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箱庭の百合  作者: Kibana
黄昏時に夢をみる
19/45

第十六話 家出①

 物悲しくも優しい、澄み切ったオルゴールのメロディが、薄暗い寝室の冷たい空気を震わせて鳴り響いた。


「……ん」


 ベッドサイドの棚に置かれた、少し古びたぜんまい式の置き時計。金属の櫛歯が弾かれるその音色を止めようと、翼は鉛のように重い瞼をゆっくりと押し上げた。

 カチリ、とスイッチを押し込むと、途切れたメロディの余韻が部屋に溶けて消える。

 同時に、昨夜の河川敷での死闘の疲労感が、どっしりとした質量を伴って全身の筋肉にのしかかってきた。

 異形の化け物たちから受けた暴力の衝撃、不完全な魔術の結界を無理やり維持し続けたことによる精神の摩耗。それらが未だに身体の芯に居座り、少し身動きをするだけで骨がきしむような鈍い痛みを訴えかけてくる。

 翼は息を細く吐き出し、乱れた髪を乱暴に掻き上げながら、重い足取りで寝室のドアを開けた。


「……おはよう、翼さん」


 暖房の効いたリビングに出ると、昨夜からソファをベッド代わりにしていた結衣が、ちょうど貸し出していた毛布を跳ね除けて身を起こしたところだった。

 彼女もまた、あの凄惨な化け物や教団の記憶のせいで満足に眠れなかったのだろう。目の下にはうっすらと青白い隈が浮かび、痛々しいほどに疲労の色を濃く滲ませていた。


「おはようございます、結衣さん。ソファで体、痛くなりませんでしたか?」


 翼が気遣うように声をかけると、結衣は眠そうに目を擦りながら、少しだけ恨めしそうな、しかしどこか安堵を含んだ視線を翼へと向けた。


「体は大丈夫だけど……ちょっと、翼さん。あの目覚ましの音、壁越しにずっと聞こえてたわよ」


「えっ、すみません。うるさかったですか?」


「うるさいっていうか……なんというか、すごく耳に残る不思議な音で。おかげで完全に目が覚めちゃったじゃない」


 結衣が少し不機嫌そうに小言を言いながら、しわの寄った衣服をパンパンと整える。


「それにしても、随分と珍しい音楽を設定してるのね。もしかしてスマホのアラームじゃなくて、本物の目覚まし時計?」


「あはは……すみません。スマートフォンのアラームはあまり好みじゃなくて。それに、あの目覚まし時計の音がお気に入りなんですよ」


 翼は苦笑いしながら、二人分のコーヒーを淹れようとキッチンへと向かった。

 二年前の爆発事故で過去の記憶のすべてを喪失している翼にとって、自分がなぜあの特定のメロディを好んでいるのか、その理由すら定かではない。

 ただ、あのガラス細工のような音色を聴いていると、空っぽの胸の奥底が不思議と温かく満たされ、えも言われぬ安心感に包まれるのだ。自分という人間がかつて確かに存在し、誰かに愛されていた証のような、そんな手触りだけが残っている。


「……まあ、いいわ。ちゃんと起きれたから」


 結衣は小さくため息をつき、テーブルの上に置かれていたテレビのリモコンに手を伸ばそうとして――ふと、テレビ台の下の棚に収まっている一冊の古い本に目を留めた。

 背表紙の色が褪せた、絵本のような装丁の本だ。結衣は何気なくそれを手に取り、表紙のタイトルを読み上げた。


「……童話、『白百合の少女』?」


 結衣は本をパラパラとめくりながら、キッチンに立つ翼に声をかけた。


「翼さん。これ、百合ちゃんのために買ったの?」


「え?」


「いや、でも……」


 結衣はパラパラと中の挿絵を見つめながら、少し首を傾げた。


「百合ちゃんの今の年齢にしては、幼い子向けすぎる童話だと思うんだけど」


「……童話? 俺の家に、そんな本ありましたか?」


 マグカップにお湯を注いでいた翼が、不思議そうに振り返る。その顔には、本当に心当たりがないという純粋な困惑が浮かんでいた。


「自分の家なのに、知らなかったの?」


 結衣が呆れたようにその絵本を掲げて見せた、その瞬間だった。

 ズキリ、と。

 翼の脳の奥底を、鋭い氷の針で深く突き刺されたような強烈な頭痛が襲った。


「……ッ!」


 翼は思わずケトルを取り落としそうになり、キッチンのカウンターに手をついて額を押さえた。


(なんだ……今の)


 痛みに顔を歪めた刹那、翼の脳裏に、ノイズ混じりの不鮮明な映像が唐突にフラッシュバックした。

 ――どこかの、ひどく混雑した人混みの中。

 周囲を急ぎ足で行き交う見知らぬ大人たちの足と、耳障りな喧騒。

 そして、自分の右手をギュッと強く引く、誰かの『小さな手』の確かな感触。

『ねえ……■■■■!あっちに行こう!』


 鈴の転がるような、幼い少女の無邪気な声が、耳の奥でこだました。


「翼さん!? 大丈夫!?」


 異変に気づいた結衣が驚いて駆け寄ろうとした、その時。

 ギィ、と寝室のドアが細く開き、目をゴシゴシとこすりながら黄花百合がリビングに姿を現した。

 昨夜の絶対的な恐怖の余波があったからか、まだ少し顔色が優れず、足取りもどこか覚束ない。


「あ……」


 翼は荒い呼吸を整えながら、フラッシュバックした『小さな手の感触』と、目の前にいる百合の姿を交互に見つめた。頭痛はすでに嘘のように引いていた。

 今の記憶の断片は、過去の自分自身のものなのか。それとも、失われた記憶が勝手に見せた幻覚に過ぎないのか。混乱する頭を無理やり切り替え、翼は心配そうに見つめてくる結衣に向けて「大丈夫です、少し立ちくらみがしただけで」と手を振った。


「おはよう、百合」


 翼がマグカップを置いてしゃがみ込み、視線を合わせて声をかけると、百合は無言で小さく頷き、トテトテと歩いてきてソファの端にちょこんと腰を下ろした。

 結衣が絵本をそっとテーブルの端に置き、再びテレビのリモコンに手を伸ばす。

 ピッ、と無機質な電子音が鳴り、静まり返っていたリビングに朝のニュース番組の音声が流れ始めた。

 女性キャスターの落ち着いた声が、いつもの退屈な日常の空気を運んでくるかと思いきや、画面の向こうから告げられたのは、どことなく不吉な気配を孕んだ予報だった。


『――続いて、気象予報をお伝えします。昨日までの予報では、都内は来週末まで概ね晴れの天気が続くと予想されていましたが、昨夜から北太平洋上で突如として発達した「異常な低気圧」の影響で、東京や関東地方全域の週間天気予報が一変しています』


(異常な低気圧……?)


 結衣が顔をしかめ、画面を注視する。


『気象台によると、この低気圧は観測史上類を見ないほどの速度で勢力を強めており、今夜には本州に接近する見込みだとの事です。こうした影響により、関東地方は来週末までほとんど雨予報になりそうです。本日は都内全域で季節外れの深い濃霧と、局地的な激しい雨が予想されております。外出の際は十分にお気をつけください』


「……百合。今日は外の天気もすごく悪いみたいだし、何より危ないから、一日この家の中で大人しくしているんだよ。いいな?」


 翼がニュースの音声に被せるように、昨夜天下崎たちと決めた『百合を絶対に出歩かせない』という方針通りに優しく言い聞かせる。

 すると、百合はあからさまに不満そうな顔をして、ムスッと幼い唇を尖らせた。


「えーっ……ずっと一人でこの狭いお家にいるの? 私も一緒に行っちゃダメなの?」


「ダメよ、百合ちゃん。昨日あんな怖い目に遭ったばかりじゃない。またあの気味の悪い……不審者たちが、いつ外をうろついているか分からないのよ」


 結衣も翼に同調してしゃがみ込み、百合の小さな手を握って真剣に説得する。

 しかし、百合は納得いかない様子で顔を背け、結衣の手を軽く振り払った。


「でも、翼も結衣お姉ちゃんも、これから何か危ないことを外に調べに行くんでしょ? 私だけ何も知らないまま、一人ぼっちでお留守番なんて絶対に嫌だ」


「それは、百合をこれ以上危険な事態に巻き込まないためだ。あんな事があった以上、昨日みたいに一緒に行動するのは無理だ。百合にはまだ難しいかもしれないが、大人たちの言うことをちゃんと聞いてくれ」


 翼の正論に、百合はギリッと悔しそうに唇を噛んだ。


「翼、子供ってね、大人が思っているよりずっと賢いんだよ」


「屁理屈を言ってもダメだ。百合、今日はここにいるんだ。分かったね!」


 百合の大人びた反論を封じ込めるように、翼は思わず声を荒げてしまった。

 一瞬の気まずい沈黙がリビングに落ちる。百合は大きな瞳にうっすらと涙を浮かべながら、ギュッと自身の膝を抱え込んで黙り込んでしまった。

 ただテレビから流れ続けるニュースの音声だけが、妙に大きく、耳障りに室内に響いていた。


『――本日は都内全域で深い濃霧と、局地的な激しい雨が予想されております。視界が非常に悪くなるため、外出の際は十分にお気をつけください』


「……異常気象、ね。ただの天気ならいいけど」


 結衣が重い沈黙を破るように言葉を発し、テレビの画面から窓の外へと視線を移した。

 翼もつられて窓の外に目をやると、ニュースの言葉通り、街全体がどんよりとした灰色の濃霧にすっぽりと覆い尽くされていた。少し先の建物の輪郭すら水彩画のようにぼやけて滲み、空はひどく重く淀んでいる。


「……ええ。この異常気象が、もし海還りか、あの教団と何か関係しているのだとしたら……」


 翼と結衣は、昨日のデパート跡地で聞いた『黄衣の王との交信』という不気味な単語を思い出し、深刻な顔を見合わせた。


「もし連中がこの視界の悪い天気に乗じて何か大規模なテロを仕掛けてくるとしたら、今日一日は下手に動かない方がいいかもしれないわね」


 二人の大人の意識が、完全にテレビのニュースと窓の外の脅威――「見えない敵」への警戒へと向いていた、そのほんの数十秒の隙だった。

 ――ガチャリ。バタン。

 不意に、玄関の重い鉄扉が開き、そして勢いよく閉まる音が室内に響き渡った。


「……え?」


 翼と結衣がハッとして振り返る。

 だが、そこにあるはずのソファの上には、誰もいなかった。つい数秒前まで膝を抱えて座っていた小柄な少女の姿は、忽然と消え失せていたのだ。


「百合!?」


 翼が血相を変えて玄関へと走り、鍵を開けて外に飛び出す。結衣も慌ててブーツを引っ掛け、それに続いた。

 しかし、アパートの外階段から身を乗り出して周囲を見渡しても、すでに百合の姿はどこにも見当たらない。

 すれ違う人の顔すら見えにくくなるほどの厄介で分厚い朝霧が、足早に駆け出したであろう少女の小さな背中を、真っ白な虚無の中へとすっかりと隠してしまっていた。




 アパートを飛び出した翼と結衣は、灰色の朝霧が深く立ち込める通りを、息を切らして走り回っていた。


「百合! どこだ、百合!」


「百合ちゃん! お願い、返事をして!」


 二人の切羽詰まった声が、湿った重い空気に吸い込まれ、ただ虚しく反響する。

 視界は絶望的に悪かった。数十メートル先の交差点すら白く霞んで見えず、すれ違う通行人の顔も、数歩手前まで近づかなければ全く判別できない。

 この天候の中、小柄な少女が人混みや入り組んだ路地裏に紛れ込んでしまえば、闇雲に探して見つけ出せる確率は絶望的に低かった。


「……ダメだ、この霧じゃ見つからない。結衣さん、二手に分かれて探しましょう」


 息を切らしながら立ち止まった翼は、スマートフォンを取り出してメッセージアプリを起動した。


「俺はグループチャットで、天下崎さんと凪くんにも状況を知らせます。一人でも目と足が多い方がいい」


「分かったわ。何かあったらすぐに連絡して!」


 結衣は力強く頷くと、コートの裾を翻して白い霧の奥へと駆け出していった。

 翼も急いでチャットに『百合が家出をした。霧が濃くて見失った、見かけたらすぐに連絡してほしい』と打ち込み、送信ボタンを押す。




 ――ピロン。

 その無機質な通知音は、少し離れた天下崎の探偵事務所の古びたデスクの上で鳴った。

 昨夜の深海の悪夢と、得体の知れない熱と頭痛からようやく起き上がり、苦いブラックコーヒーを無理やり胃に流し込んでいた天下崎は、スマホの画面を見て深く、ひどく濁ったため息を吐き出した。


「……朝っぱらからガキの家出探しだと?」


 呆れ果てたように吐き捨て、天下崎は画面を荒々しく閉じた。

 そもそも昨日百合を外に出さない事は三人で決めた筈だ。それよりも最初からあの少女を連れて歩く事に、天下崎はあまり同意していなかったのだ。


(こいつらは本当に、人の期待を裏切る……一昨日も、昨日も……)


 天下崎は、少しずつ信頼を獲得してきた結衣と翼に対して再び失望した。これなら一人で調査していた頃の方がまだマシだ。百合が命の危険に晒された時には仲間として助けるとは言ったが、自ら危険に晒されにいく愚か者共を助ける義理はない。

 昨日の襲撃の件があった以上、百合を一人で外に出すのが極めて危険であることは百も承知だが、今の天下崎にはそれ以上に優先すべき、早急に確かめなければならない事があった。


(昨日から、奴らは三十代の大人ではなく『若い少女』を明確に狙い始めている……。それに今日のこの天気、必ず何かが起きている。例え一度捨てたあの場所だとしても、警察署は今の状況を把握できているかもしれない数少ない場所だ。杉浦や門屋がいるのならそこで現状把握をする事が先決)


 ただの少女が、この短時間でそこまで遠くに行くのは難しいだろう。自分の仕事が終わってからでも、見つかっていなければ仕方ないが探すのを手伝ってやる、と天下崎は冷徹に割り切った。

 飲みかけのコーヒーカップをドンと机に置き、椅子の背もたれにかけてあった分厚いコートを羽織る。


「……辞めた組織に昨日今日と連日で頭を下げることになるとぁ、俺も落ちぶれたもんだな」


 天下崎は自嘲気味に低く呟きながら、机の引き出しに忍ばせてあるリボルバーの冷たい重みを服の上から確認した。

 元々、警察という巨大な権力組織に協力を仰ぐのは虫唾が走るほど嫌だった。だが、あの素人の三人が使い物にならない以上、背に腹は代えられない。

 天下崎は一人、深い霧の街へと足を踏み出した。

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