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箱庭の百合  作者: Kibana
黄昏時に夢をみる
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第十一話 団欒

 一方その頃。

 冷たい木枯らしから逃げるようにして、凪と親友の良平は、良平が母親と二人で暮らす二階建ての古いアパートへとたどり着いていた。

 鉄製のアパートの外階段を上り、少し錆びついた「208」と書かれたドアの前に立つ。良平がポケットから鍵を取り出してガチャリと扉を開けると、中から暖房の効いた、ふわりと温かく生活感のある空気が漏れ出してきた。


「入って入って。そういえば、凪を家に上げるのってあんまりなかったよね。狭い家だけど、ゆっくりしてってよ」


「お邪魔します。……ん、なんかめっちゃいい匂いするな」


 凪が良平に促されて短い廊下を進み、リビングダイニングの扉を開ける。

 すると、キッチンの方から、出汁と醤油、それに砂糖の甘くホッとするような香りが漂ってきた。エプロン姿でコンロの前に立っていた良平の母親が、パッと顔を上げてこちらを振り返る。


「あら、凪くん! いらっしゃい、本当に久しぶりねぇ!」


 昔からよく知る彼女は、パッと花が咲いたような明るい笑顔で小走りに駆け寄ってきた。凪の冷え切った手を両手でぎゅっと包み込み、まるで自分の本当の息子を見つめるように、優しく目を細める。


「退院おめでとう。あんなに長い入院生活、本当に頑張ったわね。すっかり元気になって帰ってきてくれて……おばさん、本当に嬉しいわ。よく生きて帰ってきてくれたわね」


 心底ホッとしたような、涙ぐんだ愛情に満ちた声だった。凪は、その手から伝わる確かな温もりと真っ直ぐな言葉に、思わず目頭が熱くなるのを感じた。


「ご無沙汰してます、おばさん。ご心配おかけしました。……それにしてもすごくいい匂いがして、外から歩いてくる間、ずっとお腹鳴ってましたよ」


「ふふっ、男の子はそれくらい食欲があった方がいいのよ! 今日は特別に腕によりをかけたんだから。さあ、コートを脱いで座ってちょうだい。温かいお茶、すぐに入れるからね」


 キッチンでは、大きなアルミ鍋の中で湯気を立てながら、肉じゃががグツグツと美味しそうな音を立てて煮込まれている。

 昼間の学校で肌にまとわりついてきたあの異常な狂気や、化け物が教師をしている恐怖とは完全に無縁の、凪が一年間無菌室のベッドでずっと恋しく思っていた『家庭の温もり』そのものだった。


「ただいま、母さん」


 良平はソファに自分の学生鞄をコロンと置くと、そのままダイニングテーブルの方へと歩いていった。


「あと……父さん、ただいま」


「……え?」


 ダイニングチェアに腰を下ろそうとしていた凪は、思わず小さく声を漏らした。

 良平が「ただいま」と静かに声をかけた先。テーブルの端に置かれた小さな写真立ての中には、優しそうに微笑む良平の父親の写真が飾られていたのだ。


(良平のお父さん……単身赴任で遠くにいるんじゃなかったのか?)


 まるで遠い場所にいる人、あるいは、すでに帰らぬ人になってしまったかのような良平の祈るような振る舞い。凪は戸惑いながら、写真と良平の顔を交互に見つめた。

 凪が戸惑いながら立ち尽くしていると、良平は少し気まずそうに頭を掻いた。


「良平……おじさん、どうかしたのか? その写真……」


 凪が恐る恐る尋ねると、良平はふっと目を伏せ、感情を押し殺したような静かな声で答えた。


「……実を言うとね。君が入院してすぐに、父さんが突然いなくなったんだ」


「いなくなったって……行方不明ってことか?」


「うん。最初は単なる家出か、長めの出張かと思ってたんだけど、いつまでも連絡がつかなくてさ。警察にも捜索願を出したんだけど、今までなんの音沙汰もないんだよ」


(親父さんが、失踪……?)


 凪は息を呑んだ。

 良平が学校で陰湿ないじめに遭い、一人で死を考えるほど追い詰められていた時。彼は親友である自分だけでなく、父親までも失い、孤独のどん底にいたのだ。そのあまりにも過酷な事実に、凪の胸がズキリと痛む。


「まあ、元々長期出張の多い仕事だったし、昔から道草を食うのが好きな人だったからねぇ。今頃、どこでほっつき歩いてんだか」


 良平の母親がお茶の入った湯呑みをテーブルに置きながら、わざと明るい声で笑い飛ばした。しかし、その目尻に浮かんだ微かな影と寂しげな横顔は、彼女がただ強がっているだけで、今でも夫の帰りを信じて待ち続けていることをありありと物語っていた。


「ほら、二人とも座って! 帰ってくるのが遅かったから、少しあっため直しといたわよ。はい、肉じゃが!」


 母親は少し沈みかけた空気を無理に振り払うようにポンと手を叩くと、ホカホカと湯気を立てる大皿をテーブルの中央にドンと置いた。味がしっかりと染み込んだじゃがいもや牛肉、糸こんにゃくが食欲をそそる。


「うわぁ……めっちゃうまそう。いただきます!」


 凪がさっそく箸を伸ばしてじゃがいもを頬張ると、出汁の優しい甘みとホクホクとした食感が口いっぱいに広がった。


「んっ、すげえ美味しいです! 病院の飯は味が薄かったから、ずっとこういうのが食べたかったんですよ」


「ふふっ、嬉しいこと言ってくれるじゃないの。凪くんのその見事な食べっぷり、昔からちっとも変わらないわねぇ」


 母親は嬉しそうに目を細め、自分のエプロンで手を拭いた。


「ほら、小学校の頃。二人で河川敷で泥だらけになって遊んで、うちに着くなり『お腹すいたー!』って上がり込んできたことあったじゃない? あの時、凪くんったらうちのカレーを三杯もおかわりしたのよ」


「あーっ、あの時ですか! 良平がぬかるみに靴を取られて、俺が引っ張り出そうとしたら一緒に派手に転んだんですよね」


 凪が懐かしさに照れくさそうに笑うと、良平も「やめてよ」と堪えきれずに吹き出した。


「その後、凪は泥だらけの服で家に帰って、おばさんにめちゃくちゃ怒られてたよね。玄関の外まで怒鳴り声が聞こえてたよ」


「うるせえな、あの時はマジで母さんに大目玉食らったんだからな! でも、あの日のおばさんのカレー、最高に美味かったな……」


「ふふふ。昔から大人しくて引っ込み思案だった良平を、元気な凪くんがいつも引っ張ってくれて……おばさん、本当に助かってたのよ。これからも、良平のことよろしくね」


 そこには、父親の不在という拭いきれない大きな寂しさを抱えながらも、互いを支え合って懸命に生きている温かい親子の姿があった。

 良平も、昼間の学校で見せていたあの怯えきった表情とは打って変わり、母親の前では年相応の穏やかな笑顔を見せている。凪はその団欒の空気に心地よく浸りながら、甘じょっぱい肉じゃがを夢中で口に運んだ。

 温かい肉じゃがでお腹を満たし、食後の温かいお茶を啜りながら、凪はふとリビングの天井を見上げた。

 ポカポカとした暖房の熱と、良平親子の穏やかな笑い声。昼間の学校で感じたあの異常な狂気や化け物の恐怖が、この空間にいる間だけは、まるで悪い夢か、遠い異世界の出来事のように思えてくる。


(……深田はじめ、か)


 凪は湯呑みの中で揺れる茶柱を見つめながら、河川敷での良平の言葉を反芻していた。

 壁一面に無数の写真が貼られた、あの狂気の職員室。深田はじめという生徒会長は間違いなく異常な存在だが、彼が絶望の淵にいた良平の命を繋ぎ止めてくれたこともまた事実なのだ。


(あいつは、深田の目的は一体何なんだ。……良平を救ってくれたなら、俺があいつを一方的に敵視するのは間違っているのか…?)


 それに、と凪は思う。

 今日は結局、天下崎や翼たち大人とは一日別行動だった。彼らは今頃、この街に潜む危険な教団や黒ローブの集団の謎を追って、修羅場を潜っているのかもしれない。だが、自分はつい昨日まで病院の無菌室のベッドにいた、ただの病み上がりの高校生なのだ。


(俺はもう、あの異常な世界に無理に足を踏み入れなくてもいいんじゃないか。昨日は保留とか言ったけど、このまま、何も見なかったことにして良平と普通に学校に通って、普通の日常に戻れば……)


 凪はポケットの中で短く震えたスマートフォンに気づいていた。おそらく、天下崎や翼たちが動いているグループチャットの通知だ。しかし、凪はそれに触れようとはしなかった。

 目の前には、ホカホカと湯気を立てる肉じゃがと、笑顔の良平がいる。これこそが、凪が一年間ずっと病院のベッドで渇望していたものだ。彼らなら、自分のような子供がいなくても、あの事件は何とかなるはずだ。

 そんな都合のいい言い訳が、凪の頭を甘くよぎる。

 凪はコートのポケットの上から、『赤いペンダント』の硬い感触をそっと確かめた。


(いざとなったら、これを使えばいい。あの時は何故か使えなかったけど、これさえあれば、俺の力で良平を守れるんだから)


 温かい家庭の空気に包まれ、凪の心は心地よい逃避と、ペンダントへの盲目的な安心感にすっかり身を委ねていた。

 ――その時だった。

 ブブブブッ! ブブブブッ!

 ポケットの中で、スマートフォンがけたたましくバイブレーションを作動させた。

 ビクッと肩を揺らして画面を見ると、メッセージアプリに尋常ではない数の通知が溜まっている。送り主は、凪の両親からだった。


『何時に帰ってくるの!?』


『もう9時よ! 遅いし、良平君の家にも迷惑だろうから早く帰ってきなさい!!』


 画面越しに激怒している両親の顔がはっきりと浮かんでくるような、圧の強いメッセージの連打。画面の隅の時計を見ると、とっくに夜の深い時間になっていた。


「うわっ、やっば……! ごめん良平、おばさん! 俺、そろそろ帰らないと親に殺される!」


 凪が慌てて立ち上がり、ソファに投げ出していたコートを引っ掴むと、良平は目を丸くした後、くすくすと笑い出した。


「あはは、もうそんな時間か。今日は来てくれてありがとう、凪。また来週、学校でね」


「ああ、ごちそうさまでした! 肉じゃが、本当に最高でした!」


 ドタバタと急いで玄関に向かう凪を、良平が穏やかな笑顔で見送ってくれる。

 エプロン姿の母親も小走りで玄関までやってくると、凪の背中をポンと優しく叩いた。


「ふふっ、急がせてごめんなさいね。ご両親も、凪くんのことが心配で仕方ないのよ。……これからも、良平のことよろしくね」


「はい! お邪魔しました!」


「送っていくかい?」


「いや、大丈夫!!」


 温かい親子の声に見送られながら、凪はアパートの重い鉄扉を開け、冷たい夜風の中へと飛び出した。扉が閉まりきる直前、背中越しに良平からの声が聞こえてくる。


「……もう心配しなくていいからね、凪。また明日」


「……? ああ、また明日な!」


 コートのポケットの中で赤いペンダントを強く握りしめ、親友との穏やかな日常を守り抜く決意を胸に、凪は家路を急ぐ。


(そういえば明日は休校だったか。じゃあ学校では会えないな……まあ、普通に連絡してどこかで会えばいいか)


 ――その後、何事もなく自宅に帰り着いた凪が、玄関先で待ち構えていた門限に厳しい両親からこっぴどく叱られ、正座で小一時間説教されたのは言うまでもない。

【良平の母】

人当たりが良い人物で、昔から家族絡みで九条家と交流する事が多かった。

夫が失踪した際は、精神的に辛い時期が続いたが、現在は元の状態に回復している。一人息子の良平とは若干反抗期気味な為か、以前よりは接する事が少なくなっている。


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