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箱庭の百合  作者: Kibana
黄昏時に夢をみる
27/43

第二十四話 復讐者

「翼さん……結衣さん、いますか?」


 1階の廊下は、2階よりもさらに薄暗かった。

 巨大なドーム状の結界のせいで窓の外が異様に暗闇に沈んでいるため、まるで光の届かない深い海の底を一人で歩いているような、息の詰まるような不気味な圧迫感があった。

 凪は声を極限まで潜めながら、玄関へと向かった。

 しかし、そこにあるのは無機質な下駄箱が並ぶ空間だけで、翼と結衣の姿はどこにもない。

 ひとまず1階を探索しているはずの結衣を探すために、凪は彼女が向かったはずの職員室や保健室、1年生の教室の扉を順に少しだけ開き、中を覗き込んでいった。


「……おかしい。どこにもいない」


 いくら校舎が広いとはいえ、同じフロアを探索しているのなら、足音や衣擦れ、微かな気配くらいは感じるはずだ。

 しかし、薄暗い1階の廊下には、凪自身の激しく脈打つ心臓の音だけが嫌に大きく響いているだけで、結衣の姿はおろか、彼女が残したはずの痕跡すら全く見当たらなかった。

 外界から完全に隔離され、連絡も取れず、頼りにしていた仲間の一人が忽然と姿を消した。

 得体の知れない不安と根源的な恐怖が、凪の足元からじわじわと這い上がってくる。

 結衣の姿を探して薄暗い1階の廊下をさらに奥へと進むうち、凪は不意に、自分の足元への強烈な違和感を覚えた。


 ――ピチャリ。

 スニーカーのゴム底が、硬いフローリングを叩く乾いた音ではなく、ひどく湿り気を帯びた『水音』を立てたのだ。


「……水?」


 凪が視線を落とすと、いつの間にか廊下の床一面が、足首が完全に浸かるほどの冷たい『水』で覆い尽くされていた。

 雨漏りや水道管の破裂などというレベルの量ではない。

 まるで校舎の中に本物の川が流れ込んできたかのように、どこからか絶え間なく大量の水が溢れ出し、薄暗い廊下をじわじわと、しかし確実に侵食している。


(どこから、こんな大量の水が流れてきているんだ……?)


 不気味なほどの静寂の中、凪の耳に微かな水音が届いた。

 ジャーーーッ、という、勢いよく水が床に叩きつけられる音だ。

 凪は足首にまとわりつく冷たい水を掻き分けながら、水音のする方――廊下の突き当たりにある、薄暗い手洗い場へと向かった。

 近づくにつれて、音ははっきりと大きくなる。

 手洗い場に着くと、並んだ十個近い銀色の蛇口が、限界まで全開にひねられていた。

 排水溝は詰まっているのか、何かで塞がっているのか、吐き出された大量の水がシンクから豪快に溢れ出し、滝のように床へと流れ落ちて、この異様な水浸しの廊下を作り出していたのだ。


「誰がこんなこと……」


 凪は訝しみながら近づき、冷たい水飛沫を顔や制服に浴びながら、勢いよく吐き出されている蛇口のハンドルを、両手で力一杯ひねって閉めた。

 キュッ、と古い金属が軋む音がして、水の勢いがピタリと止まる。

 先ほどまでの激しい水音が完全に消え、校舎は再び、耳鳴りがするほどの重く、息苦しい静寂に包まれた。

 凪は荒くなった呼吸を整え、ふと、水面が静まった足元の床へと視線を落とした。

 凪が力強く閉めた蛇口から生じた最後の一滴の波紋は凪の足元を通り過ぎ、まるで何かに導かれるように、あるいは何らかの巨大な『振動』に共鳴して引き寄せられるように、ある一方向へと向かって、スーッと真っ直ぐに広がっていく。

 チャプ、チャプ、と。

 薄暗い廊下の先。波紋がぶつかり、絶え間なく静かに揺れている場所。

 凪がその波紋の行き先をゆっくりと目で追っていくと、そこには、重厚な鉄の扉が固く閉ざされた体育館の入り口があった。

 凪は覚悟を決めるように深く、深く息を吸い込むと、冷たい水に浸かった重い足を引き摺りながら、体育館の入り口へと向かった。

 冷え切った両手で重厚な鉄の扉の取っ手を掴み、体重を乗せてゆっくりと押し開ける。

 ギィイイ……と、油の切れた蝶番が、地獄の門が開くような耳障りな音を立てて鳴り響いた。

 扉の向こうに広がっていたのは、ひどく薄暗くなった広大な空間だった。

 そして、その広大な床一面には、先ほどの廊下と同じように、足首がすっぽりと浸かるほどの冷たい水が張られている。


 ――ドスッ、メチャッ。

 ――ドスッ、ゴスッ。

 静まり返った巨大な空間に、肉が潰れ、硬い骨が鈍く砕けるような、ひどく生々しく、暴力的で単調な音が反響していた。


「……!?」


 凪が息を呑み、震える視線を向けた先。体育館の中央。

 そこに、見慣れた制服姿の少年がいた。

 親友の、志村良平だ。

 だが、その姿は、凪が知っている大人しくて気が弱く、誰にでも優しかった親友のものではなかった。

 良平は、水浸しの床に倒れた一人の男子生徒の上に馬乗りになり、完全に無表情のまま、血に染まった右の拳を何度も何度も、親の仇でも討つように力任せに振り下ろしていたのだ。

 殴られているのは、昨日、教室で良平をニヤニヤと嘲笑っていた、いじめの主犯格らしき生徒だ。

 すでにその顔面は原型を留めないほどに赤黒く腫れ上がり、完全に意識を失ってぐったりとしているのに、良平の拳はまるで壊れた機械のように、無慈悲に急所を打ち付け続けている。


「な、何してんだよ……」


 凪は震える足を踏み出し、さらに周囲の薄暗い空間を見渡して、完全に絶句した。

 水浸しの床に倒れているのは、そのいじめっ子だけではない。

 昨日、教室で良平を遠巻きに見て笑っていたクラスメイトたち、さらには見知らぬ他学年の生徒たちまで――いや、違う。この夢見ヶ原高校の『全校生徒』と思われる数百人もの人間が、体育館の床でピクリとも動かずに転がっていたのだ。


「何してんだよ、良平ッ!!」


 凪が喉を裂くように声を枯らして叫ぶと、馬乗りになっていた良平の血まみれの拳が、ピタリと空中で止まった。

 ゆっくりと、首だけがギギギと機械のようにこちらを向く。

 長い前髪の隙間から覗く良平の瞳には、かつての温かな光や人間らしい感情は微塵も残っておらず。

 ただ底なしのどす黒い憎悪と、すべてを破壊し尽くさんとする純粋な狂気だけが、ドロドロとタールのように渦巻いていた。


「……ああ、凪か」


 良平は血まみれの拳からボタボタと赤い雫を垂らしながら、ひどく平坦な、感情の完全に抜け落ちた声で呟いた。


「やめろ! そいつ、もう気絶してるじゃないか! なんでこんな……何してるんだよ!」


「なんでって? 決まってるじゃないか」


 良平は、足元で血を流す生徒の髪を乱暴に掴み上げ、凪の方へとその無惨に潰れた顔を見せつけた。


「こいつらの中に、あの『黄衣の王』とやらを書いたふざけた紙切れを置いた奴が、いるかもしれないんだ。あの手紙を家に置いて、僕の母さんを……あんな酷い目に遭わせた張本人が、このゴミみたいな連中の中に隠れてるかもしれないだろ? だから、吐くまで一人ずつ殴り続けてるだけさ」


「そんな訳ないだろ! そいつらはただの生徒だ、お前を呼び出した奴らとは絶対に違う!」


 凪が必死に説得しようと、バシャリと水音を立てて一歩踏み出した時。

 水面に倒れ伏す群衆の中に、見覚えのある服装を二つ見つけて、凪は心臓を氷で鷲掴みにされたように息を呑んだ。


「……っ、翼さん!? 結衣さんまで……!」


 体育館の隅。暗がりの水の中に、大人の男と女が折り重なるようにして倒れ、完全に意識を失っていた。


「やめろ良平! そんな事をして、何になるんだ!」


 凪の必死の叫びは、しかし、狂気に呑まれた今の良平の耳には全く届かなかった。


「うるさいな…」


 良平は血まみれの拳を頭に当て、髪をブチブチと掻き毟りながら、殺意に満ちた声を広大な体育館に響かせた。


「こいつらは今まで散々僕をいじめてきたんだ。凪が病院にいていない間ずっと、僕をゴミみたいに笑って、理不尽に踏み躙ってきたんだ。どうだい…例え黄衣の王とやらに関係なくても、果たしてコイツらを生かす必要って、ある?」


「……必要とか…そういう話じゃないだろ!よく状況を見ろ!どう考えても異常だ、これはお前を呼び寄せる為の罠……」


(罠……そもそもどうして学校に良平を呼び寄せる必要があった。この濃霧、水、外の結界。どう考えても何者かによるもの。俺が良平のアパートに着いた時、良平は居なかった。既に学校に来ていたのなら、これまでの時間何故その何者かは良平に手を出さなかった……)


 自らの発言に違和感を覚え始めていた凪の思考を掻き消すように良平は叫ぶ。


「もう理屈じゃないんだよ……母さんが……世界で一番優しかった僕の母さんが殺されてたんだぞ!!」


 首のない母親の凄惨な死体と、辺り一面の血の海。

 凪の脳裏にも、先ほどアパートで目の当たりにした地獄のような光景がフラッシュバックする。

 最愛の家族をあんな無惨な形で奪われ、親友が正気を失い狂気に走るのも無理はない。凪だって、良平の胸ぐらを掴んで一緒に泣き叫んでやりたかった。一緒に世界を憎んでやりたかった。


 だが、だからといって、このまま親友を「人殺し」の化け物にさせるわけには絶対に及ばない。翼たち大人も倒れている今、ここで良平を止められるのは自分しかいないのだ。

 凪はギリッと歯を食いしばり、水浸しの床を蹴って良平へと猛然と駆け出した。


「目ぇ覚ませ、良平ッ!!」


 凪は固く握った右の拳で、良平の胸ぐらを掴もうと懐へ飛び込もうとした。

 しかし、良平は迫り来る凪から目を逸らすことなく、ただ静かに、血に濡れた右手をスッと天井に向けて高く掲げた。


 ――ピチャァッ。

 その瞬間、体育館の床を満たしていた冷たい水が、重力を完全に無視して不自然に宙へと浮かび上がった。

 無数の水滴が、まるで確かな殺意を持った生き物のように蠢きながら空中で凝縮され、鋭く研ぎ澄まされた『無数の水の針』へと一瞬にして形を変えていく。


「……え?」


 凪が空中で信じられないものを見るように目を見開いた直後、良平が掲げた手を無造作に、氷のように冷たく振り下ろした。


「邪魔をするなよ、凪……」


 ヒュンッ!! という空気を切り裂く恐ろしい風切り音と共に、無数の水の針が、散弾銃のような凄まじい速度で凪へと向かって放たれた。


「っ!?」


 凪は咄嗟に身をよじり、水浸しの床へと無様に転がり込んだ。

 直後、凪の頭上数センチをかすめ飛んだ水の針の群れが、背後の体育館の壁に凄まじい勢いで突き刺さった。

 ドスドスドスッ! という鈍い破壊音と共に分厚いコンクリートの壁に無数の深い穴が穿たれ、さらに上空へと逸れた無数の針が、体育館の二階部分にある大きな窓ガラスをことごとく粉砕した。


 ガシャアアァンッ!!


 鋭いガラス片と水しぶきが、冷たい雨のように凪の背中に降り注ぐ。

 背筋が完全に凍りついた。

 もし直撃していれば、凪の体は間違いなく蜂の巣にされ、即死していた。良平は今、魔術の力を使って、本気で自分を『殺そうと』攻撃してきたのだ。

 背後の壁に穿たれた無数の穴から目を離し、凪は水浸しの床に這いつくばったまま、目の前で静かに手を下ろす親友を見上げた。


「……良平、お前……」


 その信じられない光景に、凪の喉がヒュッと鳴った。

 あの大人しくて、虫も殺せないほど気が弱かったはずの親友が。翼たちと同じように、あるいはそれ以上に恐ろしい、人を殺すための『魔術』を自在に操っていた。

【水の針】

周囲の水を操り、鋭い針のように対象へと飛ばす事ができる。

壁などに激突した場合、針は元の水に戻る。

使用者の精神を削ることで威力は向上する。

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