第一話 黄昏に呼ばれて
【2905/2921】
天海翼は弾かれたようにベッドから跳ね起きた。
「……っ、はぁっ、はぁっ……!」
無意識のうちにシーツを強く握りしめていた両手の指は、限界まで白く血の気を失っていた。荒れ狂う動悸が胸の奥で暴れ回り、肋骨を突き破りそうなほどの勢いで打ち据えられている。
心地よい音色が部屋中に鳴り響いていた。目覚まし時計のオルゴールが奏でるアラーム音だ。当初は、朝の目覚めを優しく彩ってくれる心安らぐ音楽としてとても気に入っていたはずだった。だが、今の翼の鼓膜には、それがただ現実世界へと無理やり引き戻すための、冷たく無機質な音の連なりとしてしか認識できなかった。
翼は乱れた呼吸を必死に整えながら、手を伸ばしてアラームのスイッチを乱暴に叩き切った。途端に訪れた静寂の中、自分自身の荒い息遣いと、血液が全身を駆け巡るドクン、ドクンという脈動だけが、やけに大きく部屋に響いている。
全身は、まるでぬるい泥水にでも首まで浸かっていたかのように、じっとりとした寝汗でぐっしょりと濡れていた。冬の入り口である十一月下旬の、刃物のように冷たい空気が、汗ばんだ肌の熱を容赦なく奪い去っていく。
壁に掛けられたカレンダーと時計に目を遣る。二〇二四年、十一月二十一日。時刻は午前六時半を少し回ったところだった。
「……また、あの夢か」
翼は鉛のように重い頭を両手で抱え込み、ベッドの端に力なく腰掛けた。
果てしなく続く灰色の瓦礫の山。空を覆い尽くす血のような赤い光の網目と、万物を見下ろす不気味な巨大な目。そして、純白のワンピースを着た少女の、海よりも深い悲哀を湛えた琥珀色の瞳。
翼は、あの奇妙で悍ましい夢を最近よく見るようになっていた。目覚めた直後は、決まって心臓が破裂しそうなほどの恐怖と、得体の知れない強迫観念めいた焦燥感に駆られる。だが不思議なことに、現実の輪郭がはっきりしてくるにつれて、夢の細部は指の隙間からこぼれ落ちる乾いた砂のように、急速に曖昧になっていくのだ。ただ、「自分は何か取り返しのつかないほど大切なものを忘れている」という強烈な喪失感だけが、胸の奥底に冷たいしこりとして、確かな質量を持って残っていた。
その時、ドアの向こうから、パチパチと油が小気味よく跳ねる微かな音と共に、香ばしい匂いが漂ってきた。
ベーコンを焼く匂いだ。
そのひどく人間臭く、当たり前の日常を象徴する匂いを嗅いだ瞬間、翼の強張っていた肩の力がふっと抜けた。得体の知れない悪夢の残滓が、温かい生活の匂いによって少しずつ霧散し、自分が確かな現実世界に存在していることを実感する。
汗に濡れたパジャマを脱ぎ捨て、手早く着替えを済ませて居間への扉を開けると、そこにはキッチンに立つ小柄な後ろ姿があった。
「おはよう翼。起きるの遅かったね。顔色、あんまり良くないよ?」
振り返った少女――黄花百合が、フライパンを軽く揺すりながら小首を傾げた。
十代半ばほどの、輝くような白銀の長い髪を靡かせた、線の細い可憐な少女だ。彼女はどこか喪服を思わせるような、ゆったりとした深い黒色の服を身に纏い、手際よく目玉焼きを二つの皿に取り分けている。
夢の中で見た、あの悲しげな少女の純白のワンピースとは完全な対極にある、その百合の深い黒色が、なぜか今の翼の心を奇妙なほどに落ち着かせた。花がほころぶような彼女の無邪気な笑顔を見ると、翼はいつも、荒波のようにささくれ立った心が穏やかな凪へと変わっていくのを感じるのだ。
「おはよう、百合。ちょっと変な夢を見てね。酷く寝汗をかいちゃったから、着替えるのに手間取ったんだ」
心配させまいと、翼は努めて穏やかな声で笑って見せた。百合は「ふーん」と少しだけ疑わしげに目を細めたが、それ以上は深く追及してこなかった。すぐに「冷めないうちに食べてね」と、湯気を立てる朝食を小さなダイニングテーブルに並べ始める。
三十五歳になる翼と、十代の百合。二人は親子でもなければ、親戚でもない。血の繋がりなど一切ない赤の他人だ。
彼らを結びつけているのは、二年前、この夢見ヶ原市を襲った未曾有の大惨事――『虹橋デパート爆破事故』だった。
昼下がり、多くの買い物客や家族連れで賑わっていた大型デパートが、突如として爆発し、跡形もなく吹き飛んだあの陰惨な事件。数百人もの死傷者を出し、天を突くような巨大な建物は一瞬にして絶望的な瓦礫の山へと姿を変えた。未だに爆発の原因すら解明されていないその崩落の山の中から、奇跡的に無傷で救出された生存者が、翼だった。
しかし、一命を取り留めた代償は、あまりにも大きかった。翼は過去の記憶の「一切」を失っていたのだ。
自分の本名も、家族の顔も、これまでどんな人生を歩み、誰を愛してきたのかも。焼け焦げた衣服に残っていたのは、「天海翼」という名前だけが辛うじて読み取れる、黒焦げの身分証一枚だけだった。
文字通り、過去を持たない空っぽの器になってしまった翼。途方もない孤独と虚無感に苛まれていた彼が、入院中の病院のロビーで偶然出会ったのが、百合だった。彼女もまた、あの虹橋デパート爆破事故の数少ない生存者であり、同時にその事故で家族を失い、親戚もいない天涯孤独の身だという。
互いの心の奥底にある巨大な欠落を埋め合わせるように、二人は自然と距離を縮めていった。そして翼の退院を機に、二人はこの小さなアパートで、まるで本当の家族であるかのように同居生活を始めることになったのだ。
己が何者であるかという記憶を持たない翼にとって、百合と過ごすこの温かく穏やかな生活だけが、自分がこの世界に存在していることを証明する唯一の「確かで温かい現実」だった。彼女を守り、このささやかな日常を維持するためなら、なんだってできる。翼は心の底からそう思っていた。
カリッと香ばしく焼けたベーコンと、半熟の目玉焼き。そして、翼が働き口として拾ってもらった近所のパン屋から持ち帰った、焼き立てのバゲット。ささやかだが幸せな朝食を囲み、テレビから流れるニュース番組の平坦なアナウンサーの声をBGMに、二人は他愛のない会話を交わす。
「そういえば、パン屋の店員さんがね――」
百合が楽しげな口調で、昨日の店での出来事を話し始めた、まさにその時だった。
ブーッ、ブーッ。
テーブルの端に裏返して置いていた翼のスマートフォンが、無機質で神経を逆撫でするような振動音を立てた。
会話を止め、画面を覗き込むと、「非通知設定」からの着信だった。そして、翼が手を取って通話ボタンを押そうとする直前で不意に切れ、直後に留守番電話にメッセージが残されたことを知らせるアイコンが、チカチカと不吉な瞬きを始めた。
「……珍しいね。朝早くから誰だろう」
百合が不思議そうに首を傾げる。
「ああ、ちょっと仕事の仕込みの連絡かもしれない。悪いけど、聞いてくるよ」
翼は少しだけ眉をひそめ、スマートフォンを手に取って足早に自室へと戻った。
こんな早朝に非通知からの連絡など、嫌な予感しかしなかった。自室の扉をしっかりと閉め、耳に端末を押し当てて留守番電話の再生ボタンを押す。
『――お前の記憶は、未だ奥底に眠っている』
鼓膜を通り抜け、脳髄のシワを直接冷たい指で撫で回されるような、酷く異質な声だった。
男とも女ともつかない。若者なのか老人なのかすら判然としない。感情の起伏が一切削ぎ落とされた、ひどく無機質で、それでいて蛇が這うようにひたひたと忍び寄る不気味な響きを孕んでいた。
『本当の自分自身を取り戻したいならば。今日の午後六時六分、夢見ヶ原市の六丁目の路地裏に来るといい』
プツリ、と。
一方的にメッセージは途切れ、後には冷たい電子音だけが残った。
翼は端末を耳から離し、暗転した画面を凝視した。
悪戯だろうか。それとも、記憶喪失の人間を狙った新手の詐欺か。そう笑い飛ばして消去ボタンを押そうとした翼の指先は、しかし、かすかに痙攣するように震えていた。
あの声の、常軌を逸した響き。そして『記憶』という、翼の急所を的確にえぐる言葉。
翼の脳裏に、今朝見たあの灰色の瓦礫の悪夢が鮮烈にフラッシュバックした。二年前の爆破事故の瓦礫の記憶が、無意識のうちに悪夢と混ざり合っているのだろうか。忘れてしまった過去。自分が何者なのかという根源的な問い。それを知りたいという強烈な渇望は、翼がどれほど平穏な日常を取り繕おうとも、心の奥底で常に燻り続けていた。
もし、あの声の主が、自分の失われた過去を知っているのだとしたら。
背筋を冷たい汗が伝い落ちるのを感じながら、翼はスマートフォンをコートのポケットにねじ込んだ。
行かなければならない。そんな強迫観念めいた、抗いがたい引力が、翼の足を前へと進めようとしていた。
居間に戻ると、百合が心配そうな顔で翼を見上げた。
「仕事の電話だった? なんだか、すごく難しい顔してるよ」
「……うん。ちょっと、パン屋の仕事で発注のトラブルがあってね」
翼は努めて平静を装い、いつものような優しい、しかしひどく不器用な微笑みを作った。
「今日はその後片付けで、少し帰りが遅くなるかもしれない。夕飯は先に食べてていいからね」
「そっか。あんまり無理しないでね、翼」
「ありがとう。じゃあ、行ってくるよ」
百合の温かい見送りの声に背を向け、翼はアパートの重い鉄扉を開けた。
十一月の冷たい風が、翼の頬を鋭い刃のように打つ。その冷たい風の中には、これから彼が足を踏み入れることになる狂気の世界の匂いが、微かに混じっているような気がした。
同日、午後二時。
夢見ヶ原市の駅前にある、落ち着いたクラシックが流れる純喫茶。九条凪は、テーブルに置かれたグラスの表面に結露した水滴が、ゆっくりと重力に従って滑り落ちていく様を、少しだけ強張った顔でじっと見つめていた。
窓から差し込む秋の午後の日差しに照らされた凪の肌は、一年間という長い入院生活の名残で、十七歳の男子高校生にしてはまだ少しばかり青白く、不健康な透き通るような白さを保っていた。
だが、彼の本来の性格は、そのひ弱そうな外見とは完全に対極にある。太陽のように明るく、誰とでもすぐに打ち解けられる快活で屈託のない少年。それが九条凪という人間だった。
生まれつき重い心臓の疾患を抱え、激しい運動を固く禁じられていたにも関わらず、彼は決して自分の不遇な運命を悲観しなかった。しかし高校一年生の秋、ついに症状が悪化して倒れ、そのまま夢見野原高校を一年間休学することになった。夢見ヶ原市から遠く離れた病院。そこで、真っ白な病室の天井だけを眺める、終わりの見えない孤独な日々。
それでも、奇跡は起きた。適合するドナーが見つかり、生存率の低い大手術は無事に成功したのだ。術後の経過も驚くほど良好で、数日前にようやくこの懐かしい街へと帰ってくることができた。左胸にそっと手を触れると、服の上からでも、新しく力強い他者の鼓動のリズムを、確かな生命力として感じることができる。
いよいよ明日から、一年遅れで高校の教室へと復帰することになっている。
本来なら「やっとみんなと同じ青春を過ごせる!」と手放しで喜び、明日の準備に胸を躍らせるべきところだ。だが、凪の心には、彼らしくない小さな暗雲がモヤモヤと蟠り、鉛のように胃を重くしていた。
一年間という、あまりにも長い空白。かつての同級生たちはとうに二年生になり、それぞれの新しい人間関係を築き上げている。自分だけが、あの一年前の秋から時間が止まったまま取り残されているのだ。明日、教室の扉を開けた時、自分は「いつもの凪」として、自然に笑うことができるだろうか。もし、腫れ物のように同情の目を向けられたら。あるいは、完全に忘れ去られていたらどうしよう。そんな拭い去れない不安が、彼の生来のポジティブさを少しずつ鈍らせていた。
「……良平のやつ、俺がいない間、ちゃんとやってたかな」
誰に聞こえるでもない小さな声で、凪はストローを噛みながら幼馴染の名前を呟いた。
志村良平。凪にとって、物心ついた時からの、何よりもかけがえのない親友だ。
明るい凪とは正反対に、良平は昔から極端に内向的な性格をしていた。だからこそ、凪は昔から世話を焼くように、半ば強引に彼と一緒にいた。
凪が病室で入院することになってから、良平は時折、所在なさげな顔で遠方の病院までお見舞いに来てくれた。そんな良平に凪は昔から一緒に見ている特撮ヒーロー物の話をしては、よく困らせていたものだ。そのおかげで良平まで特撮にハマる事になったのだが。
『俺の病気がすっかり良くなって退院したら、また映画館のデカいスクリーンで一緒に見よう!』
あの日、病室で交わした約束。
良平は生憎、今は学校の授業を受けている時間のはずだ。明日、登校すれば嫌でも顔を合わせることになる。久々に会う親友に、自分の健康になった姿を見せられることは純粋に嬉しかった。だが、自分がいなかったこの一年間で、新しい友達と楽しくやっていけているか強い心配もあった。
だからこそ、明日は誰よりも明るく「待たせたな!」と笑って彼の肩を強く叩いてやりたい。復学への一抹の不安なんか、微塵も感じさせないヒーローとして、彼の前に戻りたいのだ。
凪はモヤモヤとした気分を振り払うようにスマートフォンを手に取ると、ネットのローカル掲示板を開いた。
ここ数日、暇を持て余した凪が気休め程度に眺めている「夢見ヶ原市のオカルト掲示板」だ。画面をスクロールすると、最近若者たちの間で急速に広まっているという、ある一つの都市伝説が目に飛び込んでくる。
『六丁目の占い師』
書き込みのまとめ記事には、こう書かれていた。
【夢見ヶ原市の六丁目の路地裏には、夕暮れ時になると謎の占い師が現れる。その占い師は、どんなに深い悩みでも、望むものをすべて与えて解決してくれるらしい】
普段の凪であれば、「そんな胡散臭い話があるかよ」と鼻で笑ってページを閉じていただろう。
だが、今の凪は、ほんの少しでいいから背中を押してくれる「お墨付き」が欲しかった。
『望むものをすべて与えてくれる』
もし、それが本当なら。
明日、一抹の不安もなく、胸を張って学校の扉を開けるための「絶対的な勇気」が手に入るとしたら。
迷いのない強い心が手に入るのなら。
「……よし、行ってみるか!」
凪はグラスに残った水を一気に飲み干すと、勢いよく立ち上がった。
どうせ家に帰っても、明日のことで頭がいっぱいになって落ち着かないのだ。嘘だと分かって呆れて帰ってくるだけでも、今の鬱屈とした気分を吹き飛ばすには十分な気晴らしになるはずだ。
テーブルに置かれた伝票を手に取り、凪は足早にレジへと向かった。
カラン、と澄んだドアベルの音を背中で聞きながら店外へ出ると、肌を刺すような冷たい風が吹いた。
ビルの隙間を縫って吹き抜けるその突風は、なぜか凪の細い身体を通り抜け、心臓の奥の隙間にまで入り込んでくるような、異様な冷たさを孕んでいた。ぶるりと肩を震わせながらも、凪の瞳には、ヒーローに憧れる少年特有の、危ういほどの真っ直ぐな決意と明るい光が宿っていた。
傾きかけた太陽が、街の輪郭を少しずつ赤黒い黄昏色に染め始めている。
凪はコートの襟を立て、風に背中を押されるようにして、都市伝説の舞台である「六丁目」の方角へと歩き出した。
同日、午後三時。
夢見ヶ原市内の、アンティーク調の重厚な家具が並ぶ落ち着いた喫茶店。白石結衣は、目の前に置かれた冷めかけのカフェラテを、親の仇でも見るかのような険しい目つきで睨みつけていた。
「……だから、ただの夢じゃないって言ってるでしょ」
結衣は、テーブルの向かい側に座る人物をキッと睨み上げた。
二十歳になる女子大生の結衣は、本来なら華やかなキャンパスライフを謳歌しているはずの年齢だ。だが、今の彼女の目の下には、どんなに高価なコンシーラーでも隠しきれない色濃いクマがべったりと張り付いていた。気の強そうな吊り目がちな瞳も、今はどこか怯えを含んで潤んでおり、神経質なほどに瞬きを繰り返している。
「黄色いレインコートを着た気味の悪い集団が、私を囲んで何か儀式みたいなことをしてるの。それに、そこには人間じゃない、悍ましい化け物みたいな影もいて……っ、毎晩毎晩、本当に殺されるんじゃないかってくらいリアルなんだから!」
身を乗り出して必死に訴えかける結衣に対し、向かいに座る兄――白石柊生は、どこ吹く風といった涼しい顔で、優雅にコーヒーカップを口に運んでいた。
「考えすぎだよ、結衣。大学のレポートや人間関係でストレスが溜まってるだけだろ。お前は昔から、ホラー映画を観ただけでも夜中に一人でトイレに行けなくなるくらい怖がりなんだから」
「なっ……! 誰が怖がりよ! 今の私はそんな子供じゃないわよ!」
図星を突かれて顔を真っ赤にし、結衣は声を荒げた。周囲の客が何事かと怪訝な視線を向けてきたため、慌てて口元を手で覆い、肩をすくめて身を小さくする。
強がる口調とは裏腹に、結衣の膝の上で固く握りしめられた手は、微かに、しかし止まることなく震えていた。
ここ数ヶ月、結衣は毎晩のように同じ悪夢にうなされている。
どこか広大で冷たい石造りの地下空間。顔の見えない黄色いレインコートの集団。人間の発声器官ではあり得ないような、理解できない冒涜的な言語の響き。そして、空間を引き裂くような巨大な化け物の咆哮。夢から覚めると、決まって全身が汗まみれになり、呼吸の仕方を忘れたかのように心臓が激しく打ち据えられ、死の恐怖に直面するのだ。
限界だった。一人暮らしをしている夢見ヶ原市から少し離れたアパートでは、もう一睡もできそうになかった。
だからこそ、結衣は「相談がある」と理由をつけて、この一週間、実家のある夢見ヶ原市へと逃げるように帰ってきていたのだ。両親は一年半前から長期の海外出張に出たきりで、実家には今、兄の柊生が一人で暮らしている。
柊生は、結衣にとってたった一人の頼れる兄であり、誰よりも大切で大好きな存在だった。
一年半前まで、柊生は重い病を患い、長らく生死の境を彷徨っていた。両親が海外へ飛んだのも、彼の莫大な治療費を稼ぐためという理由もあったのかもしれない。しかし、まるで神様が気まぐれを起こしたかのように、柊生の病気は「奇跡的」に完治したのだ。
退院後の柊生は、見違えるように健康になった。今は両親と親交の深かった人物が社長を務める市内の小さな会社で働いており、今日は有給休暇を取って、こうして結衣の相手をしてくれている。
元気になってくれたことは、結衣にとって何よりも嬉しいことだった。しかし、奇跡的な回復を遂げてからの兄は、どこか遠くへ行ってしまったような、透明な分厚いガラスの壁が一枚隔てられているような、そんな得体の知れない距離感を感じることがあった。
「……お兄ちゃんは、私が嘘をついてるって言うの?」
結衣が恨めしそうに呟くと、柊生は静かにカップをソーサーに置いた。
「嘘だとは言ってないよ。ただ、幻覚や夢の類に過剰に反応しすぎるのは良くないと言っているんだ。少し休めば治る。今日はもう実家に帰って寝ていなさい」
まるで駄々をこねる聞き分けのない子供をあしらうような態度。
結衣の中で、安堵を求めていた心が、急速に苛立ちへと反転していくのを感じた。せっかく勇気を出して、震える声で夢の恐怖を打ち明けたというのに。怖い時に「大丈夫だ」と頭を撫でて、抱きしめてほしかっただけなのに。
持ち前の気の強さと反発心が頭をもたげ、結衣はわざとらしく鼻で笑った。
「あっそ。お兄ちゃんが信じてくれないなら、別にいいわ。……他の人に相談するから」
「他の人? 大学の友人か?」
「ううん。最近ネットで話題になってる『六丁目の占い師』ってやつよ。どんな悩みでもズバリ解決してくれるって噂なの。夕暮れ時に六丁目の路地裏に行けば会えるらしいから、今からそこに行ってみる」
ただの意地悪だった。オカルトや非科学的なものを嫌う理系思考の兄を、少しでも怒らせて気を引きたかっただけの、当てずっぽうの言葉だった。
しかし。
その言葉を口にした瞬間、テーブルの上の空気が、文字通り「凍りついた」。
「…………ダメだ」
地を這うような、ひどく低く、冷え切った声だった。
結衣は思わず息を呑んだ。目の前に座る兄の顔から、一切の感情が抜け落ちていたのだ。いつもは穏やかな瞳が、爬虫類のように冷酷で無機質な光を帯びて、結衣を真っ直ぐに射抜いている。
「え……お、お兄ちゃん……?」
「いいか、結衣。六丁目には絶対に近づくんじゃない、いいね」
それは警告というよりも、有無を言わさぬ命令だった。背筋に氷柱を突き立てられたような悪寒が走り、結衣は声もなく固まった。
一年半前に病気を治して帰ってきたこの人は、本当に私の知っている「柊生」なのだろうか。そんな馬鹿げた疑念すら一瞬脳裏をよぎるほどの、異様な威圧感だった。
柊生はふと我に返ったように瞬きをすると、いつもの穏やかな、しかしどこか壁のある表情に戻った。
「……すまない、大声を出した。急ぎの用事を思い出したから、俺は先に出る。お前は寄り道せずにまっすぐ実家に帰るんだぞ」
言うが早いか、柊生は千円札を二枚テーブルに置き、結衣の返事も待たずに席を立ってしまった。
カラン、とドアベルが鳴り、兄の背中が足早に雑踏の中へと消えていく。
「……なによ、あれ」
取り残された結衣は、呆然とつぶやいた。
理不尽に話を打ち切られ、頭ごなしに否定されたことへの怒りが、結衣の中でふつふつと湧き上がってきた。
(あんな言い方されたら、余計に行きたくなるに決まってるじゃない……っ)
ここで逃げたら一生あの悪夢に、そしてあの兄の冷たい視線に縛られるような気がした。気が強くて負けず嫌いな結衣の性格が、恐怖心を無理やり押さえ込む。
結衣はテーブルの上の千円札を乱暴に財布に突っ込み、立ち上がった。
時刻は午後三時半。夕暮れまではまだ少し時間がある。
「絶対に突き止めてやるんだから」
誰にともなく吐き捨てるように宣言し、結衣は喫茶店を飛び出した。
同日、午後五時半。
夢見ヶ原市の駅前通りから少し外れた場所にある、翼が勤めるパン屋の裏口。従業員用の重い鉄扉を押し開けて外に出た翼は、吹き付けてきた冷たい秋風に思わず身をすくめた。
エプロンを外し、私服の厚手のコートを羽織っても、衣服の繊維の奥深くに染み付いた甘い小麦とバターの匂いは完全には消えていない。
手首の時計に目を落とす。あの不気味な声が指定してきた「午後六時六分」までは、まだ三十分以上の猶予があった。
少し早すぎるかもしれない。しかし、これ以上アパートに留まって百合の無邪気な顔を見ていると、あの不吉な留守番電話の件を隠し通せる自信がなかった。翼は小さく、しかし重い息を白く吐き出すと、コートのポケットに両手を深く突っ込み、足早に歩き出した。
秋の日は釣瓶落としというが、街はすでに赤黒い黄昏色――古くは『逢魔が時』と呼ばれ、魔物が蠢き出すとされる昼と夜の境界の薄暗がりに、急速に沈みかけていた。
都市伝説の舞台としてネットで囁かれている「夢見ヶ原市六丁目」は、華やかな駅前の喧騒からぽつりと切り離されたような、古びた雑居ビルが立ち並ぶうらぶれたエリアだった。夕暮れ時ということもあり、通りを行き交う人影はまばらで、どこか街全体が息を潜めて何かの到来を待っているような、奇妙で不気味な静けさがあった。
目的の路地裏に近づいた翼は、ふと足を止めた。
雑居ビルとビルの間に挟まれた、暗く細い路地裏の入り口。そこに、一人の男が立っていたのだ。
くたびれたトレンチコートのポケットに手を突っ込み、街灯の光すら届かない深い影の中で、周囲を油断なく見回している。年齢は翼より少し下、二十代後半といったところか。愛想の欠片もない仏頂面だが、その眼光はやけに鋭く、ただそこに立っているだけでも周囲の空気を威圧するような、研ぎ澄まされた刃物のような独特の空気を放っていた。
(……どこかで、見たことがあるような)
翼が記憶の糸を手繰ろうと目を細めた、その時だった。
男が翼の視線に気づき、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。二人の視線が、黄昏時の冷たい空気の中で真っ直ぐに交錯する。
男の鋭い目が、わずかに見開かれた。
「……あんた。確か、爆破事故の時の」
低く、少ししゃがれた声。その声の響きを聞いた瞬間、翼の脳裏に、すっぽりと抜け落ちた記憶の縁にある「二年前の病室の光景」がフラッシュバックした。
虹橋デパート爆破事故の直後。奇跡的に生還したものの、一切の記憶を失ってベッドで呆然としていた翼に対し、警察の人間は何度も執拗な事情聴取を行ってきた。その中に、ひどく思い詰めたような、しかし真剣な目で翼に質問を投げかけてきた若い刑事がいたはずだ。
「……天下崎さん、でしたね」
翼が思い出したように名前を口にすると、男――天下崎星也は、警戒を解かないまま短く「ああ」と頷いた。
「よく覚えてたな。……天海翼だったか。退院したとは聞いていたが、こんなところで何をしてる?」
「それは……」
翼が言葉に詰まると、天下崎はコートの懐に手を入れ、一枚の紙切れを取り出して翼に無造作に差し出した。
「ああ、警戒しなくていい。俺はもう、警察の人間じゃない。今はしがない私立探偵をやっている」
渡された名刺には、『天下崎探偵事務所 代表・天下崎星也』という文字が素っ気ない明朝体で印刷されていた。
「浮気調査から素行調査、人探しまで、何でも請け負ってる。もし何か困りごとがあったら連絡してくれ。……まあ、記憶喪失のあんたには、探してほしい過去が山ほどあるかもしれないがな」
ぶっきらぼうな口調ながらも、営業マンのように名刺を差し出してくるその態度に、翼は少しだけ面食らった。二年前の病室で見た、あの張り詰めた弓のような刑事の面影とは、少し印象が違っていたからだ。
「探偵、ですか。天下崎さんは……ここで何かのお仕事中ですか?」
翼が名刺をコートのポケットにしまいながら尋ねると、天下崎の目が再びスッと細められ、獲物を狙う鷹のような鋭さを取り戻した。
「俺は質問に答えた。次はあんたの番だ、天海。こんな寂れた六丁目の路地裏で、あんたこそ何をしてるんだ?」
刑事時代から変わらない、相手の嘘を見透かすような鋭い視線。
翼は心臓が嫌な音を立てるのを自覚しながらも、努めて平静な表情を作った。
「……待ち合わせです。知り合いと、この近くで会う約束をしていて」
嘘だった。朝の奇妙な留守番電話のことなど、馬鹿正直に話せるはずがなかった。相手が元刑事の探偵となれば、なおさらだ。不必要な警戒をされて、過去の記憶に繋がるかもしれないこの唯一の機会を邪魔されるわけにはいかなかった。
「待ち合わせ、ねえ」
天下崎は、ひどく胡散臭いものでも見るように鼻を鳴らした。
「わざわざこんな、都市伝説の怪しい噂が立ってるような路地裏の前でか?」
「ええ。相手が、ここを指定してきたので」
翼が引き下がらずに真っ直ぐに見つめ返すと、天下崎は少しの間だけ探るように翼の目を睨みつけていたが、やがてふっと息を吐いて視線を外した。
「……まあいい。実は俺も、匿名の依頼主から『ここを調査してくれ』って頼まれて来てみたんだがな。どうにもきな臭い」
天下崎は路地裏の暗がりへ顎をしゃくった。
黄昏の薄暗がりの中、刃物のような冷たい風が二人の間を吹き抜けた。偶然の再会にしては、あまりにも不自然すぎる。互いに腹の底に秘密を抱え、薄氷の上を歩くような探り合いの沈黙が、路地裏の前に降りていた。
そのひりつくような沈黙を破ったのは、通りから路地裏へ向かって近づいてくる、二つの軽い足音だった。
「……ん? 誰か来るな」
天下崎が視線を通りへ向けると、翼もそちらを振り返った。
現れたのは、若い男女の二人組だった。一人は、少し青白い顔をした十七、八歳くらいの男子高校生。もう一人は、気の強そうな顔立ちをした二十歳前後の女子大生だ。
二人とも、こんな寂れた六丁目のビル群にはひどく不釣り合いな、ごく普通の若者たちだった。
「あれが待ち合わせの相手か?」
「…いえ、初めて見る顔です」
天下崎と天海が目線を合わせる。
「あ、あの……もしかして、ここって六丁目の路地裏ですか?」
女子大生――白石結衣が、警戒する天下崎と翼の顔を交互に見ながら、恐る恐る尋ねてきた。
「ああ、そうだが。君たちは?」
翼が穏やかな声で答えると、隣にいた男子高校生――九条凪が、少しだけホッとしたように息を吐いた。
「よかった。僕もここに来るのは初めてだったんで、道が合ってるか不安だったんです」
聞けば、結衣が六丁目への道に迷っていたところ、偶然近くを通りかかった凪に道を尋ねたのだという。すると奇妙なことに、凪もまったく同じ場所へ向かっていることが分かり、ここまで一緒に歩いてきたらしい。
「同じ場所へって……君たちも、この路地裏に用があるのか?」
天下崎が、怪訝そうに眉間に深いシワを寄せた。
匿名の依頼主からの手紙。偶然の再会。ただでさえ不審な要素が重なっているこの場所に、さらに部外者の若者が二人も集まってきたのだ。元刑事の研ぎ澄まされた勘が、これは単なる偶然ではないと激しく警鐘を鳴らしていた。
「こんな何もない薄暗い路地裏が、最近の若者の間で人気の観光スポットにでもなってるのか?」
天下崎が皮肉交じりに問うと、凪は少し気まずそうに目を伏せた後、ぽつりと答えた。
「……『六丁目の占い師』ですよ。ネットの掲示板で、最近すっごく話題になってる都市伝説なんです。夕暮れ時にこの路地裏に行けば、どんな深い悩みでも解決してくれる占い師に会えるって……」
「占い師、だと?」
天下崎は呆れたように鼻を鳴らした。翼も思わず目を丸くする。
「なんだ、お前ら。そんな胡散臭いオカルト話を真に受けて、わざわざこんなうらぶれた場所までやって来たってのか。物好きにも程があるぞ」
「うるさいわね! 藁にもすがる思いで来てる人もいるのよ!」
結衣がむきになって言い返したが、その声の端は微かに震えていた。彼女自身、それがどれほど馬鹿げた行動であるかは理解しているのだろう。それでも、来なければならない切実な理由があったのだ。
翼は、結衣の深刻そうな顔を見て、ハッとした。
(彼らは『占い師』に会うために来た。じゃあ、俺に電話をかけてきたあの声の主も……そして、天下崎に依頼をしてきた人間も、その『占い師』と何か関係があるのか?)
ジリリリリ、と。
不意に、天下崎のポケットの中でスマートフォンのアラームが鳴り響いた。
時刻は午後六時ちょうど。逢魔が時。太陽は完全に沈み、空にはただ赤黒い黄昏の残滓だけが、まるで血糊のようにべったりとへばりついている。
「……さて、こっちは依頼の時間だが………まさかオカルト話に釣られた奴らを同行させる事になるとはな…」
天下崎が大きくため息を吐くと、天海は「俺は違いますよ!?」と焦って否定の言葉を入れる。
「その『オカルト話』の場所の調査依頼を引き受けるなんて、探偵は色々と大変そうね?」
天下崎が結衣のそれを無視するようにトレンチコートの襟を立てて路地裏の暗闇へと足を踏み入れた。翼も無言でそれに続く。「あ、待ちなさいよ!」と結衣が後を追いかけるように入ると、それに釣られるように凪も路地裏へと入っていく。
二つのビルの隙間に形成されたその路地裏は、まるで巨大な獣の食道のように細く、そして異様なほどに空気が冷たかった。一歩足を踏み入れただけで、肺の奥まで凍りつくような冷気が這い上がってくる。
街灯の光は届かず、奥へ進むにつれて足元は完全な闇に沈んでいく。カツン、カツンと、四人の足音だけが不気味なほど大きく反響していた。
十メートルほど進んだ先で、路地は右へと直角に曲がっていた。その曲がり角の先は、文字通りの漆黒だった。
「な、なんか……すごくおどろおどろしいっていうか、嫌な感じがするんだけど……」
結衣が、たまらず凪の制服の袖をきつく掴んだ。その言葉の通り、路地の奥からは、カビと鉄錆が混ざったような、ひどく淀んだ空気が漂ってきている。
「……静かにしろ」
先頭を歩いていた天下崎が、鋭い声で制止し、右手を上げて三人の歩みを止めさせた。
天下崎の目が、暗闇の中で野生動物のように細められている。
「……聞こえるか。曲がり角の先からだ」
天下崎の言葉に、翼たちも息を潜めて耳を澄ました。
シュー、シュー、という、空気が漏れるような奇妙な音。
いや、違う。それは「息遣い」だった。しかも、一人ではない。複数人の、酷く荒々しく、粘り気を帯びたような異質な呼吸音が、曲がり角のすぐ向こう側から聞こえてくる。
「……本当に、占い師がいるのかも……!」
凪が喉を鳴らし、思わず足を踏み出そうとした。
「馬鹿野郎、不用意に動くな」
天下崎が凪の肩を強く掴んで制止する。探偵の濁った目には、はっきりとした警戒の色が宿っていた。
「いいか、音は立てるなよ。……ゆっくり覗くぞ」
天下崎の指示に従い、四人は息を殺して冷たいコンクリートの壁に張り付いた。
そして、心臓の音すら抑え込むような緊張感の中、慎重に、ゆっくりと曲がり角の先へと顔を出す。
四人は、そこに広がる光景を見て息を呑んだ。
そこは、行き止まりの開けた空間だった。
しかし、そこに凪や結衣が期待していた「占い師」の姿はない。
代わりに彼らの目に飛び込んできたのは、異様で、そして決定的な暴力の現場だった。
壁際に追い詰められ、へたり込んでいる一人の女性。彼女は不自然なほどに鮮やかな、黄色いレインコートをすっぽりと被っていた。
そして、その小柄な女性を取り囲むようにして、三つの巨大な人影が立ち塞がっていた。全員が、足元まで隠れる漆黒のローブを深く被っている。先ほどから聞こえていた荒い息遣いは、この三人の男たちから発せられていたものだった。
「おい、あんたたち……何をしてる!」
元刑事である天下崎が、鋭い声で威嚇した。
その声に反応し、三人の黒ローブがゆっくりとこちらへ振り返る。
街灯の届かない薄暗がりの中、ローブの奥に潜む彼らの『顔』が見えた瞬間――結衣の喉から、ヒュッと引き攣ったような悲鳴が漏れた。翼も、全身の血液が急速に冷えきっていくのを感じた。
それは、人間の顔ではなかった。
両目はまぶたがなく、カエルのように異様に丸く飛び出している。鼻筋は潰れ、耳のあるべき場所にはエラのような裂け目がヒクヒクと蠢いていた。何より異質なのはその肌だ。深海魚の腹のように白く濁り、気色の悪い粘液でぬめぬめと光り輝いている。
生理的な嫌悪感と、根源的な恐怖。ここに存在してはならない、生命の法則から完全に逸脱した冒涜的な姿だった。周囲の空気が、急激に腐った魚とヘドロの悪臭に染まり始める。
「ボゴォ……シュル、ルル……」
化け物たちは、人間の発声器官では絶対に不可能な、水底で泥が弾けるような未知の言語で短いやり取りを交わした。
そして、その中の一体が、焦点の合わない濁った眼球を翼たちに向け、口を大きく裂くように開いた。
『ソ、コ、ヲ……動、ク、ナ』
無理やり人間の言葉を真似たような、酷く歪で不快な音声だった。
直後、別の化け物が、黄色いレインコートの女性に向けて、丸太のように肥大化した巨腕を高く振り上げた。ローブの袖が破れ、緑色の鱗に覆われた醜悪な腕が露わになる。
あれが振り下ろされれば、女性の頭など熟れた果実のように容易く潰れてしまう。
「やめろッ!」
恐怖で足がすくむよりも早く、凪が叫び声を上げて飛び出した。女性を庇うようにして、化け物との間に割って入る。
「凪くん!」
翼も咄嗟に仕事用の鞄を握り直し、走り出した。天下崎は舌打ちをしながらも、誰よりも速く滑らかな動作で先頭に躍り出る。
「退けッ、化け物!」
天下崎が、巨腕を振り上げた化け物の懐に一瞬で潜り込み、その顔面に向かって渾身の蹴りを叩き込んだ。元警察官としての厳しい訓練を経た、成人男性の頭蓋骨すら揺るがす強烈な一撃。
――しかし。
「なっ……!?」
天下崎の顔に、驚愕の色が浮かんだ。
分厚いゴムタイヤを蹴りつけたような、異質な感触。化け物の顔面の肉はブヨブヨと波打ってその衝撃を完全に吸収し、ダメージを受けた様子が微塵もなかったのだ。
直後、化け物の腕が、鬱陶しいハエでも払うかのような無造作な軌道で天下崎の胴体を薙ぎ払った。
「ガァッ……!」
メキリ、と肋骨が複数本砕ける生々しい音が路地裏に響き、天下崎の巨体がボロ布のように壁へと吹き飛ばされる。
「天下崎さん! この野郎ッ!」
翼が固い革鞄をフルスイングし、別の化け物の頭部に叩きつける。しかし、鈍い音が響いただけで、化け物は痛痒すら感じていないように首を傾げた。そして、鱗に覆われた腕を無造作に伸ばし、翼の胸ぐらを掴んで軽々と宙に持ち上げた。
「ぐっ……、あ……っ」
そのまま、翼の体は背中から強烈にアスファルトへと叩きつけられた。肺から空気が搾り出され、視界が明滅する。
圧倒的な暴力。人間と虫ケラほどの、埋めようのない力の差だった。
「いや、いやあああああッ!」
逃げようと背を向けた結衣の悲鳴は、あっけなく途切れた。化け物の一体が彼女の細い首を背後から掴み上げ、まるで枯れ枝でも折るかのように、無慈悲に、そして簡単にへし折ったのだ。ぐったりとした結衣の体が、ゴミのように路地裏の隅へ放り捨てられる。
「結衣……さん……」
地面に倒れ伏した翼の目に、絶望的な光景が映る。
女性を庇って両手を広げていた凪も、化け物の水掻きのついた鋭い鉤爪によって、胸から腹にかけてを深く抉り裂かれた。大量の鮮血を撒き散らしながら、高校生の細い体は声も出せずに崩れ落ちた。壁際では、天下崎が口から血泡を吹きながら完全に動かなくなっている。
たった数十秒の出来事だった。
パンチも、キックも、鈍器も、人間のちっぽけな抵抗など一切通じない。ただの一撃で命を刈り取られる、純粋な絶望がそこにあった。
「あ……が……っ」
全身の骨が軋み、指先一つ動かせない翼の頭上に、巨大な影が落ちた。
先ほど翼を地面に叩きつけた化け物が、翼の顔面を真上から踏み潰そうと、水掻きのついた巨大な足をゆっくりと持ち上げていた。
鼻を突く強烈な磯の死臭と、化け物の濁った眼球が、翼の瞳に焼き付く。
『偉大ナル……ディープワン様』
化け物の喉の奥から、粘着質な言葉が漏れ出た。
『血肉ハ、多少魔力ニナル……偉大ナル……ディープワン様ニ捧ゲル……血肉』
醜悪な巨足が、翼の顔面に向けて容赦なく振り下ろされる。
グチャリ、という耳障りな破砕音が、翼の鼓膜を最後に揺らした。
激痛すら感じる間もなく、翼の意識は完全な暗黒へとプツリと途切れた。
【夢見ヶ原市】
港に隣接している市で、貿易会社をはじめとする様々な企業の建物が乱立している。市内の夢見ヶ原高校は交通の便や偏差値といった面で有名で、市内在住の多くの学生達が通っている。
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