第二十六話 殺意
冷たい水に深く浸かった、薄暗い体育館の中。
凪は何も言わず、水浸しの床に座り込んだまま、自身の胸に顔を埋めて泣きじゃくる親友の背中を、泥だらけの冷たい手で何度も優しく撫で続けた。
どれだけの時間が経っただろうか。
やがて、良平の喉の奥から漏れるしゃくり上げるような声が少しずつ小さくなり、彼の小刻みな震えが徐々に治まっていくのを、凪は確かな温もりとして感じ取った。
「……ごめん。凪、ごめん……」
良平はゆっくりと顔を上げ、赤く腫らした涙目で凪を見つめた。
その瞳には、先ほどまでの底知れない狂気と、すべてを塗り潰すようなドス黒い憎悪はすっかり消え去っていた。代わりにそこにあったのは、かつての気弱で、誰よりも心優しかった少年としての、本来の儚い光だった。
「いいって。……お前が正気に戻ってくれたなら、それでいいんだ」
凪は心の底から安心したように短く息を吐き、良平の泥だらけの肩をポンと軽く叩いた。
親友が人殺しの化け物にならずに済んだ。それだけで、凪にとってはどれだけ殴られた痛みも、死にかけた恐怖も、すべてが報われた気がしたのだ。
「けど……一つだけ教えてくれ。お前、さっきのあの力……『魔術』はどうやって手に入れたんだ?」
凪の真剣な問いかけに、良平はハッとして、自分の両手のひらを、まるで信じられない恐ろしいものを見るように見つめた。
つい先ほどまで、大量の水を自在に操り、鋭い針に変え、凪を拘束して窒息させようとした、あの強大で非現実的な力。
「昨日……昼休みの時に、校舎裏に呼び出されたんだ。そこで『ある人』から、この力を貰ったんだ」
「貰った? 誰からだよ……」
「これがあれば、もう二度と理不尽に怯えなくて済む。自分の身は自分で守れるようになるからって……」
良平が、自分を甘い言葉でそそのかしたその人物の名前を口にしようとした、まさにその時だった。
――パチ、パチ、パチ、パチ。
不気味なほどに乾いた拍手の音が、薄暗い体育館の重い沈黙を切り裂いて、ひどく場違いに響き渡った。
「素晴らしい。実に感動的な、青春の友情劇だね」
「……!?」
凪と良平が弾かれたように声のした方向――体育館の入り口の深い暗がりへと、一斉に視線を向けた瞬間だった。
ドゴオオオオンッ!!
「ぐッッ!?」
一切の予備動作も、魔力の立ち上る気配すらもなく。
暗闇の奥底から唐突に弾け飛んできた巨大で悍ましい『触手』が、無防備だった凪の腹部を容赦なく、凄まじい質量で打ち据えた。
内臓がすべて破裂するかのような、目の前が真っ白になるほどの激痛。
凪の身体は水飛沫を激しく上げて空中を舞い、そのまま後方のコンクリートの壁へと、恐ろしい勢いで叩きつけられた。
「凪ッ!!」
良平が悲鳴を上げる。
壁に打ち付けられた凪は、肺から空気をすべて絞り出され、口から胃液と血を吐き出しながら、水浸しの床へと無様に崩れ落ちた。
全身の骨が悲鳴を上げて軋み、視界が激しく明滅する。しかし、凪は霞む目を必死に開いて顔を上げ、悠然と歩み寄ってくるその『人影』を射抜くように睨みつけた。
薄闇の中から、ピチャリ、ピチャリと靴音を響かせて姿を現したのは。
一切の乱れのない整った制服に身を包み、優等生然とした冷たい微笑みを口元に浮かべた男子生徒。
夢見ヶ原高校の生徒会長であり、昨日、凪にあの不気味な作り笑いを向けてきた男――深田はじめだった。
「いやぁ、本当にいいものを見せてもらったよ。君たちの友情、最高に美しかった」
深田はじめは、水浸しの床を歩きながら、革靴でピチャリとわざとらしい音を立てて立ち止まった。
その口元には、昨日凪に向けたような人間を模倣した作り笑いではなく。他人の極限の絶望を心底から舐め回すように楽しむ、ぞっとするほど邪悪で、冷酷な笑みがべったりと張り付いている。
「……深田、はじめ……ッ」
壁の前に倒れ伏した凪が、腹部の激痛に耐えてギリッと歯を食いしばりながら呻き声を上げると、深田は心底不思議そうに首を傾げ、クスクスと肩を揺らして笑った。
「それにしても、君が起きていたのには驚いたな。この学校を覆っている霧は、外の霧とは一味違くてね。対象の意識を強制的に奪う魔術なんだ。本来、術者である良平くんや、我々のような深きものの血がある者には効かないんだけど……まさか良平くんが、無意識のうちに自分の親友である君だけを『対象外』に設定していたとはね。おかげで、退屈な実験の合間に最高の見世物を楽しめたよ」
そのひどく残酷な言葉を聞いた良平は、怒りよりも先に、状況に対する理解が完全に追いついていない様子で、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「か、会長……? 今、なんて……」
良平の口から、ひび割れて震える声が漏れる。
「良平くん。君の母親を殺して、あの手紙を置いたのは僕だよ。極限の絶望と憎悪は、人間を最も美しく変化させる、一番効率が良い最高のスパイスだからね。……でも、君がこの部外者に絆されて、せっかくの牙を折られてしまうのは、少し計算外だったな」
「僕の母さんを……殺したって……? だって、会長は昨日、僕を助けてくれるって……理不尽から救ってくれるって言って、僕にこの力を……」
「力は本物だったろう? その力は、君を理不尽な目に合わせてきてそこに転がる人間を、君がずっと憎悪を抱いてきた人間を最も簡単に殺せる。目には目を、理不尽には理不尽をってね。まあその理不尽を与えるよう命令してたのは、他ならない僕なんだけどね」
良平の足がガクガクと震え、顔面から急速に血の気が引いていく。
自分を陰湿ないじめを受けていた時、会長は親身に話を聞き、心の支えになっていた。数少ない理解者であり救世主だと思っていた。自分に立ち向かう力を与えてくれた恩人だと、心の底から信じていた。
その相手が、自分の最も愛する母親を惨殺した張本人だという絶対的な事実を、良平の精神はどうしても処理しきれなかったのだ。
「あぁ…母親の死体を見た時の君の絶望……想像しただけで傑作だったなぁ」
深田は、まるで面白い映画の感想でも語るかのように、心底おかしそうに肩を揺らして笑った。
「あ……あ、あ……」
良平は膝から崩れ落ち、何もない虚空を見つめたまま、壊れたおもちゃのようにうわ言を繰り返し始めた。
強すぎるショックと、信じていたものに根底から裏切られた絶望で、完全に心がフリーズしてしまったのだ。
その様をみて深田は、本を手に持ちながら、体育館の壁にある時計に目を向ける。
「そろそろかな…」
「……え?」
良平の動きが、ピタリと止まる。
次の瞬間。
「あ、アガッ、ァ、アアアアアアアッ!!」
良平の口から、先ほどの悲嘆の叫びや人間の発する声とは全く違う、言語を絶するような、肉体が内側から引き裂かれる激痛の悲鳴が迸った。
「良平ッ!!」
凪が痛みを堪えて這いずり、親友に手を伸ばそうとするが、目の前で起こり始めた異常な光景に、全身の血の気が一瞬にして完全に引いた。
良平の身体が、メキメキ、バキィッ、と、気味の悪い骨の軋む音を立てて『異様な膨張』を始めたのだ。
細身だった制服が内側から無残に引き裂かれ、露出した肌が人間のものではない、ぬめりを帯びた青緑色の硬い鱗に急速に覆われていく。
顔の骨格が異様に前に伸び、耳の下の首筋には魚のようなエラが深く裂け、バタバタと痙攣する手足には、水かきのような不気味な膜が張り出していく。
それは、もはや人間ではない。
六丁目の路地裏で天下崎たちが戦っていたあの化け物――『深きもの』と人間の中間のような、あまりにも醜悪で冒涜的な、悍ましい怪物の姿だった。
それが、つい先ほどまで自分と額を突き合わせ、涙を流して抱き合っていた親友の成れの果てだという現実。凪の脳は、その圧倒的な不条理を激しく拒絶した。
「良、平……? おい……良平ッ!!」
凪が血を吐くように叫ぶと、深田はじめは開いた本を片手に持ちながら、恍惚とした表情で怪物の身体を眺め回した。
「素晴らしい。やはり肉体の変化はどうにもならなかったが、でも今までで一番の成功だよ! ……僕が彼に授けたあの魔術はね、本来我々『深きもの』にしか使えない代物なんだよ。ただの人間が使えば、たちまち肉体と精神が強烈な負荷に耐えきれず壊れてしまう」
深田はまるで、理科の実験結果を観察する優等生のような、ひどく無機質で冷酷な声で語り続けた。
「それを無理矢理人間に適応させ、深きものの因子を強制的に引き出す。……うん、実験はここまでは大成功だね。でも、本当の問題はここからなんだ」
深田がパチンと指を鳴らすと、怪物と化した良平の、側頭部まで離れた濁った巨大な眼球が、ギョロリと凪の方を向いた。
「さあ、やれ。君のその素晴らしい親友を、粉々に引き裂いて殺すんだ」
「ガ、アァァ……ッ」
深田の絶対的な命令に従い、良平だった怪物は、まるで糸の切れた操り人形のようにカクカクとした不自然な動きで、壁際に倒れる凪へと歩み寄ってきた。
その鋭い鉤爪の生えた水かきのある手が、凪の顔面に向かって、無慈悲に高く振り下ろされる。
「くっ……!」
壁に叩きつけられて身動きが取れない凪は、咄嗟に両腕を交差して顔を庇った。
――しかし。
ボフッ。
凪の腕に当たったその拳は、怪物の巨体から繰り出されたとは到底思えないほど、拍子抜けするほどに『弱々しかった』。
次いで放たれた蹴りも、まるで幼児がじゃれついているかのように、何の力も、そして凪を殺そうとする殺意も込められていなかったのだ。
「……良平?」
凪が恐る恐る腕の隙間から見上げると、怪物の身体に、致命的な『異変』が起きていることに気づいた。
良平の身体を覆っていた青緑色の鱗が、まるで火に炙られた蝋のようにドロドロと溶け出し、ポロポロと床に崩れ落ち始めていたのだ。
急激な変異に肉体が限界を迎え、深きものの強大な魔力に耐えきれずに、細胞レベルでの自壊を始めている。
「ア……ガ、……な、……」
怪物は、いや、良平は、崩れゆく醜悪な顔を苦痛に歪め、濁った巨大な瞳から、ポロポロと透明な涙をこぼしていた。
「な、……ぎ……」
エラの裂けた喉の奥から、確かに親友の名前を呼ぶ、ひどく掠れた、優しい声が聞こえた。
「良へ...」
凪が叫んで、その溶けゆく鱗まみれの手を強く握りしめようとした、まさに次の瞬間だった。
――グチャアアアアアアッ!!!
凄まじい破裂音と共に、怪物の身体が、まるで限界まで空気を入れた風船のように、内側から一気に弾け飛んだ。
大量の血と肉片が、体育館の壁と、手を伸ばした凪の全身にべっとりと降り注ぐ。
「ぇ……」
凪の目の前で、水浸しの床に散らばった良平の肉片と体液が、まるで強酸を浴びたかのようにシュウシュウと白煙を上げ、不気味な音を立てて急速に溶け始めた。
溶けてドロドロの液体状のナニカへと変質したそれは、まるで強力な掃除機に吸い込まれるかのように空中に浮かび上がり、深田が手に持っている革装丁の本の紫色の紋章の中へと、凄まじい勢いで全て吸い込まれていった。
ほんの数秒後には。
凪の顔にこびりついた生温かい血の感触と、親友だった少年の欠片一つすら残らない、あまりにも残酷なほどの空白だけが残された。
「…………」
凪は壁に背を預けたまま、水浸しの床にペタンと座り込んでいた。
声も、悲鳴すらも出なかった。
ただ、焦点の合わない虚ろな瞳で、何もなくなった目の前の空間を無表情に見つめている。
頭の中が、完全に真っ白になっていた。
つい先ほどまで、泥だらけになって抱き合い、お互いの弱さをぶつけ合った親友。世界で一番優しかったはずの親友が、自分の目の前で異形の怪物にされ、操られ、そして跡形もなく破裂して消え去ったのだ。
そのあまりにも現実離れした不条理と残酷な光景に、凪の精神は防衛本能から一切の思考と感情を強制的にシャットダウンしてしまっていた。
「うーん……なるほどね」
深田はじめは本をパタンと閉じ、満足げに表面の紋章を撫でた。
「やっぱり、いくら血を混ぜても加工品じゃ我々の魔術を適応させてるのは、かなり無理があるみたいだ。魔術使用後の五分程度が限界って所かな。魔力の抽出量は申し分ないけど、兵隊としては使い捨てだな」
親友の凄惨な死を前にして、まるで失敗した理科の実験レポートをまとめるような、あまりにも軽薄で冷酷な態度。
だが、凪はピクリとも動かない。瞬きすら忘れ、ただ呼吸だけを繰り返す抜け殻と化していた。
深田はそんな凪の絶望しきった無反応な姿を、心底愉快そうに見下ろした。
「あはは、完全に壊れちゃったみたいだね。でも、君も一応、僕らの実験に付き合ってくれた素晴らしい観客だ。せっかくだから、ネタバラシをしてあげようか」
深田は水浸しの床をゆっくりと歩き回りながら、楽しげに語り始めた。
「僕たちが推し進めている計画にはね、偉大なる我らの主を呼び寄せるために、とてつもなく膨大な『魔力』が必要なんだよ」
「本当はあのデパートの爆破跡地が、一番都合が良かったんだけどね。……あそこには、ちょっと厄介な邪魔者が居座っているせいで、大規模な儀式をするのが難しかったんだ」
深田が、黄色いレインコートの教団を思い出したのか、忌々しそうに目を細める。
「だから、別の方法で魔力を集めることにした。……知ってるかい? 我々『深きもの』はね、特殊な性質を持っていて、死ぬと肉体が溶けて純粋な魔力となって消えるんだ。さっき君の親友がそうなったようにね」
深田は倒れ伏す全校生徒たちの間を縫うように歩き、その一人を革靴の先端で無造作に小突いた。
「人間の中には、ごく稀に我々との混血が混ざっているんだよ。彼らの中には、三十代前後に成長すると徐々に深きものの血に覚醒し、眷属へと変貌を遂げる者がいる。……もっとも、今の時代は血が薄まりすぎていて、自然に覚醒するなんてことは殆どないんだけどね。実際、この一年半で百人も集まらなかった。だから僕は、人間に深きものの血を混ぜて、無理やり人工的な『混血』を作ろうとしたんだ。そうすれば、死んだ時に莫大な魔力を回収できるバッテリーになるからね」
そこで深田は足を止め、再び壁際で座り込む凪の方へと視線を向けた。
「その『養殖場』として、この学校を選んだ。……どうも成人後の大人だと、血が上手く混ざらずにただ死んでしまう確率が高くてね。未熟で、多感で、絶望や狂気に染まりやすい高校生くらいが、一番『混ざりやすい』んだよ。……君の親友は、その中でも最高の被検体だったね」
深田はじめが、水浸しの床の上で何かをペラペラと楽しげに喋り続けている。
だが、壁に背を預けて座り込む凪の耳には、その言葉の欠片すら一切届いていなかった。鼓膜を揺らすのは、自らのひどく冷たい心臓の音と、脳裏にこびりついて離れない『良平が破裂した時の音』だけだ。
『同じように人を殺したら、お前まであいつらと同じ化け物になっちまうんだぞ』
『どれだけ理不尽だろうが、立ち向かうのがヒーローなんじゃないのか!』
たった数分前、狂気に呑まれた親友に向かって自分が放った必死の説得。
その言葉の数々が、今になっておぞましい呪いのように凪の脳内を駆け巡り、激しく自身を嘲笑っていた。
「なんて浅薄で、傲慢で、反吐が出るほど空っぽな『綺麗事』だ」
凪の脳内で、凪自身の声が語りかける。これが幻聴か、それとも自身の本心かも凪は分からない。
だが凪は今、文字通り痛いほどに理解していた。世界で一番大切だった親友を理不尽に蹂躙され、目の前で肉片一つ残さず消し去られるという、絶対的で圧倒的な『喪失』を味わった今。
「――良平が、最愛の母親の死体を見た時にどれほどの絶望と憎悪を抱いたか。それをお前は、何も失っていない安全な場所から見下ろして、無責任で薄っぺらい正義感を押し付けていたんだよ」
(……違う)
「お前は臆病で、自分勝手で、本当は他人の痛みなんぞこれっぽっちも考えていない」
(……違う……俺は……)
「自分が安全圏にいるから、そんな綺麗事が言えた。なんて薄っぺらい正義感だ。どれだけ理不尽でも立ち向かうのが『ヒーロー』だなんて、反吐が出る」
(違う……! 俺、は……)
「良平を救いたかったんじゃない。お前はただ、自分が安心したかっただけだ。『狂ってしまった親友を、己の言葉で救い出した』という、三文芝居のような甘ったるい結果と自己満足が欲しかっただけなんだよ」
(俺は……)
「じゃあ、お前の中にあるその感情はなんだ?」
凪の心の中で、つい先ほどまで良平を抱きしめていた『自分自身』が、音を立てて完全に崩壊し、死に絶えた。
絶望で真っ白に染まっていた脳髄に、ドス黒いインクが一滴落ち、瞬く間に全体をどろどろに塗り潰していく。
残されたのは、悲しみでも、恐怖でもなかった。
ただ一つの、恐ろしく純粋で、原始的な感情。
先程親友を説得した男の言葉が本当なら、出るはずのない感情。
殺す。
息の根を止めるなんて生温かいものではない。四肢を物理的に引きちぎり、その余裕ぶった顔面を原型がなくなるまで削り落とし、良平が味わった以上の苦痛を与えて、無惨に殺してやる。
復讐という名の漆黒の殺意が、凪の焦点の合っていなかった虚ろな瞳に、底知れぬ暗い火を灯した。
その極限の憎悪に呼応するように。
凪の首から下がっていた『赤いペンダント』が、脈打つように光を放ち始めた。
だがそれは、先ほど彼を水死の危機から救ったような、鮮やかで力強い真紅の光ではない。
まるで空気に触れてドロドロに酸化した『血』のような、どす黒く禍々しい、赤黒い光だった。
ヒュオオオ……。
凪の足元の水面が、不気味に波立ち始める。
静まり返っていた体育館の中に、凪の底無しの殺意を乗せた、刃のように冷たく鋭い風が巻き起こり始めていた。
水浸しの床がザワザワと波立ち、水面に反射していたわずかな光が、凪の胸元から放たれる『赤黒い光』によって禍々しく塗り潰されていく。
「おや……?」
とうに心が壊れ、動くことすらできない抜け殻になったと思い込んでいた凪の異変に、深田はじめはピタリと口を動かすのをやめた。
壁に背を預けていた凪が、ゆっくりと、まるで墓底から這い上がる幽鬼のように立ち上がったのだ。
先ほど触手で内臓を打たれたはずの激痛は、すでに感じなかった。肉体の限界を、脳を焦がすほどの異常なアドレナリンと、ドス黒い憎悪が完全に麻痺させていた。
「ふーん……まだ動けるんだね。意外とタフなんだ」
深田は余裕の笑みを崩さず、足元で吹き荒れ始めた異常な風の魔力を見下ろした。だが深田が何を言おうと、凪の心にはもはや一文字の言葉も響かなかった。
焦点の合っていなかった凪の死んだ瞳の奥には今、たった一つのものしか映っていない。
口元に張り付いた作り笑い。親友を怪物に変え、もてあそび、肉片すら残さず溶かして消し去った、目の前の悪魔の顔。
ただ、それだけだ。
自分の命がどうなってもいい。翼や結衣を助けることすら、今の凪の思考からは完全に抜け落ちていた。
ただ目の前の男を、この世の誰よりも無惨に、苦痛に泣き叫ばせながら殺し尽くす。
そのためだけに、凪の心臓はどくどくと赤黒い血を全身に送り出していた。
不意に、深田のスマホがポケットで揺れると、彼はすぐに光る画面を見て、歪んだ笑みを見せる。
「本当は、じっくりと君たちと、その胸の石について聞き出してから殺そうと思ってたんだけど……もうそんな事する必要もなさそうだし」
深田は革装丁の本を開き、表面の紋章を不気味な『紫色』に発光させた。悍ましい触手が絡み合った様な模様のものだ。
「これ以上、僕たちの崇高な計画の邪魔をされても困るしね」
その本から赤い液体がドロドロと地面に降り注がれると、そこからぬめりを帯びた巨大な『タコのような触手』が、何本も這い出してきた。
先ほど凪を壁まで吹き飛ばしたその不気味な部位には、赤黒い吸盤がびっしりと並び、本と同じ紫色の魔力を毒々しく脈打たせながら、獲物を狙う蛇のように鎌首をもたげている。
対する凪も、バシャッ……と重い足取りで一歩、深田へと向かって足を踏み出した。
胸元のペンダントが、凪の漆黒の殺意を吸い上げて限界まで明滅し、体育館中の空気を鋭い刃のような暴風へと変えていく。
「そろそろ、退屈なおしゃべりは終わりにしようか……じゃあ……」
深田が冷酷な宣告と共に、巨大なタコの触手を凪へと一斉に放った。
同時に、凪もまた、『暴風』の魔術を放ち触手を全て切り裂く。
極限まで圧縮された二つの魔力が激突する、そのコンマ一秒の隙間。
交わるはずのない二人の意志が、ただ一つの『殺意』という点においてのみ、不気味なほど完璧に重なり合った。
「...殺してやる」
「無様に死ね」
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