第十三話 深きもの②
翼も、結衣も、天下崎も。
全員が、取り返しのつかない絶対的な絶望に目を剥いた。
誰もが最悪の結末を覚悟した、まさにその瞬間――。
パーンッ!!
凍てつく夜の河川敷に、空気を切り裂くような乾いた『銃声』が轟いた。
翼や結衣たちの顔のすぐ横を、一筋の熱い弾道が掠めていく。
直後、百合にその忌まわしい手を触れようとしていた黒ローブのバケモノの脳天が、背後の暗闇から放たれた一撃によって、まるで熟れた果実のように綺麗に撃ち抜かれた。
「ギョ……?」
一体目が何が起きたのか理解する間もなく、さらに連続して四発の銃声が、静寂の夜にけたたましく響き渡る。
計算し尽くされた正確無比な射撃は、残る四体の異形たちの頭部をも、次々と容赦なく撃ち抜いていった。
急所を完全に破壊されたバケモノたちは、手足を不気味にバタバタと痙攣させながら、重い音を立てて次々とアスファルトの上へと崩れ落ちる。
「ショウ……ジョ……」
先頭で倒れた一体が、頭からどす黒い体液を流し、濁った巨大な眼球を百合に向けたまま、未練がましくうわ言のようにそう呟いた。
その直後だった。
ビクン、と大きく跳ねた彼らの巨体が、まるで限界まで膨らんだ水風船が内側から破裂するかのように、『パシャリ』と不気味な音を立てて弾け飛んだ。
中から大量の緑色の体液と赤黒い血をそこら中に撒き散らし、肉体の原型をドロドロに崩していく。
ものの数秒で、あれほど強大な力を持っていた五体のバケモノは、ただの強烈な悪臭を放つ、巨大な血とヘドロの塊へと姿を変えてしまったのだ。
だが、その異様な光景はそれだけで終わらなかった。
アスファルトの上にブチまけられた黒ローブの男たちの肉片と血溜まりが、まるで焼けた鉄板の上に水を落としたかのように、「シュウウゥゥ……ッ」という耳障りな音を立てて、白く濁った蒸気を上げ始めたのだ。
強烈な腐臭を放つその蒸気は、実体を持っていたはずの鱗や骨、そしてドロドロの肉片を、まるで最初からこの世界に存在していなかったかのように急速に溶かし、大気中へと霧散させていく。
ほんの十数秒後には、強烈な磯の匂いだけを残し、五体のバケモノの残骸は跡形もなく消え失せてしまっていた。彼らが身に纏っていた黒いローブの切れ端すら残っていない。
翼が伸ばした手を宙で止めたまま呆然と呟き、結衣が這いずって百合を抱きしめたまま震える中。
銃弾の飛んできた暗闇の奥から、『コツ、コツ』と、ひどく規則正しい革靴の足音が近づいてきた。
月明かりの下に姿を現したのは、仕立ての良い漆黒のスーツを着こなした長身の男だった。手には、銃口から白く細い硝煙を上げる、黒光りするオートマチックの拳銃が握られている。
その一切の無駄を省いた淀みのない射撃姿勢と、周囲の闇を油断なく警戒する冷徹な身のこなし。
長年、刑事として警察組織の酸いも甘いも噛み分けてきた天下崎の直感が、即座に相手の素性を弾き出した。
(……サツか。だが、ただの交番勤務や所轄のデカじゃねえ。あの洗練された身のこなしと躊躇いのなさ、只者じゃない)
天下崎が手すりから体を離し、警戒を露わにして身構える中。
スーツの男はゆっくりと拳銃のセーフティをかけ、上着の内側のホルスターへと仕舞い込み、四人に向かってひどく静かに口を開いた。
「皆さん、お怪我はありませんか?」
その声は、この異常で凄惨な事態の直後とは思えないほど、酷く事務的で、一切の感情が籠っていない落ち着き払ったものだった。
「私、警視庁特殊刑事課の『門屋安蔵』という者です。……ここではなんですから、詳しいお話は移動しながらにしましょう」
門屋と名乗った男はそう言うと、いつの間にか土手の上に音もなく停められていた黒い覆面パトカーの方へと視線を向け、後部座席のドアを開けて四人を誘う。
「……バケモノの次は、偶然通りかかって俺たちを救ってくれた凄腕の警察様か?冗談は口だけにして欲しいもんだな?」
天下崎は警戒を全く解かず、鋭い眼光で門屋安蔵を睨みつけた。
「信じられない気持ちは分かりますが、ここに留まるのは危険です。あの強烈な異臭に誘われて、また別の『アレ』が来ないとも限りませんよ」
門屋は天下崎の威圧感に表情一つ変えることなく、極めて事務的な口調で冷たい事実を告げた。
その言葉に、結衣の背中に隠れていた百合が「ひっ」と小さく悲鳴を上げ、首を激しく横に振る。見知らぬ男の車になんて絶対に乗りたくないという純粋な拒絶だったが、この凄惨な死臭が漂い、いつまたバケモノが現れるか分からない暗闇に留まる方が、遥かに恐ろしいのは明白だった。
「……百合、大丈夫だ。俺たちがついているから」
「そうよ、百合ちゃん。翼さんたちが一緒なら怖くないからね」
翼と結衣が優しく諭すように声をかけると、百合は涙目で小さく頷き、結衣に手を引かれるようにして恐る恐る後部座席へと乗り込んだ。翼と天下崎も、周囲の暗闇を強く警戒しながらそれに続く。
全員が乗り込んだのを確認すると、門屋は運転席に座り、静かにエンジンをかけた。
暖房の効いた車内。夜の街を滑るように走り出した黒い車の中で、重苦しい沈黙を破ったのは、ハンドルを握る門屋の方だった。
「大変申し訳ないのですが……実は今朝方から、皆さんをずっと監視させていただいていました」
「……やはりな」
天下崎が低い声で凄む。しかし、門屋はバックミラー越しに冷徹な視線を向けただけだった。
「神隠し事件……もとい、『海還り』による犯行の重要参考人としてです。ですが、思わぬものを見せてもらいましたよ。まさか本当に、あんな『魔術』を使えるとは」
「……それで俺たちが命懸けで襲われている間、ずっと高みの見物をしていたって事だな?」
翼の怒りを孕んだ問いに、門屋は「ええ」と一切の感情を交えずに短く肯定した。
「彼らからすれば、突然この街の暗部に詮索をはじめた得体のしれない皆さんは、大変邪魔な存在でしょう。だからこそ、皆さんを泳がせておけばいずれ彼らと接触すると思いましてね。――皆さんには大変申し訳ないのですが、『オトリ』のような役割を担ってもらいました」
「オトリだと……!? ふざけるな、一歩間違えれば全員殺されてたんだぞ!」
天下崎が怒りのあまり身を乗り出し、前の座席を蹴り上げんばかりに吠えた。その天下崎の肩を、翼が小声で宥めながら後部座席を指差す。
「天下崎さん……声が」
天下崎が振り返ると、後部座席では結衣の膝枕の上で、百合が小さく丸まって寝息を立てていた。極度の恐怖と寒さから解放され、急激な安心感と疲れですぐに眠りに落ちてしまったのだろう。
門屋は天下崎の怒りに一切悪びれる様子もなく、ただ淡々と前を見据えたまま、冷たい事実だけを語り続けた。
「お怒りはごもっともです。しかし、皆さんを泳がせたおかげで、我々もようやく、奴らに関する貴重な情報を得ることができました」
門屋は淡々とハンドルを切りながら車を走らせる。
「……情報? じゃあ警察は、あのバケモノの正体を知っていたってことですか?」
翼がバックミラー越しの冷徹な瞳を睨み返した。
「ええ。先ほど皆さんを襲ったのは、我々が『深きもの』と呼称している異形の集団です。ここ数年、この街で頻発している神隠し……もとい、失踪事件はすべて奴らの仕業ですよ」
「あの、化け物たちが……」
結衣は百合を起こさないように小声で、しかし青ざめた顔で息を呑んだ。
「彼らは二年前から突如としてこの都市に現れ、『海還り』と呼ばれるようになってから、静かに、しかし確実に仲間を増やしています。恐らく、失踪した被害者たちは彼らを崇拝する狂信者になったか……あるいは、すでに『消された』かでしょうね」
(杉浦は、神隠し事件についてそこまで知っている様子はなかった……ならこいつは上層部、もしくはそれに近い地位にいる人物って事か。俺に渡された資料は、俺たちをあの化け物に近づけさせるためのモノだったって事かよ…!)
「そこまで把握しているなら、なぜすぐに動かない! 本拠地を叩けば済む話だろうが!」
天下崎が苛立ちも露わに言い放つが、門屋は小さく息を吐いた。
「それができれば苦労はしません。我々も、とある『ある方』からの情報提供によって彼らの存在自体は知っているのですが……彼らの真の目的や本拠地、行動の全容までは掴みきれていないのですよ」
「ある方……?」
翼が訝しげに眉をひそめる。
「俺たちを尾行するように命令したのも、その『ある方』か?」
天下崎の問いに対して、門屋はその詳細を語ることはなく話を続けた。
「被害者の失踪は、毎回バラバラの時間帯、バラバラの場所で起きています。傾向が掴めないため、こちら側も対策が非常に難しい。それに、奴らはああ見えてひどく用心深い。証拠に残るような監視カメラのある場所や、人通りの多い大通りには決して姿を現さないのです」
門屋はそこで一度言葉を切り、再びバックミラー越しに後部座席の四人を冷ややかに見据えた。
「だからこそ、得体の知れない彼らの領域に踏み込んだあなた方が、『最適なオトリ』になったわけです。……無事に生き残っていただいて、本当に何よりでした」
その血の通っていない事務的な労いの言葉に、車内には底冷えするような沈黙が降りた。
「……あの、じゃあ、『黄色いレインコート』を着た人たちは何者なんですか?」
重苦しい車内の空気を恐る恐る破ったのは、結衣だった。
ルームミラー越しに結衣と視線を合わせた門屋は、淡々とした声で答えた。
「ああ、あの教団ですか。あれは皆さんに渡した資料の通りです。それ以上はまだ秘密事項なので言えませんね」
「秘密事項だと?」
天下崎が忌々しそうに吐き捨てる。目の前の男が決して人助けを信念して動く人間ではなく、人を駒として動かす側の人間だと改めて認識したためだ。
そんな警察への不信感を募らせながら、翼は門屋の横顔を鋭く観察していた。
「……門屋さんとおっしゃいましたね。あなたは先ほど、『魔術』と言ってましたが……あなたも、魔術を使えるんですか?」
一般の警察官であれば、空間に突如現れた青白い壁や、常軌を逸したバケモノの姿を見れば、少なからず動揺するはずだ。しかし、この男にはそれが全くない。
翼の真っ直ぐな問いに対し、門屋はハンドルを握ったまま、わずかに口角を上げただけで冷たく言い放った。
「買い被りすぎですよ。その存在を知っているのと、実際に使えるのとでは、全く訳が違いますからね」
それは明確な否定だったが、同時に「魔術の存在を警察組織の一部が当たり前のように認知している」という、さらに恐ろしい事実の裏返しでもあった。
得体の知れないバケモノ、それと敵対する不気味な教団、そして市民を平然とオトリに使う冷酷な警察。この街の裏側には、すでに彼らの想像を絶する巨大な闇が複雑に絡み合っている。
やがて、窓の外を流れていた見慣れない景色が変わり、車はゆっくりとスピードを落とした。
「……着きましたよ」
門屋がブレーキを踏み、ギアをパーキングに入れる。
窓の外を見ると、そこは翼の住むアパートの目の前だった。行き先など一言も伝えていないにも関わらず、警察は彼らの身元や帰るべき場所すらも完全に把握し、監視していたのだ。
「俺の探偵事務所もここから近い。ここで降ろして結構だ」
天下崎が言うと、アパートの前に停まった黒い車から、三人は重い足取りで降りようとした。翼は百合を起こさないよう、慎重におんぶをする。
その背中に向けて、運転席の門屋がひときわ冷ややかな、しかし重要な忠告を含んだ声を投げかけた。
「最後に一言だけ、忠告しておきましょう。都内では既に、幾つもの大きな力が働いています。いつ、いかなる存在が皆さんを襲ってもおかしくはありません。くれぐれも慎重に行動してください」
「……言われなくても、分かってる」
天下崎が忌々しそうに返すのを聞き流し、門屋はさらに言葉を続けた。
「闇雲にこの街の暗部を調査するのも結構ですが……今日のように、いざという時に連携が取れず、先程のようになってしまっては全く意味がありません」
「ッ……」
痛いところを的確に突かれ、翼と結衣は息を呑んだ。門屋の言う通りだ。あそこで彼が発砲しなければ、百合は間違いなくバケモノの手に落ち、自分たちも全滅していたかもしれないのだから。
「生き残りたいのなら、しっかりとお互いについてもっと知ることです。……今回はたまたま私が監視していたから助かったものの、いつでも警察があなた方を守ってくれるわけではありませんからね」
それが、冷酷な国家権力からの最後通告だった。
四人が車を降りてアパートの外階段を上り、玄関のドアを開けて中に入るまでを見届けた後。門屋の乗った黒い覆面パトカーは静かに発進し、夜の闇の中へと溶けるように消えていった。
【深きもの】
海還りの構成員であり、人と魚の中間のような顔をした化け物。
常人の数倍の怪力を持っており、人目につかない場所を選び行動できる知能も持っている。
深きものは集団性が異常に高く、個よりも全体を優先する傾向があり、それと同様に自分以外の種族を見下す傾向もある。
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