第二十八話 鮮血の結界①
夢見ヶ原高校のグラウンドは、いまだに薄暗い闇が広がっていた。
学校の敷地全体を巨大なドーム状にすっぽりと覆い隠している『薄黒い結界』は、依然として健在している。
分厚い半透明の膜が、本来の夜の闇や街の明かりを完全に遮断し、外界から隔絶されたこの空間には、異様で重苦しい緊張感が充満していた。
「さて、極上の絶望と言ったけれど……まずは舞台を整えないとね」
深田はじめは、暗闇の中で対峙する四人の必死の覚悟などどこ吹く風とばかりに、余裕の笑みを口元にべったりと貼り付けたまま、右手の指を高く掲げた。
パチン、と。
乾いた指の鳴る音が、静まり返った結界内の校庭に響き渡る。
その直後だった。
凪が暴風の魔術で吹き飛ばし、巨大な大穴が開いたままになっている体育館の薄暗い奥底から、異常なまでの数の『足音』が聞こえ始めたのだ。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……。
一糸乱れぬ、軍隊の行進のような無機質な靴音の重なり。
「……な、なんだ?」
天下崎が顔を引き攣らせ、油断なくリボルバーを構えたまま体育館の大穴へと視線を向ける。凪たちもまた、その信じられない光景に一斉に息を呑んだ。
先ほどまで、霧の魔術によって意識を完全に奪われ、水浸しの床に折り重なるようにして気絶していたはずの、数百人にも及ぶ全校生徒たち。
彼らが、まるで目に見えない太い糸で吊り上げられた操り人形のように、カクカクとした不自然な動作で一斉に立ち上がったのだ。
彼らは一言も言葉を発することなく、虚ろで焦点の合わない瞳を真っ直ぐに向けたまま、不気味なほど整然と隊列を組んで歩みを進めてくる。
大穴から暗いグラウンドへ、あるいは校舎の渡り廊下や各フロアの窓際へと、まるで盤上のチェスの駒が初期配置につくかのように、学校全体へと散開していく。
「おい、お前ら! 何してんだ、正気に戻れ!」
天下崎が腹の底から怒鳴り声を上げるが、生徒たちはピクリとも反応しない。
その虚ろな群衆の中には、昨日教室で良平をニヤニヤと嘲笑っていたいじめの主犯格たちや、見て見ぬふりをしていたクラスメイトたち、さらには白衣を着た理科教師などの姿も混ざっていた。
「無駄だよ。彼らの意識と肉体は、とうの昔に僕が完全に支配しているからね」
深田は、まるで自分の作り上げた最高傑作のオーケストラを披露する狂った指揮者のように、恍惚とした表情で両手を大きく広げた。
「さあ、僕らの偉大なる主のために……死んでくれ」
その血も凍るような絶対的な命令が下された、その瞬間。
校内の至る所に散らばった数百人もの生徒たちが、一斉に制服の懐から『赤色の液体が満たされた注射器』を取り出し、一切の躊躇なく、自身の首筋へと深く突き立てたのだ。
(……まさかっ!)
凪は戦慄した。全身の血の気が引き、強烈な吐き気が込み上げてくる。
直感だった。嫌な予感がした。
実験、膨大な魔力の抽出、そして『人工的な混血』。つい先ほど、体育館の中で良平が破裂する前に、深田はじめがペラペラと楽しげに語っていたおぞましい言葉の数々が、今更ながら凪の頭の中で最悪の結末となって結びついたのだ。
「っ……やめろオオオッ!!」
凪が血を吐くような悲鳴を上げ、手を伸ばして駆け出そうとする。
しかし、遅かった。
注射器の液体――深口貿易の段ボールで運び込まれたであろう『深きものの因子』を直接血管に撃ち込まれた生徒たちの身体が、先ほどの良平と全く同じように、メキメキと気味の悪い骨の軋む音を立てて『異様な膨張』を始めたのだ。
だが、良平のように中途半端に深きものの怪物へと変異するプロセスすら、そこにはなかった。
強大すぎる魔力の暴走に細胞が数秒すら耐えきれず、限界を超えて空気を入れられた風船のように、次々と肉体の限界を迎えていく。
――パンッ、グチャアアアッ!!
――ボシュッ、ドパアアアアッ!!
苦痛に満ちた阿鼻叫喚の悲鳴すら、一言も上がらない。
ただ、ただ、何百という人間の肉体が内側から耐えきれずに破裂し、鮮血と内臓、そして砕けた骨の欠片を四方八方へと撒き散らす凄惨な破砕音だけが。
静まり返った薄黒い結界の中に、まるで悪夢の連鎖のように何百回と響き渡った。
「ひっ……ああ、あぁ……」
あまりの地獄絵図に、結衣が両手で顔を覆って悲鳴を飲み込み、翼も顔面を蒼白にしてその場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪える。
破裂した数百人分の肉片と血の雨が、校舎の壁を、窓ガラスを、そして夜の暗闇に沈むグラウンドの土を、赤一色の悍ましい色に染め上げていく。
そして、地面に雨のように散らばったその血肉は、先ほどの良平の最期と全く同じように、シュウシュウと強酸を浴びたような白煙を上げて瞬く間に溶け出し、ドロドロの純粋な魔力へと変質していった。
何百という無数の赤黒い光の帯が、グラウンドの至る所から、ゆらゆらと空中に浮かび上がる。
それらは全て、深田はじめが右手に持つ革装丁の本の表面に刻まれた紋章へと、凄まじい勢いの奔流となって一気に吸い込まれていった。
グラウンドに残されたのは、あちこちに飛び散った制服の布切れと、足の踏み場もないほどに撒き散らされた夥しい量の鮮血の跡だけ。
たった数分の間に、一つの学校にいた全校生徒と教師の命が、まるで羽虫をすり潰すかのように、あまりにもあっけなく消し飛ばされたのだ。
「…………ッ」
天下崎が、血の気を完全に失った唇をわななかせる。
かつて捜査一課の刑事として、数々の陰惨な殺人現場や狂気を見てきた男でさえ。これほどまでに命を軽々と、そして無慈悲に消費する冒涜的な大量虐殺の儀式を前にしては、ただ銃を握ったまま呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
翼と結衣も、あまりの凄惨な光景に声すら出せず、絶望に瞳を大きく見開いて震えている。
そんな四人の様子を、深田は心底愛おしいものを見るような、狂気に満ちた恍惚の目で見つめ返した。
「ああ、素晴らしい魔力だ。予想以上の収穫だよ…」
深田はそう呟くと、莫大な魔力を吸い上げてドクドクと脈打つように禍々しく発光する本を天高く掲げ、その薄い唇から『一音節』の未知の言語を紡ぎ出した。
「――グラァン・ロイグ・フタグン」
それは、人間の発声器官では到底出せないような、重く、粘り気のある悍ましい深海の泥が泡立つような水音の響きだった。
直後。
深田が掲げた手帳サイズの小さな本の中から、物理法則と質量の概念を完全に無視した『致死量の赤い液体』が、まるで決壊した巨大なダムのように凄まじい勢いで噴き出したのだ。
それは紛れもなく、先ほど数百人の生徒たちが命と引き換えに散らした、大量の鮮血の濁流そのものだった。
「な、なんだこれは……!?」
四人が後ずさる間もなく、本から溢れ出した濁流のような血液は、あっという間にグラウンド全体を飲み込み、彼らのスニーカーやブーツを、足首までをすっぽりと覆い尽くした。
だが、異変はそれだけでは終わらない。
グラウンドを完全に埋め尽くした血液は、まるで独自の意志を持ったおぞましい生き物のように校舎の壁や高いフェンスを這い上がり、空に向かって巨大な『血の壁』を形成し始めたのだ。
もともと学校全体を覆っていた『薄黒い結界』のさらに内側を、分厚い鮮血のドームが幾重にも塗り潰していく。
数秒後。
彼らが立っていた夢見ヶ原高校は、上下左右の全てをドクドクと脈打つ赤黒い血液の壁でドーム状に覆い尽くされた、完全に退路のない『鮮血の異世界』へと変貌を遂げていた。




