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箱庭の百合  作者: Kibana
黄昏時に夢をみる
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第十二話 深きもの①

 凪が良平の家で、つかの間の温かい肉じゃがを囲んでいたのと同じ頃。

 両親が海外出張中で不在の、柊生が管理する実家。その玄関を後にした天下崎、翼、結衣、そして百合の四人は、翼のアパートへと向かって、底冷えのする夜道を歩いていた。

 つい先ほどまで身を置いていた、温かい手料理と家族の愛情に満ちたダイニングルーム。そこから一歩外へ出ただけで、街はまるで彼らを拒絶するかのように、氷のように冷たく無機質な牙を剥いていた。

 容赦なく吹き付ける十一月の夜風が、コートの隙間から入り込み、体温と体力をゴリゴリと削り取っていく。

 百合は寒さから逃れるように、翼の分厚いコートの裾を小さな両手でしっかりと握りしめ、彼の大きな歩幅に必死に合わせて歩いていた。

 翼もまた、その小さな震えを察して自身の歩くペースを落とし、彼女の冷え切った背中を大きな手でそっと庇うように撫でながら進む。

 四人はしばらく無言のまま、閑静な住宅街を抜け、市内の中心を流れる河川――幅の広い河川敷沿いの遊歩道へと出た。

 アスファルトで舗装された冷たい道が長く続き、その先には対岸へと渡るための、巨大なコンクリート製の橋が架かっている。


「……止まれ」


 橋の真ん中あたりまで差し掛かった時。

 先頭を歩いていた天下崎が、ふいにピタリと立ち止まり、ひどく低く、殺気を孕んだ声で後続を制した。


「天下崎さん? どうしたんですか」


 翼が怪訝そうに尋ねるが、天下崎は答えず、マフラーに顔を埋めたまま、周囲の暗闇を獣のような鋭い視線で睨みつけている。

 長年、捜査一課の刑事として数々の血生臭い修羅場を潜り抜けてきた天下崎の直感が、肌を無数に見えない針で刺されるような、強烈で決定的な『違和感』を告げていたのだ。


(……おかしい。いくら夜とはいえ、不自然なほど静かすぎる)


 天下崎は周囲を油断なく見渡す。

 この河川敷の通りに入ってから、明らかにすれ違う通行人の人影がパタリと消え失せた。遠くの大通りを走るはずの車の走行音すら、分厚いガラス越しのように遮断されて一切聞こえない。

 何より不気味なのは、橋の上を等間隔で照らしているはずの街灯が、ここ一帯だけ完全に『沈黙』していることだった。電球の寿命が切れたというような、自然なものではない。まるで、空間そのものから人為的に光が吸い取られ、奪い去られたかのような、ひどく粘り気のある不自然な暗闇が広がっているのだ。


「……結衣さん、百合から絶対に離れないでください」


 翼もまた、天下崎の緊張感からその異様な空気を察知し、結衣と百合を自身の背後で庇うように立ち位置を変えた。

 その直後だった。

 ズズッ……ズズズッ……。

 濡れた雑巾をアスファルトに擦り付けるような、ひどく不快で微かな足音が、前方の絶対的な暗闇の奥から聞こえてきた。

 天下崎たちが目を凝らすと、数メートル先の闇の中に、ぬらりと光を反射する『影』が立っていることに気がついた。

 今までその強烈な気配に気づけなかったのは、暗闇のせいもあるが、彼らが足元まですっぽりと隠れる、光を一切反射しない真っ黒なローブを纏っていたからだ。

 影は、一つではない。三つ。

 黒ローブの男たちは、まるで追い詰めた獲物の匂いを確かめる猟犬のように、音もなく四人の前方へと歩み寄ってくる。

 シュー、シューという、人間の肺から漏れるものとは思えない、ひどく濁って粘り気のある息遣いが、冷たい夜気を通してはっきりと彼らの鼓膜を叩いた。

 やがて、先頭に立つ最も大柄な一体が、ゆっくりと両手を上げて自身の頭部を覆うフードを後ろへ脱ぎ去った。

 雲の切れ間から差し込んだ僅かな月明かりが、その『顔』を青白く照らし出す。

 ローブの下から現れたのは、およそこの地球上の自然界で進化してきたとは思えない、冒涜的な造形の生き物だった。

 側頭部まで異常に離れた、まぶたの無いギョロリとした巨大な目玉。鼻筋と呼べる隆起はなく、平坦な顔の中央には二つの不気味な穴が空いているだけ。そして耳の下辺りには、呼吸に合わせてヒクヒクと波打つエラのような深いスリットが刻まれている。

 表面の皮膚は、ぬめりとした暗緑色の硬そうな鱗にびっしりと覆われており、まさに醜悪な『深海魚』と人間を悪趣味に掛け合わせたような、異形のバケモノそのものだった。

 残る二体も、次々と自らのフードを下ろし、そのおぞましく湿った魚顔を晒す。

 バケモノたちの濁りきった巨大な瞳には、人間的な理性の欠片もなく、ただ純粋な食欲と、どす黒い狂気だけが孕まれていた。

 そして、その異常に離れた三対の目玉は、天下崎でも翼でも、結衣でもなく――三体とも一直線に、翼の背後でガタガタと震えている『黄花百合』の姿だけを執拗に見据えていた。


「結衣さん、百合を連れて後ろへ逃げて!」


 翼が鋭く叫んだ。その言葉に弾かれたように、結衣は百合の小さな手を強く引き、来た道を引き返そうと背を向ける。

 同時に、翼は鋭い視線を前方に迫る三体のバケモノたちに向け、頭の中で複雑な幾何学模様を描きながら、強烈な意志を込めて右手を前へと突き出した。


(発動しろ……ッ!)


 胸元で虹色のペンダントが熱を発し、強く念じることで、翼の持つ魔術である『結界』が発動する。

 空間がぐにゃりと陽炎のように歪み、青白い光を帯びた半透明の分厚い壁が、橋の上の空間を切り取るように円柱状に構築された。

 翼は咄嗟の判断で、百合と結衣を安全な結界の『外側』へと逃がし、前方にいた三体のバケモノと自分、そして天下崎だけを、この強固な円柱の『内側』へと閉じ込めることに成功したのだ。

 これで、奴らは百合に指一本触れることはできない。そう確信した瞬間だった。


「嘘……ッ」


 結界の外で退路を急ごうとした結衣が、絶望に息を呑んでその場に足を止めた。

 逃げようとしたその先。彼らが歩いてきた背後の暗闇から、ぬらりとした黒ローブの影が新たに『二体』、獲物が網にかかるのを待っていたかのように、音もなく姿を現したのだ。

 前方には、結界内に閉じ込めた三体。後方には、結界の外で立ち塞がる新たな二体。

 前後を完全に挟撃された。

 さらに絶望的なことに、翼が咄嗟に急造した結界は、明確に『不完全』だった。

 周囲をぐるりと囲む透明な壁は構築できているものの、上を見上げれば天井の蓋はなく、足元の地面も魔力で覆われていない、単なる筒状の脆い檻でしかなかったのだ。

 結界の『内側』に閉じ込められた三体の黒ローブは、同じ空間にいる翼や天下崎には一切目もくれず、透明な青白い壁の向こう側で二体の仲間に前後を挟まれ、絶望に震えている百合の姿だけを、ものすごい形相で執拗に見つめている。

 結界による効力のせいか、多少動きが悪くなっているようだが、奴らはお構いなしに壁を透過しようと百合のいる方向へとにじり寄っていく。


「よそ見してんじゃねえぞ、魚野郎!」


 百合への執着に気を取られていた一体に向け、天下崎が猛犬のように吠え、一気に距離を詰めた。

 長年の戦闘経験から放たれる、体重の乗った強烈な蹴りが、バケモノの鳩尾らしき部分に深々と突き刺さる。


「ギョパァッ!」


 バケモノは口から生臭い体液を撒き散らしながら濁った悲鳴を上げ、結界の青白い内壁まで大きく吹き飛ばされた。

 だが、吹き飛んだ仲間を意に介することもなく、すぐさまもう一体の黒ローブが、凄まじい膂力で天下崎へと殴りかかってきた。


「ガッ……!?」


 咄嗟に腕を交差してガードしたものの、まるで太い丸太で全力で殴られたかのような、人間離れした重い一撃。

 大柄な天下崎の巨体が、いとも容易く宙を舞い、結界の空間内に含まれていた橋の太い金属製の手すりへと、激しく背中を叩きつけられた。


「天下崎さん!」


 翼が血相を変えて叫ぶが、黒ローブの男たちは天下崎に追撃をかけることはせず、すでに次なる行動に出ていた。

 自分たちと百合との間を隔てる、忌まわしい邪魔な壁――すなわち、翼が張った円柱の結界へと、明確に標的を変えたのだ。

 常人離れした腕力と脚力で、三体の異形が同時に、青白い光の壁をガンガンと凄まじい力で殴り、蹴り上げ始める。

 ミシッ……パリンッ!


「くっ……!」


 翼の額から脂汗が吹き出す。

 精神を極限まで集中させて維持しようとするが、急造された不完全な結界は、三体の異形による物理法則を無視した暴力に耐えきれず、まるで薄いガラスが限界を迎えたように、無数の亀裂を走らせていく。

 パリンッ、と。

 鼓膜を突く甲高い音を立てて、命綱であった青白い壁が、虚空に儚く砕け散った。

 結界が破られたことで、内側にいた三体と、背後に立ち塞がっていた二体――計五体の異形たちが、完全に包囲網を完成させ、一斉に狙いを定めた。

 その異常に離れた濁った五対の眼球が、ただ一人、恐怖で声も出せずに凍りついている百合だけを、狂気的な食欲とともに射抜いている。


「やらせない……ッ!」


(ごめん、百合ちゃん...!)


 結衣は百合を背後で必死に庇いながら、自身の知る魔術を脳内で強く念じた。

 黄色のペンダントを握りしめ、異界の生物である『不浄の生物ビヤーキー』を召喚し、百合を乗せて空へ逃がすために。たとえその生物が百合にとってトラウマになりそうな見た目でも、命を失うよりはマシだと、そう結衣は判断した。

 しかし、魔術の詠唱を完了させるよりも早く。

 前方にいた最も大柄な一体が、ぬらりとした巨体を沈め、重力を無視したような信じられない速度で地を蹴り、距離を詰めてきた。

 水掻きのついた鱗まみれの不気味な手が、結衣の肩越しに、百合の細い首筋へと容赦なく伸ばされる。


(魔術が、間に合わない……!)


 直感した結衣は、詠唱を途中で投げ捨て、咄嗟に身を呈してバケモノの巨体へと決死の体当たりを敢行した。

 だが、相手は人間の常識を遥かに超える膂力と質量を持った異形のバケモノだ。

 ペンダントの力で所有者の身体能力は格段に向上しているとはいえ、結衣の捨て身のタックルは、巨大な岩壁にぶつかったかのように微動だにされない。

 怪物は、鬱陶しい羽虫でも払うかのように、無造作に太い腕を振り抜いた。


「きゃあっ……!」


「結衣さん!」


 圧倒的な暴力によっていとも容易く振り解かれ、結衣は悲鳴を上げて宙を舞い、冷たいアスファルトの上へと無残に弾き飛ばされた。


「くそっ……!」


 翼が血相を変えて地を蹴り、倒れた結衣と百合のもとへ駆け寄ろうとする。

 だが、結界を展開・維持するために少し離れた位置にいた彼からは、絶望的なまでに距離が遠すぎた。翼が懸命に伸ばした手は、虚しく夜空を掻くばかりで全く届かない。手すりに叩きつけられた天下崎も、肺から空気を吐き出し、すぐには体勢を立て直せない。

 誰も、間に合わない。

 結衣という最後の盾を失い、完全に無防備となった百合の小さな身体を、五体のバケモノたちが四方から完全に囲い込む。

 シュー、シューと、歓喜に打ち震えるような濁った呼気が交差し、生臭い深海の泥の匂いがその場を支配する。

 最も近くにいた一体が、大きく裂けた口から不揃いな鋭い牙を覗かせながら、今度こそ確実に、百合の小さな頭蓋へとそのおぞましい手を伸ばした。

 翼も、結衣も、天下崎も。

 全員が、取り返しのつかない絶対的な絶望に目を剥いた。

 誰もが最悪の結末を覚悟した、まさにその瞬間の事だった。

【海還り】

夢見ヶ原市に密かに潜んでいる魚と人間の中間のような悍ましい顔をした集団。

その目的は不明だが、神隠し事件(失踪事件)の容疑者として最重要候補に挙げられている。

夢見ヶ原市は建物が多く、その分ペーパーカンパニーも跋扈している為、警察は未だに海還りの拠点を特定できていない。


最後までお読みいただきありがとうございます。もし『面白かった』『続きが気になる』と思っていただけましたら、ページ下部の★マークから評価をいただけると、執筆の大きな励みになります。よろしくお願いします。

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