第十五話 予知夢
翼のアパートを出た天下崎は、深夜の冷たい風に吹かれながら、自身の古びた探偵事務所へと帰還した。
鍵を乱暴に閉め、分厚いコートをソファに雑に投げ捨てる。静まり返った暗い室内でネクタイを緩めると、天下崎はふうっと重く濁った溜息を吐き出した。
脳裏に蘇るのは、つい数時間前の河川敷での死闘だ。翼や結衣の前では「これからは魔術の特性を共有し、連携を取ろう」と偉そうに語った手前、天下崎は自身の内側に渦巻く強烈な自己嫌悪をひた隠しにしていた。
今日の戦闘で、天下崎は自身の魔術を使わなかった。
いや、正確には「使えなかった」のだ。
もちろん、長年警察組織で渡り合ってきた元刑事としての本能が、咄嗟に拳や蹴りといった肉弾戦を選択させたという理由もある。だが、本当の理由はもっと根深いところにあった。
「……気味が悪ィんだよ」
天下崎は胸にぶら下がっている『青いペンダント』を、僅かな月明かりに透かして忌々しそうに睨みつけた。
あの不気味な占い師から授かった魔術。空間を歪め、悍ましい不浄の『触手』を呼び出すというその力に、天下崎の精神はどうしても馴染むことができなかった。自らの意志で振るう力でありながら、肌を粟立たせるような生理的な嫌悪感が拭えないのだ。
それはまるで、昨日見たあの光の届かない『深海の悪夢』をダイレクトに想起させるような、おぞましく冷たい気配を、この青い石から感じ取っているからかもしれない。
天下崎はペンダントから目を逸らすと、執務机の奥にある鍵付きの引き出しを開けた。
書類の束の裏に隠してあった油紙を解き、中から取り出したのは、裏ルートで密かに入手した黒光りするリボルバー式の拳銃だ。カチャリとシリンダーを弾き出すと、鈍く光る弾丸が「六発」だけ装填されている。
(……門屋の野郎が撃った弾は、確実にあの魚のバケモノどもの脳天を砕いていた)
相手が異形のバケモノであろうと、物理的な鉛玉が有効打になることは今日の河川敷で証明されている。ならば、得体の知れない魔術に頼るより、長年使い慣れたこちらに頼る方がよっぽど現実的だ。
翼と結衣には魔術で連携すると約束したが、あの二人は少し前まで一般人、いくら覚悟があるとはいえ素人は素人だ。いざ戦闘になった時、信じられるのは自分の腕。それにあの不浄の触手をこれ以上見たくないという本音がある。有事の際、いざとなればこの六発の弾丸が最後の切り札になるだろう。
天下崎は冷たい鉄の塊を机の上にゴトリと置き、凝り固まった首の筋をバキバキと鳴らした。
拳銃を机の上に残したまま、天下崎は重い足取りでバスルームへと向かった。
冷え切った身体と、今日一日の嫌な汗、そして鼻の奥にこびりついたような血の死臭を洗い流すため、熱めの湯を張って静かに湯船に身を沈める。
「……ふう」
だが、安堵の息を吐き出したのも束の間、天下崎は自身の身体を覆う奇妙な違和感に気がついた。
(なんだ……体の調子が、おかしい)
ひどい頭痛がする。まるで脳の髄を直接掴まれて揺さぶられているような、鈍く重い痛みだ。それに、先ほどまで夜風に吹かれて冷え切っていたはずの身体が、異常なほど熱を持っていた。湯の熱さではない。ただの風邪や疲労とも明らかに違う、内側から沸き立つような不自然な熱だった。
天下崎は乱れた呼吸を整えようと、深く息を吸い込み、ゆっくりと目を閉じた。
――その瞬間だった。
閉じた瞼の裏に、ありありと幻覚が広がった。
そこは、光の届かない漆黒の底。圧倒的な水圧と絶対的な冷気が支配する、息の詰まるような『深海』だった。
無音の世界。だが、確実に「何か」がいる。
暗い水底の奥深く、天下崎の矮小な認識能力を軽々と超越するような、巨大で冒涜的な『化け物』のシルエットが、音もなく浮かび上がっていた。
(な、んだ……あれは……ッ)
目を開けようとしても、瞼が縫い付けられたように動かない。強烈な頭痛と共に、天下崎の意識は抗う間もなく深海の底へと深く、深く引きずり込まれていく。
巨大な化け物から放たれる狂気の波動が、脳髄に直接ねじり込まれ、正常な理性を黒く塗り潰していく。精神が汚染されていく。魂が、深淵の泥に侵食されていく。
息が、できない――。
「――ッ、ごぼっ、がはっ……!!」
気道を塞ぐ水の苦しみに、天下崎は猛然と顔を上げ、激しく咽せ返った。
見開いた視界に映ったのは、いつもの殺風景なバスルームだった。幻覚の中で意識を失いかけ、そのまま湯船の底へと滑り落ちて、危うく溺れかけていたのだ。
「はぁっ、はぁっ、げほっ……!」
バシャバシャと湯を掻き乱して身を起こし、天下崎は荒い息を吐きながら気管に入った湯を吐き出した。額からは湯の雫なのか冷や汗なのか分からないものがボタボタと滴り落ちている。激しく脈打つ心臓の音だけが、タイル張りの空間に異様に大きく響いていた。
(……ただの悪夢じゃねえ。確実に、俺の頭が、精神が……)
天下崎は濡れた手で顔を覆い、荒ぶる呼吸をなんとか落ち着かせようと努めた。
幸い、溺れかけたことで幻覚から強制的に引き戻されたせいか、先ほどまでの異常な熱と頭痛は幾分か引いている。身体の奥底に鉛を飲み込んだような嫌な怠さは残っているが、明日の日常動作や調査に支障を来すほどではないだろう。
だが、あの深海の底で蠢いていた巨大な影の感触は、脳裏にべっとりと張り付いて離れなかった。
両親からの長々とした説教からようやく解放され、自室のベッドに潜り込んだ凪は、泥のような疲労感と共に深い眠りへと落ちていった。
良平の家での温かい食卓の記憶が、徐々に意識の底へと沈んでいく。
――やがて、凪の視界に『夢』の光景がぼんやりと広がった。
ピントの合わないカメラ越しに覗き込んでいるような、輪郭が曖昧で色彩の薄い世界。
そこは、見覚えのあるどこかの『校舎の裏』のようだった。薄暗く、じめじめとした空気だけが肌にまとわりついてくる。
視線の先で、二人の人物が向かい合って話をしているのが見えた。
だが、ノイズがかかったように顔はノッペリとぼやけており、声のトーンもくぐもっていて、それが誰と誰なのかははっきりと認識できない。
「……具体的に、どんな方法を使うんですか……?」
一人の少年が、ひどく怯えたような、オドオドとした声で尋ねた。背中を丸め、常に誰かの顔色を窺うような自信のなさがそのシルエットから滲み出ている。
「簡単なことさ」
少年の問いに答えたもう一人の男は、ひどく耳障りの良い、甘く怪しげな声色をしていた。
男の手には、一冊の『本』が握られていた。男がその表紙を撫でた瞬間、本から不気味な光が溢れ出し、オドオドとした少年の身体をすっぽりと覆い尽くした。
「……ッ!?」
光を浴びた少年が小さく息を呑む。
男は満足げに微笑むと、少年の華奢な肩に親しげに腕を回し、その耳元に顔を寄せてねっとりと囁いた。
「おめでとう。君は今、本来なら人間が決して手に入れることのできない『力』を手に入れたんだ。……使い方は、自ずと分かってくるはずだよ」
男の言葉は、まるで甘い毒のように少年の心へ沁み込んでいく。
「ずっと自分の感情を押し殺して、狭苦しい世界で息を潜めて生きてきただろう? もう我慢しなくていい。その力を使えば、今まで君をゴミのように見下し、蔑んできた連中なんて、虫けらみたいにちっぽけに思えるはずだ」
男が言葉を紡ぐたび、少年の背中から、今まで抑圧されてきたドロドロとした暗い感情が立ち上っていくようだった。
「これからはもっと自由に、君自身の感情の赴くままに生きてみようよ」
男はポン、と少年の肩を優しく叩いた。
「力は、君の強い感情に必ず応えてくれる。……何かあった時は、迷わず使うといい」
そのひどく不吉で、狂気を孕んだ甘い囁きが鼓膜にこびりついたところで――。
凪の意識はふっと途切れ、ぼやけた校舎裏の光景は、漆黒の闇の中へと溶けて消えた。
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