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箱庭の百合  作者: Kibana
黄昏時に夢をみる
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第二十五話 赤いペンダント

「どうして、なんで……!」


 凪が震える声で問いかけると、良平は血に濡れた顔で、ひどく冷たく凪を見下ろした。


「……お前には、関係ないだろ」


 そのたった一言は、これまで二人が何年もかけて築いてきた親友という関係を根底から否定するような、絶対的で冷酷な拒絶だった。

 凪の胸が、鋭いナイフで抉られたようにギリッと痛む。


「関係ないわけないだろ! 頼むから冷静になれよ、良平! お前は今、明らかに正気じゃない!」


 凪はバシャリと床から立ち上がり、再び説得の声を張り上げた。


「こんな力を使って人を傷つけたって、おばさんは喜ばない! そんなことしても、何も解決しないじゃないか!」


「うるさいッ!!」


 良平の眼差しから、最後の理性の光が完全に消え去った。

 彼は血まみれの拳を強く握り直すと、バシャバシャと激しい水音を立てながら、凪に向かって一直線に走り出した。あの運動音痴で走るのが遅かった良平とは思えない、野生の獣のような凄まじいスピードと殺気だった。


「くそっ……!」


 凪は咄嗟に身構え、親友の突進を避けようと足を動かした。

 しかし――動かない。

 ズブッ、という気味の悪い感触。視線を落とすと、いつの間にか凪の足元を満たしていた『水』が、まるで意思を持ったスライムのように泥状に変化し、スニーカーから足首にかけて強固に絡みつき、地面に完全に縫い付けていたのだ。


「なっ……!?」


 水による拘束。魔術で完全に動きを封じられ、避けることも防御することもできない凪の顔面に、一切の躊躇なく振り抜かれた良平の重い拳が、まともに突き刺さった。


 ――ゴッ!!


「ぐああッ……!」


 脳髄が激しく揺らされ、口の中から生暖かい鉄の味が広がった。

 凪は拘束された足のせいで倒れることすらできず、そのままくの字に折れ曲がって苦悶の呻き声を上げた。


「……凪。お前は、甘いんだよ」


 良平は血に染まった拳を下ろし、荒い息を吐きながら、凪の耳元で氷のように冷たい声で囁いた。


「お前は、人間の本当の『腹黒さ』や『残酷さ』を知らないんだ。世の中の人間は、テレビに映るドラマやアニメのヒーローみたいに単純じゃないんだよ。……あいつらを見てよ」


 良平は、顔面を殴られて気を失っているいじめっ子たちや、気絶しているクラスメイトたちを顎でしゃくった。


「人間は、時には自分のちっぽけな利益や優越感のために、簡単に他人を陥れる。そして周りの連中も、それが理不尽だと知っていながら、自分が次の標的になるのが怖いから、ただ見て見ぬふりをするんだ。他人がどれだけ苦しんでいようが、平気で見捨てる。……自分より他人のために生きられる人間なんて、この世には居ないんだよ。物語にでてくるどんな敵役より、悪役よりよっぽど嫌な化け物だよ、人間っていう生物は」


 良平の言葉は、ただの魔術による錯乱ではなく。彼が昨日までこの学校という閉鎖空間で、たった一人で耐え続けてきた純粋な絶望の吐露だった。


「集団を『正義』だと盲信すれば、間違ったことでさえ『正解』になる。……人間なんて、簡単に人を殺せるんだよ。僕の母さんが殺されたようにね」


(……だが)


 凪は口の中に広がる血の味をペッと吐き捨てると、水に拘束された両足を必死に引き抜こうとしながら、良平の暗い瞳を真っ直ぐに睨み返した。


「……だからって」


 凪は息を荒げ、腹の底から、魂を振り絞るように声を絞り出した。


「だからってお前が、こいつらを殺していい理由にはならないだろ! 自分の母親を殺されて苦しいのは分かる! だけど、同じように人を殺したら、お前まであいつらと同じ化け物になっちまうんだぞ!」


「化け物でいいさ。母さんを殺した奴らと同じ目に遭わせてやれるなら」


「ふざけんなッ!!」


 凪は激怒し、水飛沫を上げて良平の胸ぐらを掴もうと両手を伸ばしたが、良平は冷たく、無造作にその手を払いのけた。


「ヒーローになりたいって……昨日、河川敷で夕日を見ながら語ったお前のあの夢は、どうしたんだよ!!」


 凪の悲痛な叫びが、薄暗い体育館に響き渡った。


『僕は君みたいに私利私欲じゃなくて、自分の信念を持って行動できる人間になりたいって思ったんだ』


 あの日、涙を流しながら自分を信じてくれた親友の言葉。あれが全部嘘だったはずがない。凪はそう信じたかった。

 しかし、良平の瞳には、かつての温かい光は微塵も灯っていなかった。


「……ヒーロー? 現実にそんなもの、いるわけないだろ」


 良平は自嘲気味に冷たく笑い、見下すような視線を凪に向けた。


「理想はただの理想だ。どれだけ綺麗事を並べたって、現実は残酷で、理不尽で、誰も助けてなんかくれない。何故なら皆、自分が生きやすくなる為に他人を犠牲にする事を厭わないからだ。だから僕も、自分の為に生きる。その為なら人だって殺すさ」


「じゃあ……じゃあ、あの時の言葉は全部嘘だったのかよ!」


 凪は水に拘束された足を力任せに、皮膚が擦り切れるのも構わずに引き剥がし、一歩、良平へと近付いた。


「人間が腹黒くて、残酷で、理不尽なことなんて、最初から分かってただろ! それでも……どれだけ理不尽だろうが、絶望だろうが、それでも立ち上がって、その理不尽に立ち向かうのが『ヒーロー』なんじゃないのか!お前はそんな人間になりたかったんじゃないのかよ!!」


「うるさいうるさいッ!!」


 凪の言葉が、良平の心の奥底にあった『かつての自分』を容赦なく抉り出したのだろう。

 良平は激昂し、両手を大きく天へと掲げた。


 ――ゴパァッ!


 その瞬間、凪の足元を満たしていた水が、まるで巨大な蛇のように激しくうねりながら一気にせり上がってきた。


「なっ……!」


 声を発する間もなく、大量の冷たい水が巨大な『塊』となって、凪の頭から顔面全体を完全に覆い尽くした。


「お前に、僕の何が分かるんだ!!」


 良平の狂気に満ちた叫び声が、分厚い水を通してくぐもって聞こえる。

 凪は目を見開き、両手で顔を覆う水の塊を引き剥がそうと必死にもがいた。

 だが、水は強力な魔術の力で接着剤のように顔に張り付き、決して離れようとしない。

 気道が完全に塞がれ、酸素を求める肺が強烈な痛みを伴って悲鳴を上げ始める。


(息が……!)


 このままでは、本当に親友の手で窒息死させられてしまう。

 薄れゆく意識の中、凪の脳裏に、あの茜色の夕日の下で語り合った親友の穏やかな笑顔が、走馬灯のように浮かんでは消えていった。

 ゴボッ、と口から溢れた酸素の泡が、顔面を覆う水の塊の中で虚しく弾ける。

 視界の端から急速に黒いモヤが浸食し、凪の意識は抗いがたい死の淵へと引きずり込まれそうになっていた。


(このままじゃ……死ぬ……)


 薄れゆく意識の中、凪の脳裏をよぎったのは、自身の死への恐怖よりも強い『後悔』だった。

 もしここで自分が死んでしまったら、良平は完全に人殺しの化け物に成り果ててしまう。誰が彼を絶望の底から引き摺り上げるというのか。自分しかいないのに。自分だけは、こいつを絶対に諦めちゃいけないのに。


(ふざけるな……。こんなところで、終われるかよッ!)


 凪は最後の力を振り絞り、胸元で硬く冷たくなっていた『赤いペンダント』を、震える両手で力の限り握りしめた。


「……ッ、が、あああッ!!」


 声にならない咆哮と共に、凪の強烈な『意志』がペンダントへと流れ込む。

 その瞬間。まるで心臓の鼓動に呼応するように、赤い石が内側から爆発的な真紅の光を放った。

 次の瞬間、薄暗い体育館の中心で、凄まじい突風が巻き起こった。


 ドゴオオオオンッ!!


 台風の目から生み出されたような圧倒的な風の塊が、凪の顔面を覆っていた大量の水を一瞬にして四方八方へと吹き飛ばす。

 爆風は体育館の壁を激しく揺らし、残っていた窓ガラスをことごとく粉砕し、床に溜まっていた水を巨大な波紋に変えて周囲へと弾き飛ばした。


「なっ……魔術!? お前も……!」


 突如として巻き起こった暴風に、良平が驚愕に目を見開き、腕で顔を庇って数歩たじろぐ。

 顔を覆っていた水が消え去り、凪は「がはっ、ゴホッ、はぁっ、はぁっ……!」と激しく咽せながら、新鮮な空気を肺の奥底まで貪り食った。

 視界がクリアになる。足元の拘束も、暴風によってすでに吹き飛んでいた。

 凪は乱れた呼吸のまま、弾き飛ばした水の勢いと、吹き荒れる風の余韻を背中に受けるようにして、水浸しの床を強く蹴り飛ばした。


「良平エエエッ!!」


 一気に間合いを詰め、渾身の力を込めた右ストレートを、驚愕で硬直する良平の顔面へと真正面から叩き込んだ。


 ――ガァンッ!!


「ぐはっ……!?」


 鈍い音と共に、良平の身体が水飛沫を上げて後ろへと大きく吹っ飛び、床を無様に転がった。

 凪は赤く腫れ上がった拳を震わせながら、倒れ込んだ親友に向かって、これまで隠し続けてきた自分の醜くも切実な本音を、血を吐くような叫び声でぶちまけた。


「……あの時、言ってたよな! 俺は私利私欲ではなく、信念を持って動けるって。でも俺は! お前が思ってるよりずっと臆病で、弱い人間なんだよ!!」


「……何を……」


「昨日だってそうだ! 翼さんたちが命懸けで危険なことに挑もうとしているのに、俺はどこかで他人事みたいに思ってて、一緒に立ち向かう勇気なんて、これっぽっちもなかったんだ!」


 ポタポタと、凪の目から大粒の涙が溢れ出し、水浸しの床に落ちていく。

 ヒーローになんてなれない。ただの弱虫で、逃げ出したかっただけの自分。そんな情けない自分を、良平は「真っ直ぐだ」と信じてくれたのだ。


「俺からすればな……!!」


 凪は喉を嗄らし、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら叫んだ。


「俺がいない間、こんな学校で一人でひたすら理不尽な苦痛に耐え続けて……どんなに心がぶっ壊れそうになっても、俺にそれを悟らせまいと必死に笑ってくれた……お前の方が! そうだ、昔から俺にない強さを持ってたお前が……俺にとってはずっと、『憧れ』だったんだよ!!」


 その言葉に、頬を押さえて立ち上がろうとしていた良平の肩が、ビクンと大きく跳ねた。


「おばさんを殺されたのが許せない気持ちも、気が狂うほど苦しいのも分かる……。でも、今の良平は俺の知ってるお前じゃない! お前はそんな奴じゃなかっただろッ!!」


 凪の血を吐くような叫びが、薄暗い体育館の空気に痛いほど響き渡った。

 殴られて水浸しの床に倒れ込んでいた良平は、乱れた前髪の奥から、憎悪と悲哀がぐちゃぐちゃに混ざり合った双眸で凪を睨みつけた。


「……お前に、何が分かるッ!」


 良平は床の水を乱暴に叩きつけ、ひび割れた声で絶叫した。


「何も失っていないお前に……平和な日常に帰れるお前に! たった一人の家族をあんな無惨に殺された、僕のこの痛みの何が分かるって言うんだよ!!」


 それは、どうしようもない事実だった。

 凪には帰る家があり、待ってくれている家族がいる。良平の心にぽっかりと空いた、真っ暗で巨大な喪失感を、凪が完全に理解することなど一生できない。


「ああ、分からねぇよ! お前の本当の苦しみなんて、俺には到底分かりきれない!」


 凪は良平の悲痛な叫びから目を逸らさず、バシャバシャと水音を立てて歩み寄った。そして、床に座り込んで叫ぶ親友の胸ぐらを両手で強く掴み、己の額を、良平の額に力強くゴツンとぶつけた。


「痛っ……!」


「けどな……その底無しの苦しみを、お前一人で抱え込むなッ!」


 至近距離で交差する視線。凪の目から溢れた涙が、良平の頬へとポタポタと零れ落ちる。


「俺は友達だろ……お前の、一番の『親友』だろうが!!」


「……っ」


「辛かったら俺にぶつけろ! 世界中を殺したいくらい憎いなら、何度でも俺を殴れ! だけど……お前を人殺しになんて、絶対にさせない。お前がその暗闇から立ち上がるまで、俺は何度突き放されても、絶対にお前を諦めない!!」


 凪は掴んでいた胸ぐらを離し、そのまま良平の震える背中に腕を回して、泥だらけで血まみれの親友を力強く抱きしめた。


「俺が知っている良平は、こんなところで化け物に成り下がるような奴じゃない。……お前なら、必ずまた立ち上がれる。俺はそう信じてるんだよ……ッ」


 その言葉は、冷たく凍りついていた良平の心を、内側から強烈に溶かしていった。

『親友』。

 自分をゴミのように扱ってきたこの狂った学校の中で、そして最愛の母を失った絶望の世界で。

 ただ一人、自分を諦めず、泥まみれになりながら本気で泣いて、怒って、抱きしめてくれる存在。


「な、ぎ……」


 良平の虚勢が、音を立てて崩れ落ちた。

 彼の手から力が抜け、周囲に漂っていた微かな魔力の残滓も、ふっと霧散して消え去った。


「あああ……あ、ああああああああッ……!!」


 良平は凪の胸に顔を埋め、まるで幼い子供のように声を上げて泣き崩れた。

 殺意も、憎悪も、すべてが涙となって溢れ出し、薄暗い体育館の中に、ただ一人の少年の痛切な慟哭だけが響き渡る。

 凪は何も言わず、ただ強く歯を食いしばりながら、冷たい水の中で崩れ落ちた親友の背中を、何度も何度も力強く叩き、そして優しく撫で続けた。

 外の分厚い結界に閉ざされた夢見ヶ原高校の体育館で。

 二人の少年は、互いの痛みを分け合うように、いつまでも肩を震わせて泣き続けていた。

【暴風】

周囲に荒れ狂う風を発生させる。

対象に向けて放つこともできれば、自身に纏わせることもできる。

対象者の感情の起伏によって威力は変化する。

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