第二十二話 仲間
灰色の濃霧に沈む冷え切ったベンチで、互いの孤独を曝け出し、不器用ながらも確かな絆でようやく心を通わせた翼と百合。
二人はこの後、視界の悪いこの街でどう動くべきか話し合っていたが、翼のコートのポケットで沈黙を続けるスマートフォンには、百合を無事に発見したという報告以降、誰からも何の返信も来ていなかった。
「……遅いな。天下崎さんも、結衣さんも、凪くんも」
翼がグループチャットの画面を見つめながら、ぽつりと不安をこぼす。
百合の無事を知らせるメッセージには、結衣から『了解。よかった!』と安堵の返信が一度あったきり、その後はぱったりと連絡が途絶えている。既読すらつかない者もおり、分厚い灰色の濃霧と相まって、翼の胸の奥底に得体の知れない黒い予感がどんよりと渦巻いていた。
「ねえ、翼」
隣に座っていた百合が、ふと翼のコートの袖を引っ張り、大通りの向こう側を小さな指で指し示した。
「あそこ走ってる高校生、こんな霧の中、なんであんなに急いで走ってるんだろうね。寝坊したのかな」
「え……?」
翼が視線を向けると、濃霧で白く霞む交差点の向こうを、異常なほどの猛スピードで駆け抜けていく見覚えのある制服姿があった。
凪だ。だが、その様子は明らかにおかしい。朝寝坊などという生易しいものではない。顔面は土気色に青ざめ、何かに追われているかのように、あるいは何かに取り憑かれたように、肺を軋ませて必死な形相でアスファルトを蹴りつけている。
「凪くんッ!」
翼は弾かれたようにベンチから立ち上がり、百合の小さな手を引いて、白い霧の中へ消えかける彼の後を慌てて追いかけた。
大通りの角を曲がったところで、息を切らして膝に手をついていた凪の肩を、背後から強く掴む。
「……っ!? ……翼、さん」
ビクッと大きく肩を震わせて振り返った凪の目は、睡眠不足と極度のパニックでひどく血走っていた。
「驚かせてごめん。チャットの連絡がつかなかったから心配してたんだ」
翼が真剣な顔で尋ねると、凪は一瞬だけ、すべてを投げ出して泣き出しそうな子供の顔をした。しかし、すぐにそれを隠すように乱暴に視線を逸らし、ひどく刺々しい、自嘲気味な言葉を吐き出した。
「……別に、あなたたちに教えるほどの情報がなかっただけです。僕はあなたたちみたいに、過去の記憶を取り戻すとか、真相を知りたいとか、そういう立派な目的があるわけじゃない。ただの偶然、巻き込まれただけなんですよ」
「凪くん……」
「それに、僕がいなくても、あなたたち大人だけで順調に調査を進めていたみたいですし。僕みたいな何もできない子供が首を突っ込む必要、最初からなかったんでしょう」
それは、異常な世界から逃げ出そうとしていた自分自身への醜い言い訳と、圧倒的な不条理と恐怖の前に何もできなかった己の無力さへの苛立ちだった。
わざと距離を置くような壁の裏側で、凪の心がギリギリと悲鳴を上げているのを、翼ははっきりと感じ取った。
「……確かに、俺たち大人の中にも、まだ高校生である君をこれ以上危険な事態に巻き込むべきじゃないって考えはあったよ」
翼は、凪のトゲのある言葉を遮ることも、怒ることもなく。ただ大人として、一人の人間として、凪の弱さを真っ向から受け止めて静かに口を開いた。
「でも、ただ偶然巻き込まれただけなのに、君は俺たちのために昨日、学校で聞き込みをして、大事な情報を共有してくれた。俺はそれにすごく感謝しているし……何より、君のことを一緒に真実を探す『仲間』だと思ってるんだ」
「な、かま……?」
凪はハッと息を呑んだ。
曇り一つない、まっすぐで純粋な翼の瞳が、凪の心の一番脆い部分を容赦なく射抜いてくる。
(……違う。俺は、そんな立派な奴じゃない)
凪の胸の奥で、ぐちゃぐちゃな泥のような感情が渦巻いていた。
つい先ほど目の当たりにした、血の海と化した良平の家の惨状。首を食いちぎられた母親の無惨な死体。そして、狂気の学校へたった一人で向かってしまったであろう親友の姿が、脳裏にこびりついて離れない。
あの化け物だらけの学校から良平を助け出すには、自分一人の力ではどうにもならないことくらい、凪だって本当は痛いほど分かっていた。
目の前にいる翼に頭を下げて、「どうか助けてほしい」と泣きつきたい。彼の持つ魔術の力と、大人としての経験を頼りたい。
だが――そんな凪の切実な願いを、思春期特有のちっぽけなプライドと、強烈な自己嫌悪が邪魔をしていた。
(俺は何もできないただのガキのくせに、昨日まで怯えて逃げ隠れしていたくせに、都合のいい時だけこの人たちを頼るのか……?)
今更どのツラ下げて「仲間」面をして助けを求めればいいのか。そんな惨めな罪悪感が、凪の喉を固く締め付け、助けを求める言葉を重く塞いでしまう。
「……仲間なんて、言わないでくださいよ」
ギリッと唇から血が滲むほど強く噛み締め、凪はぽつり、ぽつりと、自分の奥底にある無力で醜い本音を吐き出し始めた。
「僕は……昨日の路地裏で化け物に襲われた時、足がすくんで一歩も動けませんでした。それに、学校で親友が酷いイジメに遭っているって知った時も……助けになるかも分からないような、薄っぺらい言葉しかかけられなかった」
無理に保とうとしていた敬語が情けなく震え、視界が涙でぐにゃりとぼやけていく。
強く握りしめた拳から、ポタポタと悔し涙が冷たいアスファルトに落ちて黒い染みを作った。
「僕は……ただの無知な子供で、どうしようもない臆病者なんです。あなたたちみたいに特別な力もないし、戦う覚悟もない。これからも、皆さんの役に立てるかどうかなんて……自分でも全く分からないんですよ……!」
大粒の涙をこぼし、震える声で自身の無力さを痛切に吐露した凪。
翼はそんな彼の震える肩に優しく手を置くと、凪の膨らんだ上着のポケットへと静かに視線を落とした。
「……それでも、君はまだその『赤いペンダント』を手放していないじゃないか」
「え……?」
凪はポケットを見ると、ペンダントの紐が見え隠れしている事に気づく。
「本当に何もかもから逃げ出して、普通の日常に戻りたかったのなら、そんな得体の知れない危険な魔術の道具なんて、とっくにどこかへ捨ててしまっているはずだ。……君がそれをポケットに忍ばせて、こんなに息を切らしてここまで走ってきたのは、本当は『誰かを助けたい』って、強く願っているからじゃないのか?」
翼の真っ直ぐで、心の奥底を見透かすような言葉に、凪はハッとして自分のポケットの上から、硬いペンダントの感触をギュッと握りしめた。
「そのペンダントを手放して日常に戻るのも、その力を誰かのために使うのかも、全部君次第だ。……俺は、君がどういう選択をしても、決して笑ったりしないし、責めたりもしないよ」
それは、大人としての強制や同情ではなく、一人の人間としての温かく、絶対的な信頼だった。
その言葉に、凪の中でくすぶっていたちっぽけなプライドや自責の壁が、朝霧が晴れるようにすっと溶けて消えていくのを感じた。
「……翼さん」
凪は袖で乱暴に涙を拭うと、顔を上げて、決死の覚悟を宿した目で翼を真っ直ぐに見つめ返した。
「僕の親友の母親が……家で、化け物みたいな奴らに殺されていました。親友の姿はなくて、代わりに『学校で待つ。黄衣の王より』っていう紙が残されていたんです。たぶんあいつは、一人で学校に向かったんだと思います……っ」
「黄衣の王、だって……!?」
「お願いします、翼さん。僕一人じゃどうにもならない。……良平を、僕の大切な親友を助けるために、力を貸してください……!」
深く頭を下げる凪の言葉に、翼の脳裏に激しい警鐘が鳴り響いた。
(黄衣の教団が、直接学校に生徒を呼び出している……?)
今朝、大通りで百合を探して聞き込みをしていた時、ボランティアの初老の男性が言っていた不気味な証言が蘇る。
『早朝の四時頃、あそこの生徒たちが、無言でぞろぞろと学校の方へ歩いていくのを見た』。
「……間違いない。今、あの夢見ヶ原高校で『何か』が起きているんだ。それも、とてつもなく大規模で、最悪な何かが」
翼はすぐさまスマートフォンを取り出し、グループチャットにこれまでの情報を手早く打ち込み、送信した。
そして、傍らで大人たちの切羽詰まった話を真剣な顔で聞いていた百合に向き直った。
「百合、ごめん。俺はこれから、凪くんと一緒に学校へ行かなきゃならない。でも、君を連れて行くわけには……」
「大丈夫。私は一人でアパートに帰れるよ」
言い淀む翼を遮り、百合は気丈に微笑んで小さく首を振った。
「さっき、もう勝手にどこかに行ったりしないって約束したもん。だから、早くそのお友達を助けに行ってあげて、翼」
「……ありがとう、百合。必ず戻るから、待っていてくれ」
翼は、悲劇を乗り越えようとする少女の成長と強さに深く感謝し、力強く頷き返した。
百合が濃霧の向こう、アパートの方角へと一人で駆け出していくのを見送ると、翼は隣に立つ凪へと視線を向ける。
「行こう、凪くん。君の親友を助けに!」
「……はいッ!」
二人は深く頷き合うと、すべての元凶と狂気が潜む最悪の学び舎――夢見ヶ原高校へと向かって、行く手を阻む灰色の濃霧を切り裂くように、全力で駆け出した。
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