第十八話 霧の中①
視界のすべてを白く濁らせる異様な濃霧の中、天下崎星也は分厚いコートの襟を立て、かつて自分が所属していた警察署の近くまで足を運んでいた。
天下崎は正面玄関を避け、署の裏手にある人気のない喫煙所近くの薄暗い路地へと回り込む。コートのポケットから冷え切ったスマートフォンを取り出し、杉浦へと連絡を入れようとした。
画面をタップしようと親指を動かした、まさにその刹那。
「――お前のそのしかめっ面、こんだけ霧が濃くてもはっきり見えるな、天下崎」
背後の白い霧の奥から、不意に聞き慣れた気怠げな声が鼓膜を打った。
天下崎が鋭く振り返ると、そこにはスーツの上にヨレヨレの安物のレインコートを羽織った杉浦が立っていた。
彼の手には自動販売機で買ったばかりらしい温かい缶コーヒーが握られており、目の下にはくっきりと黒い隈が刻まれている。どうやら連日の徹夜作業の合間に、外の冷たい空気を吸いに抜け出してきたらしい。
「……特殊刑事課は、随分と寝る暇もないくらい忙しそうだな」
「まあな。今はとてもじゃないが、呑気に仮眠室のベッドで横になれるような状況じゃねえ」
杉浦は缶コーヒーのプルタブを開けて一口あおると、すぐに周囲の白い闇を警戒するように鋭い視線を巡らせた。
かつての同僚である天下崎に向ける気安さはあるものの、その濁った眼光の奥には、尋常ではない疲労とピリピリとした緊迫感が張り付いている。
「俺がここに来るのが分かったのも、お前が丁度いいタイミングでここに現れたのも、また上層部とやらの命令か?」
天下崎が、昨日の門屋による尾行と監視のことを皮肉たっぷりに突きつけると、杉浦はひどく面目なさそうに顔をしかめた。
「すまなかったよ、昨日の事は……。だが、今日ここにお前が現れるなんて聞いてねえし、俺が来たのは本当にただの偶然だぞ!?」
杉浦はおどけたような声を出して弁解するが、天下崎から返ってくるのは氷のように冷たく無言の圧だけだった。
やがて、杉浦は諦めたように深く息を吐き出し、声を一段と低くした。
「……でも、まあ……タイミングが悪かったな。今、署の内部はとんでもないピリピリ具合で、誰も彼もが疑心暗鬼になってる。完全な『厳戒態勢』なんだよ」
「厳戒態勢だァ?」
天下崎が怪訝そうに眉をひそめると、杉浦はさらに周囲の霧に気を配りながら頷いた。
「ああ。昨日から、例の海還りどもの動きが、明らかに変わったんだ。今までみたいな規則性が一切通用しなくなったせいで、上層部も完全にパニックを起こしててな」
「……連中の狙いが、三十代の大人から『若い少女』に変わったことか」
天下崎が、昨日自らが河川敷で直面した絶対的な絶望の記憶に基づく推測を短く口にすると、杉浦は缶コーヒーを持った手をピタリと止め、わずかに目を見開いた。
「お前のとこの上司だか部下だか知らねえが、門屋って男がご丁寧に教えてくれたよ。俺たちを立派な『オトリ』にしてな」
天下崎の怨念のこもった言葉に、杉浦は感嘆と呆れの混じった息を漏らし、その推測をハッキリと肯定した。
「ああ、なるほどな、門屋さんが……。お前の言う通りだ。これまで奴らは、成人した男女だけをターゲットにして、ひどく静かに、痕跡も残さずに神隠しを重ねていた。だが昨日から急に、ターゲットを特定の年齢層――少女に絞って、なりふり構わず派手に動き始めやがったんだ。これまでの徹底した隠密行動が嘘みたいにな」
「なりふり構わず、ね。……わざわざ警察にマークされる目立つリスクを冒してまで、突然少女を狙い始めた理由に、警察は何か心当たりがあるのか?」
天下崎が元刑事としての冷徹な視線で問うと、杉浦は重々しい口調で続けた。
「残念ながら、確実な裏はまだ取れていない。だが……上層部は、海還りの連中の何らかの計画が『次の段階』へと移行したんだろうと睨んでる。いよいよ大詰めってやつかもな。……だが、事態が急変して上の連中が頭を抱えてるのは、海還りの件だけじゃねえんだよ」
杉浦は缶コーヒーを飲み干し、空き缶を乱暴にポケットにねじ込んだ。
「実は……この街で暗躍していたもう一つの厄介な組織、『黄色いレインコートの教団』の方にも、今朝になってデカい動きがあってな」
「黄衣の教団にデカい動きがあった……?」
天下崎が怪訝そうに聞き返すと、杉浦は一段と声を潜め、口元を手で覆うようにして囁いた。
「ああ。奴らが根城にしていた『虹橋デパート跡地』の周辺を、ウチの部下がずっと内偵してたんだが……今朝、その見張り役だった警官二人が、近くの路地裏で意識不明になって倒れているのが発見されたんだよ」
「見張りがやられたってのか。……ただの小競り合いじゃねえな」
「ああ。ヤツらの本拠地があのデパート跡地なのはそれで確定はしたんだが……それだけじゃない」
杉浦は、冷え切った両手を擦り合わせながら言葉を継いだ。
「騒ぎになって、門屋さんが単独でデパート跡地の地下を探りに入ったんだが……なんと、中は完全な『もぬけの殻』だったそうだ。人間一人、影も形も残っていなかったらしい」
「もぬけの殻だと? 一夜にして拠点を移したってことか?」
天下崎は驚きを隠せずに顔をしかめた。大勢の狂信者が一度に、しかも誰にも見られずに姿を消すなど、そう簡単にできることではない。
「ああ。だが、門屋さんはこうも言っていた。『ただの引っ越しや夜逃げにしては、あまりにも唐突すぎる。教団内で並々ならぬ何か――海還りとの致命的なトラブルか、あるいは大規模な作戦の決行があったはずだ』とね。それに……『鑑識だろうと機動隊だろうと、絶対に一人もあの中に入れるな』って、上層部に強く釘を刺しやがったんだと」
(……つまり、あの地下には何らかの致命的な痕跡が残っているが、あいつは警察の人間を誰一人として入れさせないようにしているって事か)
門屋という男の底知れない闇の深さに、天下崎は密かに舌打ちをした。
「それで、天下崎。お前の方は何か掴んでるのか?」
杉浦の問いに、天下崎は少し考えた後、もう一つの気がかりなダミー会社の名前を口にした。
「……『深口貿易』。海還りの連中と関わりがあるかもしれないんだが、警察の方で何か動きは掴んでないか?」
その名を聞いた途端、杉浦はひどくうんざりしたような顔をして、大きなため息を白く吐き出した。
「深口貿易か。……もちろん、警察もあの会社をマークしてはいる。だが、この街にあるその手の施設は、どれもこれも巧妙に作られた『ダミー会社』ばかりなんだよ。ガサ入れの準備をして何箇所かチェックもしてるが、どこももぬけの殻か、無関係なペーパーカンパニーばかりで、全く音沙汰なしだ」
「尻尾を掴ませねえってことか。なら、奴らの本当の本拠地はどこにある?」
天下崎が苛立ちを込めて鋭く問うと、杉浦は呆れたように肩をすくめた。
「それが分かれば、こんなに苦労はしねえよ。ただ……これまた門屋さんの、突拍子もない推測なんだがな」
「なんだ?」
「あの人曰く、『海還りの連中の本拠地は、我々人間が決して立ち入れないような場所――湾岸近くの、深い深い海の底に沈んでいる可能性もある』……だそうだ」
「……海の底?」
その単語を聞いた瞬間。
天下崎の脳裏に、昨夜バスルームで溺れかけた時に見た『深海の悪夢』の光景が、べっとりと、ひどく鮮明にフラッシュバックした。
光の届かない漆黒の水底。息の詰まるような圧倒的な水圧と、そこで音もなく蠢いていた、巨大で冒涜的な何かのシルエット。
「馬鹿馬鹿しいだろ? 海の底に組織の拠点があるなんて、カルトのホラ話かSF映画じゃあるまいしよ」
杉浦は乾いた声で鼻で笑って見せたが、天下崎は一人、顔面から血の気を引かせ、笑うことができずに霧の中で立ち尽くしていた。
「……それで? 海還りにしろ、黄衣の教団にしろ、あいつらは一体何を目的にして、こんな異常な真似をしているんだ?」
天下崎が、喉の奥から絞り出すような低い声で尋ねると、杉浦はひどく嫌そうな、薄気味悪さに耐えかねたような顔をした。
「俺も最初は耳を疑ったし、正直今でも信じちゃいねえ。……だが、門屋さんは、大真面目な顔でこう言ったんだ。『二つの異常な組織の最終目的は同じ。自らの信奉する、神の復活だ』ってな」
「……はっ。神の復活だと?」
天下崎は、無理やりに鼻で笑い飛ばそうとした。
「妄言も大概にしろってんだ。お前らも、そんなオカルトじみたホラ話を真に受けてるわけじゃねえだろ」
呆れたように吐き捨て、タバコでも取り出そうとポケットに手を入れた、まさにその瞬間だった。
――ドクン、と。
天下崎の心臓が、まるで誰かに直接握り潰されたかのように不自然に大きく跳ね、背筋を強烈な悪寒が駆け抜けた。
(神の、復活……?)
冗談だと笑い飛ばそうとしたはずの脳裏に、再びあの『深海の悪夢』が蘇る。
圧倒的な冷気の中で音もなく蠢いていた、人間の矮小な認識能力を軽々と超越するような、巨大で冒涜的な『化け物』のシルエット。
あれはただの疲労が見せた悪夢などではなく、まさに海の底で復活の時を待つ「神」と呼ぶべき存在の、悍ましくも確かな胎動そのものだったのではないか。
人間の手には負えない、根源的な狂気の頂点。
「……天下崎? どうした、急に顔色が悪いぞ」
不意に黙り込み、額から大量の冷や汗を流し始めた天下崎を見て、杉浦が怪訝そうに顔を覗き込んだ。
「いや……何でもねえ。ちょっと冷えただけだ」
天下崎は強引に悪夢の残滓を振り払い、ポケットの中で震えそうになる自らの手をきつく握りしめた。
ピリリリリ、と。
その時、杉浦の胸元で警察無線の着信音が無機質に鳴り響いた。
「チッ……上からの呼び出しだ」
杉浦は忌々しそうに舌打ちをし、乱れたスーツの襟を正した。
「俺は署に戻る。天下崎、これ以上深入りはするなよ。……今のこの街は、どう考えてもまともじゃねえ。この異常な霧も、嫌な予感しかしない」
「ああ、分かってる。情報提供、感謝するぜ」
天下崎が短く応えると、杉浦は一つ頷き、足早に警察署の裏口へと消えていった。
誰もいなくなった薄暗い路地裏で、天下崎は一人、空を覆い尽くす分厚い灰色の霧を見上げた。
(黄衣の教団の連中は、一夜にして虹橋デパート跡地からもぬけの殻になった。そして門屋は、警察の人間を誰一人として中に入れさせないようにしている……)
警察が手を出せないのなら、むしろ都合がいい。
天下崎はコートのポケットの中で、隠し持ったリボルバーの冷たい鉄の感触を確かめると、誰もいないという虹橋デパート跡地へ向かって、濃霧の中を重い足取りで歩き出した。
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