほど、やはりダメか。全く『縁』というものは厄介だ」
深田は手に持つ本を見ながら、まるでゲームの攻略法でも分析するように独り言を呟く。
その中、ビヤーキーの尊い犠牲によって辛くも凶弾の嵐を凌いだ翼が、間髪入れずに胸元の『虹色のペンダント』を光らせる。
(展開しろ……!)
味方を守るための、強固な虹の結界を四人の周囲に展開しようと、全身の魔力を練り上げた。
だが――パリンッ! という甲高い音と共に、形成されかけた虹色の障壁が、見えない全方位からの圧力に押し潰されたように、呆気なく砕け散ってしまった。
「なっ……結界が、張れない……!?」
「無駄だよ」
驚愕する翼を、深田が冷酷に嘲笑う。
「結界を構築する魔術は安定した地面や空間で扱うもの。ここは僕の魔力で完全に隔離され、法則を歪められた結界の中だ。空間そのものが極めて不安定かつ僕の支配下にあるんだから、君のその薄っぺらい魔術じゃ、形を保つことすらできないんじゃないかな?」
圧倒的なホームグラウンドでの魔力差。
天下崎は咄嗟に胸元の青いペンダントを握りしめたが、すぐにギリッと奥歯を噛んでその手を離した。そしてトレンチコートの懐に手を突っ込み、使い慣れた黒光りするリボルバー式の拳銃を引き抜いた。
両手でしっかりとグリップを握り込み、銃口を、血の水面を悠然と歩く深田の眉間へと真っ直ぐに向ける。
しかし――。
(……っ、照準が、定まらねぇ……!)
深田はじめという「底知れぬ悪意の塊」を前にして本能が竦んでいるのか、それとも狂気で脳が狂い始めているのか、天下崎の手はどうしても照準を一点に定めることができない。
銃口がブルブルと微かに震えてしまう。
天下崎は奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばり、強引に引き金を連続して三度引いた。
ダァンッ、ダァンッ、ダァンッ!
連続して弾ける乾いた発砲音が、赤黒い異空間に鋭く木霊する。
だが、放たれた三発の弾丸は、無情にも深田の頬のすぐ横や肩口の空気を切り裂くだけで、その身体を掠ることもなく、背後の血の壁へとブチュッと飲み込まれて消えた。
「……そんな鉄の塊で、この僕を殺せると思っているのかい?」
深田は瞬き一つせず、銃口を向けられたまま薄く冷たい笑みを浮かべた。
その絶対的な絶望と嘲笑を切り裂くように、血の泥に足を取られていた凪が動いた。
胸元で赤黒く変色したペンダントの力で両足に風の渦を纏い、『浮遊』魔術の凄まじい推進力をもって、粘着力のある血の海から強引に自らの身体を空中へと引き剥がす。
重力と血の呪縛から逃れた凪は、一切の感情を排した真っ暗な瞳で深田を見下ろし、真っ直ぐに右腕を突き出した。
極限に圧縮された風の塊が、不可視の巨大な大砲となって上空から深田へと襲い掛かる。体育館の壁を粉砕した時と全く同じ、必殺の一撃。
しかし、深田は慌てる素振りすら見せない。
彼が右手に持った本をわずかに紫色に光らせると、深田の目の前の血の海が間欠泉のように猛烈な勢いで隆起した。
立ち上がった大量の血液は、一瞬にして極めて分厚く硬質な『血の防壁』を形成する。
直後、凪の放った凄まじい暴風が防壁に直撃した。
ズゴオオオオンッ!!
だが、強固な血の防壁は鈍い衝撃音を立てて表面を大きく波立たせただけで、完全に風の威力を殺し切った。防壁の後ろに立つ深田には、文字通りそよ風一つ届くことはなかった。
「……ッ」
凪が空中で忌々しげに顔を歪める。
「そろそろ、本当にお終いにしようか」
深田の氷のような声が、血の結界に響き渡った。
彼が右手に持つ革装丁の本を禍々しく発光させると、四人の足元を満たしていた血の海が、まるで煮えたぎるように激しく泡立ち始めた。
「――下だッ! 避けろ!」
天下崎が裂帛の叫びを上げる。
次の瞬間、足元の血液が一瞬にして硬質化し、鋭利な『無数の血の棘』となって、地面から凄まじい勢いで隆起してきた。
それはまるで、巨大な肉食獣の無数の牙が、下から群れを成して襲いかかってくるような、回避不能の広範囲攻撃だった。
「くっ……!」
空中に逃れていた凪だったが、逃げ場のない空の死角から伸びてきた棘の先端が、その右肩の肉を無慈悲に掠り裂いた。
制服が破れ鮮血が舞い、凪は苦悶の表情で体勢を崩す。
「しまっ……!」
地上にいた翼は咄嗟に身を捻ったが、鋭い棘の側面が彼の頬を浅く掠め、一筋の赤い線が引かれた。
「キャアアアッ!」
結衣の足元からも、致死の棘が容赦なく突き上げる。
だがその寸前、彼女の黄色いペンダントが呼応するように激しく明滅した。
血の泥から咄嗟に這い出た四体目のビヤーキーが結衣の肩を力強く掴み、強引に彼女の身体を宙へと持ち上げたのだ。
直後、結衣が立っていた場所を無数の棘が貫通する。結衣の完全な身代わりとなった最後のビヤーキーは、腹部から脳天までを無惨に串刺しにされ、悲鳴を上げる間もなく泥のように形を崩して溶け落ちた。
宙に放り出された結衣は、棘と棘のわずかな隙間へとドサリと落下し、辛くも串刺しを免れた。
「ハァッ、ハァッ……ふざけやがって……!」
天下崎は、長年の修羅場で培われた研ぎ澄まされた反射神経か、奇跡的に棘の直撃を回避していた。
だが、鋭利な棘の何本かは彼のトレンチコートの裾を貫通し、喉元や眼球のわずか数ミリの距離で、ピタリと動きを止めていた。
深田は四人を殺さなかったのではない。わざと『生かした』のだ。
隆起した無数の血の棘は、地面から生えた巨大な刃の森のように四人の周囲を完全に包囲し、強固な檻のように拘束していた。
首筋、腹部、手足の関節。少しでも動けば自らの肉を鋭利な刃で削ぎ落としてしまうほどの異常な密集度で、四人は完全に身動きが取れなくなってしまった。
「チェックメイトだ。……一瞬で終わらせてあげるよ」
絶対的な優位に立ち、勝敗を完全に確信した深田が、まるで虫の息の獲物を見下ろすように冷酷に微笑む。
彼が再び本を開くと、四人をドーム状に閉じ込めている『血の壁』から、先ほどとは比べ物にならない――数千本にも及ぶ、圧倒的な数の血の槍が形成され始めた。
それが一斉に放たれれば、四人の肉体は原型を留めない赤いミンチと化す。逃げ場はなく、防ぐ手段も、避ける隙間も存在しない。
何千もの槍の切っ先が、身動きの取れない四人へと一斉に向けられた。
「さようなら」
深田が本を持つ手を、無造作に振り下ろした。
何千もの槍が一斉に射出されようとした、まさにそのコンマ一秒の隙間だった。
突如として、四人をドーム状に閉じ込めていた『血の結界』と、そのさらに外側で学校全体を覆っていた『薄黒い結界』の天井に。
外側の空から、巨大な亀裂がピキリと走ったのだ。
「……おや?」
深田が怪訝そうに目を細めた次の瞬間。
圧倒的な『熱』の爆発と共に、外界とを隔絶していた二重の分厚い結界が、まるで熱したフライパンの上の飴細工のようにドロドロに溶け落ち、大音響を立てて一気に崩壊した。
空の天井から雪崩れ込んできたのは、血の雨ではない。
夜の闇を真昼のように真っ白に染め上げるほどの、凄まじい温度を伴った『百熱の炎』だった。
「……ッ!?」
深田の顔から、余裕の笑みが完全に消え去り、初めて明確な驚きと焦りが浮かんだ。
天空から降り注いだ百熱の炎は、四人に向かって放たれようとしていた数千の血の槍を空中で一瞬にして蒸発させると、そのまま巨大な火竜のようにうねりを上げ、深田自身へと真っ直ぐに襲いかかった。
「チッ……!」
深田は忌々しげに舌打ちをし、咄嗟に足元の血を巻き上げて分厚い防壁を何層にも展開する。
だが、その炎の熱量は尋常ではなかった。血の防壁が触れた端から凄まじい勢いでジュウウウッと蒸発し、深田はその圧倒的な火力を前に、大きく後方へと跳躍して距離を取ることを余儀なくされた。
血の結界と薄黒い結界が完全に打ち払われ、夢見ヶ原高校のグラウンドに、厚い雲に覆われた本来の夜空が現れた。
周囲を囲んでいた血の棘も、深田の魔力が乱れたことで維持できなくなり、ドロドロの液体へと還って、四人を縛っていた刃の檻が解け落ちた。
「ゴホッ、ゲホッ……なんだ、今度は……!」
天下崎が咽せ返りながら、ふらつく足で立ち上がる。凪と翼も、傷を押さえながら周囲を警戒した。
「炎……? いったい、何が起きたんだ……」
翼がむせながら顔を上げる。
陽炎が揺らめく炎の壁の向こう側――崩壊した結界の煙の中から、ゆっくりと一つの人影が歩み出てきた。
その人物は、頭から深くフードを被った『黄色いレインコートの男』だった。
男の右手首――レインコートの袖口から微かに覗く位置には、燃え盛る炎の光を吸い込んだように妖しく輝く『朱色の宝石がついた腕時計』が嵌められている。
「黄色いレインコート……教団か!?」
天下崎がガタッと身をすくませて、リボルバーを構え直し警戒の声を上げる。
男は一切言葉を発しなかった。ただ、深く被ったフードの奥から、無言で炎の向こうの深田を見据えている。
「あ……」
結衣は、自分たちを窮地から救ったその見知らぬ男の背中と、腕に光る朱色の宝石に、ほんの僅かな既視感――胸がざわつくような不思議で強烈な感覚を覚えた。
だが、絶え間ない恐怖と混乱で限界を迎えていた彼女の脳は、それが誰のものか、はっきりと思考を結ぶことができなかった。
圧倒的な死の淵から一転。
突如として乱入してきた『百熱の炎』を操る黄色いレインコートの男を前にして、深田はじめは口元の血を拭いながら、忌々しげに舌打ちをした。
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