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箱庭の百合  作者: Kibana
黄昏時に夢をみる
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第二話 6丁目の占い師

――グチャリ。

 自らの頭蓋骨が、巨大な足によって水風船のように容易く踏み潰される。

 鼓膜を内側から突き破るような生々しい骨の破砕音と、脳髄が文字通り弾け飛ぶ究極の苦痛。それを明確に覚悟し、天海翼の意識は途絶えたはずだった。人間という脆弱な器が完全に破壊される、絶対的な『死』の瞬間。

 しかし。


(……痛く、ない……?)


 いつまで経っても、予想していた致死量の苦痛はやってこなかった。

 恐る恐る重い瞼をこじ開けた翼は、己の置かれた状況が瞬時に理解できず、呆然と立ち尽くした。

 つい先ほどまで肺の奥深くまで満たしていた、あの魚の腐ったようなヘドロと血の入り混じった強烈な死臭は、完全に消え去っている。代わりに鼻腔を突くのは、ひどく無機質で、冷え切った空気だった。

 そして何より異様なのは、視界に広がる光景だった。

 そこは、「色」が存在しない空間だった。

 一点の染みもない純白の床が平坦に果てしなく続き、ただ頭上には途方もない虹色の空が広がっている。光と影の概念すら曖昧で、まるで古い白黒写真の中に平面的なシミとして迷い込んでしまったかのような、遠近感の狂う世界。


「はっ……、あ、ああ……っ!?」


 すぐ傍らで、過呼吸気味の引き攣った悲鳴が上がった。

 見れば、数メートル離れた白い床の上に、結衣がへたり込んでいた。彼女は自分の首を両手で必死にさすりながら、信じられないといった顔で何度も首を横に振っている。あの化け物に枯れ枝のように容易くへし折られたはずの彼女の細い首は、奇妙なほど無傷で、白く滑らかな皮膚には痣一つ残っていなかった。


「嘘、だって私……さっき、首の骨が……」


「……クソッ。どうなってやがる」


「僕……お腹、破かれたはずなのに……」


 少し離れた場所では、天下崎が砕かれたはずの肋骨を念入りに確かめ、凪が制服のシャツをめくって、血の気のない自身の腹部を青ざめた顔で見下ろしていた。

 四人とも無事だった。

 いや、「無事」という表現は正しくない。間違いなくあの路地裏で肉体を破壊され、圧倒的な暴力の前に命を散らしたという生々しい記憶があるにもかかわらず、今の彼らの肉体には傷一つ付いていなかったのだ。

 死の感触だけが脳裏にこびりつき、肉体は真新しいままであるという強烈な矛盾。それは彼らの精神を激しく揺さぶり、ひどい船酔いのような吐き気を催させた。


「ここは……あの世ってやつか? それとも、俺たちは集団幻覚でも見ていたのか?」


 天下崎が、周囲の白と黒の空間を鋭く睨みつけながら低く唸った。


「おはよう、夢見る探索者達よ」


 不意に、背後から声がした。

 四人が弾かれたように一斉に振り返ると、そこにはいつの間にか、一人の人物が立っていた。

 黒いシルクハットに、裾の長い重厚な外套。その出で立ちはまるで古典的な手品師のようだが、顔の輪郭は奇妙なテレビの砂嵐のようなノイズがかかっており、年齢も性別も、顔の造作すら判然としない。ただ、その口元だけが、三日月のようにおぞましく、そして愉快そうに歪んで笑っているのだけがはっきりと見て取れた。

 翼の背筋に、氷を滑らせたような冷たい汗が伝う。


(あの留守電の声だ……!)


 無機質で、それでいてひたひたと忍び寄るような不気味な声。今朝、翼をこの六丁目へと誘い出した張本人だ。


「お前は……何者だ。ここはどこだ。俺たちに何をした!」


 天下崎が、油断なく身構えながら男を睨みつけた。


「私ですか? そうですね……強いて名乗るなら、『六丁目の占い師』とでも呼んでいただきましょうか」


 占い師は芝居がかった大げさな動作で一礼すると、白と黒の空間をゆっくりと見渡した。


「ここは生と死の狭間。卓上の外。あるいは、酷く長く、酷く短い『夢の底』とでも言いましょうか」


「夢の底……?」


 翼が呆然とオウム返しにすると、占い師は楽しげに頷いた。


「ええ。あなた方は先ほどの路地裏で、大いなる深海の落とし子たちによって、間違いなく無惨に命を散らしました」


 占い師の無慈悲で断定的な宣告に、結衣がたまらず叫んだ。


「命を散らしたって……じゃあ、ここは地獄なの!? 私たち、本当にあの化け物に殺されたっていうの!?」


「天国でも地獄でもありませんよ。ただ、あの薄暗い路地裏では、あなた方の肉体は今この瞬間も、無惨な肉塊となって転がっていることでしょう」


「ひっ……!」


 結衣が恐怖に顔を覆い、凪もガタガタと震える手で自身の無傷の腹をきつく抱きしめた。

 幻覚ではなかったのだ。あの圧倒的な暴力と、肉体を裂かれる絶望の感触は、紛れもない現実だった。


「ふざけるな。お前があの化け物たちの親玉か!」


 天下崎が怒声を上げた。


「俺たちをこんな場所に集めて、一体どういうつもりだ! あいつらは何なんだ!」


「おや、彼らの親玉などと一緒にされては心外ですね。彼らはただの深海からの使い走り。あなた方人間が束になっても到底敵わない、上位なる存在の矮小な駒の一つに過ぎません」


 占い師は呆れたように肩をすくめ、三日月の口の端をさらに吊り上げた。


「私はただの観測者……いえ、その表現は少し適切ではない。しかし……そうですね、あのように理不尽に命を散らされて、あっけなく夢が終わってしまうのは、少々退屈でして」


「……退屈、だと?」


 翼の口から、這いずるような低い声が漏れた。

「あんたが、俺に電話をかけてきたんだな。『記憶を取り戻したければ六丁目に来い』と。最初から、俺たちがあそこで殺されると分かっていて呼んだのか?」


 翼の言葉に、天下崎たち三人の視線が占い師に突き刺さる。


「ええ、その通りです、天海翼くん」


 占い師は悪びれる様子など微塵もなく、さも当然のことのように頷いた。


「あなただけではありません。そこの天下崎星也くんには匿名の依頼の手紙を送り、白石結衣さんと九条凪くんには、ネットの噂という形で道標を置きました。あなた方は皆、自らの足で、あの死地へと歩みを進めたのです。私が強制したわけではない」


「てめぇ……っ!」


 激昂した天下崎が、殺意を剥き出しにして一歩を踏み出し、占い師の胸ぐらを掴もうと太い腕を伸ばした。

 ――ガンッ!

 しかし、天下崎の拳が占い師に届く直前。見えない硬質なガラスの壁に激突したような鈍い音が響き、天下崎の巨体が大きく後ろへと弾き飛ばされた。


「っ……!?」


「天下崎さん!」


 翼が駆け寄り、白い床に転がった天下崎の背中を支える。


「短絡的な行動はお勧めできません。が、今の行動は許しましょう。身の程というのは、相手を知らなければ分からないのですから」


 占い師は、埃一つ付いていない外套の裾を優雅に払いながら、冷酷に見下ろしてきた。


「あなた方は皆、現状を変えたいと強く願ってここへ来たはずです。失われた二年前の記憶。奪われた大切な命。己の無力感と力への渇望。そして、日常を侵食する悍ましい悪夢。……違いますか?」


 その言葉に、四人は息を呑んだ。

 誰にも言っていないはずの心の最奥の柔らかな部分を、土足で踏みにじられたような感覚。特に凪は「無力感」という言葉に的確に図星を突かれ、ハッと息を漏らした。


「それらに立ち向かうチャンスを、私が与えようと言っているのです」


 占い師は両手を広げ、まるで救世主のような、それでいて悪魔の囁きのような甘い響きで語りかけた。


「理不尽に踏み躙られたあなた方に、私からほんの少しだけ……生と死の境界を越えて現実に舞い戻り、彼ら神話の怪物に抵抗するための力を差し上げましょう。……さあ、どうしますか? このまま無惨な死体として終わるか。それとも、力を手にして自らの運命に抗ってみるか」


 占い師の悪魔的な提案が、色を失った白と黒の空間に静かに響き渡った。

 それは選択などではない。生きるか、死ぬか。答えは最初から一つしか用意されていなかったのだ。


「……ふざけやがって」


 天下崎が、血の滲むような声で吐き捨てた。


「俺はまだ、『あの事故』の真相を暴いていない。こんな得体の知れない路地裏で、あんな気色の悪い化け物の餌になって終わってたまるか」


「僕も……嫌だ」


 凪が、震える両手で自身の両腕を強く抱きしめながら、顔を上げた。


「……やっと病気が治って、明日から学校に行けるはずだったのに。良平とまた映画を見るって、約束したのに……っ。嫌だ。僕はまだ、普通の高校生活を、何も送ってない……っ!」


「私だって……」


 結衣も、涙目で唇を強く噛み締めながら頷いた。


「お兄ちゃんに、絶対にあの夢の意味を突き止めてやるって啖呵切って出てきたんだから。ここで死んだら、ただの馬鹿みたいじゃない」


 三人の言葉を聞き、翼も静かに拳を握りしめた。

 二年前の爆破事故で失った記憶、本当の自分は何者なのか。そして何より、あの小さなアパートで自分の帰りを待っている百合の温かい笑顔。


(あの日常を、俺はまだ手放したくない)


「……俺も、抗う。大切な今を生きるために」


 翼が鋭い視線を真っ直ぐにぶつけると、占い師は満足げに、三日月の口元をさらに深く歪ませた。


「それでは、私からあなた方へ、盤上を生き抜くための『鍵』を差し上げましょう」


 占い師が黒い手袋に包まれた指先を軽く鳴らすと、空間がぐにゃりと歪み、虚空から四つの「石」が浮かび上がった。

 それは、古びた銀の装飾が施された、大ぶりのペンダントだった。


「受け取りなさい。それがあなた方の『力』の証明です」


 占い師の言葉に操られるように、四つのペンダントが空を滑り、それぞれの胸元へとゆっくりと飛来する。

 天下崎の前には、深い海の底を思わせる、冷たい『青』のペンダント。

 凪の前には、荒れ狂う風のように光沢する『赤』のペンダント。

 結衣の前には、狂気を孕んだ星の光のような『黄』のペンダント。

 そして、翼の前には――あらゆる色彩が混ざり合い、宇宙の深淵を覗き込むように蠢く『虹色』のペンダントが浮かんでいた。


「そのペンダントを肌身離さず身に着けている限り、私の加護が消えることはありません。どうか、安心してお使いください」


「……これを、どうしろって言うんだ」


 翼は、目の前で明滅する虹色の石に、恐る恐る右手を伸ばした。

 指先が、冷たい石の表面に触れる。

 ――その、瞬間だった。


「あ……、あ……アアアアアアアッ!?」


 翼の口から、自分でも聞いたことのないような絶叫が迸った。

 ペンダントに触れた指先から、爆発的な『何か』が脳髄へ直接流れ込んできたのだ。

 それは人間の言語ではなかった。知識であり、概念であり、人間の矮小な脳のキャパシティでは到底処理しきれない、宇宙の法則の「真理」だった。

 眼球の裏側を焼き尽くすような、冒涜的な幾何学模様の羅列が脳裏に強制的に焼き付く。頭蓋骨の中に、無理やり泥の濁流を注ぎ込まれているような凄まじい圧迫感。脳の血管が千切れ、神経細胞が悲鳴を上げているのがわかる。


「あ、あああああっ、頭がっ、割れ……っ!」


 翼はペンダントを握りしめたまま、白い床の上を転げ回った。

 隣で、結衣や凪、そして天下崎までもが、同じように頭を抱えて絶叫しているのが、遠いノイズのように聞こえる。

 理性が、人間としての輪郭が、悍ましい魔術の波に呑み込まれてドロドロに溶けていく。理解してはならない神話の力を理解「させられて」しまうことの、根源的な恐怖と激痛。


「ふふ……。素晴らしい。あなた方がこの旅路で多くを得ることができれば、あなた方が長年求めていた渇望への答えは自ずと手に入る事でしょう」


 のたうち回る翼の薄れゆく意識の底に、占い師のひどく楽しげな笑い声が響いた。


「人間という矮小な器で、どこまでその狂気に耐え、足掻くことができるのか。あいにくですが、私の役目ガイドはここまでです。ここから先は、あなた方自身が選択し、運命を切り拓く番ですよ」


 占い師は、芝居がかった動作で深く一礼した。


「ただ、忘れないでください。残された時間は決して無限ではないということを。……それでは、あなた方に『虹の加護』が在らんことを」


 それを最後に、占い師の姿がブレて消えた。

 同時に、白と黒の空間は鏡が割れるように無数のヒビが入り、耳障りな音を立てて粉々に砕け散った。

 強烈な目眩と共に、翼の意識は、再び深い暗黒の底へと引きずり込まれていった。



【2906/2921】



「……っ、はあっ!」


 肺に冷たい空気が流れ込み、翼は弾かれたように目を開けた。

 全身を冷や汗がびっしょりと濡らしている。激しい動悸を抑えながら周囲を見渡すと、そこは白と黒の空間ではなかった。

 冷たいアスファルト。カビと鉄錆が混ざったような、薄暗い裏路地。

 そして、傍らには同じように荒い息を吐きながら立ち上がる、天下崎、凪、結衣の三人の姿があった。

 四人の首元には、あの空間で占い師から渡されたペンダントが、冷たい質量を持って確かにぶら下がっている。


「ここは……六丁目の、路地裏……?」


 結衣が震える声で呟いた。

 殺される前と全く同じ場所だ。しかし、先ほどまで足元に転がっていたはずの自分たちの無惨な死体も、飛び散った血痕も、跡形もなく消え去っている。いや、消え去ったのではない。

 シュー、シュー、という、空気が漏れるような奇妙な音。

 翼たちは息を呑んだ。

 十メートル先の暗闇の曲がり角の奥から、あの化け物たちの粘り気を帯びた異質な呼吸音が聞こえてくる。

 時間が、巻き戻っている。

 あの理不尽な蹂躙が始まる「直前」の路地裏に、彼らは再び立たされているのだ。

 天下崎は自身の胸元を乱暴にまさぐり、硬い感触を掴み出した。


「クソッ……夢じゃねえ。あのイカれた占い師の空間も、俺たちが一度あいつらに殺されたことも、全部現実だったってことか」


 天下崎の分厚い掌の中には、深い海の色をした『青』のペンダントが、薄暗い路地裏の闇の中で不気味な光を放っていた。

 凪も結衣も、そして翼も、それぞれに与えられたペンダントを握りしめている。指先から伝わる冷たい質量が、彼らが「生と死の狭間」から舞い戻ってきたという異常な事実を証明していた。


「僕、本当に生きてる……」


 凪が、破れていない制服のシャツを握りしめ、荒い息を吐きながら言った。


「さっきペンダントに触れた時、頭の中に流れ込んできた『アレ』が……気持ち悪い呪文みたいなものが、まだこびりついてる…うっ……」


「私も……」


 結衣が青ざめた顔で自分の頭を抱え込んだ。


「思い出すだけで吐き気がするのに、どうやって『それ』を為せばいいのか、理屈じゃなくて感覚で分かっちゃうのが……すごく怖い……っ」


 彼女たちの怯えた言葉を聞き、翼は息を呑んだ。

(俺だけじゃない。あの空間で、俺たち全員の頭に、それぞれ異質な『何か』が刻み込まれたんだ)

 翼の脳裏にも、先ほど無理やり流し込まれた『異常な魔術』が、まるで昔から知っていた母国語のように鮮明に浮かび上がっている。他の三人に一体どんな力が宿ったのかは分からない。だが、自分に与えられたこの力を使えば、あの理不尽な化け物たちに対抗できるかもしれない。

 と同時に、人間としての本能が激しく警鐘を鳴らしていた。この力を使えば、自分の中の人間としての『何か』が、決定的に壊れてしまうのではないか、と。


「……シュー、シュー……」


 その時。

 暗闇の曲がり角の奥から、湿り気を帯びた呼吸音が再び聞こえてきた。

 四人の肩が同時にビクリと跳ねる。


「ひっ……!」


 結衣が短く悲鳴を飲み込み、反射的に後ずさった。

 デジャヴではない。つい先ほど、自分たちの命を紙切れのように容易く奪った存在が、間違いなくあの角の先にいるのだ。


「……どうしますか?」


 翼が、冷や汗を流しながら天下崎に視線を向けた。今の状態なら、踵を返して大通りへ逃げ出すこともできるかもしれない。

 しかし、天下崎は首を横に振った。


「まあ、逃げても無駄だろうな。さっきの出来事が本当なら、俺たちは既に化け物の掌の上だ。それに……」


 天下崎は鋭い眼光で、後ろを振り向く。

 そこには、何者かによる半透明なゼリー状の不気味な壁が、帰路を完全に塞いでいた。


「これでも俺は元刑事なんだ。あんなワケの分からねえ化け物がこの街をうろついてるのを、見過ごして逃げる趣味はねえ」


「僕も……戦います」


 凪が、震える両足を叱咤するように一歩前へ出た。


「この『力』が本物なら……僕は、僕の大切なものを守るために使いたい」


 高校生らしからぬ、悲壮なほどの決意を宿した凪の目を見て、結衣も強く唇を噛んだ。


「……わかったわよ。やってやろうじゃない。あの占い師の言ったことが本当なら、私にだってできるはずよ。ここで死んだら、ただの馬鹿みたいだもん」


 三人の覚悟を聞き、翼は深く息を吸い込んだ。

 頭を潰された生々しい記憶がフラッシュバックし、足の震えは止まらない。だが、百合の待つ日常へ帰るためには、ここで引くわけにはいかなかった。


「行きましょう。本当に、時間が巻き戻っているのなら……あの角の先で、女性が襲われているはずです」


 翼の言葉を合図に、四人は息を潜め、暗闇の曲がり角へと足を踏み出した。

 その先に広がっていたのは、彼らの脳裏にこびりついた記憶と、寸分違わぬ絶望の光景だった。

 行き止まりの空間。壁際に追い詰められ、へたり込んでいる黄色いレインコートの小柄な女性。そして、彼女を取り囲むようにして立ち塞がる、三つの巨大な黒いローブの人影。

 四人が足音を立てたことで、三人の黒ローブがゆっくりとこちらへ振り返った。

 街灯の光すら届かない薄暗がりの中、ローブの奥から覗く、魚とカエルを掛け合わせたような醜悪な顔。ぬめぬめと光る白濁した肌と、まぶたのない飛び出した眼球が、再び四人を捉える。

 直面した絶対的な死の気配と、鼻腔を犯す強烈な磯の死臭に、翼はたまらず嘔吐感を覚えたが、今度は必死に奥歯を噛み締めて耐え抜いた。


「ボゴォ……シュル、ルル……」


 化け物たちは、水底で泥が弾けるような言語でやり取りを交わす。

 そして、その中の一体が、人間の言葉を無理やり真似た不快な音声を、喉の奥から絞り出した。


『ソ、コ、ヲ……動、ク、ナ』


 直後、別の化け物が、黄色いレインコートの女性に向けて、鱗に覆われた丸太のような巨腕を高く振り上げる。

 ここまでは、先ほどの死の記憶をなぞるように全く同じ展開だ。だが、ここから先の運命は、すでに彼らの手の中に委ねられていた。

 一度殺されたからこそ分かる、絶望的な強度の差。この理不尽な死地を凌ぐためには、躊躇っている暇など一秒もなかった。

 翼は胸元の『虹色』のペンダントを強く握りしめ、自らの脳髄にこびりついた冒涜的な言葉を、無理やりその口に乗せた。


――【結界の構築】


 翼の口から紡がれたその言葉は、人間が発するべきではない不協和音となって、路地裏の空気をビリリと震わせた。

 直後、翼が握りしめたペンダントから、毒々しいほどに鮮烈な虹色の光が溢れ出す。光は瞬く間に波紋のように広がり、路地裏の空間を切り取るようにして、直径十メートルほどの半球状、虹色の結界を構築した。


「ぐっ、あ……っ!」


 結界が展開された瞬間、翼の脳を目の粗いヤスリで直接削り取られるような、鋭く、そして悍ましい痛みが走った。この人智を超えた空間を維持するための代償として、自らの精神力――正気そのものが、ゴリゴリと音を立ててすり減っていく感覚。

 だが、その狂気の痛みを対価とした魔術の効果は、絶大だった。

 化け物を殴り飛ばそうと駆け出していた天下崎は、己の身体に起きた変化に驚愕し、目を見開いた。


(なんだ……身体が、羽のように軽い。力が湧いてきやがる……!)


 踏み込んだ足に込めた力が爆発し、アスファルトが蜘蛛の巣状に砕ける。自分でも信じられないほどの異常なスピードと跳躍力。翼の結界がもたらした『味方の戦闘能力を飛躍的に向上させる』という恩恵。それだけではない。ペンダントそのものに、身につけた人間の限界を突破させる異常な力が宿っているようだった。

 突然展開された虹色の空間と、人間にはあり得ない速度で肉薄してきた天下崎の姿に、黒ローブの化け物の一体が、飛び出た眼球をギョロリと動かして明らかな動揺を見せた。

 その一瞬の隙を、研ぎ澄まされた闘争本能が逃すはずもなかった。


「オラァッ!!」


 凄まじい踏み込みから放たれた、天下崎の渾身の回し蹴り。

 前回は分厚いゴムタイヤのように威力を吸収されたはずだった。だが、限界を超えて強化された天下崎の一撃は、化け物のブヨブヨとした肉の弾力を容易く貫通し、その奥にある分厚い頭蓋骨を根本から粉砕した。


「ギ、ビェ……っ」


 メキメキと湿った骨の砕ける音が響き、巨体が糸の切れた操り人形のように吹き飛ぶ。そのままコンクリートの壁に激突し、化け物は完全に沈黙した。たった一撃でのノックアウト。


「す、すごい……本当に、倒した……!」


 自分たちの肉体が人間離れしたレベルにまで底上げされていることに翼たちが驚愕する中、同胞を一瞬で殺された別の化け物が激昂し、怒りの矛先を、最も弱そうに見える結衣へと向けた。


「シュルルルルッ!!」


 化け物が巨腕を振り上げ、結衣の細い首をへし折らんと襲い掛かる。

 だが――その動きは、まるで濃密な水飴の中に沈んでいるかのように、ひどく鈍く、遅かった。翼の結界がもたらすもう一つの効果『敵対者の行動を阻害する』という魔術が、化け物の肉体を重い鎖のように縛り付けていたのだ。


「来ないで……っ!」


 化け物の動きが鈍ったその僅かな猶予に、結衣は自らの胸で狂気的な光を放つ『黄』のペンダントを握りしめた。

 彼女の脳内に強制的に流し込まれていた魔術の知識。それは『異界の眷属を召喚し、使役する』というものだった。

 結衣の桜色の唇が、まるで別人のような悍ましいイントネーションで、宇宙の深淵を呼ぶ呪文を紡ぎ出す。

 直後、結衣の横にある建物の側面、そのコンクリートが黒い布を乱暴に引き裂いたかのようにバリバリと音を立てて破れた。

 暗闇の中から這い出してきたのは――名状しがたい、異形の怪物だった。

 巨大なコウモリのような革張りの翼。顔は醜悪な蟻に似ているが、腐敗した人間の死体と猛禽類を無造作につなぎ合わせたような、冒涜的で吐き気を催す容姿。出現した瞬間に、鼻をつく強烈な死臭とアンモニア臭が路地裏に充満する。

 それが『ビヤーキー』と呼ばれる宇宙の生物であることを、知識を植え付けられた結衣だけが理屈抜きに理解していた。


「う、うわああっ……!」


 味方であるはずの天下崎や凪たちでさえ、そのあまりにもグロテスクで生理的嫌悪感を掻き立てる姿に、顔を引きつらせて後ずさった。呼び出した結衣自身も、全身の毛穴が粟立ち、胃液が込み上げてくるほどの不快感と恐怖に襲われている。

 だが、結衣は必死に悲鳴を飲み込み、震える指先で目の前に迫る黒ローブの化け物を指差した。


「あいつを……あいつを、殺してッ!!」


 主の命令を受けたビヤーキーは、鼓膜を劈くような甲高い金切り声を上げた。

 空間を切り裂くようなスピードで黒ローブに飛びかかると、その鋭い鉤爪と牙で、化け物の分厚い肉体を容赦なく引き裂き、生きたまま貪り始める。


「バカナ!?マサカ、オマエハ…ギ、ギャアアアアアアッ!?」


 先ほどまで圧倒的な暴力の化身であったはずの深海の化け物が、宇宙の怪物の前ではただの脆弱な餌に過ぎなかった。悲鳴を上げる間もなく、文字通り八つ裂きにされ、路地裏に鮮血の雨を降らせる。

 結衣が呼び出した異界の怪物による一方的な惨劇は、路地裏のコンクリートを瞬く間に血と臓物の海へと変えた。

 狂乱の中で同胞を蹂躙された最後の黒ローブは、飛び出た濁った眼球をギョロリと動かし、明確な「恐怖」と「焦燥」を露わにした。

 化け物は翼の結界によって鈍った身体を必死に引きずりながら、背を向けて逃亡を図る。向かった先は、路地裏の奥、地面に設置された錆びた鉄のマンホールだった。あの重い蓋を開け、地下の暗渠――彼らの得意な水のある場所へ逃げ込むつもりなのだ。

 しかし、そのマンホールと化け物の直線上に、一人の少年が立っていた。

 凪だ。

 全身を緑の鱗で覆われた巨体が、地響きを立てながら自分に向かって突進してくる。


(止めなきゃ……ここで逃がしたら、また誰かが犠牲になる!)


 凪は頭の中では強く念じていた。だが、両足はコンクリートにボルトで縫い付けられたように、微動だにしなかった。

 無理もなかった。つい数日前までベッドで寝たきりだった、ただの十七歳の高校生なのだ。映画のスクリーンの中で特撮ヒーローに胸を躍らせていたのとは次元が違う。鼻を突く強烈なヘドロの悪臭、目の前で人間を紙切れのように殺した緑色の鱗、そして自身が腹を抉られた生々しい死の記憶。


(なんで……魔術が使えない!?殺される!)


 戦う決意をしたはずの心は、本物の暴力と圧倒的な恐怖の前に、あっけなく麻痺してしまっていた。


『ド、ケェッ……!』


 化け物が血走った眼球で凪を真っ直ぐに睨みつけ、威嚇するように咆哮した。

 鋭い牙の並んだ顎が迫る。凪は恐怖に顔を引きつらせ、ただ強く目を閉じることしかできなかった。


「凪くんッ!!」


 翼の悲鳴に似た叫びが響く。

 だが、距離が遠い。翼も結衣も助けに入るには間に合わない。

 その時、誰よりも早く動いたのは、天下崎だった。


(間に合わねえ……なら、これを使うしかねえ!)


 天下崎は胸元で冷たく脈打つ『青』のペンダントを強く握りしめ、自らの脳にこびりついた悍ましい魔術の詠唱を、無理やり口の端から吐き出した。

 それは、深い海の底の淀んだ泥をすするような、ひどく不快な響きを持った言葉だった。

 直後、化け物の真横にあったレンガ造りの壁が、まるで熱された蝋のようにドロドロと黒く変色した。

 ズチュリ、と。

 不快な水音と共に、壁の黒い染みの中から「それ」が爆発的に飛び出した。

 赤黒く変色した、巨大な筋肉の束。表面に無数の醜悪な吸盤を蠢かせた、太い『不浄の触手』だった。


「なっ……!?」


 呼び出した天下崎自身が、そのあまりにもグロテスクで冒涜的な存在に息を呑んだ。ただ魔法のように敵を魔法陣か何かで拘束する力だと思っていたのだ。まさか、自らの手でこんな気色の悪い深海の肉塊を顕現させてしまうとは。

 放たれた不浄の触手は、獲物に巻き付く大蛇のように黒ローブの胴体に絡みつくと、マンホールへ手を伸ばそうとしていた化け物を強引に壁へと引き摺り倒し、ギリギリと骨が軋むほどに締め上げた。


『ギ、ギィィイッ……!』


 分厚い鱗が剥がれ、化け物が苦悶の声を上げる。

 凪が安堵と恐怖でへたり込み、翼たちがその異様な光景に呆然としていた、その時だった。


「……嘘。まだ動くの?」


 結衣が、信じられないものを見る目で呟いた。

 先ほど、天下崎の蹴りを顔面に浴びて完全に沈黙していたはずの一体が、歪に陥没した頭蓋骨をぐらぐらと揺らしながら、再び立ち上がったのだ。

 しかし、その足取りは完全に狂っていた。焦点の合わない眼球で虚空を見つめながら、まるで何かの見えない糸に操られているかのように、ズル、ズルと這いずるようにマンホールへと向かっていく。

 だが、彼らの命運はそこまでだった。

 突如として、触手に拘束された一体と、マンホールへ這いずっていた一体が、同時に狂ったような痙攣を始めた。


『ゴ、ボオオ……ッ!?』


 化け物たちの肉体が、内側から不自然に膨張し始めたのだ。まるで、深海から一気に海面へと引き上げられ、水圧の変化に耐えきれなくなった深海魚のように。

 皮膚の奥でガスが沸騰するような気味の悪い音が、路地裏に響く。


「危ない、伏せろ!」


 天下崎の怒声と共に、翼たちは咄嗟に両腕で頭を覆い、地面に身を屈めた。


 パンッ!!


 巨大な水風船が割れるような破裂音が、連続して響き渡った。

 黒ローブの男たちの巨大な肉体が、内側から弾け飛んだのだ。緑色の鱗、白濁した肉片、そして悪臭を放つヘドロのような体液が、四方八方に撒き散らされる。

 ほんの数秒前まで四人の命を脅かしていた圧倒的な暴力は、なんの余韻も残さず、ただの腐臭を放つ肉塊の残骸へと変わり果てていた。

 翼の結界が音を立てて霧散し、結衣の呼び出したビヤーキーも、主の強烈な恐怖と拒絶に呼応するように、再び暗闇へと姿を消していく。

 静寂が戻った六丁目の路地裏には、ただ、パラパラと壁から降り注ぐ肉片の音と、四人の荒い呼吸音だけが残されていた。

 だが、その直後。

 地面に散らばった肉片や血溜まりが、シュウシュウという奇妙な音を立てて白煙を上げ始めた。化け物の残骸は、まるで空気に溶けるようにして急速に気化し、数秒後には跡形もなく消え去ってしまった。

 後に残されたのは、血の跡一つない、ただの寂れた薄暗い路地裏。

 まるで、今起きた凄惨な戦いが、すべて幻であったかのように。

【6丁目の占い師】

最近ネットで話題になっている噂話。

「午後6時6分に夢見ヶ原市の6丁目の路地裏に行くと、どんな事でも教えてくれる占い師に会うことができる」

という話がいつからか囁かれるようになり、徐々に形を変えながら今では市内の学生中心に都市伝説のように語られている。


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