第十七話 家出②
灰色の濃霧が立ち込める中、結衣は息を切らして河川敷の土手を駆け下りていた。
ここは昨日、自分たちが黒ローブの集団――『海還り』に襲われ、絶体絶命の窮地に陥った凄惨な場所だ。
もし、何も知らない百合がこの近くを一人でうろついていて、またあの化け物たちに見つかってしまったら。想像するだけで全身の血の気が引き、結衣は視界の悪い霧の奥へ向かって、喉が裂けそうなほど必死に声を張り上げた。
「百合ちゃん! どこなの、百合ちゃん!」
しかし、結衣の叫び声は重く湿った空気に鈍く吸い込まれるだけで、何の反応も返ってこない。
――ブルルッ。
その時、コートのポケットの中でスマートフォンが短く震えた。
翼か天下崎からの発見の報告かと思い、結衣はすがるような思いで慌てて画面を開く。しかし、メッセージアプリの通知に表示されていた送り主は、『柊生』からだった。
『結衣、ごめん。今朝慌てて家を出たから、もしかしたら実家の鍵を閉め忘れたかもしれないんだ。悪いけど、時間がある時に確認をお願いできないかな』
『あと、ニュースでも言ってたけど、今日は異常気象でこの後ずっと雨が続くみたいだから。危険だし、外に出ずに大人しく家にいるように』
(お兄ちゃんから……?)
結衣は訝しげに眉をひそめた。
昔から神経質なほど几帳面な兄が、戸締りを忘れるなど極めて珍しいことだ。
(ごめん、お兄ちゃん。今はそれどころじゃないの!)
結衣は立ち止まり、かじかむ指先で素早くフリック入力を行う。
『今、百合ちゃんが家出して外を探してるの! お兄ちゃんの家に行くのは後回しになるかもしれない!』
状況を伝える短いメッセージを送信し、画面を見つめる。
しかし、数分待っても、そのメッセージに『既読』の文字がつくことはなかった。兄はいつも連絡がマメですぐに返信をくれるはずなのに、今日に限ってなぜ。
得体の知れない黒い不安が胸をよぎるが、今は百合を見つけ出すことが最優先だ。
結衣は返信の来ないスマートフォンをポケットにねじ込み、首を振って兄への疑念を振り払うと、再び霧の河川敷へと走り出した。
一方、翼は結衣と別れ、駅へと続く人通りの多い大通りへと向かっていた。
普段なら買い物客でごった返しているはずの大通りも、今日はこの異常な濃霧の影響か、歩き交う人の数はまばらだった。視界は白く濁り、数メートル先の信号機の赤い光すら、水に滲んだようにぼやけている。
「すみません、このくらいの背丈で、黒い服の小さな女の子を見かけませんでしたか?」
翼は、すれ違う通行人や、開店準備をしている商店の店主たちに片っ端から声をかけ、百合の特徴を伝えて必死に聞き込みを続けていた。
しかし、返ってくるのは「見ていない」「この霧じゃ顔も分からないよ」という、つれない返事ばかりだ。
既に探し始めてから二時間が経過しており、翼の胸の内に、黒いタールのような焦りが急速に募っていく。
そんな中、大通りの交差点で交通整理のボランティアをしている初老の男性に声をかけた時だった。
「ん? ああ、小さな女の子かい? いやぁ、見てないねぇ」
男性はすまなそうに首を振った後、ふと不思議そうな顔で、深い霧の向こう――夢見ヶ原高校がある方角へと視線を向けた。
「そういえば、今日は本当に妙な日だね。小さな女の子は見なかったけど、高校生なら嫌ってほど見たよ」
「高校生、ですか?」
「ああ。ウチの仕事は朝早いんだがね、たしか朝の四時くらいかな……あそこの高校の生徒たちが、ぞろぞろと学校の方へ歩いていくのを見たんだ。みんな無言で、うつむき加減でね……。あんな真っ暗な時間に大勢集まって、何か特別なイベントでもあるのかねぇ?」
(朝の四時に、大勢の生徒が登校している……?)
翼は息を呑んだ。
凪からはグループチャットで、そんな早朝からの異常なイベントの話は一切聞いていない。
後で凪に確認した方がいいのだろうが、今はそれどころではない。
「……ありがとうございます。視界が悪いので、気をつけてくださいね」
翼は男性に短い礼を言い、重い足取りで再び霧の中へと歩き出した。
学校で何が起きているのかは気になるが、今はとにかく百合を見つけるのが先決だ。翼は自身の焦燥感を無理やり振り払うように周囲を見渡し、ふと、ある見覚えのある景色が目に飛び込んできた。
昨日、三人で立ち寄ったクレープ屋だ。
今日は悪天候による休店日なのか、シャッターは固く閉ざされている。だが、翼の視線は店の前ではなく、そのすぐ横に設置された小さなベンチへと釘付けになった。
白い霧の中にぽつんと浮かび上がるように、見覚えのある小柄なシルエットが、身を縮めて膝を抱えて座っていたのだ。
「……百合ッ!」
翼は弾かれたように駆け出し、ベンチに座り込んでいる少女の元へと全力で走り寄った。
荒い息をつき、肩を激しく上下させる翼の足音に気づき、百合はビクッと肩を震わせてゆっくりと顔を上げた。
「こんな霧の中、一人で出歩くなんてどれだけ危険か分かってるのか!」
無事を見つけた安堵の反動から、翼の口を突いて出たのは、思わず声を荒らげた厳しい叱責だった。
「昨日あんな恐ろしい目に遭ったばかりだろう!? もし俺たちが見つける前に、何かあったらどうするつもりだったんだ! 俺や結衣さんがどれだけ心配したか……ッ」
大人として、そして彼女の保護者を代行する者として、それは当然の怒りだった。
翼は、百合が自分の怒声に怯えて泣き出してしまうかもしれないと思いながらも、事の重大さを分からせるために強い言葉を重ねた。
しかし、百合は翼の怒声に怯えて泣き崩れることはなかった。
膝を抱えていた小さな腕をギュッと指の関節が白くなるほど強く握りしめ、翼を真っ直ぐに、射貫くような強い眼差しで睨み返してきたのだ。
「……気づいていないとでも思ってたの?」
「え……?」
「翼も結衣お姉ちゃんも、私のこと何も分かってない子供だと思って、大事なこと全部隠して、適当に誤魔化してるくせに!」
ベンチから勢いよく立ち上がった百合の声は、翼の怒りを遥かに上回るほどの、張り裂けるような悲痛な叫びだった。
「昨日だって……私がただブルブル震えて、隠れてただけだと思ってるんでしょ? 違うよ! 翼が青白い壁みたいな『魔法』を使ったのも、あの恐ろしい魚の化け物たちが私たちを殺そうとしてきたのも……全部しっかり見てたんだから!」
百合の口から飛び出した具体的な魔術と化け物の描写に、翼は息を呑んで絶句した。
正直、翼は全てが解決して終われば、百合にはうまく誤魔化そうと思っていたのだ。青白い壁や魚顔の化け物は、極度の恐怖で見えた幻覚で、ただの大柄な不審者だったと言い含めれば……しばらくすれば、子供の記憶は補正され、百合も自然に忘れて日常に戻れるだろうと。そう、心のどこかで甘く捉えていた。
「それは……百合を、これ以上危険な異常事態に巻き込みたくなかったから……。知らなければ、普通の生活に戻れるかもしれないって……」
「何も知らないまま、一人で置いていかれる方がよっぽど怖いよ!」
翼の苦しい弁解を、百合は涙声で真っ向から切り捨てた。
「翼たちがあんなに命の危険に晒されてるのに、そんな恐ろしいことが起きてるのに、私だけ蚊帳の外で『安全なところでお留守番してて』なんて……あんまりだよッ!」
大粒の涙が、百合の大きな瞳からポロポロと溢れ落ちる。
しかし彼女はそれを拭おうともせず、翼の胸を鋭く突き刺すような切実な言葉をぶつけ続けた。
「……大切な人を、また失いたくない! 翼が危険な目に遭って欲しくない! ……『置いていく』なんて言わないで……また私を一人ぼっちにしないでよ……!」
白い霧のベンチの前で響いた百合の痛切な叫びは、翼の胸の最も柔らかい部分を深く、容赦なくえぐった。
大粒の涙を流しながらも、決して目を逸らそうとしない少女の強い瞳。それを見て、翼は自分がどれほど傲慢だったかを思い知らされた。
自分は「彼女を守るため」という大義名分を盾にして、百合をただ保護されるべき都合のいい人形のように扱っていたのだ。
彼女もまた、二年前の理不尽な爆破事故で突然日常を奪われ、たった一人で家族の死という重すぎる十字架を背負って、今日まで必死に足掻いている、一人の人間だというのに。
真実を知らずに一人残されることの恐怖がどれほどのものか、一番理解してやらなければならなかったのに。
「……ごめん」
翼はゆっくりと冷たいアスファルトに膝をつき、ベンチに立つ百合と同じ目線になった。
「ごめん、百合。俺が間違っていた」
子供騙しの誤魔化しや言い訳は、もう一切しなかった。翼は百合の小さな両肩にそっと手を置き、自分自身の最も脆く、見られたくない部分を完全に曝け出すように、静かに語り始めた。
「俺は……二年前の事故以前の過去の記憶が、一切ない。身寄りも、友達もいない。自分がどこから来たのか、どうしてあの爆発事故を生き延びたのか、自分が本当は誰だったのかすら分からない。文字通り、空っぽの人間なんだ」
「翼……」
「そんな空っぽの俺にとって……今、この世界に確かに存在していて、確実に繋がっている『家族』みたいな存在は、百合だけなんだよ」
翼の低い声が、微かに震える。
記憶喪失の彼にとって、百合という存在は単なる保護対象などではなかった。今の自分がこの世界に存在していることを証明し、生きていく理由を繋ぎ止めてくれる、唯一の温かい錨だったのだ。
「だから……今朝、百合が家からいなくなったと分かった時、俺は自分がまた『すべてを失って、独りぼっちの空っぽになる』んじゃないかって、どうしようもなく怖かった。……百合を危険な目に遭わせたくないっていうのも本当だけど、それ以上に、俺自身が百合を失うのが怖くて、君を遠ざけようとしていたんだと思う」
大人の、あまりにも情けなく、独りよがりで、けれど偽りのない本音の吐露。
それを聞いて、それまで怒りと悲しみで張り詰めていた百合の表情が、スッと和らいだ。
自分と同じように、目の前の彼もまた、孤独と喪失の恐怖に怯えているただの脆い人間なのだと、幼いながらも確かに理解したからだ。
「……もう、子供扱いして隠し事はしない。俺たちが調べていることも、これから起こることも、全部百合に話す」
翼は百合の涙に濡れた目を真っ直ぐに見つめ返し、祈るように言葉を紡いだ。
「だからお願いだ、百合。もう二度と、俺の前から勝手にいなくなったりしないでくれ……」
濃霧に包まれた静寂の中、翼の切実な願いが響く。
百合は両手でゴシゴシと乱暴に涙を拭うと、小さくしゃくりあげながら、コクンと一つ、力強く頷いた。
「……うん。約束する。もう、勝手にどこかに行ったりしない」
百合が翼の首に小さな腕を回して力強く抱きつくと、翼もまた、彼女の小さな背中を、まるで壊れ物を扱うように優しく抱きしめ返した。
白い霧に閉ざされた片隅で。
失われた過去を持つ男と、真実を求める少女は、ようやく本当の意味で心を通わせたのだった。
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