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箱庭の百合  作者: Kibana
黄昏時に夢をみる
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第二十話 罠

 分厚い灰色の濃霧の中に、巨大な墓標のようにそびえ立つ『虹橋デパート跡地』。

 二年前の理不尽な爆発事故で無惨に焼け焦げ、崩れかけた外壁の周りには、警察の「立ち入り禁止」を示す黄色いテープが、湿った風に吹かれて虚しく張られている。

 天下崎は躊躇うことなく黄色いテープをくぐり抜け、暗く大きく口を開けた廃墟の内部へと重い足を踏み入れた。

 建物の中は、外の濃霧が嘘のように空気が重く淀んでいた。

 鼻を突くのは、長年放置されたカビの臭いと、雨に濡れた鉄錆の臭い。そして、ごく微かに混じる、古びた嫌な鉄の匂い。


(血の匂い…?)


 天下崎はコートのポケットから冷たい懐中電灯を取り出し、スイッチを入れた。白い光の筋が、静まり返った暗闇を切り裂く。

 目指すのは、昨日翼たちと訪れた際には足を踏み入れなかった、さらに深く暗い『地下フロア』の奥だ。

 悪天候のせいか、光の届かない地下空間は、まさに絶対的な暗黒だった。

 散乱する瓦礫を避け、長靴の底が泥水を跳ね上げる音を殺しながら、研ぎ澄まされた警戒心で慎重に奥へと進んでいく。

 やがて、懐中電灯の光の先に、周囲のコンクリート壁とは明らかに異質な、一際重厚な『鉄の扉』が浮かび上がった。

 天下崎は右手に隠し持っていたリボルバーを構え、左手でその重い鉄の扉の取っ手をゆっくりと押し開いた。

 ギギギィィ……と、酷く錆びついた蝶番が、密閉された地下空間に耳障りな摩擦音を響かせる。

 開かれた先にあったのは、複数の部屋の壁を乱暴にぶち抜いて作られたような、異様に天井の高い大広間だった。

 懐中電灯の光を壁に向けると、コンクリートが剥き出しになった壁という壁に、何者かによってつけられたような『無数の深い傷跡』がびっしりと刻み込まれていた。

 大型の獣が爪を立てたような、あるいは狂人が刃物でひたすらに何かを削り取ろうとしたような異常な痕跡。傷跡は一定の規則性を持っているようにも見えるが、それが何を意味しているのかまでは分からない。

 部屋の四隅には、時代錯誤な石造りの松明の台座が置かれており、そこから微かに焦げた獣の脂のような不快な匂いが漂っていた。

 そして、部屋の最奥。

 そこには、黒い岩から無骨に削り出されたような不気味な石の『祭壇』が鎮座していた。

 祭壇から続く広間の床一面には、黄色みがかった赤黒い塗料――あるいは完全に変色した血液――で、巨大な『魔法陣』が描かれている。

 歪な三つ巴のようにも、蠢く無数の触手のようにも見える、ひどく非対称で冒涜的な紋章。

 その幾何学的な図形は、ただ視界に入れているだけで空間が歪んで見え、脳髄を直接泥だらけの棒でかき回されるような、名状しがたい強烈な嫌悪感と吐き気を天下崎に引き起こさせた。


(なんだ、この気味の悪い陣は……。カルト教団の狂った儀式の跡か何かか?)


 天下崎は顔をしかめ、その狂気的な魔法陣を避けるようにして、慎重に部屋の奥へと足を踏み入れた。

 吐き気を催すような魔法陣の淵を歩き、天下崎が広間の最奥へと近づいた、その瞬間だった。

 薄暗かった空間の全貌が、不気味なほど鮮明に網膜へと焼き付いた。


「……ッ」


 石で削り出された祭壇の足元。そこに、一人の『黄色いレインコートを着た男』が仰向けに倒れていた。その男の懐には、古びた装丁の本らしきものが抱えられている。

 彼だけではない。広間の床には、同じく黄色いレインコートを纏った教団の信者たちと思われる、複数人の無惨な死体がそこかしこに転がっていた。

 だが、天下崎の眼球を真に戦慄させたのは、物言わぬ死体の群れではなく、それに群がる『異形』たちの姿だった。

 コウモリのような、あるいは腐りかけた怪鳥のような、悍ましくも冒涜的な皮膜の翼を持つ不浄の怪物たち。一昨日、結衣が黄色いペンダントの魔術で呼び出していた異界の生物と、酷似したシルエットを持っている。

 それが十数体というおぞましい群れを成して、信者たちの死肉に頭を突っ込み、狂ったように貪り食っていたのだ。

 バリッ、メチャアァッ、と。

 硬い骨を無造作に噛み砕き、生肉を千切り裂くひどく生々しい咀嚼音が、地下の広間に不気味に反響している。血だまりの上で、目にも鮮やかな黄色いレインコートが赤黒く染まりながら、無惨に引き裂かれていく。


(こいつら……人間を、食ってやがる……!)


 天下崎が息を呑み、反射的に右手のリボルバーを構えようとした、その時だった。


『――依代よりしろは覚醒していたが、一歩遅かった』


「……なんだ?」


 頭蓋骨の内側に、直接『声』が響き渡った。

 空気の振動を通した鼓膜を揺らす音ではない。脳髄に直接鋭い針をねじ込まれるような、ひどく冷酷で、狂気を孕んだ『女性』の声だった。


『メッセンジャーからの情報だ。相対する信奉者どもの儀式が、完成に近づいている』


 女性の声は、感情の起伏を一切感じさせない無機質なトーンで、しかし絶対的な命令として天下崎の脳内を強制的に支配していく。


『真の信奉者は、私についてこい。――信奉を騙り、地位に縋る愚か者は……』


 その冷徹な宣告が脳内に響き終わった直後。


「ぎゃあああああああああああっ!!」


「いやだ、やめてくれ! 助けッ、あぐぁッ……!!」


 広間全体を揺るがすような、鼓膜を劈く悲鳴と発狂の絶叫が、唐突に天下崎の耳に雪崩れ込んできた。

 それは、信奉する神のために身を捧げたはずの教団員たちが、圧倒的な理不尽と暴力によって蹂躙され、生きたまま肉を千切られ、発狂していく死に際の悲鳴だった。

 次第に天下崎の視界が二重にブレ始め、現在転がっている静かな死骸の風景に、信者たちが異形の怪物たちによって生きたまま粛清される凄惨な過去の『惨劇』のビジョンが、ピタリと重なり合う。


「……ッ、ぐっ、あぁ……!」


 あまりの怨嗟と絶望の密度に、天下崎はたまらず両手で耳を塞いだ。

 しかし、音は鼓膜からではなく、脳髄の奥底から直接響いてくるため、物理的に耳を塞いでも全く逃れようがない。

 バリバリッ、メチャァッ!

 骨が砕け、温かい内臓が引き摺り出される生々しい音が、頭の中で幾度もエンドレスにリフレインする。

 目の前で死肉を貪るビヤーキーたちの姿が、ノイズの走った古いビデオテープのように激しく明滅を始めた。強烈な血の匂いと、焦げた油の悪臭が鼻腔を暴力的に犯し、胃液が喉元までせり上がってくる。

 これは今、目の前で起きている現実なのか。それとも、過去にここで起きた惨劇の幻覚を、何者かの魔術によって強制的に見せられているだけなのか。境界線が完全に融解していく。


「ふざけ、やがって……!」


 天下崎がうわ言のように悪態をつき、幻覚を撃ち払おうと右手のリボルバーを構えた瞬間だった。

 ――グラァッ!

 足元のコンクリートが、いや、世界そのものが、巨大なゼリーのようにぐにゃりと大きく揺れ動いた。

 強烈な三半規管の異常。上下左右の感覚が完全に喪失し、天下崎の意識は抗う間もなく、深い深い闇の底へと急速に吸い込まれていった。


「――ッ、はぁっ!」


 天下崎は猛然と冷たい空気を吸い込み、弾かれたように目を見開いた。

 顔を撫でる、ひどく冷たくて湿った空気。鼻を突くのは血の匂いではなく、アスファルトと雨の匂いだ。

 天下崎はよろめきながら数歩後ずさり、周囲を見渡して愕然とした。

 そこは、血塗られた地下の祭壇などではない。分厚い灰色の濃霧に包まれた、虹橋デパート跡地の『正面入り口』だった。

 つい先ほど自分でくぐり抜けたはずの「立ち入り禁止」の黄色い警察テープが、目の前で風に吹かれてパタパタと虚しく揺れている。


「……幻覚、か」


 全身からどっと冷や汗が吹き出した。

 自分がどこまで中に入っていたのか、あるいは最初から一歩も中に入っていなかったのかすら分からない。

 ただ、あの冒涜的な魔法陣と凄惨な惨劇の光景、そして脳内に直接響いた女の声だけが、確かな恐怖の記憶として脳裏に焼き付いている。

 杉浦から聞いた、特殊刑事課の門屋の警告が脳裏に蘇る。

 なるほど、これはただの爆発物や物理的なトラップなどより遥かに厄介だ。

 侵入者の精神を直接犯し、方向感覚を狂わせ、気づけば無傷のまま外へと追い出してしまう不可解な魔術の防衛システム。これでは物理的な捜査やガサ入れなど、到底不可能なはずだ。


(……だが、収穫はあった……か)


 天下崎は忌々しそうに額の汗を拭い、息を整えながら、濃霧に沈む廃墟を鋭く睨みつけた。

『メッセンジャー』『相対する信奉者どもの儀式』、そして『依代よりしろ』。

 あの謎の女の声が残した不気味なキーワードの数々は、海還りと黄衣の教団が水面下で繰り広げている狂気の計画の、確かな尻尾だった。

 天下崎はリボルバーを懐に仕舞い直し、得た手がかりを胸に、静かに霧の中へと歩き出した。

【ビヤーキー】

奉仕種族。蟻や蝙蝠、腐敗した死体を繋ぎ合わせたような醜悪な姿をしており、宇宙の真空や極寒をも自在に飛び回る。

呼び出した者の命令をある程度従い、その者が本来の主と近しいほど、ビヤーキーは従順になる。

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