第十九話 霧の中②
深い霧にすっぽりと包まれた住宅街で、結衣のスマートフォンの画面が明るく光った。
翼からのグループチャットへの通知だ。画面を開くと、そこには『百合を見つけました。無事です。ご迷惑をお掛けしました』という短いメッセージが表示されていた。
「……よかったぁ」
結衣は張り詰めていた肩の力を抜き、深く、長い安堵の息を白く吐き出した。
無事に翼と合流できたのなら、とりあえず百合の身の安全は確保されたということだ。結衣は『了解。よかった!』と素早く返信を打ち込むと、一度足を止めて、これからの進行方向を考え直した。
(百合ちゃんが見つかったなら、先にお兄ちゃんの家へ行って、言われた通り戸締りを確認してこよう)
結衣は霧の立ち込める住宅街を歩き、ほどなくして見覚えのある一軒家の前にたどり着いた。
門扉を抜け、玄関のドアノブに手をかけて押し込むと、カチャリという軽い音と共に、ドアはあっさりと開いた。
「……本当に、鍵が開けっぱなしだわ」
結衣は薄暗い玄関に足を踏み入れ、内側から鍵を閉めて、すぐに翼たちと合流しようと踵を返そうとした。
――しかし、ふとそこで足が止まる。
『結衣、ごめん。今朝慌てて家を出たから、もしかしたら実家の鍵を閉め忘れたかもしれないんだ。悪いけど、時間がある時に確認をお願いできないかな』
『あと、ニュースでも言ってたけど、今日は異常気象でこの後ずっと雨が続くみたいだから。危険だし、外に出ずに大人しく家にいるように』
先ほど送られてきた、柊生からのメッセージの文面が脳裏をよぎる。
『危険』というワード。まるであの深い霧の中に潜む異常事態を知っているかのような、あるいは、結衣をこの家に「釘付け」にしようとするかのような不自然な文面。
それに加えて、昨夜実家を訪れた際、柊生が言った言葉がどうしても棘のように引っかかっていた。
『俺の自室には、いつも鍵をかけてあるんだ』
(……お兄ちゃん、この家で何か隠してるの?)
結衣の胸の内に、小さな、しかし決して拭いきれない黒い疑念がドロドロと膨れ上がっていく。
結衣は意を決してブーツを脱ぎ、静まり返った廊下へと足を踏み入れた。
軋む階段を上り、二階へと向かう。
廊下の奥にある柊生の部屋の前に立ち、結衣は静かにドアノブを回してみた。だが、ガチャガチャと無機質な音が鳴るだけで、やはり鍵は固く閉ざされている。
(……無理やり蹴破ってドアを壊すわけにもいかないし)
躊躇した結衣は、柊生の部屋の探索を一旦諦め、その隣にある部屋――かつて両親が使っており、今は客人部屋として使われているはずの扉へと手を伸ばした。
こちらのドアには鍵はかかっておらず、結衣がノブを回すと、軋む音と共にゆっくりと部屋が開いた。
部屋の中はひんやりとしていて、ひどく閑散としていた。
シンプルなベッドと簡素な机、小さな棚が置かれているだけで、生活の匂いがまったくしない。窓の外を覆う分厚い霧のせいで、日中だというのに室内は薄暗く、空気が重く淀んでいるように感じられた。
結衣は部屋の中をぐるりと見渡し、ふと、部屋の隅にある机の上に目を留めた。
そこには、一つの写真立てが、わざわざ盤面を隠すようにパタンと伏せられた状態で置かれていた。
「……どうして、こんな風に?」
訝しげに呟きながら近づき、結衣はその写真立てを手に取った。
そっと表に返すと、ガラスの向こうには色褪せた一枚の家族写真が収められていた。
まだピカピカのランドセルを背負い始めたばかりの幼い結衣と、微笑む両親、そして……結衣の隣で、少しはにかむように笑っている、兄・柊生の姿だ。
「お兄ちゃん……」
写真の中の柊生は、今の飄々とした大人の彼とは違い、ひどく線の細い、気弱そうな少年の顔をしていた。
その顔を見た瞬間、結衣の脳裏に古い過去の記憶がフラッシュバックする。
――そう、確かこの写真を撮った少し後くらいからだ。
柊生は原因不明の体調不良を頻繁に起こすようになり、入退院を繰り返すようになった。やがて長い間、病院のベッドで孤独な生活を送ることになったのだ。
(あの頃のお兄ちゃん、毎日すごく苦しそうで……私、何もできなくて泣いてたっけ)
ひどく病弱で、いつ命の灯火が消えてもおかしくないような危うさを持っていた兄。
今はすっかり元気になり、こうして立派に実家を管理して自立しているのが奇跡のようであり、今の兄からは昔の病弱さは微塵も感じられない。
こんなにも優しくて、苦労してきた家族が、あんなおぞましいバケモノと関わっているはずがない。結衣はそう自分に言い聞かせるように、写真の埃を優しく指で払い、ふと机の横にある小さな戸棚へと視線を向けた。
少しだけ開いていた引き出しを引いてみると、そこには古びた家族のアルバムが数冊、乱雑に押し込まれていた。海外へ行った両親が残していったものだろう。
懐かしさと、胸の奥で渦巻く得体の知れない不安を紛らわせるように、結衣はそのうちの一冊を手に取った。
パラパラと重いページをめくっていく。
運動会、家族旅行、誕生日。色褪せた平和な思い出の数々が顔を覗かせるが、やはり柊生が入院してからの写真は極端に少なくなっていた。
そして、アルバムの半分を越えようとしたその時だった。
棚の奥の暗がりに、何か小さなきらめくものがあるのを見つける。
「……え?」
結衣が棚の中に指を滑り込ませ、それを摘み出す。
現れたのは、小さな銀色の『鍵』だった。
こんな奥底に、わざわざ隠すようにして入れられている不自然な鍵。
それがどこへ通じる扉のものか、結衣には直感で理解できた。十中八九、先ほどどうしても開かなかった、二階の奥にある『柊生の自室』のスペアキーに違いない。
結衣は、指先で見つけ出した銀色の鍵をしっかりと握りしめた。
(これで、お兄ちゃんの部屋が開く……)
古いアルバムを元の引き出しに押し込み、結衣は重い足取りで部屋の出口へと向かおうと踵を返した。
――その瞬間だった。
「……ッ!?」
唐突に、脳の芯を冷たく鋭い針で深く貫かれたような、凄まじい強烈な眩暈が結衣を襲った。
結衣はたまらず頭を両手で押さえ、その場にうずくまる。
直後、視界がぐにゃりと陽炎のように歪み、周囲の空間がまるで水彩画に水をこぼしたように、ドロドロと溶け落ちていった。
(な、に……これ……?)
耳鳴りがガンガンと頭蓋骨を叩き、結衣の意識は強制的に、別の光景へと引きずり込まれていく。
そこは、ひどく薄暗く、息が詰まるような淀んだ空気が立ち込める部屋だった。
部屋の中央には、大きなベッドが一つ。
その上に――二人の人間が、ピクリとも動かずに横たわっていた。
いや、ただ眠っているのではない。ぐったりと投げ出された手足の不自然な角度。それは明らかに、すでに命を失った『死体』だった。
シーツは黒ずんで汚れ、ベッドの端からは、どろりとした赤黒い液体が絶え間なく滴り落ちている。
ポタッ、ポタッと、静寂を切り裂くようなひどく生々しい音が響き、床にはおびただしい量の『血の海』が広がっていた。
鼻を突く、むせ返るような鉄の匂い。圧倒的で、おぞましい死の気配。
だが、結衣の視線は、その凄惨な二つの死体よりも、ベッドの足元に立つ『何者か』に釘付けになった。
血の海が広がる床の上に、静かに佇む一人の人物。
闇に溶け込むような薄暗がりの中で、その姿だけが異様なほど鮮明に結衣の脳裏に焼き付く。
血溜まりのすぐそばに立つ、白く細い素足。その華奢なシルエットの曲線から、それが『女性』であることは直感的に理解できた。
そして何より結衣を底知れぬ恐怖で戦慄させたのは、その女性の身体をすっぽりと覆い隠すように着せられていた服だ。
暗闇の中でも不気味なほどに鮮やかに浮かび上がる、見覚えのある――『黄色いレインコート』。
(黄色い、レインコートの女……? 誰……?)
黄色いレインコートの女は、足元に広がる赤い血の海と、ベッドの上の二つの死体を、ただ静かに、感情の読めない顔で見下ろしている。
結衣がその異常な光景に耐えきれず、悲鳴を上げようとした瞬間――。
「――ッ、はぁっ、はぁっ……!!」
バチンッ、と。
電源を引き抜かれたテレビのように、凄惨な幻覚は唐突に途切れた。
結衣が猛然と息を吸い込んで顔を上げると、そこには見慣れた、そして何もない閑散とした客人部屋の光景が広がっていた。
ベッドには死体などなく、床に血の海もない。
窓の外からは、相変わらず分厚い灰色の霧が、静かな日常の残骸のように薄暗い部屋を照らしているだけだった。
「はぁ……ッ、はぁ……ッ」
結衣は床にへたり込んだまま、全身から噴き出した嫌な冷や汗を拭うこともできず、過呼吸のように荒い呼吸を繰り返した。
今のは一体何だったのか。
あの二つの死体は誰で、あの黄色いレインコートの女は一体……。
手の中の銀色の鍵が、まるで氷のように冷たく感じられた。
結衣は恐怖に震える足に無理やり鞭打って立ち上がると、得体の知れない恐怖と疑念が渦巻く兄の部屋の扉を開けるため、静寂の客人部屋を後にした。
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