第二十一話 崩壊
時刻は数時間前。
自室のベッドに寝転がっていた凪は、スマートフォンの無機質な通知音を聞き、気怠げに画面を開いていた。
翼からのグループチャットへの書き込みだ。
『百合が家出した。見かけたら連絡してほしい』という、大人たちの焦燥が透けて見えるような切羽詰まったメッセージが画面に表示されている。
(……百合?)
凪は小さく呟き、無表情のまま画面をスクロールした。
一昨日、六丁目の路地裏での凄惨な戦闘の後に彼らと別れて以来、凪は大人たちとは一切顔を合わせていない。そのため、黄花百合という少女についての具体的な顔も声も、凪は何も知らなかった。
一昨日は、純粋な興味と勢いだけで首を突っ込み、得体の知れない化け物との戦いに巻き込まれた。
だが、いざ本物の狂気と死の匂いを目の当たりにすると、自分は足がすくんで何もできなかったのだ。結局は天下崎たち大人の力に守られただけ。昨日も、学校での異常事態に怯えて逃げ出し、彼らと合流することから無意識に逃げてしまった。
昼休み以降、自分からはチャットも送っていない。
そんな臆病な自分が、これ以上あの大人たちの命懸けの調査に参加する資格など、果たしてあるのだろうか。
(俺はただ……重い病気を乗り越えて、ようやく手に入れた普通の日常に戻りたいだけなんだ)
自分はまだ、退院したばかりのただの高校生だ。この街に巣食う根源的な狂気に立ち向かうには、あまりにも無力で荷が重すぎる。もちろん、百合という少女が偶然目の前に現れれば連絡くらいはするだろう。だが、わざわざこの深い霧の中を、危険を冒してまで探しに出る勇気は湧かなかった。きっと良平がこの本心を知れば、失望するのだろう、そんな自己嫌悪が凪を襲った。
凪は自分自身の弱さを誤魔化すように画面を閉じ、翼のメッセージにはただ『既読』だけをつけて放置した。
気を取り直し、凪はもう一つのトーク画面――親友である良平とのチャットを開いた。
『今日、学校休みだけど遊べる?』
短いメッセージを送信し、返信を待つ。
昨日、彼と食べた温かい肉じゃがの記憶が、凪に「自分はまだ安全な日常の側にいる」という確かな安心感を与えてくれていたのだ。
しかし、数分待っても、一向に既読がつく気配がない。
「……まだ寝てるのかな」
昨日の夜遅くまで起きていたせいか、あるいは休校日だからと安心しきって二度寝でもしているのだろう。
「……仕方ない。アポ無しだけど、直接行ってみるか」
凪はベッドから抜け出し、手早く私服への着替えを済ませると、スマートフォンをポケットに突っ込んだ。
ふと、学習机の上に無造作に置かれている『赤いペンダント』が目に入る。凪は数秒ほどその冷たい石を見つめて迷った後、念のためという口実で、スマホが入っていない方のポケットにそれを滑り込ませた。
階下で休日の朝を過ごしている両親に「良平の家に行ってくる」とだけ告げ、凪は一人、灰色の濃霧が深く立ち込める静寂の街へと歩き出した。
視界のすべてを白く濁らせる分厚い濃霧の中。
凪は息を切らしながら、見覚えのある古いアパートの鉄階段を駆け上がっていた。
朝に送ったメッセージには、良平の家に着くまでの数十分の間にも、未だに既読すらついていない。
「……良平、いるか?」
『208』と書かれた玄関の前に立ち、凪はインターホンのボタンを押した。
しかし、室内からは何の反応もない。足音も、生活音も、耳を澄ませても人の気配が一切感じられなかった。
普段なら、休日でも朝早くから母親が家事をしていて、すぐに「はーい」と明るい声が返ってくるはずなのだ。
得体の知れない不安に駆られ、凪はふとドアノブに手をかけて押し込んでみた。
すると、カチャリという軽い金属音と共に、鍵のかかっていない重い鉄扉があっさりと内側へ開いてしまった。
(鍵、開けっぱなし……?)
女手一つで息子を育てている家庭にしては、あまりにも不用心すぎる。
凪の胸の奥で、どくどくと嫌な警鐘が鳴り始める。凪は唾を飲み込み、薄暗い玄関へと恐る恐る足を踏み入れた。
「お邪魔します……良平? おばさん、いますか?」
声をかけても、返ってくるのはひどく重苦しい、まるで空気そのものが死に絶えたような静寂だけだった。
だが、無音の室内からは、明らかに「異様なもの」が凪の五感を暴力的に侵食してきていた。
どんよりと曇った外の天気と、分厚いカーテンのせいで光が完全に遮られた廊下の奥。そこから、むせ返るような鉄の錆びた匂いと、生肉が腐りかけたような強烈な『異臭』が、生温かい空気と共に漂ってきたのだ。
「う、っ……なんだ、この匂い……」
凪は思わず口元を袖で強く覆い、異臭の発生源であるリビングへの扉に手をかけた。
震える指先で、扉をゆっくりと押し開ける。
部屋の中に一歩、足を踏み入れた。
――ペチャリ。
靴底から、ただの水を踏んだのとは違う、ひどく粘り気を帯びた嫌な音が鳴った。
(……え?)
凪がゆっくりと視線を落とす。
フローリングの床一面に、黒ずんだ『赤色の液体』が巨大な水たまりのように広がっており、凪のスニーカーのゴム底にねっとりと絡みつき、赤い糸を引いていた。
「……嘘、だろ」
震える顔を上げた凪の目に飛び込んできたのは、昨日確かにそこにあった温かい家庭の光景などではなかった。
目を背けたくなるような、圧倒的な地獄そのものだった。
リビングの家具は荒々しくなぎ倒され、本や日用品が血の海の中に散乱している。キッチンには無残に割れた陶器の皿やガラス片が飛び散り、強盗か、あるいはそれ以上に恐ろしい巨大な猛獣が暴れ回ったとしか思えない、異常で凄惨な惨状を呈していた。
そして。
そのメチャクチャに荒らされた血塗れの部屋の中央。
ダイニングテーブルの椅子に、一人の女性がぐったりと俯き、ピクリとも動かずに座っているのが見えた。
「……おばさん?」
凪は全身の震えを必死に抑え込みながら、震える声で呼びかけ、ダイニングテーブルへと一歩足を踏み出した。
――ペチャリ。
再び靴底から鳴る、気味の悪い粘着質な音。
キッチンから流れてきているわけではない。その広大な血の海は、テーブルに座る女性の足元から、絶え間なく滝のように滴り落ちて作られたものだった。
「ひっ……!」
靴底から伝わる生温かい感触に息を呑みながらも、凪は恐怖に引きずられるようにして、俯いて座る女性の正面へと回り込んだ。
そして、その凄惨な全貌を至近距離で視界に捉え――凪の喉の奥から、声にならない絶叫が漏れた。
椅子に座っていたのは、確かに女性が着ていた衣服と、その『肉体』だった。
昨日、肉じゃがを作ってくれた時に着ていた、見覚えのあるエプロン。
だが、その首から上――本来『頭部』があるべき場所には、何もなかったのだ。
首の付け根から肩にかけての肉が、まるで巨大な獣の顎で乱暴に食いちぎられ、抉り取られたようにごっそりと欠損している。
断面からは、白い頸椎の骨と千切れた気管が痛々しく剥き出しになり、そこからとめどなく溢れ出した大量の血液が、テーブルを赤く染め上げながら床へと滴り落ち続けていた。
テーブルの上や周囲の床には、人間の頭部を巨大なハンマーで叩き割ったかのように、原型を留めないほどにひしゃげ、潰された『肉片と骨の欠片』が広範囲に飛び散っている。
脳髄と血液が混ざり合った生臭い死臭が、凪の嗅覚を容赦なく蹂躙した。
「あ、ああ、あああ……ッ」
凪は悲鳴を上げて後ずさろうとしたが、足が血だまりに滑り、ドサリと無様に尻餅をついてしまった。
その振動で。
凪のすぐ手前の床を転がり、血に塗れたピンポン玉のような丸い球体が、足元でピタリと止まった。
薄暗いリビングの中で、それが肉塊からこぼれ落ち、濁った瞳孔をこちらへ向けている『女性の眼球』であると気づいた。
「おぇっ、げほっ……、がはっ……!」
凪の胃袋が激しく痙攣し、たまらず床に胃液を吐き出した。
血の味と酸っぱい胃液の匂いが混ざり合い、視界が涙と生理的な恐怖でぼやけていく。その滲んだ視界の先、テーブルの上へと視線が向かった。
血の海と化したテーブルの端に、割れた写真立てが転がっている。
血に染まったガラスの向こうで優しく微笑んでいたのは、幼い日の良平と、彼を愛情深く抱きしめる『良平の母親』の姿だった。
(良平の母さんだ……。嘘だろ、昨日あんなに優しくしてくれたおばさんが、どうして……ッ)
昨日、温かい肉じゃがを出してくれた手の温もり。
「よく生きて帰ってきてくれたわね」と、涙ぐみながら抱きしめてくれた優しい言葉。
それが今は、原型を留めない冷たい肉塊となって目の前に転がっている。
圧倒的な不条理と極限の恐怖に、凪は血まみれの床に這いつくばったまま、ガタガタと全身の震えを止めることができなかった。
だが、絶望に咽び泣く凪の視界の端に、不意に『あるもの』が映り込んだ。
頭部のない首の断面――そこからとめどなく溢れ出す血の海に半分浸かるようにして、ダイニングテーブルの上に一枚の『便箋』が置かれていたのだ。
こんな惨状の中で、明らかに不自然な配置。
暴れ回った猛獣の仕業などではない。明確な意思を持った誰かが、意図的に残したとしか思えない。
凪は吐き気を必死に飲み込み、震える手でその便箋を拾い上げた。
べっとりと血の指紋が付着したその白い紙には、気味の悪い流麗な文字で、たった一言だけこう記されていた。
『――学校で待つ。黄衣の王より』
「……黄衣の、王……?」
その単語を目にした瞬間、凪の脳裏に強烈な電撃が走った。
黄衣。昨日、翼たちからグループチャットで共有された、この街で暗躍しているという『黄色いレインコートの教団』の影。
(でも……学校にいたあの不気味な教師は、チャットの内容からしたら『海還り』なる集団の特徴に近かった……。ならなぜ、黄衣の教団に関係しそうな人物が、学校を指定して呼び出しているんだ……?)
敵対しているはずの二つの組織が、なぜ同じ学校という場所で交差しているのか。
それよりも、なぜ、こんな紙がわざわざ残されているのか。
凪はハッとして、血の涙を拭いながら荒らされた部屋の惨状を改めて見回した。
そう、この惨劇の現場である室内に、親友である『良平の姿』が見当たらなかったのだ。
(これは『良平宛て』に置かれたメッセージだ……!)
親友が、目を覚ました時にこの地獄のような惨劇を目の当たりにしたのだとしたら。
最も愛する母親の無惨な死体と、このふざけた招待状を見たのだとしたら。
『僕は君みたいに私利私欲じゃなくて、自分の信念を持って行動できる人間になりたいって思ったんだ』
昨日、河川敷で茜色の夕日を見ながら語ってくれた、親友の弱くも優しい笑顔が脳裏に蘇る。
いつも自分に守られてばかりで、気が弱かったはずの良平。
彼が昨日の言葉通り、自分の意志で、母親の仇を討つために、あるいは指定された呼び出しから逃げないために、たった一人で狂気の学校へと向かってしまったのだと、凪は確信した。
「馬鹿野郎……ッ!」
凪は血に濡れた便箋を怒りに任せて握り潰し、ポケットの中の『赤いペンダント』を強く握りしめた。
凪の中で、必死にしがみついていた『日常』が、完全に音を立てて崩れ去った。
震えそうになる足に、強烈な怒りと焦燥を叩き込む。
大人たちに任せておけばいいという逃避は、もうとうに消え失せていた。このままでは、良平も確実に殺されてしまう。
大切なものを守れるくらい強くなりたいと誓い合った親友を、絶対に死なせはしない。
凪は凄惨な血の海と化したリビングに背を向け、アパートを飛び出した。
目指すは、すべての狂気が集う夢見ヶ原高校。
肺が凍りつき、心臓が破裂しそうになっても決して立ち止まることなく、凪は分厚い灰色の濃霧が立ち込める街を、命を削るようにして全力で駆け抜けていった。
同刻。
結衣は、ぼーっとしたおぼつかない足取りで、実家の二階にある柊生の部屋の前に立っていた。
客人部屋のアルバムの裏から見つけ出した、手の中にある小さな銀色の鍵が、まるで氷のように冷たく感じられた。
これを回せば、優しい兄が隠し続けていた真実の扉が開く。
家族の聖域を自らの手で暴いてしまうことへの罪悪感と、知ってはいけない深淵を覗き込んでしまうことへの本能的な恐怖が、結衣の指先を震わせている。
だが、結衣は震える手を反対の手で強く抑え込み、部屋のドアノブに手をかけた。見つけ出したスペアキーを鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。
カチャリ、と。
何年も開かれることのなかった重い封印が解かれるような、ひどく乾いた音が鳴った。
ごくりと息を呑み、結衣はドアを押し開けた。
「……え?」
部屋の中に足を踏み入れた瞬間、結衣の思考は完全に停止した。
そこは、人間の営みが行われる生活空間などではなかった。
ベッドも机も本棚も、家具という家具のすべてが、部屋の隅に無造作に山積みにされ、乱暴に押しやられている。
代わりに部屋を完全に支配していたのは、壁という壁、天井、床、果ては窓ガラスに至るまで、文字通り『びっしり』と隙間なく貼り付けられた、無数の黄色いお札のような紙だった。
その一枚一枚に、黄色いインクで、気味の悪い紋章が描かれている。
三つ巴のようにも、蠢く無数の触手のようにも見える、ひどく非対称で冒涜的なマーク。一つ見つめるだけでも強烈な吐き気を催すようなその図形が、数千、数万という異常な数で部屋全体を埋め尽くしているのだ。
「なに……これ」
あまりの狂気的な光景に耐えきれず、結衣が後ずさろうとした瞬間だった。
――グワンッ!
先ほど客人部屋で死体の幻覚を見た時に感じたものとは比べ物にならない、脳髄を直接泥だらけの手でかき回されるような、激しい目眩が結衣を襲った。
部屋を埋め尽くす無数の黄色いマークが、まるで意志を持った生き物のようにウネウネと蠢き始め、視界全体が強烈な黄色の光に飲み込まれていく。
(あ、ああ……!)
足元のフローリングの床が液状化して消え失せ、結衣の身体は果てしない暗黒の底へと、どこまでも落下していった。
気がつくと。
結衣は、人間の認識を超絶した見知らぬ『異界の大地』に立っていた。
空には太陽も月もなく、代わりに不気味な光を放つ黒い星々が、ひしめき合うように瞬いている。
眼前に広がるのは、波一つない鏡のように静まり返った、底無しの巨大な湖。その湖畔には、地球上のどの建築様式とも異なる、悍ましくも荘厳な石造りの尖塔群が、空を突き刺すようにそびえ立っていた。
圧倒的な静寂と、冷酷な宇宙の深淵そのもののような空間。
人間の矮小な精神など、一瞬で圧殺されてしまうような領域。
結衣が圧倒的な恐怖で身動き一つ取れずにいると、その鏡のような湖の水面を滑るようにして、音もなく『それ』が近づいてきた。
ボロボロの、くすんだ黄色い外套を身に纏った、背の高い人影。
しかし、それは人間ではなかった。
外套のフードの奥には顔と呼べるものはなく、ただ光の届かない底知れぬ虚無の闇が広がっているだけだ。
そいつが結衣の目の前で立ち止まると、黄色い外套の裾から、滑らかでぬめり気を帯びた『無数の触手』が、蛇のように這い出してきた。
「……ッ!」
結衣は声も出せず、逃げることもできず、ただその恐怖を前にして硬直することしかできない。
触手はゆっくりと、まるで獲物を品定めでもするかのように結衣の顔へと伸び、その先端がそっと彼女の頬に触れた。
氷のように冷たく、それでいて生き物のようにドクドクと脈打つおぞましい感触。
結衣の頬を撫でていた触手は、しかし次の瞬間――何かに気づいたように、ピクリと痙攣して動きを止めた。
フードの奥の絶対的な闇が、結衣という存在を深々と凝視する。
『…………』
次の瞬間、黄衣の王は外套の下から無数の触手を爆発的に膨れ上がらせ、凄まじい力で結衣の身体を弾き飛ばした。
「きゃあああああっ!!」
「――ッ、痛ぁッ!」
背中と腰に硬い床の強い衝撃が走り、結衣は弾かれたように目を覚ました。
荒い呼吸を繰り返しながら周囲を見渡すと、そこは異界の湖畔などではない。実家の二階、柊生の部屋の前の廊下だった。
結衣は尻餅をついた姿勢のまま、開け放たれたはずの柊生の部屋を見上げた。
だが、まるで元からその状態であったかのように、銀色の鍵を開けたはずの部屋のドアは、いつの間にか固く閉ざされている。
「はぁっ、はぁっ……」
(お兄ちゃん、一体何に関わってるの……?)
冷や汗でびっしょりと濡れた顔を拭いながら、結衣は震える声で呟いた。
かつて病弱で、ベッドの上で泣いていた優しい兄。
彼がこの異常なマークで埋め尽くされた部屋で、一人で何と向き合い、どんな深淵に魅入られていたのか。あの恐怖をもたらす存在と、どう繋がっているのか。
その底知れない狂気の深淵を覗き見てしまった恐怖に、結衣はしばらく冷たい廊下の床から立ち上がることができなかった。
【黄の印)】
見る者の魂を異世界へと繋げる、冒涜的な紋章。歪んだ三本の鉤爪とも、のたうつ触手とも形容される模様をしている。この印が記された品を所有することは、即ち、異界の主に従属することを意味する。




