第二十三話 霧の結界
視界のすべてを白く塗り潰す、分厚く灰色の濃霧。
それにすっぽりと包み込まれ、外界から完全に隔絶された夢見ヶ原高校。
翼と凪が、肺を焼き切らんばかりに息を切らしてその正門前に辿り着いた時。周囲に漂う空気は、凪が昨日逃げるようにして飛び出した時とは比べ物にならないほど、ひどく異様で、重く淀みきっていた。
堅牢な造りの巨大な鉄格子の校門は、まるで獲物を迎え入れるかのように不気味なほど大きく、両側に開け放たれている。
しかし、門の奥へと足を踏み入れようとしても、立ち込める異常な濃霧が幾重にも層を成して立ち塞がり、広大なグラウンドはおろか、すぐ先にあるはずの校舎の外観すらまったく視認することができない。
「……ここからじゃ、中の様子は何も見えないな」
翼が鋭い視線で霧の奥を睨みつけ、極限の警戒を保ちながら校門の敷居を跨ごうとした、その時だった。
「翼さん! 凪くん!」
背後の霧の奥から、ひどく息を切らした結衣の声が響き、彼女が足早に駆けつけてきた。
翼の送ったグループチャットの危機を知らせるメッセージを見て、一目散に急行してきたのだ。
彼女の青白い顔にはまだ恐怖の余波が色濃く残っていたが、その瞳には、仲間を放っては置けないという強い意志の光が宿っていた。
「結衣さん! 来てくれたんですね」
翼が安堵の声を漏らすと、結衣は乱れた息を整えながら小さく頷き、次いでその鋭い視線を隣で息を呑んでいる凪へと向けた。
「当たり前でしょ! ……それにしても凪くん、あなたねぇ」
結衣はジロリと凪を睨みつけ、呆れたような、しかしどこかひどく心配そうな声で叱責した。
「少しくらい、周りの大人を頼りなさいよ。私たち、一応『仲間』なんだから」
「……結衣さん」
小言の中に明確に含まれた「仲間」という言葉の温かさに、凪は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
情けなさやちっぽけなプライドは、もうとうの昔に消え去っていた。
凪は深く、深く頭を下げて、搾り出すように口を開いた。
「……本当に、ありがとうございます」
凪の口からこぼれた、彼ら年上に対する真っ直ぐな言葉。それは、無理に距離を置こうとする壁ではなく、彼ら大人たちへの純粋な敬意と、心からの感謝の表れだった。
「さて、天下崎さんは……まだ連絡がつかないわね」
結衣が自身のスマートフォンを取り出し、トーク画面を確認するが、既読のマークはつかないままだ。
何らかのトラブルに巻き込まれているのか、あるいは単独の事情で自ら通信を絶っているのか。彼の安否は気にかかるが、いつまでもここで立ち止まっている余裕はなかった。
「どうする? 天下崎さんが来るのを待つ?」
「……いや、事態は一刻を争うかもしれない。黄衣の教団が直接関与しているなら、凪くんの友達や、今朝登校していったという他の生徒たちの命が危ない。天下崎さんにはメッセージを残して、俺たちだけで中に入りましょう」
翼の迷いのない決断に、結衣と凪も無言で、しかし力強く頷いた。
三人は横に並んで重い校門をくぐり、視界を白く塗り潰す濃霧の中を、足音を殺しながら慎重に進む。
やがて、白い霧の奥からぼんやりと浮かび上がってきた、静まり返った校舎の昇降口へと、三人はゆっくりと足を踏み入れた。
冷たいコンクリートの校舎の中へ足を踏み入れると、外の荒れ狂うような濃霧が嘘のように、空気の動きが完全に止まった。
まるで巨大な冷蔵庫の中に閉じ込められたかのように、ひんやりと冷たく淀んだ静寂が、三人の身体を重く包み込んだ。
休校日とはいえ、あまりにも生気がない。
天井の蛍光灯の明かりはすべて落ちており、窓から差し込むはずの自然光も分厚い灰色の霧に完全に遮られているため、昼間だというのに深夜のように薄暗い。長く伸びる廊下には、早朝に登校してきたはずの生徒たちの気配どころか、埃一つ落ちる物音すら響いていなかった。
「……誰もいないわね。本当に今日、ここで何かが行われているの?」
結衣が恐怖を紛らわせるように、自身の肩を抱きながら不安げに周囲を見渡す。
昨日、凪が肌で感じたという、生徒たちや魚顔の教師が放っていた狂信的な熱気は、微塵も感じられない。
だが、その「完全な無」こそが、逆に巨大な化け物の胃袋の中に立たされているような、あるいは巧妙に仕掛けられた巨大な罠の口の中に自ら飛び込んでしまったような、異様なまでの緊張感を煽っていた。
「油断はできません。これだけの霧だと、どこにどんな連中が隠れているか分かりませんからね」
翼は極限まで声を潜め、コートのポケットからスマートフォンを取り出して、結衣と凪に光る画面を見せた。
「この広い校舎を、三人一緒に回っていたら時間がかかりすぎます。良平くんを早く見つけ出すために、手分けして各フロアを探索しましょう。ただし、絶対に無理はしないこと。何か少しでも異変を感じたら、戦おうとせずにすぐにグループチャットで連絡を取り合ってください。いいですね?」
「分かったわ。私は1階を探す」
「じゃあ、僕は2階を探します。……僕の教室と、良平の教室がある階なんで」
「分かりました。俺は3階です。……くれぐれも、気をつけて」
三人は暗闇の中で短く頷き合うと、それぞれが重い決意を胸に、静まり返った階段へと散っていった。
凪は息を殺して薄暗い階段を上り、2階の廊下へと足を踏み入れた。
自分の教室、そして親友の良平の教室がある、見慣れたはずのフロア。
日常の喧騒と、退屈な授業、放課後の笑い声で溢れていたはずのその場所は、今は一切の色と音を失い、完全に隔絶された不気味な異界のように感じられた。
「……良平」
凪は声を出さずに唇だけでその名を紡ぎ、足音を極限まで殺しながら、手当たり次第に教室の引き戸を少しだけ開け、中を覗き込んでいった。
2年A組、B組、C組……。
どの教室も、無機質な机と椅子が整然と並んでいるだけで、良平の姿はおろか、早朝に集まったという誰かが最近までそこにいた痕跡すら、埃一つ乱れず見当たらない。
(どこに行ったんだ。あの手紙に『学校で待つ』って書いてあったなら、この校舎のどこかに、確実にいるはずなのに……)
冷や汗が背中を伝う。
焦燥感に駆られながら、まるで無限に続くように思える薄暗い廊下を進んでいくと、やがてフロアの最奥にある『化学室』の前へと辿り着いた。
他の教室の扉はすべてきっちりと閉まっていたのに、この化学室の重い引き戸だけが、不自然に半分ほど開け放たれている。
凪はごくりと固唾を呑み、首から下げた『赤いペンダント』を服の上からギュッと強く握りしめ、魔術の石の冷たい感触から勇気をもらうと、そっと化学室の中へと顔を覗かせた。
静まり返った室内には、薬品特有のツンとするアルコールの匂いと、古い埃の匂いが混ざり合って重く充満していた。
理科用の黒い実験台が整然と並んでいるが、やはりここにも生徒の姿はない。
だが、凪の視線はすぐに、部屋の奥にある教師用の大きな実験台の上へと釘付けになった。
実験台の上には、いくつもの大きな段ボール箱が無造作に、天井に届きそうなほど積み上げられていたのだ。昨日、深田はじめが何かを運び込ませていた、あの不審な箱の山だ。
不気味なのは、そのすべての箱の上面が、ガムテープごとビリビリと乱暴に引き裂かれ、すでに「開封済み」の状態になっていたことだ。
凪は警戒しながらゆっくりと近づき、段ボールの側面に貼られている伝票の印字に目を凝らした。
『発送元:深口貿易 品名:実験用特殊資材』
深口貿易。
昨日、翼たちが調べてくれた、実態のないあのペーパーカンパニーだ。
凪は恐る恐る、一番手前にある引き裂かれた段ボールの中を覗き込んだ。
(……空っぽだ)
隣の箱も、その隣の箱も。積み上げられた十個近い巨大な段ボール箱の中身は、すべて綺麗に無くなっていた。緩衝材の切れ端すら残っていない、完全な空洞だ。
(『実験用特殊資材』って、一体何を運んできたんだ? それに、こんな大量の荷物を、どこに持ち運んだっていうんだ……?)
嫌な汗が全身から噴き出す。
何かが、確実に始まっている。あるいは、すでに手遅れの段階まで進んでしまっているのかもしれない。
「……早く、翼さんたちに知らせないと」
凪は焦ってズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、グループチャットの画面を開いた。
しかし、メッセージを打ち込もうとした指がピタリと空中で凍りついた。
「……嘘だろ。圏外?」
画面の左上、電波状況を示すアンテナのマークが、一本も立たずに完全に「×」印になっていたのだ。
何度か機内モードをオンオフしてみたり、スマートフォンを頭上高く掲げてみたりしたが、電波を拾う気配はまったくない。つい先ほど、校門の前で結衣と合流した時までは、確実に普通に繋がっていたはずなのに。
この異常な濃霧のせいだろうか、と訝しんだ凪は、スマートフォンを握りしめたまま化学室の窓ガラスへと近づき、外の様子を窺おうとした。
「……っ!? なんだ、あれ……」
凪は大きく息を呑み、冷たい窓ガラスに顔がへばりつくほど近づいて、目を限界まで見開いた。
白く濁った濃霧の向こう側。
自分たちがつい先ほどくぐり抜けてきた正門の鉄格子を境界線にして、学校の敷地全体をすっぽりとドーム状に覆い隠すように、巨大な『薄黒い膜』が張られていたのだ。
半透明で、まるで巨大な深海魚の皮膚のように気味悪くウネウネと蠢くその結界のせいで、学校の外の道路や街の景色は完全に遮断され、一切見えなくなっている。
光も、電波も、音すらも、すべてを飲み込む絶対的な隔離空間。
(閉じ込められた……!?)
連絡が取れないのも当然だ。この夢見ヶ原高校はすでに、外界の物理法則から完全に切り離された、狂気の手による『異空間』へと変貌してしまっている。
一人でこのまま、連絡手段もない状態で2階の探索を続けるべきか。それとも、一度1階へ降りて合流し、この異常な状況を共有すべきか。
極度の緊張と恐怖に冷や汗を流しながら、凪は一旦1階へと降りることを決断した。
三人が最初に別れたのは昇降口のある玄関だ。ならば、異常事態に気づいた二人も、自ずと共通の知っているあの場所へ集まるはずだ。
凪は化学室を飛び出し、足音を殺して静かな階段を駆け下りた。
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